「人生を捧げる」ことのできなさ/『花束みたいな恋をした』のラフさvs『劇場』『推し、燃ゆ』の切実さ
麦くんのことを「ファッションサブカル好き」と揶揄する人を見るとイラだちを感じてしまう一方で、実は自分もそうだと思っている。そして自分自身もそうなんじゃないかと恐怖する。彼には、生きていくうえで小説も映画もお笑いも演劇も実際には必要ではなかった。パズドラも必要ではなかったけど、あの状況にはパズドラしか寄り添ってくれなかった(だけ)。イラストレーターにも、なれればうれしかっただろうけど、なれないことも甘んじて受け入れられた。ガスタンクは好きだった。でも今はもう見にいってないし、3時間越えの映像ファイルはもう何年も開いていないだろう。
麦くんのことを、「あるひとつのものに人生を捧げることができない人間」であると断言してみる。その対義語は、「それをするために生まれてきた人間」あるいは「運命」、もしくは「愛」や「執着」だとしてみる*1。「イチローは野球をするために生まれてきた人間だな」がその例文だとして。そういう言葉を耳にしたことがあるだろうし、誰かに対して思ったこともあるかもしれない。私は日々、誰かに対してそういう目線を向けている。
カルチャーを引き合いに出すとわかりやすいと思うのでサブカル映画にサブカル教養で対抗しようとしてみるが、『花束〜』の麦くんに対比される人物として、『劇場』の永田や『推し、燃ゆ』の主人公・あかりを挙げてみたい。彼らはどう見積もってみても、ファッションサブカルではないゴリゴリの表現者でありオタクであり、カルチャーを生の柱にしている人物だろう。『推し、燃ゆ』では「推しは背骨」と表現されるように、並走して生きていくことの切実さがその物語では語られる。
どちらの主人公も行きすぎてしまったあまり人生が崩壊していってしまうある意味での悲劇を辿る。が、そんな物語になぜある面では共感し、心を乱され、興奮してしまっていたのか、私は。と、『花束〜』を観たあとに急に思い出され、その答えまですぐにわかってしまった。
憧れているのだ。なりたいのだ。そういう、人生のすべてを捧げてまで好きになれる、もしくは執着かもしれないけど愛せる存在に出会うことに。しかし憧れながらも、自分は決してそうはなれないことを、もう悟ってしまっている。麦くんや絹ちゃんが好きなカルチャーが広範囲にわたるのも、(好き、であることには違いないのだが)天竺鼠の単独ライブをすっぽかしてしまうのにも、その所以がある。だから、一般的に4年も5年も付き合って同棲までして別れるのはかなり難しい判断だろうに、麦くんは少々の執着を見せながらも、結局きっぱりと別れてしまえた。好きだったけど、人生を捧げるほどじゃないよね、と言わんばかりに。決断力はある。
それが私たちの現実。なにも不幸なことではない。僕があるとき、『ファントム・スレッド』*2という、人生を一方向に規定されていく映画に強い憧れを抱きながら、その数日前に観た『ヤンヤン 夏の想い出』に描かれる人生の多面的な展開性の豊かさのほうにこそ自分を強く重ねていたのには、理由があったのだといま気づいた。
天才と凡人という言葉にも似た、そうやって生きていくしかない私たちの現実を改めて突きつけてくる『花束みたいな恋をした』。そうやって考えると、今思えば坂元裕二作品には珍しい存在である『東京ラブストーリー』の赤名リカも、だから好きで、かっこいいと思えたんだと思う*3。*4
それでも、僕は執着してみるけどね。