縞馬は青い

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映画とか、好きなもの

“情けない”という、愛おしい情動の顕れ/ユン・ダンビ『夏時間』

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子どものころの夏休みというのは、お昼ごはんを食べたら無性にうとうとしてきて昼寝して、気づいたら夕方になっていた。起きたら夜ごはんが用意されていて、それを平らげてしまったらもう瞬く間に夜はふけ、昼寝と暑さのせいで眠くならないものの布団を被ってしまえばすぐに朝がやってきた。食べる、寝る、食べる、寝るの日々の繰り返しのなか。ときには親に腹を立て、兄弟と小競り合いの喧嘩をし、それだけのことに心が持っていかれた。狭い世界、平凡な時間だったと今になっては思う。それでも僕は、『夏時間』という映画を観てそのころを無限に思い出すなかで、“郷愁”と呼ぶにはあまりにもなんてことない、単純な日々の愛おしさを想った。

原題は『姉弟の夏の夜』(めちゃくちゃいい!!)、韓国のユン・ダンビ監督による初長編映画となった『夏時間』は、ある姉と弟とその父親、彼女たち3人が夏休みのあいだおじいちゃんの家に転がりこむところからはじまる物語だ。とにかくめちゃくちゃいい映画なのだけど、困ったもんで、そのよさについて正確に言葉にするのは人生を語ることと同じくらい難しいと感じている。でも記録しておかないとポロポロとこぼれ落ちてしまう大切な時間や感情がたくさん描かれていたから、無理をしてでも、ちょっとしっくりこなくても何かを書いておく必要があると思った。「情けない」という印象的なセリフをもとに、いくつかのシークエンスを辿ってみたい。本作はひとつの側面として人の「情けなさ」を描いている映画だと思っている。

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「情けない」なんて言葉をふだん日常生活で使うことがないからだと思う、本作で3度発せられるそれが強く印象に残ったのだ*1。姉と一緒の部屋で寝ようとしたら軽くあしらわれてしまう場面で、弟・ドンジュが発する「情けない 勝手にしろ」が1度目。小学校の低学年くらいの子どもがいきなりそんな言葉を発するのだからちょっと驚いた。子どもに大人っぽい言葉を語らせるということがまったくない誠実な本作においては少し浮いた言葉にも感じる場面だけど、韓国では一般的に使われる言い回しなのだろうか。続いて2度目および3度目は、「情けない 踊ってもスマートフォンはもらえないんだから」「お前のほうが情けない」と姉弟が洗面台あたりで言い合う場面にあった。この周辺の姉・オクジュの心の動き、その描写がとんでもなく緻密だったから、詳しく書き記しておきたいと思う。

オクジュは二重の整形をしたいとある日ふと思った。でももちろんお金がないから父親にせびりにいく。「70万ウォンほしい」といきなり娘にそう言われた父は驚き、「何に使うんだ」と問う。正直に「二重にしたい」と応えると、父親はふーっと息を吐き、止めていた作業(勉強)の手を無言のまま動かし始めるのだった。妊娠でもしたんじゃないのか、と思ったのか、そんなことか…と思ったのか。言葉のない演技のなかで父の心情が雄弁に語られている場面だ。たしかその次の次くらいの場面でおじいちゃんの誕生日会が催され、「柄にもなく祖父にプレゼントを渡すオクジュ」という描写がなされる。前の場面のことを考えると、おじいちゃんからお金をもらうために媚を売っている、と受け取れるような。というかたぶんそうだ。だから、ドンジュが脚長ダンスみたいなのをしてみんなで盛り上がっているときにオクジュだけ笑ってないし、そんなことをしてもスマートフォンはもらえないとドンジュに苦言を呈すのだった。ドンジュからしたら、お姉ちゃん急になんで怒ってんの?って感じだろう。リアルだ。

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それでもオクジュは頼もうと思ったのだろう、その夜に階段を降りて祖父に話しかけにいこうとすると、ソファに座って音楽を聴きながらこの上なくしあわせな笑みを浮かべる祖父を目撃することになる。オクジュは一瞬立ち尽くし、踵を返し、階段に座りこんだ。このシークエンスの丁寧な描写が、「オクジュの“情けなさ”」をとてもうまく映画のうちに見出していたと思う。さっき自分が弟に発した言葉が、そのまま突き刺さってしまったのだろう。プレゼントをあげて機嫌を取ったからって、見返りがあるわけではない。わかっているのにそうしてしまうことの情けなさ。黙って母に会いにいった弟を尋常じゃないほど怒りつけて泣かせてしまう場面のオクジュの表情も、非常に情けない感じが伝わってきて泣けてしまった。

おじいちゃんは介護がないと生きるのが難しいし、お父さんは事業に失敗して偽物のナイキを売っていて、叔母さんは離婚寸前でお酒にぶつかっていく。ほんと情けない人しか出てこない映画だ。しかしこの「情けない」という人間の状態こそが、この映画のいちばんの輝きなんじゃないだろうか、なんてことを思ったりする。

『夏時間』という映画には、情けが“ない”という状態がそこに“ある”ものとしてずっと画面に映っている。そこには「情け“ない”」という言葉の見た目に反してたしかに情の“動き”、情動たるものがあられもなくあらわになっていて、それがすなわち本作の豊かさの一端を担っているものなのだと思う。だからたとえば、オクジュが靴を売りに家を出ていくときに弟からトマトをもらい、祖父の微笑みかけに応える、あの場面なんかにも、オクジュの「情けないという情の動き」を見てとってどうしようもなく心が揺さぶられてしまうのだろう。

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*1:1回目の鑑賞ではセリフは耳に残っていたもののどこで発せられたかまではわからず、2回目の鑑賞で確認してきた