縞馬は青い

縞馬は青い

映画とかドラマとか、好きなもの

ポップカルチャーをむさぼり食らう(2020年2月)

f:id:bsk00kw20-kohei:20200225135618j:image

最近の僕のいちばんの関心事といえば(カルチャーの話です)、「この作品はおもしろい/おもしろくない」あるいは「この作品は社会的価値がある/ない」とかって、誰がどういう風に決めるの?っつうやつ。もちろん答えは決まっている、私たち一人ひとりだ。だけどその個人の感性が他人の意見によってあらぬ方向にねじ曲げられてしまう、ということが往々に起こりうると思う。ねじ曲げられてしまった結果、自分が最初に持った考えを見失ってしまう、そういうことってありませんか? 僕はねぇ、けっこうあるんですよねこれが。観たい作品を選ぶ瞬間から観てる最中、観終わったあとまで。他人の影響を受け過ぎて、「あのときにこういうことを思った」という原初的な想いがこぼれ落ちてしまうことがよくあるんです。こうしたことを考えるきっかけは今月たくさんあったんだけど、いちばんには『二重のまち/交代地のうたを編む』というドキュメンタリー映画を観た影響が大きかったかな(作品については後述)。何が言いたいかっていうと、「人の感性や記憶はめちゃくちゃ変化しやすい」ってことなんですよ。だから、できるだけ取りこぼさずに、感じたことを言葉にして記憶に留めていきたいなぁと思うのです。それがこの日記の目的でもあるのだと強く心に留めおきながら。

 

映画

旧作を掘ることについに本気になった僕は、定額の借り放題サービス「TSUTAYAプレミアム」に入会した。新宿とかのTSUTAYAに行っちゃうとだいたいなんでも置いてるので、これで月10本くらいは観たいと意気込んでいる。ひとつ問題なのは、(旧作は)DVDに返却期限がないこと。「返す」のが義務化されないある意味天国のような世界では、思っていたよりも「観る切迫感」が薄れてしまい……。でもただいま第5次くらいの映画ブームがきている感じなので、好きなやついっぱい観てる。

ここにきてハマったのがホン・サンスの映画。今泉力哉の韓国版みたいな(実際は逆だけど)、とにかく恋愛と、恋愛にまつわる会話劇しか撮らない監督の作品にズブズブやられている。時代感バラバラに『正しい日 間違えた日』(2015)『それから』(2017)『ハハハ』(2010)の3作を観て、「ずっとおんなじことしてるやん!」と思わずツッコんでしまうほど、大人のちょっとダメで不器用な恋愛模様が終始画面を支配していた。『正しい日 間違えた日』がとても好きだ。全シーン、全言葉、全空気が身近に感じられるほど普遍的で、それだけ平凡でもあり、でもそこにささやかな日常のドラマが加わる瞬間に信じられないほど心を掴まれてしまう。映画監督をやってるおじさん(主人公)が映画上映の際に訪れた地で若い女性に恋をしてしまい、アプローチの仕方に苦戦する話です。ほんとそれだけの話。でも煌めいたシーンがいくつもある。

f:id:bsk00kw20-kohei:20200225171307j:image

ホン・サンスに加え『最高の離婚』とかの影響もあり、会話劇が好きだったことを思い出したわたし。ホン監督の影響元でもある恋愛会話劇の原点、フランス・ヌーヴェルヴァーグが生んだ奇才、エリック・ロメールの作品を観るために新文芸坐で開催されたオールナイト上映に駆け込んだ。ロメールの監督作品は新宿にもどこにもDVDが置いてないレアな感じでしてね……。観たのは『海辺のポーリーヌ』(1983)、『満月の夜」(1984)、『緑の光線』(1985)、『レネットとミラベル/四つの冒険』の4作品。初のオールナイトです。派手なショットのない会話劇だし寝ちゃうかもなぁとか思ってたけど、基本的にびっくりするくらいバチバチに目が冴えていて、途中微妙にまどろんでたのも含めなんか気持ちよかった。

f:id:bsk00kw20-kohei:20200226102825p:image

ロメールの映画、めちゃくちゃおもしろい!! 魅力的な登場人物たちが、ウィットに富んでいたりくだらなかったりとにかく止まらない会話を繰り広げ、身体的な動きはなくとも心の中の感情がぐわんぐわんと蠢き続ける。どれも好きだったけど、ふたりの少女が出会い、共に暮らし、ときに衝突し、心を通じ合わせていく様を4つの短編により紡いだ『レネットとミラベル/四つの冒険』が最高すぎた。まずもってミラベルのプロポーション、話し方、表情がどんぴしゃに好きでしたね…。どの映画でも、必ず人と人とのわかりあえなさを経由しようとするロメール会話劇の鋭さと厳しさ、愛しさを痛感する時間だった。『脚本家 坂元裕二』(ギャンビット)に坂元さんが影響を受けた映画で挙げていた『緑の光線』も、『最高の離婚』の光生みたいな人が主人公ででてきてめっちゃよかった。とりあえずおフランスのヴァカンス映画は至高すぎます…。3月後半にもまたオールナイト上映があるので行きたい。

f:id:bsk00kw20-kohei:20200226102740p:imagef:id:bsk00kw20-kohei:20200226102658p:image

とんでもなく心に刺さる映画を観た。こういうとき冷静に作品を論じることが難しくなるし、あんまりぐずぐず考えてると感性がふっ飛んでしまうなぁと思うので、沈黙のもとでこの幸せを噛み締めている。でも得てして、いい作品に出会うと言葉が溢れて止まらなかったりもする。困る。グザヴィエ・ドランの監督作品は一気に全部観た時期があったんだけど、こんなに好きになったのは初めてだった。3月にユジク阿佐ヶ谷で過去作上映やるみたいなんでこれまでの個人的ドランベストだった『わたしはロランス』は観にいこうかな。168分もあったことに驚愕してるけど。今回のブログもなんとなく緑色で染まってきたけど僕、緑色がめちゃくちゃ好きなんですよね。

f:id:bsk00kw20-kohei:20200227014002p:image

2月22日と23日のこと。東京都写真美術館で「恵比寿映像祭」というのが開催されていた。そこで『空に聞く』(小森はるか)と『二重のまち/交代地のうたを編む』(小森はるか+瀬尾夏美)というドキュメンタリー映画を観て、その映像表現の豊かさに心底惚れきってしまった。小森はるか監督は、昨年劇場公開された『息の跡』が映画界隈ではそれなりに話題になっていて気になっていた映像作家。3.11後に画家で作家の瀬尾夏美さんと共に陸前高田に移り住み、その地と人々の記録を軸とした芸術活動を行ってるんだとか。

ドキュメンタリーってほんと滅多に観ないんでテクニカルなことは何も語れないのだけど、彼女たちの作品がもつ余白とそれによる雄弁さに、観ている最中も観たあとも無条件に思考が止まらない状態にさせられてしまう。特に驚いたのは『二重のまち/交代地のうたを編む』。

f:id:bsk00kw20-kohei:20200227103016j:imagef:id:bsk00kw20-kohei:20200227103101j:image

これは、東日本大震災の当事者でない(と感じている)4人の若い男女が陸前高田へ赴き、その土地の人・被災者と対話を重ねながら、最後には自分の言葉で彼らの体験を「語り直す」ことを試みる、その姿をとらえた作品である。こういうことが書かれた作品紹介文を読んだ瞬間に(あんまり使わないほうがいい言葉かもしれないけど)「おもしろそう!」とビビッときて、その試みを見届けたいなぁという気持ちになった。ぜんぜんやってることは違うけど普段から「受けとったものを自分の言葉で語り直す」ということを実践しようとして(あまり成功していないでい)る身だから、強く惹かれたのかもしれない。

都写美の地下に展示されたインスタレーション『二重のまち/四つの旅のうた』(これは映像と絵画、テキストによって多面的な視点から「語り」を可視化しようとする試み)との接合をもってして、時間、場所、記憶の「空白」を共に掴まんとする。作家・旅人・被災者の三位一体によるその行為に大変な意義を感じて感嘆しつつ、どうしようもなく浮き彫りになるのは人と人の“差異”だ。でも4種類の語り直しの差異が、被災者と私の差異を肯定してくれているような感じがする不思議な包容力があった。それは旅人たちのある会話ーー「難しいとは思うけど、被災者の方が話してくれたそのままの話し方と感情で語り直していきたい」「でもそれって自分の経験談でも難しいよね」ーーにも現れているだろう。わたしたちはいつも何かを取りこぼしてしまい、うまく言葉にすることができない。それでも「語り直そうとする」その意志こそが、空白のなかを生きる唯一の手段なのではないかと。

先日、同い年でその当時福島に住んでいた女性(現在は自衛隊看護師として従事している)にインタビューする機会があり、「あの日は中学校の卒業式だったんだよね」と記憶の一部が一致することがあった。本作にも同い年の男の子が2人出てきて卒業式の話をしていて、交わることなくそれぞれに進んできた時間の残酷さと尊さを同時に感じたり。そんな風にしてこの世界にはそこここに空白があるけれど、きっとその空白は埋まるはずだという希望が、本作からは強く発せられているような感じがした。

f:id:bsk00kw20-kohei:20200303014907j:image

2月23日。二重のまちを観てホクホクした気持ちで浮き足立つなか、いま最も期待している若手映画監督・山中瑶子さんの新作短編『魚座どうし』を鑑賞。圧倒的天才すぎて、なす術もなく打ちひしがれてしまう。とにかく濃密な30分、ずっと高密度な緊張感が持続するめちゃおもしろい映画でした。例えばシャブロルの『野獣死すべし』冒頭みたいな、期待と残酷さが絶妙にないまぜになった「うわぁ終わっちゃった!」なラストがたまらなく気持ちいい。はやく彼女の長編映画が観たい。

先月のカルチャー日記でも試写で観て大はしゃぎしていた『架空OL日記』なんですが、このたび劇場公開されて再鑑賞し、この映画のすごさに改めて圧倒されている。ほんと奇跡のような、絶妙な配分で成り立っている映画だと思う。作品レビューにて「私たちは私たちの日々を歩いていくしかない」的なことを書いたものの、できることならばあの架空の日々にずっと埋没していたい。せめて年一回でいいから、彼女たちの続きの日々を見せてほしい。とにかくバカリズムは天才だ。バカリズムのコントって基本的に“架空の人物”を相手にした会話劇が主軸だと思うんだけど、『架空OL日記』はその架空に身体性が付与され(小峰様コールやマキちゃんのジムでのガチさ、さえちゃんのふにゃふにゃした受け答えなど、彼女たちに身体が宿ることで、テキストベースの日記にはない笑いが増幅する)、加えていつもゆうなればボケ倒しているバカリズムが彼女たちに“ツッコむ”ことも可能になるという。これはバカリズムコントの「リアルさ」と「笑い」を同時に追求する姿勢において、最適解に近いものなのではないかと思う。

bsk00kw20-kohei.hatenablog.com

他にも2月は、震災後の映画としてこれまたなかなかできないことをしている『風の電話』、意表をつくストーリーテリングで男性性の脆弱性を浮き彫りにする『BOY』、ずっと喋り続けてるアダム・サンドラーがエグい『アンカット・ダイヤモンド』などなど、1月に引き続きいい映画ばっかりだった。ここは長くなるので割愛します。

 

ドラマ

今期のドラマ、結局毎週楽しみにしてるのはあまりないんですが、2月1日に初回放送があった『伝説のお母さん』はその初回からしてめちゃくちゃワクワクするおもしろさで、以降いちばんの期待を込めて観ている。『腐女子、うっかりゲイに告る。』とか『だから私は推しました』のNHKよるドラ枠ですね。脚本は演劇ユニット・玉田企画の玉田真也。原作は漫画らしいんですけど、ここまでまとまったストーリーにしてる玉田さん、すごすぎて玉田さんってこんなことできるの?!と度肝を抜かれてます。第1話に感じたワクワクとはちょっと違う方向に行ってる感じもするけど、本来ボスになるはずの魔王の立ち位置のおもしろさとか玉田企画常連の前原瑞樹のウザさとか、あと前田のあっちゃんの飛びきりのかわいさとか、見どころがたくさんあります。結末が気になる。

f:id:bsk00kw20-kohei:20200305101625j:image

1月に『それでも、生きてゆく』を観たそのままの勢いで坂元裕二作品『最高の離婚』、『問題のあるレストラン』(これは2話で頓挫)、『東京ラブストーリー』をビンジウォッチ。『最高の離婚』、はんぱねぇなこれ。坂元裕二大好きなくせして今まで(途中までは観た記憶があるのだけど最後まで)観てなかった本作、やっとぜんぶみた。好きすぎる。いや、好きすぎるぞ。とりわけ第7話の、この世のほとんどは「届かない手紙」と「通じない思い」でできてるのだなと実感させられるシークエンスは素晴らしかったです。あと最近みたいろんなカルチャーを本作と無意識に結びつけてしまっている自分がいて、「坂元裕二的」なものを欲する身体が出来上がってたんだなと感心した。一部書き出しましょう。mellow(「ほとんどの好きって気持ちって、表立ってやりとりされないものでしょ?」)、テラスハウス(人間の複雑さ、曖昧さ)、心の傷を癒すということ(尾野真千子と映画館)、だから私は推しました(アイドル沼とAV堕ち)、かが屋(居酒屋での会話のグルーヴ)、ジョジョ・ラビット(最後のダンス)、マリッジ・ストーリー(よりよい関係性を模索しようとする姿)。あと勝手にふるえてろ(聞き手のいるかいないのかわからない会話)とか。坂元裕二が僕のカルチャーの根源であることは間違いないです。八千草薫さんもすばらしかった……。『架空OL日記』もそうだけど、会話劇だけで展開しつつも豊かさに満ちたこういう日常のドラマをずっと見ていたい。

f:id:bsk00kw20-kohei:20200305101453j:image

女性のエンパワメント的ドラマ『問題のあるレストラン』は時代感によるものか、男性のクズさがグロすぎてさすがに観るに耐えず2話で頓挫。春にリメイクをやるといういいタイミングだったんで『東京ラブストーリー』に移行した*1。個別エントリーにも書いたけど、赤名リカの人物造形がとにかくすばらしい。昨年めっちゃ聴いた楽曲、Juice=Juiceの『「ひとりで生きられそう」って それってねぇ、褒めているの?』を地でいくようなキャラクターで深く共感してしまう。この勢いで90年代と00年代のドラマを掘ろうとちょっと意気込んだものの、『恋のチカラ』を2話まで見て停滞してる。クドカンドラマとかちゃんと観てみたいっすね。

bsk00kw20-kohei.hatenablog.com

あとNetflixドラマの『ノット・オーケー』もよかった。『ストレンジャー・シングス』プロデューサーと『このサイテーな世界の終わり』監督のタッグ作という触れ込みどおりのおもしろさで。『このサイテーな〜』ほどキャラクターに愛着は湧かなかったけどなんといっても最終話がすばらしい。

f:id:bsk00kw20-kohei:20200306095320j:image

 

マンガ

2月に読んだマンガたち。

アンダーカレント  アフタヌーンKCDX

アンダーカレント アフタヌーンKCDX

  • 作者:豊田 徹也
  • 発売日: 2005/11/22
  • メディア: コミック
 
ハウアーユー? (フィールコミックス)

ハウアーユー? (フィールコミックス)

  • 作者:山本美希
  • 発売日: 2014/09/08
  • メディア: コミック
 
近所の最果て 澤江ポンプ短編集 (torch comics)

近所の最果て 澤江ポンプ短編集 (torch comics)

 

澤江ポンプ氏の短編集『近所の最果て』は日常に潜む“すこしふしぎ”がちゃんとSFにつながったりしていておもしろい。他の3作品はぜんぶ「突然大切な人がいなくなる」系の一冊完結漫画で、なぜだかわからないけど同系統の漫画を選びとってしまっていた(先月は『違国日記』読んでたしな…。無意識でした)。でも当たり前に筋書きと結末が違うからおもしろいよね。ただどの作品も、「大切な人を失った主人公」に寄り添うことができる人物がひとり出てくる点で空気感に共通するものがあった。個人的には『アンダーカレント』(2005)の絵の質感、その美しさとどんよりと不安が押し寄せるドロドロした汚いものが表裏一体になってる感じが好き。朝井リョウの『どうしても生きてる』もチマチマ読んでるんだけど、「“もうここにはいない誰か”と“いま主人公の近くにいる誰か”のふたりによって立ち上がってくる主人公の“生”」という点でかなり共時性を感じる。

 

演劇

漫画と違ってこっちは知っていながら意図的に選びとったのだけど、「境界線」「分断」というテーマを共有したふたつの演劇を観た。

f:id:bsk00kw20-kohei:20200306103746j:imagef:id:bsk00kw20-kohei:20200306103757j:image

ロロ『四角い2つのさみしい窓』とほろびて『ぼうだあ』。どちらも舞台表現の可能性を最大限に突き詰めながらこのテーマに取り組んでいて、まだそんなにたくさん演劇を観ているわけじゃない自分にとってはとても刺激的だった。ロロの演劇は「分断」を「親密」に反転させてしまえる強さと優しさがあり(サントラがほしいほど音楽がよかった)、ほろびての演劇は家の中に突如現れた「線」=「家族のなかの境界線」の話がシームレスに(というよりはやや強引だったのだけどそれがむしろよかったかも)「分断された世界」の話につながっていき、最終的に人間の細胞レベルの超ミクロな話に及んでいく感じに鳥肌たった。

3月は玉田企画の演劇が楽しみだけどやってくれるかな〜?

 

<3月にみたいもの_φ(・_・>

テッド・チャン『息吹』/『違国日記』4、5巻/ペドロ・アルモドバル作品/『82年生まれ、キム・ジヨン』/山崎ナオコーラ『ボーイミーツガールの極端なもの』/『マンハッタンラブストーリー』/ジャン・ユスターシュ作品/シネマヴェーラの「ソヴィエト&ジョージア映画特集」/『A子さんの恋人』第6巻

*1:『千鳥のニッポンハッピーチャンネル』内のドラマ『ロングロード』のあとにトレンディドラマをやろうとするなんて、飛んだ命知らずだぜ。

ただひたすらに幸せなーー『架空OL日記』が晴らす“月曜日の憂鬱”

f:id:bsk00kw20-kohei:20200301111835j:image

YouTuberのモーニングルーティン動画ばりに長尺でみせる〈私〉(バカリズム)の朝の日常風景。例えば、洗面所の蛇口をひねってからトイレに行くという決まりきった日々の動線(用を足している間に水がお湯になっているという算段)に現れているように、どんなモーニングルーティン動画よりもリアルな“生活感”が、このアバンタイトルのもつ魅力である。自分が設定したはずのスヌーズ機能に苛立ち、何度も買い足したリップクリームが、ある朝のくちびるを救う。“給湯室連続スポンジ事件”の犯人が「無自覚だけどたぶん〈私〉だ」という姿や、朝つけたエアコンがそのままになっていることに気づき愕然とする様も含め、そこにあるのは途切れずに続く確かな日常の営みだ。それは「生活する」ということのこれ以上ないまでの描写でもある。同じことが繰り返され、無意識に日々は淡々とめぐる。

そういう“変わらない”日常の物語であるからこそ、あの銀行の女子更衣室に今日もキャッキャした女子行員たちの声が響きわたる。『架空OL日記』は劇場版であってもドラマ版から“なにも変わらず“、そこにいてくれた。「調子に乗ってるみたいだから」と略称で呼ぶことを避ける律儀な酒木さん。誰よりも同僚思いな救世主・小峰様。とことん〈私〉と気が合うマキちゃん。天然な性格で場を和ませるさえちゃん。素直で純粋なかおりん。誰も欠けることなく、誰もがそのままで。わたしたち観客も彼女たちの性格を吸収してしまっているから、例えば酒木さんが「インスタグラム」と2度言ったあたりで、先読みしてそのおもしろさに気づいてしまう。劇場に広がるそのクスクスッという笑い声さえもが愛おしく感じてしまう瞬間がある。

f:id:bsk00kw20-kohei:20200301144648j:image

なにも変わらないからこそ、「月曜日の憂鬱マイレージが貯まったらタヒチボラボラ島に旅行へ行こう」とか言う非日常的な夢が一層キラキラして見えたりもする。でもだからといって、淡々とめぐる日々がただつまらないというわけではないだろう。そのことは、この永遠に続けばいいのにと願い続けてしまう100分間の映像を観れば明らかだ。でも欲を言うと、ボラボラ島でバカンスしてる彼女たちの姿も見たい、見たすぎる……。

劇場版では終盤に「変わらない日常」からは少し逸脱した「特別なイベント」が起きる。ある人物がそのことをさりげなく発表しようとした場面で、2度同じことをさせた〈私〉の姿がとても印象的だった。「同じことを繰り返す」「幸せな瞬間をともに噛み締める」その眼差しの優しさにグッときてしまうのだ。それはまさしく『架空OL日記』が何度も何度も綴ってきた日々の優しさでもあり、月曜日の憂鬱さを軽くしてしまうほどのパワーを持つ。

ああもういちど 生まれてよ月曜日

ドラマ版と同じように、『架空OL日記』は無残にも終わりを告げる。なぜあんな終わり方をするかといえば、〈私〉がいる時点であの世界が架空なものになってしまうからであり、〈私〉がいない世界では彼女たちの日々は変わらずめぐり続けるから、なのだろう。彼女たちの日々はわたしたちの日々でもあり、その日常はこの映画が終わっても当然のように続く。それでも“架空OL日記”の続きを求めてしまう自分と“対面”しながら、わたしたちはすぐそこにある明日に向かって歩いていく。それが、ただひたすらに幸せなことなのだと強く噛みしめながら。

赤名リカ、その存在の証明/坂元裕二『東京ラブストーリー』

f:id:bsk00kw20-kohei:20200220001458j:image

輝くほど真っ白なコートに身を包み、まっすぐでピュアネスな恋心を交感させるリカとカンチの恋物語、『東京ラブストーリー』。飛行機に乗って文字どおり“空から東京の地に舞い降りた”カンチに、まるでそのときを待ち望んでいたかのように惹かれてしまうリカ。“天使性”とでも呼びたくなるような、そのどこまでも純白で軽やかな空気をまとったふたりはお互いの名前を繰り返し呼び合うことで「ここにいる」という実感を確かなものにし、個々の存在を強く相手の心に刻みつけようとする。

本作の放送は1991年。1995年生まれの僕にとっては何もかもが新鮮だったんだけど、とりわけ赤名リカのキャラクター造形がすばらしすぎやしない? あっけらかんとして思ったことなんでも口にしているようで、実は心の奥底に本当の想いを隠していたり、恋敵であるはずの関口に絶妙なパスを出してしまったり。「思ってることをそのまま口にしない」というのは脚本の坂元裕二先生ならではの性格も現れつつ、赤名リカがその(不確かな)存在をなんとか証明しようとし、でも証明しきれなかったりする様に自分でもビックリするほど釘付けになってしまう全11話でした。

赤名リカの存在証明の軌跡は、例えば第1話のラストにおける「帰ろうとして帰らない」所作(トレンディすぎて最高!)や、どこからともなく聞こえてくる「カーンチッ!」という呼びかけに現れているのだけど、それ以上に印象的なのは2度繰り返される彼女の「不在」だろう。逆説的ではあるものの、彼女はその存在感の強さゆえに「不在」こそが最も大きな存在証明になり得てしまうのだ。「“いなくなる”ってことは、“ここにいた”っていうこと」(©︎今泉力哉『退屈な日々にさようならを』)の最大級の形である。

彼女たちがついぞ結ばれることになる第4話の「不在」ドラマもすばらしいのだけど*1、第10話→第11話の一連の流れはまじ半端なく秀逸。「突然消えてしまったリカ」からはじまり、「地元の愛媛へリカを探しにいくカンチ」→「かつて“名前を彫った”と話した小学校の柱に“赤名リカ”の名前を見つける」→「校庭での再会」→「電車の時間をズラし、訪れる不意のお別れ」に至るまで。その柱の名前に加え、駅のホームに結ばれたハンカチーーそこに口紅で書かれた「バイバイカンチ」の文字が、彼女が「存在していた」という事実を強く決定づけることになる。赤名リカはそこに確かにいて、でもいなくなってしまった。

第3話においてリカはある印象的な言葉を残していた。

人が人を好きになった瞬間ってずっとずーっと残ってくものだよ。それだけが生きてく勇気になる。暗い夜道を照らす懐中電灯になるよ*2

いなくなってしまっても、離れ離れになっても、そこにあった確かな存在と「好き」という想いは未来永劫、決して無くならない。だから私たちはその思い出を強く抱きしめて、ずーっと先の未来に向かって歩いていくことができる。赤名リカがその存在をこの世界に強く刻みながら教えてくれたのは、そういう「人生を照らしつづける愛」を信じた生き方だった。

f:id:bsk00kw20-kohei:20200220221120j:image

*1:このあたりが物語の幸福感のピークで、どんどんどんどん辛くなっていくんですよね……

*2:後の坂元作品でも繰り返し語られるこの言葉、ようやくその原典にたどり着きました。この言葉が僕にとっての懐中電灯なんだよな。

ポップカルチャーをむさぼり食らう(2020年1月号)

f:id:bsk00kw20-kohei:20200120230442j:image

この世はすばらしいカルチャー、コンテンツであふれている。しかし当然のことだけど、そのすべてを一個人でキャッチすることはできない。そんな当たり前のことを忘れ、危うくアパートの更新料を払えないところでした。例えば夜遅くにやっていたドラマ、例えば「欲しい」と親に言うことすら憚られたテレビゲーム。少年時代には、物理的に観られない、読めない、できないからこそ出来るかぎり想像を膨らませ、あるいはあるものを最大限にこねくり回して楽しんできたはずだった。幸いなことに、この世界には多様なカルチャーに対する受け手の意見を聞ける場もたくさんある。Twitter、ネットメディア、雑誌、「POP LIFE:The Podcast」みたいな番組も。それを聴いて読んですれば、それだけでも十分楽しめるじゃないか。猥雑にカルチャーをむさぼり食らうのではなく、観たもの一つひとつについてもっと考える時間を設ける必要があるのではないか。そんなことを思いつつ、相変わらずミーハー精神に心が蝕まれ今月も多様なカルチャーに接しましたとさ。めでたしめでたし。

 

ドラマ

昨年末からの個人的課題ドラマだった『それでも、生きてゆく』。お正月のお休みでじっくり観ることができた。これはやはりすばらしいですね。人と人との徹底的なまでにわかりあえない時間を強く刻みつつ、それでも光のほうへ向かって歩みを進めていく洋貴(永山瑛太)と双葉(満島ひかり)、傷つき果てた家族たちを捉えようとする。「何のために悲しい物語があるのか」という問いに対しての洋貴の応答は、「悲しいことばかりで逃げたくなる。だけど逃げたら、悲しみは残る。死んだら、殺したら、悲しみが増える。増やしたくなかったら、悲しいお話の続きを書き足すしかないんだ」だった。このあとに「いや、こんな話どうでもいい」と切り返すのも含めてとても重要なシークエンスなのだけど、かなり合点がいくというか、個人的にもそう思っていた答えが返ってきた。私たちはドラマの登場人物のようにうまく相手に物事を伝えることができないかもしれない。たとえ伝えられたとしても、相手の心に届かないかもしれない。だけど、どんな結果になろうとこのドラマはその悲しみを優しく包み込んでくれる。悲しみの先に進むことを促してくれる。昨年末に観た『象は静かに座っている』も『魂のゆくえ』も、『幸福なラザロ』も『家族を想うとき』も、ただ悲しいだけの映画ではなかったなと思い直してちょっとうれしくなった。

今期のドラマは『コタキ兄弟と四苦八苦』と『心の傷を癒すということ』、『トップナイフ』しか観ていない(2月1日からの『伝説のお母さん』は楽しみ!)。野木亜紀子脚本の『コタキ兄弟〜』はやはり安定の筆致に惚れ惚れするすばらしいドラマだ。山下敦弘がゆるい空気感を創出しながら、お話は軽妙に巧く構築されていく。まだまだどう展開していくのかわからない作品だけれど、毎回案外スリリングで先が気になる。

f:id:bsk00kw20-kohei:20200120230114j:image

14日にTOKYO MXで放送されていた枝優花監督の単発ドラマ*1『スイーツ食って何が悪い!』もらしさ全開でおもしろかった。『放課後ソーダ日和』の男子版ではあるのだけど、その転換だけで男子の欲求と女子世界の魅力を描けてしまうというのは大発見だ。単純にパンケーキ食べたい欲が半端なく膨らんだし、クリームソーダと同じくパンケーキの“シェア”が生み出す心と心の通じ合いにグッときた。

f:id:bsk00kw20-kohei:20200120230024j:image

 

映画

なんと言っても今月は『パラサイト』でしょう。(いや、そう言い切れないほどに、最高な映画しか公開されなかった奇跡的な月だったんですが。)格差社会における人々の分断という重要な社会的イシューをここまで強く表象しながら、またとないエンターテインメントに仕上げてしまうポン・ジュノの神業。よくできすぎているという批判はあれど、ここまでよくできた映画は安藤忠雄の建築を観るような建築的快感があり、もはや責めるところが見当たらない。個人的にはまずエンタメとして大好きで、「社会派である」という点は案外どうでもよかったりする。ヒーロー映画にノレなくなってきている僕なので、こんなに興奮したエンタメ映画は久しぶりでした。たくさんレビューを読んだので、そのなかから3つよかったものを挙げておきます。

s.cinemacafe.net

realsound.jp

www.houyhnhnm.jp

大橋裕之の原作漫画を7年かけて映像化したという岩井澤健治監督の『音楽』もたいへん楽しい映画だった。とことんまで会話に間をつくっておきながら彼らの言葉は極めて平凡でそれゆえに真っ直ぐ。彼らが放つ初期衝動を濃縮したような「音楽」(タイトルがまずストレート!)もまさしくそんなイメージで、なんの混じり気もないから心に直に突き刺さってしまう。大橋原作のあのシュールな作劇をスクリーンで観られるのはある意味特別感があって終始ニヤニヤしてました。と言ってもぜんぜん『シティライツ』しか読んだことない人間なんですけど、映画化されるみたいだし『ゾッキ』あたり読んでみたいですね。

f:id:bsk00kw20-kohei:20200121211800j:image

ジョジョ・ラビット』は序盤から、苦手なウェス・アンダーソン臭(というより『ムーンライズ・キングダム』感)にやられてウトウトしてしまったものの、ラスト20分がとてもよかった。好みの問題であまりハマらない映画だけど今月の映画で一番おすすめはできるタイプの作品。『リチャード・ジュエル』は、イースト・ウッドの「病めるヒーロー譚」としては今まで以上にストレートな話。真実が見えない時代にはやはりこういう映画が必要だし普通に好きだけど、女性記者の表層的な描写と僕はゲイじゃない!とこだわるジュエルの発言がノイジーで気になる。

今泉監督の『mellow』はあまりにも『こっぴどい猫』と『サッドティー』の焼き直し感がありすぎてちょっとびっくりした(なんせ同じオリジナル脚本の『街の上で』が新境地の大傑作映画なので)。そうではあるものの、「今泉作品とはなんなのか?」を考える際にはとても役立つ映画だと思う。今泉作品っていつも、「話す/話さない」の取捨選択に重点が置かれている。むしろそれだけで物語をドライブさせているのではないかと思うほどに。mellowの冒頭はわかりやすい。花屋に入ってきた女子高生が店員(田中圭)からの2、3の質問に答えてプレゼントとなる花を見繕ってもらい、それを手に店を出ていくまでの時間を長々と、しかし克明に描ききった場面。田中圭は必要以上に聞きたがらないし、女子高生も大事な領域については話さない。観客は少々モヤモヤするかもしれないが、そこでこの映画が誘引しようとしているのは「観客の想像力」なのだろう。思えば『パンバス』の市井ふみ(深川麻衣)も『愛がなんだ』のテルコ(岸井ゆきの)も、自分の心情を「話さない」ヒロインだった(愛が〜はそのぶんモノローグで語られるが)。それは本作の木帆(岡崎紗絵)、あるいは夏目(田中圭)にも投影されている。手紙やラストシーンは、彼女が言葉を選んで「伝えたいことだけ」を伝えているからこそ美しい。わたしたちの想像力が、幾重にも今泉映画の登場人物たちが抱える想いを大きく膨らませることができる。その構造を今泉監督はうまくつくりあげているのだ。一方で「話す」ことで偶発的に生まれるコメディも今泉映画の美点のひとつだ。例えば『パンバス』における二胡やたもつ、『愛がなんだ』のすみれ、『mellow』では告白する女子高生やあの奇妙な夫婦、ラーメン屋においての夏目と木帆の関係性などによって「よく話す」人と「話さない」人の対比が緩やかに生まれているのがおもしろい。

f:id:bsk00kw20-kohei:20200121210921j:image

とりわけあの奇妙な夫婦との会話劇のすばらしさよ。

『サッドティー』(2014)において、彼氏から別れ話を切り出されそうになった女性が(その女の子に気がある)男友達を呼んでなんとか抵抗しようとする場面がある。よくわからない組み合わせの3人が集結したあるアパートの一室。だんだん男性のほうが「別れなくてもいっか」と心が動いていくと、演出的に男友達が透過し、しまいには消えてしまう、というめちゃくちゃ変なシーンがあるのだけど……*2。それとほぼ同じことがあの場面でも繰り返されていて、要するにあの夫婦の間には強固な愛があり、夏目に好きだと言うことなんてごっこ遊びみたいなものだったのだ。結局追い出され(=あの空間から花ごと消され)孤独になってしまうのは夏目の方。しかしあのあとそんなことがあったと木帆に「話す」場面があるから本作にはまだ救いがある*3。そう、ここが『mellow』という映画の実は最も大事な場面ではないか。世界から一方的に追い出されてしまった男が孤独を経由しつつ、真に共感してくれる存在を得る。なんだか自分が生きていていい「世界」がこの世にはたくさんあるのだと実感できるようなシーンだ。これを観て僕は、“好き”と簡単に言ってしまえる「恋」と“世界”を与えてあげる「愛」という、その違いに気づいてしまったような気がした*4。「話す/話さない」の取捨選択は結局コミュニケーションについてのお話にもつながっていて。こういう映画って得てして大好きなんだよなぁ。「ほとんどの好きって気持ちって、表立ってやりとりされないものでしょ?」。セリフのセンスがすばらしい。

f:id:bsk00kw20-kohei:20200121210903j:image

岩井俊二監督の『ラストレター』は濃密すぎる岩井俊二映画でもう最高っしたね。同窓会、そして手紙と冒頭から「嘘」を配置し、徐々に主人公が(この場合は乙坂鏡史郎が)「本当」を見抜いていく様子は岩井作品に通底する作劇のあり方で、その「本当」あるいは「神秘的なもの」を広瀬すずや森七菜といった(この世のものとは思えない輝きを放つ)女優が演じきることによって本作の価値は最大化される。広瀬すずの存在感あってこそなのだけど、僕はとりわけ森七菜の演技に面食らってしまいました。雑誌「SWITCH」の岩井俊二特集号(全体的にいい内容!)で鏡史郎を演じた神木くんが森七菜についてこう評価していた。

「芝居していないような芝居」って、なんとなくわかるじゃないですか。でも七菜ちゃんの場合は本当に「芝居してない」ようにしか見えないんです。話す言葉も、たまに言葉に詰まったり噛んだりする姿もあまりにそのままだから、それが台詞なのか、それとも彼女自身が発した言葉なのかわからなくなって、台本を確認したらちゃんと台詞だった、ということが何度もありました(笑)。

七菜ちゃんは半端ないよ。神木きゅんがこういってるのだから大したもんだ。いやしかし、まじめに言って岩井作品のなかに生きる森七菜の存在は奇跡すぎた。こんなすばらしい映画に出てしまって、これから選んでいく役どころが心配になるくらいに、とにかく奇跡的だった。下のインタビューでも語っているけど、森七菜さんは坂元裕二作品が大好きみたい。「手紙」という連絡手段にも妙にフェティシズムがあるみたいなので、ぜひ坂元作品に出ていただきたいですね。

www.cinra.net


森七菜 カエルノウタ Music Video

旧作で観た映画のなかではハル・ハートリーの『トラスト・ミー』が大好きなやつだった。昨年末に特集上映でデビュー前の超初期作を先に観たりしていたからその成長具合に驚かされたし、いっぽうで「狭い都市、空間から出ることができない男女」というモチーフだけは残り続けていて非常に信頼できる作家だと思わされる。そうしたモチーフや彼の映画で輝きを放つ女性たちの姿には、岩井俊二作品のそれと重ねてしまう部分もありましたね。スリルとロマンスがうまく調和した刺激的なラブストーリー。好き。

f:id:bsk00kw20-kohei:20200127002202j:image

あと2月公開の新作を2本試写会でひと足早く観て、どちらも「うわぁああああああああ!!!最高すぎる!!!!!!」と爆烈にテンションが上がってしまった…!ひとつが個人的にかなり楽しみにしていた『架空OL日記』の劇場版(2/28公開)。もうひとつが『ヘレディタリー』でお馴染み(僕はホラー苦手なんで観てませんけどね…)、アリ・アスター監督の新作ホラー『ミッドサマー』(2/21公開)。今年の上半期はこの『架空OL日記』と公開前から何度も推してしまっている『街の上で』のすばらしさをどう言語化できるか、そこに人生をかけようと思っているくらい、自分的に大事な映画になった。『架空OL日記』は劇場版とは言っても変に気を張らずドラマのままの日常がそこにあって、だからこそとてもいいし、それでもある程度連続性のあるストーリーが100分ほど紡がれるので僕はあるシーンで思わず感涙してしまった。ホラー映画をほとんど観(られ)ない僕でもぜんぜん楽しめた『ミッドサマー』は、もはやSF映画か、と見紛うほどの美しく奇妙な世界観にまずは一発で引き込まれ、ある事件によってトラウマを追ってしまった女性の、その心の中を再現しようとしたのではないかと思われる狂ったストーリーテリングに陶酔感を覚えてしまう。世にも奇妙な世界だけれど、「終わってほしくない」「帰りたくない」と思わされてしまう非常に不思議な体験をした。『架空OL日記』も『ミッドサマー』も、公開されたらもう一度観にいってしまうと思う。


2020.2.21(金)公開『ミッドサマー』予告編

 

本/マンガ

open.spotify.com

最近は映像コンテンツへの依存がひどく本もマンガもぜんぜん読めないんだけど、この回の「POP LIFE〜」が引き金になってくれたのか今月はまぁまぁ読書/読マンできた。『水は海に向かって流れる』の第2巻、めちゃくちゃいい。読んでいて気づいたのは、田島列島の漫画がもつ、恐ろしいほどのテンポのよさだ。細かく配された擬音と少ない言葉数で独特のリズムを生み出していて、でも大事な場面ではちゃんと引っかかりを残していたり、とにかく巧い漫画という印象を抱く。ストーリーの形式(加害者家族/被害者家族の関係性)としてはそれこそ『それでも、生きてゆく』ともちょっと似てるよね。あまり話をぶらさず「親が不倫していた」というその一点を深く掘り下げながら、人と人が不器用ながらも誠実に向き合う姿を描いていくのがとてもいい。

水は海に向かって流れる(2) (週刊少年マガジンコミックス)

水は海に向かって流れる(2) (週刊少年マガジンコミックス)

 

続けて友だちから借りていた『違国日記』の1〜3巻を一気読みし、とても読後感がよくて心をほっくほくさせた。こちらは『海街diary』のような擬似家族的展開が35歳の叔母と15歳の姪という独特な距離感のふたりに託されていて、彼女たちの葛藤と何気ない生活描写の丁寧な描き方に心を掴まれてしまう。昨年公開されていた『アマンダと僕』という映画が本作にとても似ていた。両親を失ったアマンダが、祖父母とかではなく叔父という微妙な距離感の親族とともに生きていくことを決める映画で。『違国日記』では、親の代わりにはどうしたってなれない大人たちの苦戦する生き様、心のすれ違いと言葉の行き違いなど、人間の心の機微がむき出しになっていて没入感がすごい。

違国日記(1) (FEEL COMICS swing)

違国日記(1) (FEEL COMICS swing)

 

トーチWebとGINZAのWebサイトで同時連載されている『かしこくて勇気ある子ども』というマンガ。上述の「POP LIFE〜」で紹介されていて第3話が公開されていたと知り、早速読んだ(4話も公開されました)。カラーのマンガって案外読む機会がないから、ビビッドな“赤”と何もない“黒”との空間の対比が視覚からすごく心に訴えかけてきて、作画的にもこれだけ切実なマンガは今まで読んだことがないなと思い直したりした。これから生まれてくるお腹の赤ちゃんにはぜひ“かしこくて勇気ある子ども”に育ってほしいと思っていた感情が、世界で加速する分断と不寛容に煽られてグラグラっと崩れ落ちていく瞬間の描写の切なさ。ちょうどNHKドラマ『心の傷を癒すということ』で阪神淡路大震災の風景を観ていて感じたことがある。僕は1995年の5月に神戸市のほど近くに生まれ、その年にはオウムの事件もあったり、混沌としていた時代。そんなときにお腹のなかに赤ちゃんを抱えていた僕の母親は、本作と同じように不安にさいなまれていていたんじゃないかなって。『魂のゆくえ』も似たような側面がある映画だったけど、ここにもまた「何のために悲しい物語はあるのか」という言葉が反復してくる。時代は進み、生命は息を続ける。だからこそ、物語の力に救われることがあるということ。この物語の行く末に心して望みたいと思っている。

to-ti.in

朝井リョウの短編集『どうしても生きてる』を読んでいる途中。「同じ言葉の反復」により物語が世界の深層に迫っていくあたり、とても新鮮に感じたんだけど朝井リョウっていつもこうだったっけ? それにしてもやっぱり、20代全般にこれだけ刺さる文章を書けるのは朝井リョウくらいだと思う。

どうしても生きてる

どうしても生きてる

 

 

その他(演劇、YouTubeハロプロ…)

f:id:bsk00kw20-kohei:20200129222519j:image

1月18日、阿佐ヶ谷にある小劇場でナカゴーの演劇『ひゅうちゃんほうろう-堀船の怪談-』を観た。思えばナカゴーは、僕が2年前に東京に出てきてから欠かさずに観劇している劇団。「大爆笑したい!」と思ったときにはうってつけの演劇なんだけど、今回は「大爆笑」どころじゃなく、腹がはちきれそうになるくらい笑った。笑いすぎて周りの目が気になって、ちょっと恥ずかしいくらいのやつです。なにがおもしろいって、登場人物の一人ひとりが「マンガ的」とでも言えるような確固たるキャラクターを形成しているところだ。『ギャグマンガ日和』や『浦安鉄筋家族』の実写化なのか?と思ってしまうほどとにかく可笑しくて愛おしいキャラクターたち。とりわけ藤本美也子さんの小学生男児役はほんとおもしろかったなぁ。


【中田敦彦 vs DaiGo】カードゲーム「XENO」論理vs心理の頂上バトル〜前編〜

今月みたYouTubeで群を抜いていちばんおもしろかったのはこれ。中田(論理)vsDaiGo(心理)という構図で繰り広げられる、カイジのようなカードゲーム、頭脳戦。テレビでもかつて『ヌメロン』とかやってたけど出演者とゲームの相性がとにかくよかったのか段違いのクオリティだし、カメラワーク、カードのデザイン(ずっとTwitterフォローしてるTAKUMIさんだ)、ふたりのリアクション含め完璧のエンタメになってる。台本のないリアルだからこその爽快感も抜群。

ほか、おもしろかったやつ。


【LA里帰り】フワちゃんの故郷はロサンゼルス


もう限界。無理。逃げ出したい。


村上がバチってなった〜Aマッソのオッチンバーグ〜


2019年ベスト映画・日本映画業界を語る!! 活弁シネマ倶楽部#66

長らくハロプロ箱推しとしてとくにひとつのグループに熱中することなく応援してきたんだけど、近ごろはモーニングへの愛が昂っているのを自覚しはじめました。だって15期が入ったばかりなのに、もうバランスが最高なんだもの。ニューシングルの3曲はぜんぶめっちゃいい。動画をいろいろ貼りますが、愛おしくて悶えるばかりでとくに言葉にできることはありません。興味がある人は見てみてくださいな。


モーニング娘。'20『人間関係No way way』(Morning Musume。’20 [Relationships. No way way])(Promotion Edit)

gyao.yahoo.co.jp

nico.ms

nico.ms

hanako.tokyo

f:id:bsk00kw20-kohei:20200201174439j:image
年始の3連休、スノボをしに友だちと長野県へ行った。1泊2日でも2日滑るほどの体力を持ち合わせていない面々だったから、1日目は通り道にあった軽井沢へ。軽井沢へは昨年の4月にも行ったんだけどやっぱりめちゃくちゃ雰囲気がいい。別になにもないしこの時期はとくに人もいないけど、むしろそれがよくて洗練もされてる。軽井沢といえばやっぱり蕎麦っすね(軽井沢 川上庵にて)。

f:id:bsk00kw20-kohei:20200201183256j:image

正月休みに祖父母の家にいって持って帰ってきた一眼のフィルムカメラでいろいろ撮るも、ピント・光の調整がぜんぜんうまくできてなかった。おもしろいな、カメラって。軽井沢では蕎麦を食べ、旧軽銀座をぶらぶらし、カフェでのんびりしたあと、アイススケートに興じた。スノボもそうだけどバランス感覚が試されるスポーツは基本上達しきれない僕なので、スケートもめちゃくちゃこけたし難しかったです。テラスハウス軽井沢編をまた観たくなった。スノボは相変わらずそんなに上達せず、午後に入るとバテてきてやる気がなくなり時間切れ。スキー場からの帰路、道が凍っていたため車で雪山を降りるのに1時間もかかったのが最大の珍事だった。懲りずに来年も行く。

f:id:bsk00kw20-kohei:20200201174121j:image

<2月に観たいものリスト>

テッド・チャン『息吹』/『違国日記』4、5巻/ペドロ・アルモドバル作品/『82年生まれ、キム・ジヨン』/『最高の離婚』と『問題のあるレストラン』、『東京ラブストーリー』/山崎ナオコーラ『ボーイミーツガールの極端なもの』

*1:山中瑶子監督『さよなら、また向こう岸で』と同じ局・時間だから、ここは若手作家発掘枠なのかな? その作品があまりにもすばらしかったことを思うと、枝監督の本作は期待を越すものではなかったんですけど…。

*2:この消滅してしまう男友達役を『お嬢ちゃん』の監督であり『全裸監督では國村隼の弟子を演じていた二宮隆太郎がやっていて、めちゃくちゃ最高なのだ。ちなみにちなみに、『お嬢ちゃん』でも「3人の会話劇」が頻発し、2:1の構造になったりするところ(他にも長回しやコメディ描写なども)に今泉作品とのつながりを感じたりした。

*3:その直前のシーンで夏目がタバコを吸うのも印象的。そのモヤモヤをぶつける相手がいないから、彼はただタバコを吸ったり吐いたりしてやりすごす。

*4:どちらも極めて人間的で美しい。

寄生虫は輪廻のなかを蠢く/ポン・ジュノ『パラサイト 半地下の家族』

f:id:bsk00kw20-kohei:20200113181727j:image

(※物語の展開・ラストにがっつり触れるレビューなのでどうか観賞後にお読みください)

 

「計画を立てると必ず、人生そのとおりにいかなくなる。絶対失敗しない計画は、“無計画”であることだ」

本作においてさまざまな人物から発せられた「計画はあるの?」という問いかけに、キム・ギテク(ソン・ガンホ)は諦念にも似た上記の回答を示す。計画は崩れ去ってしまうものなのだから、そんなものには意味がない。「誰が今日、体育館で寝ることを計画のなかに含んでいたのか?」と。

とは言っても、キム一家による大豪邸への“寄生計画”は極めて順調に進んでいたと言っていいだろう。疑い深い観客としては、「うまくいきすぎではないか?」と訝ってしまうくらいだった。4人全員がパク一家に迎え入れられ、次なる一手はギウがダヘと結婚することか、と未来計画を立てていたところだ。大豪邸のリビングで一時の幸福感に包まれていたそんなおりに突如、計画を阻む輩=前家政婦のムングァンが進入してきたことでいとも簡単にその計画は崩れ去ってしまう。ただし、私たちはここである事実に気づきはしないだろうか? このムングァンと地下に居つくその夫こそ、「計画を阻まれた側の存在」であるということに。だって、キム一家が寄生することがなければ、ムングァンは何ごともなく家政婦を続け、彼女たちは一生この家に世話になることができたのだから。キム一家の計画を阻んだのはムングァンだが、それ以前に、ムングァンの計画をキム一家が阻んでしまっていたという辛い事実がそこには横たわっているのだ。

そして無視してはいけないのが、彼ら以外にも計画を阻まれている人間がいるということだ。言うまでもなくそれはパク一家のことである。寄生されていること自体がもちろん計画にはないことだが、最も無計画を象徴するのはあの忌まわしいクライマックス、息子・ダソンの誕生日を「サプライズ」で祝うために、母がギジョンにケーキ運びを充てがう場面だろう。そこで予想外にも包丁をもった男が現れ、ダソンは気絶し、最終的に夫は殺されてしまう。誰も救われない、誰もお互いを救うことができない、地獄のような展開である。

そうして無残にも計画が無為になってしまったものたちは、この厳しい世界を“くだる”しか道がなくなる。キム一家は街を降り、あるいはギテクは地下室で警察からの追手を防ぎ、ムングァンは地下室から上にあがってこようとするも、ギテクの妻・チョンソクによって蹴落とされてしまう。一家の大黒柱を失ったパク一家にしても、これまでと同じ生活が送れるとはとても考えづらく、階層を下ることを余儀なくされるに違いない。

圧倒的に裕福な家庭だったパク一家のことを一旦脇に置いておくとして、同じく階層の下方にいるパク一家とムングァン夫妻がなぜ互いに手を取り合うことができなかったのか。

「自分が上にいると、下にいる人間が見えなくなる。」それこそが本作の最大のテーマであり、人間の業が生み出す根の深い問題であるように思うのだ。机の下にキム一家が隠れていることに気づかず、パク夫妻はイチャつきだしてしまう。下界では大洪水が起きた次の日も、気持ちいい朝を迎えている。一方でキム一家も、まさか地下室に人が住んでいるとは思いもせず、自分たち家族のことだけを考えて寄生計画に励んできた。そしてムングァンは、キム一家の正体を知るといきなり豹変したように彼らを脅しはじめ、悠々と地上で夫の肩を揉むに至る。そこでまたキム一家からの反逆に遭い、最終的には地獄のクライマックスにつながっていき……。

地獄の誕生日会から息子を連れて逃げ出そうとする大豪邸の主人・ドンイクは、ギジョンが刺されていることに目もやらず、早く運転してくれ、早く鍵をよこせ、と言う。災害時において一家の家長が家族を守ろうとするのは当然のことなのだが、(一応)招いた客であるギジョンを見捨て、鼻をつく匂いにだけはなぜか敏感な姿。それを見たギテクは衝動で彼を刺し、自らもまた大豪邸を後にしようとする。*1

実は本作、オープニングでかかる音楽と半地下の家を下方向にパンしていく映像が最後の最後、ラストシーンでも全く同じ構造になっており、そこから『パラサイト』という映画自体が「円環構造」を成していると読み取ることができる*2。キム一家は半地下の生活に戻り、あの豪邸に住むことを再び「計画」するのだ。その計画が成功するかどうか。本作を観ていれば、とてもじゃないけど成功するとは思えない。階層を上ることは不可能、あるいは階層を上がろうとすれば他に苦しむものが出る、と伝えるしんどすぎるエンド。この輪廻から抜け出すにはどうすればいいのか。その答えを安易に提示しない(もしくは答えなんてないのかもしれない)のが本作の巧さであると思う*3

f:id:bsk00kw20-kohei:20200113231744j:image*4

*1:螺旋状の階段を下っていくあの前後の場面の「日光」と「影」の演出が見事で、真上から捉えたその映像は、ギテクの「影」だけが日向を動いていたり、螺旋状を一度上にあがってすぐに下がったり、これまでの展開を絶妙に表象してみせている。この「日光」と「影」というのは、入らない半地下/強く射し込む大豪邸の庭、と階層の対比においてもたびたび明示されてきたものだ。

*2:大豪邸の玄関にある階段も地下シェルターと繋がる階段も螺旋状をしていて円環を想起させる。そして登場人物たちは何度もそこから滑り落ちてしまう。

*3:赤鉛筆(脈拍)、唇、偽造文書のハンコ、梅シロップ、タバスコ、犬用ジャーキー……。侵入を暗示し、血を連想させる“赤”も本作においてすごく印象的だった。いやしかし、とにかくすごい。社会派映画でこれほどまでにエンターテインメントを指向できた映画はないだろうし、演出・脚本の教科書としても最適なテキストだと思う。よくできすぎているのが、唯一の欠点。一部Twitterではそうした指摘があるし自分もそう思うけど、こんなにイマジネーションが膨らむ映画、そうそうないんじゃなかろうか。個人的にはめちゃくちゃ好みの作品です。

*4:パク・ダヘ役のチョン・ジソがかわいすぎました。ていうかみんな顔がよかった。

ノア・バームバック『マリッジ・ストーリー』|その言葉で変わってしまうほど過去はヤワじゃないはず

言葉はいとも簡単に過去を改変してしまう。ときに痛々しく、またあるときには優しく包み込むように。そうした「言葉の鋭敏さ」をひしひしと痛感させられるのが、『マリッジ・ストーリー』という映画がもつ魅力(、あるいは恐ろしさ)のひとつだと思う。

f:id:bsk00kw20-kohei:20200108103042j:image

◆言葉が物語る幸せな日々

本作では少なく見積もっても4度、そうした「言葉の鋭敏さ」に登場人物たちが翻弄される場面が訪れる。

その1度目は言うまでもなく、かつて愛した結婚相手の好きなところをメモに書き出した冒頭シーン。ずっと観ていられるし、言葉をすべて書き出したいくらい愛に溢れたあの心和む場面である。ミルクボーイのネタみたいになってしまうけど一部抜粋すると、ニコール(スカーレット・ヨハンソン)は「気まずい場面で相手を気遣える」「家族の問題に関しては常にうわて」「家族の髪も切る」「贈り物のセンスがいい」「負けず嫌い」、そして「僕が一番好きな女優だ」。一方チャーリー(アダム・ドライバー)は、「意思が強い」「苦行のようにいっぱい食べる」「節約家」「家事が得意」「負けず嫌い」「イヤになるほど子煩悩」、そんなよき父親。

実際には、あの言葉たちは紙に書き出されたままで読まれることがなかったものだ。無機質で、感情が宿ることのない言葉。しかしそこは映画がもつ奇跡の産物か。“いつか読まれること”を期待するかのように、言葉と映像は巧みに「彼らの結婚生活における幸せな時間」を再現し、私たち観客を一瞬で引きつけていく。本編をすべて観終わってから改めてこの冒頭を眺めると、“生活のいいところだけ”を切り取っているということもなんとなくわかってしまう。でも「伸びっぱなしになったチャーリーの髪」と「それを切ってあげるニコール」、「節約家、家事の得意ぶりを発揮するチャーリー」や、何よりもお互いに「負けず嫌い」な姿は後々の場面にも随所で覗かせている。そんな“いいところ”の印象が徐々に薄れていってしまうのが、このあとに展開される離婚劇の怖さだ。

f:id:bsk00kw20-kohei:20200108005251j:image

◆脚色のないニコールの本音

「言葉の鋭敏さ」を物語る2度目はそのあとすぐ、ニコールが弁護士のノラ(ローラ・ダーン)を訪れ、チャーリーの不満を漏らす場面。

ノラ「もう少し詳しく事情を聞かせて 私たちはあなたの話を語るんだから」

ニコール「説明するのは難しいわ 愛がないとかいう単純な話じゃない」

簡単な言葉で言い表すことはできない。そう前置きしながら、ニコールはチャーリーとの出会いから結婚生活、劇団やチャーリーへの不満、離婚を決意した理由までを訥々と振り返り、溜め込んでいた感情を放出していく。ここで語られることがなんの脚色もない彼女の本音なのだろうということは、スカーレット・ヨハンソンの等身大の演技を観ていればわかるだろう。

ニコール「私は夫の活力にエサを与えていただけ」「私はだれかの所有物」「夫は私を見てない 独立した人間として見てない」

冒頭で語られる日々のささやかな幸せにも決して嘘はないけれど、離婚を決意するに至るまでのフラストレーションが溜まっていたのも事実としてある。その複雑に混じり合った過去と決別するためには、「ささやかな幸せ」の方を切り取って捨ててしまう必要があったことは言うまでもなく、弁護士のノラを媒介として「不満の言葉」がさらなる鋭さを携えてチャーリーに突きつけられることになる。

それが離婚調停の場面につながり、応戦するためにチャーリーも荒手の弁護士(レイ・リオッタ)を雇うことに。そこからはもう、切なすぎる「言葉の刺し合い」のような展開が続く。

f:id:bsk00kw20-kohei:20200108005328j:image
f:id:bsk00kw20-kohei:20200108005332j:image

◆刺し違える言葉と言葉。そして、生きている

「言葉の鋭敏さ」改め、「言葉の刺し合い」が激化する3度目の場面。それはニコールがチャーリーの家に訪れ、「もう一度私たちだけで話し合えるかも」と、離婚調停の振り出しに戻ろうとするシーンだ。結論から言うとその試みは失敗し、壁は凹み、チャーリーは泣き崩れる。「なんてことだ……」。かつて愛した人に思わぬ暴言を投げかけてしまったチャーリーがそう漏らす場面の苦々しさたるや……。

f:id:bsk00kw20-kohei:20200108102707j:image

「言葉」はそれだけに、過去を丸ごと否定してしまうほどの威力をもつ。しかし『マリッジ・ストーリー』という映画の真価が発揮されるのは、その言葉になんとか抗おうとする彼らの姿を捉えている点にあるように思う。複雑な想いが混じり合った過去を、その混じり合った状態のままに記憶しておくという努力。映画はあらゆる過去を肯定し、「Being Alive」、“生きているんだ”と甲高に訴える。

Someone to hold me too close.

Someone to hurt me too deep.

Someone to sit in my chair,

And ruin my sleep,

And make me aware,

Of being alive.

Being alive.

このアダム・ドライバーの歌唱も非常に胸を打つ場面である。ニコールやヘンリーとの身長差もあってのことか、その身体性が時おり浮き彫りになっていたチャーリー。離婚の通達を受けた際やノラからの電話で弁護士を立てろと催促されたとき、彼はなす術もなく呆然と立ち尽くしてしまう。その大きな身体がニコールとの大喧嘩によって縮こまってしまったり、不意に腕を傷つけて横たわってしまったりする場面にこそ、彼の愛らしさが表出されているだろう。そんなチャーリーが心から湧き出るように歌う歌。人との関わりは煩わしいこともあるけれど、だからこそ生きているんだ、と実感する、これも過去と現在を全肯定してみせるシーンである。

f:id:bsk00kw20-kohei:20200108193303j:image
f:id:bsk00kw20-kohei:20200108194029j:image

◆抗うことで届く手紙

この映画には救いがある。泥沼の離婚劇を描きながらも『マリッジ・ストーリー』と銘打ってみせるように、「離婚」ではなく「結婚生活」にスポットライトを当てた本作は、ニコールとチャーリーによる言葉への抗いをもってしてやがて救いとなる奇跡を生む。ニコールが「チャーリーの好きなところ」を書き出したメモを、ヘンリーが拙い発音で読み上げる場面だ。いや、あれは奇跡などではなく、本作の流れからすれば当然の帰結だったのかもしれない。ヘンリーの目の届く位置にあの紙が置いてあったのだとすれば、その前にニコールが読んでいたとほぼ断定できるから。ニコール→ヘンリーと介してチャーリーへと届く「手紙」。

ヘンリーが一つひとつ丁寧に読み上げ、あの無機質な言葉たちにじわりじわりと感情が乗りはじめる、その映画的快感。それは「言葉の温かさ」に気づく瞬間でもあるかもしれない。言葉は簡単に、過去を否定/肯定することができうるけれど、複雑な想いが混じり合った過去を一方向に規定することなんてできっこない。できないでいてほしい。過去は過去としてあり続け、「生きている」実感を得る手助けをしてくれる。そう踏ん切りをつけられればようやく、私たちは未来を見据えて歩き出すことができる。

長い道のりを画面の奥へと車で走り去っていくチャーリーの画をもって本作は終わりを迎え、そして人生はずっと先へと続いていく。

f:id:bsk00kw20-kohei:20200108103136j:image

 

ポップカルチャーをむさぼり食らう(2019年12月号)

f:id:bsk00kw20-kohei:20200103110032j:plain

『ビート・パー・MIZU』のヒロイン・石川瑠華さん

年末年始の省エネモード発動〜! ゆるい感じで書いていきますよ〜。ってな感じで4月からつけはじめたカルチャー日記もなんとか飽きずに続けてこれて、今年は以前よりも多様なカルチャーに触れることができたように思う。というのは嘘で、結局今年は徹頭徹尾「映画」の1年だった。一応、公の場で映画の文章を書けるようになりたい、と思って上京してきているから、まぁ当然の成り行きではあるし満足しているのだけど、もっともっと映画以外にも「おもしろいもの」に接していきたいという思いがあるのです。誰よりもミーハーな好奇心旺盛マンなので。「以前よりも多様なカルチャーに触れることができた」と2020年の年末には言っていたい。多様なカルチャーとは言ってもまずは漫画・小説を含む「本」かな。近ごろ、文章力・語彙力・知識の限界を感じることが多いから、おもしろいものに接したいという欲以上に、やらなければいけない喫緊の課題としてこれは挙げられます。あとやっぱり映画はもっと観る必要があって、ちょっと新作鑑賞を抑えて旧作を掘りまくる時期が来ているように感じる。観たい映画は山ほどあるし、新宿のTSUTAYAなんかにはなんでも置いてるっぽいし、幸いなことに環境は整っているのだ。毎月ひとり監督を設定して観ていこうかな。演劇は年10本強ペースでいい感じで、ドラマは毎週追うのがしんどくなってきてるから毎クール2、3作で充分。ライブは行きたいときに行く。時間を無駄にしたくないしあんまり観たくないなと思ってたYouTubeは仕事としては求められる部分もあるかもしれなくてそれなりに観なきゃいけない。おもしろすぎて逃れられないんだよなYouTubeって。でも逃すことができないカルチャーなのは確か。がんばってメリハリつけて観ていこう。ぬるりと書き連ねた2020年のカルチャー抱負、以上。お金と時間が足りないぜ。

 

何のために悲しい物語はあるのか

なんか12月に観た映画はしんどい(辛い)映画が多かった。たまたまなのか、無意識に選んでいたのか。辛いとは思いながらも映画的に観てすべて高水準のおもしろいものばかりだった。例えば早稲田松竹で観た『悲しみは空の彼方に』(ダグラス・サーク監督)。今から60年前公開のこのアメリカ映画では、女性4人の10年間を描くことで人種差別・性差別・親子の確執などなど多くの社会問題を浮き彫りにしていた。12月13日公開ケン・ローチ監督の『家族を想うとき』では、イギリスの地方都市に住む(経済的には普通かちょっと普通以下くらいの)家族のスパイラル的に転落していく日常が描かれている。実家に帰ってまでなんか今年中に観ておいたほうがいいと思って2時間かけて観に行った『象は静かに座っている』。これも4時間というあまりにも長い時間をかけて、中国の田舎に暮らす先の見えない人々のしんどすぎる日々が群像劇で語られていた(製作中に29歳で自死してしまったフー・ボー監督の処女作であり遺作)。アップリンク吉祥寺でやってくれた『ワンダーウォール』(ドラマ)や「今年見逃した映画枠」で年末にレンタルして観た『幸福なラザロ』(伊/アリーチェ・ロルヴァケル)『魂のゆくえ』(米/ポール・シュレイダー)といった映画も、あまり未来が見えないような辛い結末を迎える。

これらはどれも、「それでもなんとか生きていく」とはなかなか言いづらい、しんどい映画ばかりだ。それぞれの映画を観たときは映画的なすばらしさ(辛い日々を描きながらも何故だか目を逸らせない吸引力、映画的快感)にしか目がいってなかったけど、実家に帰って自分の家族や社会を見渡してみると、「確かに世界はそういうふうに救いようがないくらいしんどくなっている」と思うことが多く、それらの映画が生まれた意味をようやく認識できた。でも生まれた背景は痛いほどわかるけど、カルチャーとして存在する意味はどこにあるのだろうか。年末年始で坂元裕二の傑作と名高い『それでも、生きてゆく』を観ている。(まだちゃんと観てなかったんですよね…。)「なぜこんなに悲しい物語があるのか」。劇中で発せられるその言葉を反芻する日々だ。カルチャーを摂取し続けること、そしてそれらについて書くことに意味はあるのかとすら思う日々を過ごしているけど、『それでも〜』を観たあとに何かしらの答えのようなものが出るんじゃないかと思ってる。FODの1か月無料登録の期間中に『最高の離婚』と『問題のあるレストラン』も観たいぞ〜。2020年の大期待映画『花束みたいな恋をした』(坂元裕二脚本)に向けて。

f:id:bsk00kw20-kohei:20200102214821j:image

 

眉村ちあきのライブはすごい

はなしかわって、今月とくに書いておきたいのは眉村ちあきの単独ライブに行ったこと。その前に唐突ですが、『今気になる女の子ベスト』を記します。女優・アイドルを問わず、好きだな〜活躍しそうだな〜って思うだいたい25歳以下くらいの女の子、っていうゆるゆるの基準で(笑)。

今もっとも好きな女優である三浦透子は紅白で観られてとてもうれしかった。あの貫禄でまだ23歳とはほんとうに恐ろしい。とりあえず『架空OL日記』の劇場版が楽しみっすね。インディーズ映画の登竜門的イベントである「MOOSIC LAB」で(2本+短編2本しか観てないけど)一番おもしろいと思った『ビート・パー・MIZU』、その主演の石川瑠華もよかったな〜。今年『左様なら』という映画でもちょっとヒールな演技を観て印象に残っていたけど、本作のめちゃくちゃポップな役回りも板についていた。17歳でその類まれなる演技力を示しまくっている南沙良。2019年は言うほど映画やテレビで見る機会はなかったので今年は期待したい。『もみの家』(坂本欣弘監督)『ピンぼけの家族』(NHK)という絶対おもしろいだろう作品が待機しています。18歳の森七菜は言わずもがなな活躍ぶり。けもなれで田中圭の母親の独身時代を演じていたのが心に残っている彼女は、今年一発目に岩井俊二の『ラストレター』が控えている。松竹史桜は『若さと馬鹿さ』で初めて認識したけど思い返してみると「ほりぶん」の演劇にも出ていた。1月は「ナカゴー」の演劇にも出るので楽しみ。彼女の独特な空気感が好き。ハタチ周辺の松本穂香恒松祐里箭内夢菜、中田青渚、関水渚は引き続き見守っていきたいお人たち。ハロプロではモーニング娘15期生の初々しさに激惚れしていて、『ひなあい』では上村ひなのさんの天才的所作から目が離せずにいる。

ということで眉村ちあき。夏ごろから妙に惹かれていた彼女のライブにようやく行くことができた。結論から言うとめちゃくちゃ良かった。なんでこんなに心が引きつけられているのか、それが実はあんまりよくわからないんだけど(歌がうまい、それだけで十分好きになる要素ではあります)、ライブを観てさらに好きになったのは彼女の発言の突拍子のなさ。突拍子がなく、それでいて全人類を肯定してくれるような温かさが彼女の言葉には宿っているのだ。

これに関してはもうね、理屈じゃないんだよね…。眉村ちあきのライブは現状、動画・写真撮影OKなので、YouTubeに上がってくるライブ映像をこれからも追っていきたいな〜。

12月のビッグニュースとして最後に。12月25日発売の『QuickJapan VOL.147』にて「YouTube on the border 2019」という特別企画の文・構成を担当しました。霜降り明星やカジサック、オリラジあっちゃんといった芸能人がYouTubeに進出する昨今において、その企画内容を考えている放送作家さんというのも当然のようにいます。それはテレビバラエティで活躍する放送作家さんがやっているのが基本で、今回は最前線で暗躍する4人の作家さんが集結し、2019年のYouTubeシーンを振り返りました。内容もりもりの座談会記事になっています。YouTubeについてある程度詳しい気でいたけど、紹介される7割くらいが観たことがないYouTuberだったり思わず肘を打つ発言のオンパレードだったりしたので、とにかく必見でございます! クイック・ジャパンは高校生の時から読んでいた雑誌だし、総合カルチャー誌としてこれ以上のものはないと思うので、そこで書けたことがめちゃくちゃうれしい。読み返してみると粗が気になってしまうけど、もっといい文章書きたいな〜と励みにもなりました。これからもコツコツがんばっていこう。

〈2020年1月絶対観るものリスト(おもに積読)〉朝井リョウ『どうしても生きてる』、ヤマシタトモコ『違国日記』1〜3巻、岩明均ヒストリエ』11巻、田島列島『水は海に向かって流れている』2巻、オカヤイヅミ『ものするひと』3巻、CSで録画したハル・ハートリー監督作品、坂元裕二最高の離婚』『問題のあるレストラン』、タナダユキ監督作品