縞馬は青い

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恋の彷徨者たちの足跡ーー今泉力哉作品における“迷子”と“交差点”についての覚書(『街の上で』論序論)

今泉力哉監督の最新作『街の上で』が公開されたタイミングで書こうと思っていたこと、来春以降に延期となってしまったので一旦この機会にまとめてみました。世紀の大傑作映画につながる、今泉映画論の序論的扱いです。それにしても『街の上で』のTシャツ(大橋裕之のイラスト!)がかわいすぎて、届いてから2週間でもうすでにめっちゃ着てしまっている。

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いきなり結論を言うようだが、今泉力哉監督が撮る映画というのはつまるところ、迷子が迷子のまま世界を彷徨い続ける、「“愛すべき迷子たちに捧げられた映画”である」と言うことができるのではないだろうか。どんなに強い信念を持っていても、今泉映画の登場人物たちは、みな一様に迷子に“させられてしまう”。

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『愛がなんだ』のテルコを起点として

最もわかりやすいのが『愛がなんだ』(2019)の山田テルコ(岸井ゆきの)である。彼女は「マモちゃんが好き」という確固たる思いを抱きながらも、その実は酷く方向性を見失ってしまっている女性。例えばマモちゃん(成田凌)に急に呼び出される冒頭の場面では、彼女の意思とは関係なしにこれまた急に外に追い出され、テルコは金麦500m缶を煽りながら夜道を彷徨い、行き場を失ったまま親友の葉子(深川麻衣)に助けを求める。葉子の指示を受けながら下高井戸方面へとタクシーを促すテルコの姿勢は、まさに“迷子”としか言いようがない頼りない顔をしているだろう。

中盤の、機嫌の悪いマモちゃんに朝早く起こされ、土鍋を両手に抱えて道に立ち尽くす場面であるとか、すみれ(江口のりこ)の悪口をひと通りラップで言い終えたあとに「ざまぁみろ」と言葉が反復し立ち止まってしまう場面とかも、テルコ=“迷子”なのだとすればとても象徴的なシークエンスだ。

テルコ:私はどっちかになっちゃうんだよね。「好き」と「どうでもいい」の。だから、好きな人以外は自然とぜんぶどうでもよくなっちゃう

同僚(穂志もえか):自分も?

『愛がなんだ』という映画は、マモちゃんに出会ってしまったテルコが自我すらも含めた全体重をそこに傾けてしまい、だからこそ会社を辞めたり行き場を失ったりしてしまう、徹底した迷子映画なのだとひとまずは結論づけてみたい。そうすると、主に恋愛群像劇を紡ぎ出す今泉映画の共通点が、この“迷子”にあると考えることはできないだろうか。今泉映画の登場人物たちは、恋に迷うだけでなく、一方ではどうしようもなく人生にも迷ってしまう。


『パンバス』で孤独を追求する深川麻衣、『退屈な日々にさようならを』で恋人の過去を辿る松本まりか

すべてを書き出してしまうと長くなってしまうので簡潔に。例えば『知らない、ふたり』(2016)という映画は、昼間の公園のベンチで出会ったある男女の物語が恋愛群像劇のうちの1パートを占めている。そこでは、韓国人青年・レオン(レン)が女性・ソナ(韓英恵)に一目惚れしてしまい、冒頭ではそのストーキング劇→家を見つけるまでが描かれている。その後、ソナの方もレオンの存在が気になりだし、初めて出会った公園を探そうとするのだけれどあの日は二日酔いだったからあんまり覚えてなくて苦戦する、といった物語が展開されていく。要するにレオンもソナも、お互いの存在を知ってしまったことで急に道に迷い始めてしまう。

『パンとバスと2度目のハツコイ』(2017)は、主人公・市井ふみ(深川麻衣)が結婚に疑問を浮かべまっすぐに孤独を追求するものの、同級生の変化に触発されたり妹に心の内を見透かされたりして、徐々に変化すること(≒迷うこと)を強いられていく話(その意味では最近の映画だと『ストーリー・オブ・マイライフ』のジョーの物語にも少し共通する)。

『退屈な日々にさようならを』(2016)では、亡くなってしまった恋人の過去(かつて存在していた生)を求め、原田青葉(松本まりか)が彼の故郷を訪ねるシークエンスがあった。彼女は真っ直ぐにその場所へとやってきたものの、彼が死んだことを彼の家族に知られるとやはり、「あんたおかしいよ。死んでるの知っててそいつの地元にふらふら来てさ、平気な顔して家族に会うって絶対おかしいって。あんたほんとはなにしに来たの?」と問い詰められてしまう。ゆえに目的をなくして迷子にさせられてしまう。でも青葉は何度も問うのだ、「でも生きてたでしょ?」「ほんとうってなんですか?」と。

 

“迷子にさせられてしまう”という共通点

途中から徐々に文章にも忍ばせましたが、重要なのは彼女たちが“迷子にさせられている”という点なのではないかと思う。

みな真っ当に何かを考えて生きているだけなのだ。それなのに、例えばテルコの場合は「マモちゃんが好きすぎた」ことで仕事ができず、会社を辞めさせられ彷徨者となってしまう。市井ふみは孤独の世界に留まることを許してもらえず、この混沌の世界に放り出されてしまう。原田青葉は彼の過去を見にきただけなのに、彼の家族からは部外者にされてしまう。彼女たちはみな、社会が決めた“普通”から逸脱してしまった、いわゆるマイノリティたちなのだ。今泉映画が温かいのは、そうした彷徨者たちに対しての懐の深い眼差しが存在しているからではないだろうか。


迷子を眼差す迷子……そこに交差点がある

今泉映画が特徴的なのは、ただ迷子を描くだけでなく、その迷子を眼差すもうひとつの視線にカメラを向けているところにある。社会から逸脱してしまった人も、成長できない人も、きっと他の誰かが見ていてくれている。だからすべての人生が肯定され、誰もがその世界の主人公になれる。

登場人物たちの関係性が毎回当然のように三角関係にも四角関係にも発展し、やがて人物関係が一周して外の世界から閉ざされたサークルのようになるのにはおそらくそんな理由があるのだろう。そして今泉映画ではあろうことか、そのみんなを一堂に介させてしまうことで、彷徨者たちの世界を天国に仕立て上げてしまう。

登場人物たちはさまざまな交差点で出会い、やがて散り散りに……。この“交差点”というのはそのままの意味の「道路上」のことだけでなく、カフェや映画館、ライブ会場、居酒屋、ラーメン屋、公園、古着屋、浜辺などなど……今泉映画の登場人物が辿る通過点すべてを内包しゆく。『パンバス』や『愛がなんだ』のラスト付近、その別れのシークエンスでも見られた交差点は、きっと彼女たちの眼差しの交差のために用意されている。

しかしいやはや、登場人物たちが彷徨うだけの映画がなぜこんなにも面白いのか。それにはたぶん、過去の偉大な“迷子映画”たちが答えてくれるに違いない。なぜ映画は迷子を映し出し、登場人物たちは恋に囚われるのか。

 

丹生谷貴志ヌーヴェル・ヴァーグ論「恋の囚われ」要約

ヌーヴェル・ヴァーグと総称される映画たちの功績とは、「映画を、あるいは映画に付随する生全体を“恋の狂気”にまで推し進めたことである」とする、美学・美術史研究の丹生谷貴志さんのヌーヴェル・ヴァーグ論が激烈に面白かったので要約しておきたい。この文章を読んでいる間ずっと、ゴダールトリュフォーロメール、リヴェットと横並びで今泉映画のことを思い浮かべていた。

まずここで言う“恋の狂気”とはなんなのか。

恋の狂気とはおそらく、ドゥルーズの言うbêtise(獣性)の領域である。つまり、恋が狂気と化すのは、恋が生殖と家族形成という「国是」から切り離される時、快楽主義からさえ見放される時だろう。

これでもまだ難しい。“恋”にはまず、「生殖への準備のために進入してくる」、「家族と再生産と自然共同体の準備としての恋愛」という側面がある。しかし“恋が狂気と化す”とき、それら一切から逸脱した恋は「彷徨いの獣性bêtiseの領域に出て行くのだ」と丹生谷氏は書き連ねる。

彼らのモティベーションは恋の囚われであるということただそれだけであり、寝たいという欲望は決して生殖への欲望には結び付かず、一緒にいたいという渇望は決して家族への欲望に結び付くこともない。つまりは恋の狂気=bêtiseとは、社会から見放され、同時に動物性の穏やかな充足からも見放された状態であり場所であるだろう。(中略)要するに社会にも、その裏面である家族=生殖共同体にも属することのない「無為の、明かし得ぬ共同体」、ただ恋の狂気、恋の囚われであるということだけがそこに残る。純粋化された狂気の恋だけが残る。

家族主義的、社会的規範からは到底切り離された場所にある“恋の狂気”。そして映画とはそもそも、この“恋の狂気”そのものであるからして、それを現前して見せたヌーヴェル・ヴァーグは「映画そのもの」なのであると丹生谷氏は半ば強引に続ける……。

ヌーヴェル・ヴァーグはジャンルとしての恋愛映画とは異質の恋の狂気の世界を開く。そしてそこに彼らの決定的な映画性のしるしがある。と言うのも、キャメラは本質的に恋の狂気の機械だからである。人工性と動物性の中間に開いた宙吊りの眼、見ることへの欲望と盲目が同じものであるような、そうした獣性の瞳としてのキャメラ。純粋化された恋の狂気そのものとしてのキャメラ。だからヌーヴェル・ヴァーグは、映画の本質そのものである恋の狂気そのものを律儀になぞり生きようとし、キャメラの恋の彷徨いそのものを反復し続けるのであり、映画とは恋の狂気そのものに他ならないことを示すのである。

映画は恋の狂気そのものである。それでも今なお、日本でも世界でも*1家族主義に侵された映画が氾濫しているのはなぜなのか。

或る意味では、家族主義的映画の存続は社会学的な問題である以前に、映画のもっともミニマムな属性への恐怖から来ているのかもしれない。世界を恋の狂気とその彷徨いへと変移させてしまう映画的狂気(?)への脅えが家族主義的映画への固執を生み出しているのかもしれない。その意味で、ハリウッドが或いは日本が家族主義的な地平に固執すると同時に真の映画的領域への介入を止めてしまったのは偶然ではないだろう。再び繰り返すが映画は終局的には恋の狂気の場所であり、家族の存続と対立する世界に他ならないだろうから。……

そしてだから、その意味で、陳腐な言い方だが、ヌーヴェル・ヴァーグは映画を映画そのもの、映画以上でも以下でもないもの、つまりは恋の狂気として露出させたという点でなお「未来の映画」に属するのだと言うことも出来るに違いない。すべての映画が恋の狂気となる時、始めてヌーヴェル・ヴァーグは完了することになるだろう*2。(後略)

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*1:ここで丹生谷氏は小津安二郎の異様さや、『クレイマー、クレイマー』『普通の人々』などのピューリタン的家族映画にも言及している。

*2:ユリイカ 総特集ヌーヴェル・ヴァーグ30年』丹生谷貴志「恋の囚われ」p156-163