映画の中に流れる時間が好きだ。それはだいたい、自分の場合ゆったりしすぎているか緊張感に溢れているかのどっちか。『サウンド・オブ・メタル』という映画で、ある日突然 耳の聴こえが悪くなってしまったドラマーの男が、聴覚障がいの少年と出会う。絶望の果て、荒んだ心に希望の兆しを与えてくれるのは、その少年との束の間の交流。滑り台で交わされるそのコミュニケーションには、もちろん言語はない。音もない。でも、滑り台をドラムに見立てて主人公がトコトコ叩くことで振動は少年に伝わり、それとともにもっと大きな何かが人の間を伝導した瞬間が映っていた。そういう瞬間が好きで映画を見ている。
何かが伝わってしまうときに生まれる二者間の緊張感、あるいは何もかもわかりあえないときの、離れすぎて緩みきった糸のようなもの。後者については『夏時間』という映画でいちばんに感じた気がする。映画に流れる時間というのは、現実に流れる時間と微妙に違うか、あるいは現実が濃縮・拡張されたものであるがゆえに、暗闇の空間から出た瞬間にその豊かな時間のことを忘れてしまう運命にあるのがなんとも哀しい。映像は思い出せても時間のことを思い出すのはとても難しいから「映画を観ていたその時間がすごくよかった、幸せだった」と言うほかないのだけれど、特に好きだった20の作品とともにその時間のよさ具合を、鑑賞してからかなり時間が経過した今の自分の視座から言語化してみたいと思う。
20.土井裕泰『花束みたいな恋をした』坂元裕二は「言葉」の人であり、これは紛れもなく坂元裕二の映画だ。この映画では、麦と絹の心の一致もすれ違いも、非言語的な映像ではなく会話やモノローグなどで言葉にされる。しかしそのすべてが軽薄にしか聞こえなかったのはなぜなのか、ずっと考えていた。坂元裕二はこのふたりのこと、絶対好きじゃないと思う。でも嫌いでもないと思う。彼らの軽薄さが幾度となく自分と重なり合った瞬間にゾッとした。ゾッとしつつも、救われたのかもしれない。
19.アミール・“クエストラブ”・トンプソン『サマー・オブ・ソウル(あるいは、革命がテレビ放映されなかった時)』知らない人たちが歌う歌を聴いている。ほんと誰も見たことない、聴いたこともない。それなのに響いてしまう魂の歌唱は、「革命」と呼ぶにふさわしい圧倒的な熱量を携えていた。
18.ジェーン・カンピオン『パワー・オブ・ザ・ドッグ』偽りの紐帯を取っ掛かりにして、あらゆる側面から男性性なるものにアプローチしている、現代的なカウボーイ映画であると思う。揺らぎ続けるカンバーバッチとコディ・スミット=マクフィーが美しい。
17.カーロ・ミラベラ=デイビス『Swallow/スワロウ』「飲み込む」という日本語には、肯くとか受け入れるという意味もある。この映画がまず面白いのは、ビー玉やイヤリングといった物品を次々と口にやり飲み込んでいく主人公の姿が、クソ夫の言うがままになんでもかんでも受け入れざるを得ない状況を表出していることだ。受け入れるしかないから飲み込む。それは彼女にとっての紛れもない処世術。マチズモの恐怖が美しすぎる映像とともに綴られている。
16.吉田大八『騙し絵の牙』出版社の権力闘争の描写は結局エンタメ的なデコレーションでしかなく、この映画が真に描くのはひとりの編集者が世界と対峙し、日常に歓びを見つけていくまでのバイオリズムだ。それは冒頭1分ほどの映像が示す通り。徹底徹尾、松岡茉優の映画。松岡茉優に合う映画が多いのか、松岡茉優が映画を飲み込んでしまうのか。
15.斎藤久志『草の響き』映画芸術で荒井晴彦氏が、和雄(東出昌大)の青年時代のように見えるから青年パートを導入に持ってこないでほしかったと言ってたけど、それでええやんけと思う次第。ゴダールともロメールとも違う女1男2のトライアングルがふたつできて、どうしようもなく結びついてしまったのがあの映画だ。夜の闇のなか3人が並走する場面は、和雄が青年たちの未来であるかもしれないから哀しくも微笑ましかった。原作では「ユー・キャント・キャッチ・ミー」と宣言して走り去っていった男が、人の心には触れられないとわかりながらも触れようとする、その不器用な衝動に心が動かされた。
14.ホン・サンス『逃げた女』冒頭が特に好きだ。友人の家を探してふらついていると後ろからその友人が声をかけてくる。その髪型変ね、なんて言ったその次のセリフでは、でも似合ってるよ、なんて言ったりする。お酒はあんまり…なんて言った次の場面ではその人の顔は真っ赤だ。なんてチグハグで愛おしいんだろう。キム・ミニが発する「夫が言うには……」というミルクボーイ的言い回しが彼女の語彙を剥奪しているのも微笑ましかったけど、明らかに何か芯を見つけたような最後の顔もまた綺麗だった。
13.横浜聡子『いとみち』駒井蓮の発話のたどたどしさ。言葉にならない感情があるから彼女は三味線を鳴らしてみた。あなたの声が聴こえないからもっと熱心に聴こうとしてみた。共通言語がない世界で生きる私たちのお守りみたいな映画。
12.濱口竜介『偶然と想像』古川琴音が発する「いまきたみち引き返してもらっていいですか」を号令のようにして、みんながみんな、きたみち引き返しあの人に振り返って歩いた道歩き直して。ぜんぶ偶然でしかないのに、それは必然となって、他の取りこぼしたものは想像で補完する。第1話の度重なる偶然のいたずら、第2話のメールを送るまでの必然、第3話の想像のエチュード。偶然と必然と想像からなる、忘れられない一日の連なり。身体的接触よりも言語的交感のほうをエロティックに撮る濱口竜介。ただただ話が面白い。
11.藤元明緒『海辺の彼女たち』技能実習制度を利用して日本に出稼ぎに来た3人のベトナム人女性が主人公。彼女たち同士の距離感とほとんど同じめちゃくちゃ近い位置にカメラマンがいて、その切迫した映像のことが強く心に残っている。嫌な日本人に怒られながら、ふたりがひとりを庇おうとする場面とかの、日本映画にありがちな作為的な感じの全くないリアリティとかもはやドキュメンタリーみたい。政治批判に振り切らないのも絶妙で、とにかく表情を捉えようとしていたのがよかったと思う。3人の女優がほんと素晴らしい。
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10.エリザ・ヒットマン『17歳の瞳に映る世界』『海辺の彼女たち』との共時性を感じる。希望を失った拳は自らの腹に打ちつけられた。あるいはその手は、男性の性的搾取の恰好の的となった。再び手が開かれ、なんども手と手が繋がれるまでを描くこの映画が、唯一捉えられなかった赤子の手。ただただ世界は残酷であるけど、まだひとりじゃない。
9.沖田修一『子供はわかってあげない』 田島列島の漫画には独特のリズムがあると思っている。それは、セリフに加えフキダシの外に書かれた小さく軽やかなテキストによって実現されている。沖田修一の映画にはリズムなんてまったくない。現実の時間に溶け合ったようなマイペースな映像が流れている。これは沖田監督の映画だから田島漫画のリズムは再現できない。でも美波ともじくんの蛇行する掛け合いとか、美波の友だち役の湯川ひなさんが発する「アデュー」という挨拶、もちろん先生モノマネの「なっ」も含めてまた新たなテンポが生まれてしまった瞬間に心をときめかせた。これぞ好きな時間、過ごしていてしあわせな時間。
8.リドリー・スコット『最後の決闘裁判』ラブロマンス、時代劇アクション、ミステリー、とさまざまなジャンルを横断する映画でありながら、最終的に大いなる闇がジャンルのエンタメ性を覆い尽くしてしまうのがすごい。終盤はセカンドレイプが繰り返されるただただ絶望の映像でしかなく〈最後の決闘裁判〉なるものも、どうせどっちが死んでもしんどいんだからお前らいいから早く決着つけろよと思わざるを得ない展開。ジャンルの転倒、馬の転倒、息子の転倒……終盤の転倒劇は、男性優位が転倒する予感だけをひとまずは示す。マット・デイモン&ベン・アフレックの脚本(&ニコール・ホロフセナー)、監督はリドリー・スコットであり、おじさんたちがこういう映画を撮ってくれるのはうれしい。
7.ダリウス・マーダー『サウンド・オブ・メタル 〜聞こえるということ〜』冒頭に書いたこと以外のことを言うならばやはり終わり方の素晴らしさに尽きるのだけど、それはさすがにネタバレになるので伏せる。どれもそうだけど、この映画ほど映画館で観ることに意味がある作品はないと思う。耳はち切れそうになるほどの音のうるささとかを体感してほしい。
6.岨手由貴子『あのこは貴族』門脇麦が高良健吾に初対面する場面の明らかに一目惚れしてる目の感じとかまずめちゃくちゃかわいいのだけど、そう思ってしまうのは彼女のことを舐めてたからであって、いちばんカッコよかったのは終盤の自立に向かう一連だった。6車線くらい挟んだ向こう側の歩道にいるふたり組と手を振り合うシーンとか、ふだん声が小さい彼女が大声で水原希子を呼び止める場面とか、ボーダーを飛び越えていく感じがひたすら気持ちいい。上流階級を垣間見る異世界ものとしても面白いけど、実は此方と彼方は異世界ではないのかもしれないというオチも秀逸。鑑賞時はラストの解釈を間違えていたみたいだけど、あの笑顔は生きていることの証明に他ならなかった。
5.首藤凛『ひらいて』コミュニケーションのアプローチとして、山田杏奈の行動は最悪で最高である。最悪な部分は、同じ属性の萩原聖人が体現しているとおり。最高の場面もまた、萩原聖人がかまぼこと包丁を持ってきたところで、衝動的に山田杏奈がビンタしたシーンに該当するだろうか。この最高具合を言語化するのがめちゃくちゃ難しいのだけど…。とにかく包丁が出てきた瞬間に、それは誰かから血が出るための道具だと思ってしまった*1。でも、ビンタ。自分勝手が世界を救うこともある。その強さってなんか憧れちゃう。芋生悠さんは今後素晴らしい映画にしか出てほしくない。
4.ユン・ダンビ『夏時間』弟に盛大に八つ当たりして泣かせてしまって、そのやり過ぎた具合に哀しくなって自分も泣いてしまって。おじいちゃんの家で過ごすゆるやかな夏の時間に、思い出すことのない情けない瞬間がたくさん詰まっていて、ぜんぶがなぜだかあのときの自分には心に沁みた。このとてつもない何気なさ、しかし心の中ではいろんなことが渦巻いている愛おしい映画について、この愛おしさをわかる人がいるといいなと無邪気にも望んでしまう。
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3.今泉力哉『街の上で』2019年10月13日に初めてこの映画を映画祭で見て、1年以上ずっとこの映画のことを考えていた期間がある。だから衝動的に今泉監督にDMして会ってみて、あれこれ聴いてみた時間もあったことがもはや懐かしい。なぜそんなことができたのかいまの自分には理解できないけど、それこそが『街の上で』が描き出す、巻き込み巻き込まれる魔法の時間によるものなんだと思う。「まだ時間あります?明日早いですか?」から始まる関係があるのもまた人生のいたずら。
2.小森はるか+瀬尾夏美『二重のまち/交代地のうたを編む』東日本大地震に縁遠い20歳前後の若者が岩手県陸前高田市を訪れ被災者に被災体験を聴いて、その話を今度は自分の言葉で語り直すまでを追うドキュメンタリー。瀬尾さんの著書も熟読したし、都写美で開催中の展示(2019年に台風被害に遭った宮城県伊具郡丸森町の被災と復旧の語り継ぎ)にも行って、このユニットの活動には強く賛同している。その一方で、『二重のまち』を手放しで絶賛していたときに会社の同僚に指摘された「被災体験を語らせるのは暴力的ではないか」「2週間はあまりに短いと思う」という意見もずっと胸につかえてきた。また違うドキュメンタリーだけど、トランスジェンダーの7歳の子どもを描いた『リトル・ガール』を観てパンフレットを読んだときに、映画執筆家の児玉美月さんが「マイノリティ属性の個人が、マジョリティ属性の大多数の「学び」や「気付き」のために(も)、その身体を、生活を、人生を曝すこと……。そこには受容や承認などのポジティブな効能だけでなく、必ずマイノリティ属性側に「傷つき」があり、非均衡な構造的力学が働いている。」と語っていて、そこでまた考えが改まった。改めて本作に立ち返ると、小森監督のアプローチはかなり適切だと感じる。物語をつくるために過度に協力者たちの生活を映すことはないし、やはりこの映画はあくまでも4人の若者を中心に据えている。2週間という短さに、4人が、そして観客がどう向き合うのかというのは、彼女たちの語り直しから各々に受け継がれていく命題だ。
1.濱口竜介『ドライブ・マイ・カー』
濱口竜介が実際に製作現場で実践しているワークショップや本読みという「準備」、あるいは演劇という「本番」を映画の中にそのまま取り込んでしまう『ハッピーアワー』や本作は、「映画をつくることの意味」みたいなものも含めていろんな文脈が重層的に折り重なりすぎて並のボキャブラリーではそのよさを言語化するのが難しいのだけど、とかく終盤の岡田将生から発せられる言葉には心臓が飛び出るほど心拍数が上がる実感があったし、三浦透子と犬が映るショットの強度にはまんまと感動した。ストーリー構成としては「一度壊れたものに、もう一度正面から向き合い、設計し直す」という濱口映画のいつものテーマの変奏でしかないのだけど、この映画は尋常じゃなくハイコンテクストであるのがやはり魅力的なのだろうか。その複雑さを、観ていたあの瞬間だけは感覚的に「わかる」。わかっていた。時間と心象が3時間かけて徐々に降り積もり、やがて心の奥深くの感情が抉り取られる。コミュニケーションはこうやって時間をかけて育んでいくしかないと身に沁みる体験。
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- ドライブ・マイ・カー
- 二重のまち/交代地のうたを編む
- 街の上で
- 夏時間
- ひらいて
- あのこは貴族
- サウンド・オブ・メタル 〜聞こえるということ〜
- 最後の決闘裁判
- 子供はわかってあげない
- 17歳の瞳に映る世界
- 海辺の彼女たち
- 偶然と想像
- いとみち
- 逃げた女
- 草の響き
- 騙し絵の牙
- Swallow/スワロウ
- パワー・オブ・ザ・ドッグ
- サマー・オブ・ソウル(あるいは、革命がテレビ放映されなかった時)
- 花束みたいな恋をした
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コロナ禍の昨年と比べても新作映画の鑑賞本数が減ってしまった今年だったけど、代わりに素晴らしい特集上映にたくさん行けた一年だった気がする。そのあたりについては、よかったドラマ、演劇、小説などとともにまた違うエントリーに記したい。昨年のベスト記事に書いた今年の目標を幸いにも実現してしまったので、2022年はどうしたものか。ブログも含めて映画評をあまり書けない一年だったからそれを改善したいのと、好きだと思った映画にインタビューや批評で存分に関わりたい。5〜60年代の日本映画をもっと夢中に貪りたいのと、フランス映画に詳しくなりたい。来年もいい映画に出会えますように。杉田協士『春原さんのうた』、松居大悟『ちょっと思い出しただけ』は傑作なのでぜひ。
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