縞馬は青い

縞馬は青い

映画とか、好きなもの

いちばん面白い、を積極的に乱用する(2021年5月1日)

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連休はだいたいスタートダッシュをミスる。早く起きてもそのままベッドのなかで映画を観てたらうとうと二度寝をしたくなるし、よっしゃ映画予約するぞっと思ったら満席になっていた。今日はだらだらドラマを観ていただけで時が過ぎ、夕方には激しい雨に頭痛がして昼寝ぶちかまし寝ても覚めてもずっと眠い日だ。『すいか』(いまHuluで無料です)第4・5話、『住住』第1話、『息をひそめて』第1話あたりを観た。中川龍太郎『息をひそめて』第1話はとても『街の上で』感のある、というか『わたしは光をにぎっている』なコロナと無くなってしまうものと残り続けるものの話。『住住』はシーズン1が好きすぎるので早く、早く若林と二階堂ふみに登場してほしい。

きのう始まった『半径5メートル』がかなり面白かったようで、1日たったいまもかなり興奮してる。今期数多ある良作ドラマのなかでもいちばん心に刺さる第1話だったのではないか。「いちばん好き」っていう言葉を使いすぎて最近は「もっとも面白い」とか「〇〇とか」(いい類義語を思い浮かばなかった)を使ってるけど、大げさとかじゃなくって「いちばん好きなもの」ばかりに囲まれていたいんだものしょうがないよね。ドラマは週刊雑誌の編集部が舞台で、冒頭は「1折」と呼ばれるいわゆる「スクープ記者」として奮闘する主人公(芳根京子)を描く。が、それはただの大いなる前フリであり、目に見えない読者と見える“熱愛”(あえてこの言葉を)、職場に蔓延るセクハラや男性中心的構造に弾かれてドロップアウトを余儀なくされた芳根京子が、そこでの「疑問」を背負いながら(生活情報を取り上げる、とてもゆるい)「2折」に異動になったあとの「発見」を捉える。そんなドラマだ。大きい出版社の週刊誌で働く知り合い(女性)にまずは想いを馳せた。

脚本とセリフがキレキレだ。橋部敦子さん、そんなに馴染みがないけどこんなことなら知ってるワイフとモコミも観とけばよかったかな。永作博美の存在感が素晴らしくて、「あなたはなにをどう見るの?」という言葉の説得力に射抜かれた。芳根京子との距離感もいい。さすがにあの職場はちょっとファンタジーすぎるけど「ひたすら楽しそうな仕事」って最近のドラマでは観ない気がするからそういう観点でも楽しめる。あとは三島有紀子さんが演出してるからだと思うけど要所に構図で魅せてくる場面があったのもよかった。高低差はさすが『幼な子われらに生まれ』の!って感じだ。関係ないけど。初回放送にしては最後うまくまとめすぎな気もしたけど黒田大輔が熱演してたんでもうそれはOKです。花束を持って走り去ったの倉悠貴だよな。吸い込まれる美形。

乾杯前の一節を言えた試しがない/すきなものノート(2021年3月10日)

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「好きなものを書くの。嫌いなものを書いちゃだめだよ。嫌いなもののことを考えちゃだめなの。好きなもののことを、ずっとずっと考えるの」

ーー坂元裕二『Mother』第1話

「最近なんかあった?」と聞かれると十中八九いやな記憶を引っ張り出してしまうたちだ。それ自体がとてもいや。だから、いつでも好きなもののことをしゅっと取り出せるように、その場面に出会ったらいちいち記録しておこうと思う。『Mother』のドラマ内でつぐみ(芦田愛菜さま)が書いていた「すきなものノート」にならって。やがてきらいなものさえも好きになってしまえたらうれしい。とか言って。*1

  • 洗いものが終わってる洗面台
  • 映画のエンドロールで誰ひとり席を立たなかったとき
  • 褒められること
  • 緑色のセーター
  • コートのポケットにすっぽり収まる本
  • なが〜くてふと〜い鼻毛が抜けたとき
  • 昼寝(机に突っ伏すのじゃないやつ)
  • 演劇の開演前とかに流れる木琴だけでつくったみたいな音楽
  • 明日の天気予報を見て晴れだったとき
  • 乾杯
  • 人の「恐縮です…」って感じの表情
  • 傘を打つ雨の音
  • 読書する、文章を書くとかなんでもいいけど、2、3時間くらい時間の存在を忘れて生きているとき
  • 100%充電済み
  • マスクのせいでメガネくもってる人
  • 高円寺駅構内に立ちこめる焼き鳥のにおい

乾杯が好き。あの、みんながちょっと照れながら、正解の表情もわからないままに目を見合う瞬間。僕はこれまでに一度だって、「じゃあ〇〇さんの誕生日を祝して〜」とか「素敵な夜に〜」とかいう乾杯前の一節を言えた試しがない。「誕生日を祝して〜」は言おうとしたことがあるけど、こんな短いフレーズなのに途中でふにゃふにゃっと噛んでグダグダになってしまったことがある。ていうか言い終わる前にグラスをぶつけてしまった。あの言葉を咄嗟に思いついてズバッと言える人はすごい。尊敬しちゃう。でもやっぱり、乾杯ってちょっと恥ずかしげがあるから好きなんだよな。意味はないけどやってみると楽しい感じとかが。だから、みんなと酒が飲めてうれしいとか何かを祝したいからではなく、ましてやグラスとグラスがぶつかる音が好きとかいう変な趣味があるのでもなく、不意に乾杯をするときの、人のちょっと微妙な表情を見るのが僕は好きなのかもしれない。

 

*1:すきな「もの」を書こうとしたらすきな「瞬間」が多くなってしまった。まぁ、物体よりも時間とか記憶のほうが愛おしいのよね。

“情けない”という、愛おしい情動の顕れ/ユン・ダンビ『夏時間』

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子どものころの夏休みというのは、お昼ごはんを食べたら無性にうとうとしてきて昼寝して、気づいたら夕方になっていた。起きたら夜ごはんが用意されていて、それを平らげてしまったらもう瞬く間に夜はふけ、昼寝と暑さのせいで眠くならないものの布団を被ってしまえばすぐに朝がやってきた。食べる、寝る、食べる、寝るの日々の繰り返しのなか。ときには親に腹を立て、兄弟と小競り合いの喧嘩をし、それだけのことに心が持っていかれた。狭い世界、平凡な時間だったと今になっては思う。それでも僕は、『夏時間』という映画を観てそのころを無限に思い出すなかで、“郷愁”と呼ぶにはあまりにもなんてことない、単純な日々の愛おしさを想った。

原題は『姉弟の夏の夜』(めちゃくちゃいい!!)、韓国のユン・ダンビ監督による初長編映画となった『夏時間』は、ある姉と弟とその父親、彼女たち3人が夏休みのあいだおじいちゃんの家に転がりこむところからはじまる物語だ。とにかくめちゃくちゃいい映画なのだけど、困ったもんで、そのよさについて正確に言葉にするのは人生を語ることと同じくらい難しいと感じている。でも記録しておかないとポロポロとこぼれ落ちてしまう大切な時間や感情がたくさん描かれていたから、無理をしてでも、ちょっとしっくりこなくても何かを書いておく必要があると思った。「情けない」という印象的なセリフをもとに、いくつかのシークエンスを辿ってみたい。本作はひとつの側面として人の「情けなさ」を描いている映画だと思っている。

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「情けない」なんて言葉をふだん日常生活で使うことがないからだと思う、本作で3度発せられるそれが強く印象に残ったのだ*1。姉と一緒の部屋で寝ようとしたら軽くあしらわれてしまう場面で、弟・ドンジュが発する「情けない 勝手にしろ」が1度目。小学校の低学年くらいの子どもがいきなりそんな言葉を発するのだからちょっと驚いた。子どもに大人っぽい言葉を語らせるということがまったくない誠実な本作においては少し浮いた言葉にも感じる場面だけど、韓国では一般的に使われる言い回しなのだろうか。続いて2度目および3度目は、「情けない 踊ってもスマートフォンはもらえないんだから」「お前のほうが情けない」と姉弟が洗面台あたりで言い合う場面にあった。この周辺の姉・オクジュの心の動き、その描写がとんでもなく緻密だったから、詳しく書き記しておきたいと思う。

オクジュは二重の整形をしたいとある日ふと思った。でももちろんお金がないから父親にせびりにいく。「70万ウォンほしい」といきなり娘にそう言われた父は驚き、「何に使うんだ」と問う。正直に「二重にしたい」と応えると、父親はふーっと息を吐き、止めていた作業(勉強)の手を無言のまま動かし始めるのだった。妊娠でもしたんじゃないのか、と思ったのか、そんなことか…と思ったのか。言葉のない演技のなかで父の心情が雄弁に語られている場面だ。たしかその次の次くらいの場面でおじいちゃんの誕生日会が催され、「柄にもなく祖父にプレゼントを渡すオクジュ」という描写がなされる。前の場面のことを考えると、おじいちゃんからお金をもらうために媚を売っている、と受け取れるような。というかたぶんそうだ。だから、ドンジュが脚長ダンスみたいなのをしてみんなで盛り上がっているときにオクジュだけ笑ってないし、そんなことをしてもスマートフォンはもらえないとドンジュに苦言を呈すのだった。ドンジュからしたら、お姉ちゃん急になんで怒ってんの?って感じだろう。リアルだ。

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それでもオクジュは頼もうと思ったのだろう、その夜に階段を降りて祖父に話しかけにいこうとすると、ソファに座って音楽を聴きながらこの上なくしあわせな笑みを浮かべる祖父を目撃することになる。オクジュは一瞬立ち尽くし、踵を返し、階段に座りこんだ。このシークエンスの丁寧な描写が、「オクジュの“情けなさ”」をとてもうまく映画のうちに見出していたと思う。さっき自分が弟に発した言葉が、そのまま突き刺さってしまったのだろう。プレゼントをあげて機嫌を取ったからって、見返りがあるわけではない。わかっているのにそうしてしまうことの情けなさ。黙って母に会いにいった弟を尋常じゃないほど怒りつけて泣かせてしまう場面のオクジュの表情も、非常に情けない感じが伝わってきて泣けてしまった。

おじいちゃんは介護がないと生きるのが難しいし、お父さんは事業に失敗して偽物のナイキを売っていて、叔母さんは離婚寸前でお酒にぶつかっていく。ほんと情けない人しか出てこない映画だ。しかしこの「情けない」という人間の状態こそが、この映画のいちばんの輝きなんじゃないだろうか、なんてことを思ったりする。

『夏時間』という映画には、情けが“ない”という状態がそこに“ある”ものとしてずっと画面に映っている。そこには「情け“ない”」という言葉の見た目に反してたしかに情の“動き”、情動たるものがあられもなくあらわになっていて、それがすなわち本作の豊かさの一端を担っているものなのだと思う。だからたとえば、オクジュが靴を売りに家を出ていくときに弟からトマトをもらい、祖父の微笑みかけに応える、あの場面なんかにも、オクジュの「情けないという情の動き」を見てとってどうしようもなく心が揺さぶられてしまうのだろう。

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*1:1回目の鑑賞ではセリフは耳に残っていたもののどこで発せられたかまではわからず、2回目の鑑賞で確認してきた

「愛」の映画と「恋」の映画(濱口竜介と今泉力哉についてのメモ)

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濱口竜介監督の最新作『偶然と想像』がベルリン国際映画祭で最高賞に次ぐ審査員大賞(銀熊賞)を受賞!おめでたい!『寝ても覚めても』がカンヌで絶賛されながらも賞を得ることがなかったから、ついにハマグチが世界に認められた!という感慨にふけっている。

現時点での僕のオールタイムベストのひとつに、『PASSION』という映画がある。濱口監督が東京藝術大学大学院の修了作品として撮ってしまった奇跡的な映画。その映画のメインキャストである渋川清彦、占部房子、河井青葉が『偶然と想像』にも名を連ねていて、より一層期待と興奮が止まらないのだ。3つの短編からなる今回の作品は予告編*1からして傑作の薫りがただよっている。それは今までの作品ともちょっと違う雰囲気で、連作短編という試みも含め新たな実験的な側面もあるのだろうと思う。

以前、日本映画専門チャンネルで『PASSION』が放送されたときに録画していたので、通算4回目になるのだけどこの機会にまた再見してみた。何度観ても理性を失うくらいに惹かれてしまう。物語のなかに引きずり込まれていく自分の心を止めることができない。傑作というのは観るたびにこうも味わいが違うのかと、また今回も面食らってしまった。『PASSION』はまぎれもなく「愛」と「暴力」についての映画だ。「愛」と「暴力」はほとんど似た性質をもつものであるとも語られていると思う。自分の内から湧いてくる側面と、避けようもなく外からやってくる側面があること。いや、もしかしたら内から湧くものなんてないのかもしれない、外からくるものを受け入れるしかないのではないかという訴え。「愛」も「暴力」も、自分や他者を変えてしまいうる恐ろしい性質をもつ行動であること。それゆえにまた、このうえなく美しいのかもしれない、自分の心を止められずに盲目的に突き動かされてしまうのではないか、といったようなこと。「愛」と「暴力」の映画とは言いながらも、登場人物たちがみなその本質を知らないことがこの映画の面白さである。「愛とはなんだ」「暴力とは?」と惑いながら他者との対話のなかで自身と向き合っていく、非常に人間らしいむきだしのかっこ悪さが描写されているからこそとても魅力的なのだ。

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濱口竜介が「愛」についての映画を撮る監督だと『PASSION』を観て再認識する前に、今泉力哉監督は「恋」についての映画を撮る監督だなという思いがここ最近頭を巡っていた。4月9日にようやく劇場公開される『街の上で』のすばらしさをなんとか言葉にすべく思いあぐねるなかで、「恋」という言葉が浮かんできたのだ。「愛」と「恋」の違いなんて実感的にはまだ知らないのだけど、ひとつには他者も自分も変化してしまう暴力性を秘めた思いやる心、あるいは“避けようのないもの”を「愛」と呼び、一方で「恋」とはただ単に「好き」だという気持ちのこと、そのものを世界のうちから発見したときの純粋な喜びや驚きのこと、そのせいで世界が真新しく見えてくる現象のことを言うのだと思う。やっぱり愛というのはとても暴力的な性質を持っていて、その意味で恋とはまったく違うもののような印象を抱く。このことは、『PASSION』と『街の上で』、もしくは『寝ても覚めても』と『愛がなんだ』を見比べればわかるように思う。『愛がなんだ』というのは愛の映画である気がするものの、そのタイトルが端的に指すように愛を棄却していく側面ももつ。ただ単に「好き」であるという気持ち、生殖行為にも結婚にも結びつかない、社会性からは遠く隔絶された「ただ恋することの喜び」が狂気的なまでに推し進められた映画であると感じる。原作からしてそうだったか、そうでもないかは思い出せないが、「恋」の映画監督である今泉力哉が撮ったことで奇跡が起きている側面もあるだろう。濱口竜介が撮ればきっと「愛」の映画になっていたんじゃないだろうか。

今泉力哉監督の映画が「愛」の映画にならないのには、暴力やセックス描写の少なさ(というより『愛がなんだ』くらいにしかない)が大きく影響していると思う。そう思ったのは『PASSION』を観たからなのだけど。今泉監督は登場人物たちの身体的な接触を嫌う。触れずに、胸ぐらを掴んだりせずに感情を表現できるならそうしたいと思う監督であり、それは実人生での接触の少なさが反映されているものでもある(って言ってた)。これ以上は憶測になるので書くのをためらうが、きっと今泉監督自身が愛よりも恋のほうが好きな人、しっくりくる人なのだと思う。

『街の上で』がとんでもなくいい映画であるのは「恋」が映りまくっているからだ。カルチャーへの、あるいは街への。そしてもちろん他者への。「恋」というのはまた、「過程」のことでもあると思う。「愛」に変わる前の存在であること、行動に変わる前の原初的な想いであること、人をまなざすこと、片想い、要するに「ああ、世界は、日々はこんなにも美しいんだな」という発見のこと。

今泉力哉監督が『ユリイカ 近藤聡乃特集号』に寄せていた『A子さんの恋人』についてのテキストをメモしておく。

…恋愛や人間関係の、別れる、付き合う過程なんかもそうだ。今、私は自分の映画でも、結末なんてどうでもよくて、その過程を描くことに興味が出てきている。誰も見てくれない逡巡や心の葛藤の時間を観客や読者だけは見てくれている。それが創作物の魅力の一端(であり、もしくは全部)だと最近は強く思うのだ。 P61

先週食べたカルチャー(21年2月3週目)

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「湯に浸かったてたらさ、なんかずっと見られてるなぁって思って。もうずっと見てくんの。その人のほう見返してみても、まだ見てて。なんか付いてんのかなぁ?って不思議に思ってたりしたら、マスクつけてることに気づいて。マスクつけながら温泉浸かっててん」。そんな話に笑いを誘われたりしながら、近ごろは春の訪れを感じています。さいきんは人生で初めてくらい本をたくさん読めるようになって、イコール在宅勤務で家にこもるようになり自炊もして夜は酒を飲まずゆっくり読書か映画を観るようになり、それで思考のぐるぐるをある程度文章としても昇華することができていてとても好循環の生活ができているような気がする。と書いてしまうと少し不安にはなるのだが。ということで先週あたりに観た映画、演劇、お笑い、小説、ドラマの記録。


- 空気階段第4回単独LIVE『anna』
空気階段の単独を観るのは初めて。「踊り場」も熱心なリスナーではないので絶対観たいと思っていたわけではないのだけど、不思議な圧に押されて配信日に観た。

まずは驚きがあった。こんな演劇みたいに精巧につくりあげられた単独ライブが存在しえるんだという驚き。その次に感動。まるでひとつの街に生きる数多の浮浪者たちの生き様を切り取ったかのような、それが“ふたり”の芝居だけで生み出される至極のダイナミズム。そして根底にある、笑い、人生の可笑しみ。あまりの完成度に泣けてしまうコントではあるのだけど、やっぱりそこには圧倒的な“笑い”のたくましさが横たわっていて。ある人の人生の立ち行かなさが、また別の人の人生に(ときには水を差し、ときには光を与えながら)交わっていく世界の回り方、構成の妙にめちゃくちゃ心を乱された。

即DVDを買った。きっと何度も見返すことになるだろう映像になると思う。余談だけど、4月に公開される今泉力哉監督の『街の上で』とかなり似たところのある映画だと思っています。今年のベストカルチャーは「人と人が交差点で出会い、可笑しみの劇(コント/ドラマ)を繰り広げていく」この2作品にほぼ確しました。

 

- 今泉力哉『あの頃。』

少し前に試写で観たのでもう一度映画館で観ようと思ってますが。ハロオタではあるのだけどせいぜい10年くらい前に好きになりはじめたので(振り返るとあんがいながい)黄金期はお姉ちゃんが熱狂していた姿しかほぼ知らず、ゆえにホモソーシャルなファンダムの空間みたいなものに共感できる要素はひとつもなかったのだけど、結局どのジャンルなのかよくわからない今泉力哉的作風に押されながらとても面白く観た。

レコーディング室で罵倒される主人公の姿を扉越しに外から映す冒頭からよくて、それは部屋の“ポストに差し込まれた”あややのDVD→鑑賞して涙し、“部屋を飛び出していく”という、扉一枚で“圧迫感”と“開放”を、「推しとの出会い」をハイパードラマチックに切り取ってみせる演出のうまさにつながっている。あとはなんといっても終盤の思い切りがすごい。あの長い時間をかけて、少しペースダウンしながらも、ひとつの時間の終わりをフラットに捉える姿勢に感動した。詳しくはネタバレになるのであれだけど、ああいう映画の構成の仕方は今泉監督にしかできないと思う。全体的に目線がフラットですよね。それは今泉監督が特定のアイドルを推したことがないゆえの距離感であったり、それでも多分にあるアイドル/オタクへの興味・リスペクトであったり、ファンダムとの意識的な(不/)接触であったりにも通じる納得の態度だと感じる。『アイネクライネナハトムジーク』のときとかとも比べ、めちゃくちゃ商業映画との折り合いに巧みが増してきてると感じていて、今後もとても楽しみなんです。あといいのか悪いのか、長谷川白紙の劇伴が存在感ありすぎた(笑)。


- 西川美和『すばらしき世界』

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前作の『永い言い訳』で最高の擬似家族映画を見せてくれた西川美和監督の最新作。あれからはや4年強。ひとつの映画をつくりあげる時間と労力の量に驚かされるが、紡がれる物語の強度はリサーチと膨大な取材の賜物だろう。奇しくも『ヤクザと家族』という、ヤクザの生存権が消え失せたこの時代にカタギとして生きようとする男の姿を描く映画が2つ重なった2021年冬。あちらは20年という長いスパンで物語を描いていたのに比べて本作は13年服役したあとの「出所後」のみを描いているから、やはり厚みが違う。そしてその作劇のアプローチも、どこまでいっても家族や血縁に閉じていってしまう前者とは対照的にこちらは徹底的に血のつながらない他者との相互ケアのうえに成り立つ“すばらしき世界”を描こうとしていて好感が持てる。役所広司がまずはとてつもない。リアルすぎて思わず吹いてしまう芝居がいくつかある。そして仲野太賀は言わずもがな、六角精児、北村有起哉、ちょい役だけど田村健太郎も、脇を固める俳優陣が真に迫る芝居をしていて持っていかれた。

はて“すばらしき世界”とはいったいなんだろうと、観賞後に胸につっかえたものを各々が取り除いていくことになるだろう。見て見ぬふりをして世界に順応していくのが正しいのか、太賀のように一歩踏み込んでみるのがよいのか。ある意味純朴な主人公の荒唐無稽な生き様から、きっと多くのものを学べるはずだ。きっと順応と反発の間で生きていく可能性を、この映画は教えてくれていると思う。西川美和ケン・ローチに近づいてきた。

 

- 相米慎二『魚影の群れ』『風花』

ユーロスペース相米慎二特集上映。観たことがなかったやつと、大好きなやつを。相米の遺作である『風花』はなぜかわからないけどめちゃくちゃ惹かれるものがある。死と隣り合わせの主人公たちの哀愁がとても軽く描かれているところに惹かれているのか、それとも浅野忠信の酔っ払い演技のうまさにか、小泉今日子の落ち着きにか。行くあてがなく木の下に転がっているふたりが流浪の旅をする、その設定だけで、まぁ面白いには違いないのだよな。男女の彷徨を描きながらも決してロマンスに発展しかいかないところも、相米ってすげぇなと思うのです。

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- ナナ・クワメ・アジェイ=ブレニヤー『フライデー・ブラック』

新進気鋭のアフリカ系アメリカ人によって上梓された12の物語からなる短編集。装丁が最高にイカしてる。文体も、言葉のセンスも抜群で、取り上げられる黒人差別や資本主義社会、管理社会、不感症、セルフケアといった現代社会をとりまく主題がすっと入ってきてとても読みやすい。それでいてズドンとはらわたをえぐる読後感。とりわけ、BLM問題を物語に昇華した「フィンケルスティーン5」と、SF的な世界観のなかで感情が失われた人間の行く末が描かれていく「旧時代〈ジ・エラ〉」、ブラックフライデーにおけるショッピングモールを比喩ではなく“戦場”として直接描写した表題作「フライデー・ブラック」あたりがかなり刺激的だった。結論が出るような話ではない。ただ賽は投げられている。

フライデー・ブラック

フライデー・ブラック

 

 
- 瀬尾夏美『あわいゆくころーー陸前高田、震災後を生きる』

2月27日公開のドキュメンタリー映画『二重のまち/交代地のうたを編む』(小森はるか+瀬尾夏美)のレビューを書くため、瀬尾夏美さんの著書を読んだ。2011年4月に当時大学院生だった瀬尾さんは映像作家の小森はるかさんとともにボランティアで東北を訪れ、その後2012年に陸前高田に移り住んで創作活動を続けてきたかた。作家で、画家でもあり、東北では住人ではなくあくまでも旅人としての距離感を保ちながら風景と人々を記録してきた。

震災後から2018年3月までの歩行録(日記)が書かれたこちらの著書、とてもよかった。いろんな方向でめちゃくちゃよかった。まずひとつに、正確な「記録」としての側面。この10年でまったく震災に関わることがなく正直に言えば情報を調べる、思いを馳せるということすらほとんどできなかった自分にとっては、陸前高田が嵩上げ工事によって真っさらな土地のうえに新しいまちができていた激変や、そこに住む人々の心の移り変わりを捉えた文章はすべてが新鮮なものとして受け入れられた。そしてすばらしいところのもうひとつに、記録という「伝承」の側面がある。まがいなりにも書く仕事をしている自分にとって、「言葉」を扱うことの意義と可能性を感じられて学ぶことが多かった。瀬尾さん本人もインタビューで語ってることだが、ディスコミュニケーションに対処していく方法論、なかば“技術”とも呼べるようなものが“実践”されている、実用書としての側面もあるんだと思う。とても大事にしたい本。『二重のまち/交代地のうたを編む』(2/27公開)もすばらしくって、今年いちばん観てほしい映画です。

あわいゆくころ──陸前高田、震災後を生きる

あわいゆくころ──陸前高田、震災後を生きる

  • 作者:瀬尾夏美
  • 発売日: 2019/02/01
  • メディア: 単行本
 


- 大前粟生『おもろい以外いらんねん』

文藝2020冬号に掲載されていた中編小説。特に前半は芸人を目指す高校生の姿を青春小説的に見せながら、徐々に「お笑い」への批評的な視点が介入し、終盤には男らしさの解体にまで挑んでいくスペクタクル純文学。アイドルとお笑いを題材にした小説って、いまの時代感、流行りの投影でもあるのだろうけどめちゃくちゃ面白くて興味深い。きっといまの時代を物語として描くには、アイドルとお笑いが題材として最適なんだろうなと最近の文藝の作品(『推し、燃ゆ』、児玉雨子『誰にも奪われたくない』)を連続して読んだいま考えている。なぜ最適なのかというと、私たちがその構造・体制にときおり問題意識をもちながらも、アイドルとお笑いに心酔している、そこにしか救いを求めることができない時代に生きているからだと思うのだけど。「アイドルを推す」ことも「お笑いをみて笑う」ことも、私たちは常にそこに潜んでいるかもしれない「暴力」の存在に自覚的である必要がある。そんなことひとつも考えずに熱狂してきたあのときの自分たちと、暴力にすがるわたしたちの弱さに向き合いながら。

おもろい以外いらんねん

おもろい以外いらんねん

 

 

- 『イキウメの金輪町コレクション』乙プログラム(『輪廻TM』『ゴッド・セーブ・ザ・クイーン』『許さない十字路』『賽の河原で踊りまくる「亡霊」』)

初のイキウメ@東京芸術劇場シアターウエスト。空気階段を観て久しぶりにガチ演劇が観たくなったのと、あと枝優花監督が鑑賞ツイートしてたのを観てよし!行こうと思ってギリギリチケット買えた。映画化されている『太陽』、『散歩する侵略者』は観てたので、ずっと興味は抱いてたんですよね。今回は短編集ということもあって、たぶんとても見やすい内容だったんじゃなかろうかと思う。笑えるSF。面白かった。最後の一編なんかは、ちょっとまだよくわかってないんだけども。印象に残り続けると思う。

 

- 『俺の家の話』

毎回面白いなぁ面白いなぁと声に出しながら観ている。あと長州力のセリフぜんぶに腹抱えて笑ってる。中年兄妹とおじいちゃんの家族旅行がこんなにワクワクするドラマ、他にないでしょ。第5話は寿限無と大州の反抗期が同時に描かれていて、大州の反抗期は寿一と被るところがあって、寿限無の反抗期の鬱憤は寿一に矛先が向き、なんかまとめんのむずいけどとにかくすべて辻褄が合っていてリアリティラインが的確で、すごいすごいと言いながら観続けられるドラマだ。相変わらずマスク、能面、プロレスのマスクの使い方もびびりまくりの巧さだし。この抜群のストーリーテリングで介護やら親権やら血縁やらお金の問題やらが描かれるとなると、そりゃよだれ垂らしながら観てさらりとハッとしちゃう。


- 『にじいろカルテ』

岡田惠和の脚本の、ちょっと歪だけど圧倒的な優しさがある筆致に惹かれている。『ひよっこ』は見そびれて総集編しか見てないので、気づいたのは前クールの『姉ちゃんの恋人』からなんだけど。「人が話す場」をつくったり、相互ケアを描くことにとても意識的な脚本家だと思う。第5話の、自分を「普通の人」だと思って葛藤する太陽(北村匠海)の描写は、岡田惠和の新境地という気がする。これまではなんらかの強すぎる問題を抱えた人ばかりが描かれていた気がするので。ただ、普通の人なんていないんだよなってことが、やっぱり「人が話す場」の創出によってもたらされていく。


- 乗代雄介『旅する練習』

とても好きな小説でした。こういう作品こそうまく言葉にできればいいのだけど、いまの自分にはちょっと難しい。偉大すぎて。亜美の放ったある言葉がずっと思い起こされる。ずっと思い起こされたい。

旅する練習

旅する練習

 

 

- レゾ・チヘイーゼ『ルカじいさんと苗木』

昨年の今ごろにシネマヴェーラ渋谷で開催していた「ソヴィエト&ジョージア映画特集」。今年もやんないかなぁって昨日ふと思って調べてみたら、ちょうど昨日からまた始まっていた。ということで行った。

大大大大大傑作。世界にはまだこんなにも美しい映画があった!ちょっとよすぎてびっくりしちゃったな。今回のブログで挙げたカルチャー、まじでぜんぶバイブルにしたいほどの作品たちだらけでそろそろ語彙力も尽きてきた。雑多にカルチャーと接していると、あれと似たような題材だなみたいに感じることがたまにあって。本作はおじいちゃんとその孫が梨の木の苗木を求めて旅をする話だったんだけど、それはもう『旅する練習』と重ねて観ていた。ルカじいさんの分け隔てない最高な性格、言語の通じないアメリカ人に向かって果敢に気持ちを通していく姿勢、祖父から孫に継承されるグルジアの民謡、「音楽」で溶ける境界線、声と声の重なりのこれ以上ない歓び、記憶は失われていくということ、消さないためにまた語り直す・植え直す意思、ほんとうに大事なものを見極める選球眼。などなど、ルカじいさんと孫の旅路からとてつもなく多くのことを学んだ気がする。それはきっと、上に挙げたカルチャーと複合的に交わりながら。

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「人生を捧げる」ことのできなさ/『花束みたいな恋をした』のラフさvs『劇場』『推し、燃ゆ』の切実さ

麦くんのことを「ファッションサブカル好き」と揶揄する人を見るとイラだちを感じてしまう一方で、実は自分もそうだと思っている。そして自分自身もそうなんじゃないかと恐怖する。彼には、生きていくうえで小説も映画もお笑いも演劇も実際には必要ではなかった。パズドラも必要ではなかったけど、あの状況にはパズドラしか寄り添ってくれなかった(だけ)。イラストレーターにも、なれればうれしかっただろうけど、なれないことも甘んじて受け入れられた。ガスタンクは好きだった。でも今はもう見にいってないし、3時間越えの映像ファイルはもう何年も開いていないだろう。

麦くんのことを、「あるひとつのものに人生を捧げることができない人間」であると断言してみる。その対義語は、「それをするために生まれてきた人間」あるいは「運命」、もしくは「愛」や「執着」だとしてみる*1。「イチローは野球をするために生まれてきた人間だな」がその例文だとして。そういう言葉を耳にしたことがあるだろうし、誰かに対して思ったこともあるかもしれない。私は日々、誰かに対してそういう目線を向けている。

カルチャーを引き合いに出すとわかりやすいと思うのでサブカル映画にサブカル教養で対抗しようとしてみるが、『花束〜』の麦くんに対比される人物として、『劇場』の永田や『推し、燃ゆ』の主人公・あかりを挙げてみたい。彼らはどう見積もってみても、ファッションサブカルではないゴリゴリの表現者でありオタクであり、カルチャーを生の柱にしている人物だろう。『推し、燃ゆ』では「推しは背骨」と表現されるように、並走して生きていくことの切実さがその物語では語られる。

どちらの主人公も行きすぎてしまったあまり人生が崩壊していってしまうある意味での悲劇を辿る。が、そんな物語になぜある面では共感し、心を乱され、興奮してしまっていたのか、私は。と、『花束〜』を観たあとに急に思い出され、その答えまですぐにわかってしまった。

憧れているのだ。なりたいのだ。そういう、人生のすべてを捧げてまで好きになれる、もしくは執着かもしれないけど愛せる存在に出会うことに。しかし憧れながらも、自分は決してそうはなれないことを、もう悟ってしまっている。麦くんや絹ちゃんが好きなカルチャーが広範囲にわたるのも、(好き、であることには違いないのだが)天竺鼠の単独ライブをすっぽかしてしまうのにも、その所以がある。だから、一般的に4年も5年も付き合って同棲までして別れるのはかなり難しい判断だろうに、麦くんは少々の執着を見せながらも、結局きっぱりと別れてしまえた。好きだったけど、人生を捧げるほどじゃないよね、と言わんばかりに。決断力はある。

それが私たちの現実。なにも不幸なことではない。僕があるとき、『ファントム・スレッド*2という、人生を一方向に規定されていく映画に強い憧れを抱きながら、その数日前に観た『ヤンヤン 夏の想い出』に描かれる人生の多面的な展開性の豊かさのほうにこそ自分を強く重ねていたのには、理由があったのだといま気づいた。

天才と凡人という言葉にも似た、そうやって生きていくしかない私たちの現実を改めて突きつけてくる『花束みたいな恋をした』。そうやって考えると、今思えば坂元裕二作品には珍しい存在である『東京ラブストーリー』の赤名リカも、だから好きで、かっこいいと思えたんだと思う*3*4

それでも、僕は執着してみるけどね。

*1:あくまでも、「してみる」だけだと思ってほしい。

*2:2018年のベスト映画に選ぶほど大好きではあるが、絶対になれないからこその憧憬のまなざしがあっただろう。

*3:一方のカンチを、自分の凡人性と重ねて嫌悪したりしたのもその意味だろう。

*4:という、急に思い立って書いた雑記でした。

『花束みたいな恋をした』の世界に坂元裕二のドラマがあればどうなっていただろう

2018年1月16日。大学4回生の最後の冬だというのに僕はまだ就職活動をしていた。

それまでサボっていたというわけではなく、ただただ受けて落ちてを繰り返していた。深夜に梅田駅から高速バスで出発し、まだ空が薄明るい時間に東京駅八重洲口鍛冶橋駐車場に降り立つ。もう東京に来るのは最後かなとそのとき思っていた気がする。同日に2社の面接をうまくいれることができ、朝に1社目を受けにいく。会社に到着し、いざなわれた席に座り担当者を待った。胸の位置くらいにあるテーブルにノートパソコンを置き、腰の位置くらいにある椅子に座って黙々と仕事をする人々が見える。とてもおしゃれな空間だった。担当者がきて、うちの会社はこんな仕事をしています、という説明をしてもらう。企業のオウンドメディアを主につくっている、みたいな説明をされたように記憶している。あまり覚えていない。自分がなにをしたくてここにきたか、そのことを伝えたが、あまり反応はよくなかったように思う。しかしその日の夜に受けた2社目では、これが驚くほど受けいれられた。いま思えば漠然として空虚な夢だった気がするが、とにかく反応がよかった。ここで働くんだ、という予感が胸をざわめき立てる。うれしかった。うち、トイレにウォシュレットがないんだけど大丈夫?と聞かれ、冷えるのでそれは困ると答えたか、痔っぽいのでそれは困ると答えたか、ぜんぜん大丈夫です!と答えたか。まったくおぼろげな記憶だが、初出社の日にトイレにウォシュレットがついていたのを見て喜びを感じたのははっきり覚えている。心地いい場所だった。

その面接の日に東京にあるミニシアターの「ユーロスペース」で観たのがアキ・カウリスマキの『希望のかなた』だった。冗長なトーンに耐えきれずたぶんけっこう寝た。緊張から解き放たれて、かなり疲れていたからかもしれない。それでも映画の独特な空気感や孕むメッセージの一部分は覚えている。寝たにも関わらず、偉そうにもこんなツイートもしていた。

あなたが笑う未来さえあればそれでいい。なんでこんなことを書いたのかは例に漏れずまったく覚えてないけど、それを見返した2021年1月30日の僕は泣いている。よかったね。

* * *

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2017年1月17日に『カルテット』の放送が始まり、3月21日に最終話を迎えた。2018年1月10日に『anone』がスタートし、3月21日に最終話が放送された。遡れば2016年1月18日から3月21日には『いつかこの恋を思い出してきっと泣いてしまう』が月9枠で流れていた。

『花束みたいな恋をした』には数えきれないほどのサブカルチャーポップカルチャーの存在があるが、ただひとつ、あるはずなのに足りないものがあり、それは言うまでもなく坂元裕二脚本のドラマである。観ていないはずがない。『初恋と不倫』を読んでいないはずがない。『またここか』を観ていないはずがない。その当時兵庫に住んでいた僕が就活真っ只中の6月に就活の予定ではなく坂元裕二是枝裕和トークショーを観るために早稲田大学大隈記念講堂にまで足を運んだのに、彼らがそこにいないはずがない。「青春ゾンビ」を読んでいないはずがない。

『花束みたいな恋をした』の世界にもし坂元裕二のドラマがあったとして、もしくは実際にはあるし観ているけど描かれていないだけとして、そうすれば彼らの未来は変わっていただろうか。そんなことを夢想せずにはいられない。だっていつだってあのドラマの世界には、いつまでもわかりあえない私たちの哀しさと、対岸にいながらも空間と時間を共有していきどころを見つけていく登場人物たちの姿があったから。

答えはノーだろう。坂元裕二のドラマがあったとて、あのカップルは別れていた。なんとなくだが強い確信をもってそう思う。彼らを繋げたのはカルチャーだったけど、引き裂いたのもカルチャーだったと、空間を分かつあの本棚をみてそう感じたからだろうか。

ただひとつ言えるのは、これで終わりではないということだ。人生は続く。引き裂かれても、離れても、わかりあえないと心が悲鳴をあげても。人と人はいつかまた交差し、もしかしたら話をしはじめるかもしれない。その際に、「そういえば坂元裕二の『花束みたいな恋をした』って私たちの物語みたいだったよね」「いやぜんぜん違うでしょ」みたいな会話があったとしたら、わかりあえなかった日々もきっと笑いへと昇華される。