縞馬は青い

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東京で“迷子”になる人々/今泉力哉『退屈な日々にさようならを』

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「でも、生きてたでしょ?」と何度も問う松本まりかが印象的だ。今はもういないけど、たしかにあのとき生きていて、生きることと死ぬことが肯定でも否定でもなくすべて等価に見つめられている感覚。生と死、双子、福島と東京のふたつの顔、同性愛やバイセクシャル、自分と他者、震災前と震災後ーーあらゆるものは反発しながらも混淆していく。今泉作品は、空間を重視した「人物の物理的移動」の多さだけでなく「時間の不可逆性/その堆積」を感じさせる点からある種の“ロードムービー”のような側面も垣間見せるが、本作でもそれは顕著だ。東京で(主に恋愛に)“迷子”になる人々の姿は『パンバス』『愛がなんだ』『街の上で』に通じ、かつてあった生を求めて福島へ向かう松本まりかの姿は『サッドティー』『アイネクライネナハトムジーク』『his』などの作品につながっていく。迷子と答え、それは言うなれば生と死。今泉力哉は、映画を通してまぎれもなく人生を描いている。

 

見知らぬ地に私たちは新しいものを見ることができない。既に見てしまったものの残像を認めるだけだ。空間を移動しながら私たちは時間の旅をしている。それもただ遡るだけの。……ロードムービーとはエイリアンの物語であり、ノスタルジアの物語である。人はその行く先々で人々と違う時間を生き、またその地に自分の過去を、既に見た風景を追認しようとする。新しいものは何もない。そこでは空間が過ぎていくのではなく、過去の時間がループになった映像のように何度も繰り返される。……

ーー「還る旅ーー異端的旅映画」『月刊イメージフォーラム』1992年5月号より抜粋


引用したのは、高円寺の古本屋「古書サンカクヤマ」で見つけた映画雑誌の一文。渋谷にある(シアター)イメージフォーラムが90年代に発刊していた月刊誌ですね。「映画で地球の歩き方」という特集でヴィム・ヴェンダースを中心に“旅映画”の多様な側面が論じられていて、これに触発されて今泉監督の映画も広義の“ロードムービー”なのではないか?という仮説を立てるに至ったわけです。

上林栄樹さんによって書かれた上記の文章では、ロードムービー(≒人生)とは時間の旅であり、それはただひたすらに「過去を追認するためだけの旅」であると結論づけられている。たしかに、と思うところも、ほんとうに人生はそれだけなのか?と首を傾げてしまう部分もある。

今泉力哉監督の映画では、非常に多い頻度で、この「過去」という概念の残酷さ、それゆえの尊さをあぶり出そうとしている。試しに乃木坂46 12thシングルに収録された「かなしくない I’m not sad」というPV中のセリフを引いてみよう。

好きな人が いま目の前にいて

好きな人も 僕を好きだと言う

だけどいまは すでにもう過去だから

いまの気持ちはわからないし そしてそれももう過去だ

セリフというか正確には、北野日奈子が好きな人に向かって歌うちょっとした歌(今泉力哉作詞作曲)なんだけど。こうした、いまは好きだけどすぐ先の未来ではどうなってるかわからないという、今泉映画の登場人物を貫く時間不可逆的な姿勢は、過去を過去のものとして現在から切り離し、積極的に未来を生きようとする意思を感じさせる。その一方で、『退屈な日々にさようならを』で「でも、生きてたでしょ?」と問い続ける松本まりかのように、「そこに確かにあったもの」を見捨てようとはせず、これも積極的に抱きしめて生きようとする。これは決して矛盾するものではない。上記引用文の反駁をさせていただくと、「過去を追認しながらも、“まだ見ぬ”未来を生きていくことは可能」であると今泉作品は示しているし、そのようにして過去と現在、未来を等価に並べる姿に強く僕は共感させられているのだと思う。

ずっとそこにある「過去」の尊さを認めながら、更新され続ける「未来」を生きようとする。それは時として過去を追認するものではなくなるから、“迷子”の旅となり、行き場を見失うこともあるかもしれない。今泉作品が描くのは、その迷いの旅路である。迷いながらも、それでも歩き続けていく。その先の未来が更新され続けることを、ただひたすらに信じながら。


映画『退屈な日々にさようならを』予告編

 

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