縞馬は青い

縞馬は青い

映画とかドラマとか、好きなもの

境界線を溶かす「音楽」という魔法ーー映画『さよならくちびる』で反復される“不在”と“存在”の意味

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「一緒に音楽やらない?」

そういきなり声をかけるハルと、彼女がつくったカレーを食べて涙を流すレオ。あるいは楽屋の椅子を蹴っ飛ばすシマまで。本作が特異的なのは、常に「行動」が先立っていることだ。彼女たち3人の性格や人物背景、生い立ちを知らせることなく、すべてを「行動」によって物語っていくという方法をとっていること。人物の性格や感情を事細かに言葉で説明してしまう作劇がある一方で、このように「行動」が先行する映画は、われわれ観客の心が入り込む“スキ”に満ちた映画として、人を選びながらも刺さる人にはとことん刺さってしまうものになりうる。そんな大きな可能性を秘めつつ、加えて本作は、「バカみたいでなにが悪い」とレオが度々発するように、「感情」に身をまかせて「行動」することをハルをはじめとした彼女たち3人が徐々に肯定していく映画であるからこそ、非常に効果的にこの演出が機能していると言えるだろう。それはいったいどういうことか。“不在”と“存在”の反復的所作、あるいは「感情」と「音楽」が境界を徐々に溶かしていく物語として、映画『さよならくちびる』を見てみる。

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消えていた境界がある日突然、目の前に現れる

厚さは異なれど、人と人の間には必ず「境界」というものがある。そして映画はときに、それを超えたり超えなかったり、「超えてはいけない一線」を視覚的に表現したりして、その両側に立つ人びとの機微を描いてきた*1。では、本作において境界はどのように描かれているのか。


最も印象深くその“超えられない一線”が現前したのは、コインランドリーの駐車場でのシーン。コンクリートに小さなスコップを打ちつけるレオという名の女の子に、ハルは気になって声をかけてみるのだけど、「お父さんは好き?」と何気ない質問を投げかけたあと、彼女たちはどうなってしまったか。駐車場に引かれた白線もかなり示唆的だが、そこではハルと女の子(あるいはハルとレオ)の間にある「超えられない一線」の存在が浮き彫りになる。この場面においてハルは2度タバコを吸おうとして結局やめるという細かな動きを見せているのだけど、思い返してみると同じような場面が過去に存在していたことに気づくかもしれない。


それはハルがレオにはじめて声をかけたあの時。「一緒に音楽やらない?」と言って、返事がなくて、吸いかけたタバコを箱に戻し、「やっぱ忘れて」と去っていくあのシーンが、まったく似たような構造で撮られているのだ。あぁふたりの間には超えられない一線があるのだなと、そう思ったのもつかの間、しかし次の場面ではハルの家でレオとギターの練習をはじめているふたりの姿が映しだされる。


みんなが絶賛する本作の映画的「省略」。それについてはいろいろな場面を挙げられるのだろうけど、僕はこのシーンの「省略」に激しく胸を打たれてしまった。あんな出会い方をしておきながら、はじめて会話をする、であるとか、部屋の敷居をまたぐ、といったような越境行為を描かずして、まるで境界など初めから存在していなかったかのようにそこに“いる”ふたりを描写してみせる。越境のアイコンみたいなカレーという食べ物が出てくるのはもはや言うまでもない感じのあれなのだけど、そこで涙を流してハルに頭を預けるレオを見ていると、「もうここで終わっていいんじゃないの?」という気分にすらなる。だって境界はもう超えているんだもの。同じようにしてシマも突然ふたりの前に姿を現すことになるわけだが、この3人の出会いから拳を高く突き上げたあの瞬間までを見て、境界線なんか無いなと安心してしまうのはやっぱり違う。なぜならこの映画は、その境界を「省略」していたに過ぎないから。子供時代のレオに出会ったかのようにも受け取れるコインランドリーのあの場面のように、ある日突然、「超えられない一線」は目の前に姿をあらわすことになる。

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“不在”と“存在”の反復によって境界は曖昧に、そして「音楽」と「感情」が境界を溶かしていく

そうして、超えられない一線があったりなかったりするのに加え、「行動」のなかでも“不在”と“存在”の繰り返しが際立つ本作。レオはすぐに男についていき、ハルも途中で一瞬姿を消す。ライブ会場で欠けたひとりを待つシーンが2度挿入されたり、車から消えたと思ったら突然戻ってきたりするなど、そうした行動の反復がある種、この映画の原動力になっているのは間違いない。ではこの反復が何を表そうとしているのかと言えば、それは境界の“曖昧さ”なのだろうと思う。いつでも出ていけるのと同じく、いつでも戻ってこれる。車内禁煙、車内飲食禁止、そしてユニット内恋愛禁止。そうやって線(不在)を引きながらも、すぐに破ってみせる(存在する)彼女たちの姿をみると、きれいな三角形をした恋愛のイザコザも、もはやどうでもいいように思えてくる。キスだって、簡単にできてしまうんだ。

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それでも境界は曖昧になっているだけで、やはり完全に消えることはない。境界を取っ払う決め手となるもの。本作が「音楽映画」として素晴らしいのは、ここに「音楽」という飛び道具を使用できたことだ。こぼれ落ちそうになる言葉とメロディを拾い上げて歌を紡いだ“ハルレオ”の音楽は、同じ想いを抱えるリスナーの心に届いていく。彼女たちには歌を歌う理由があって、それは聴き手である私たちが生きる理由とも相似形を成しているのだと、気づかせてくれる。そして歌い手と聴き手の間にある境界は、一瞬で溶けていく。

誰にだって訳があって
今を生きて
私にだって訳があって
こんな歌を歌う
全部わかって欲しい訳じゃないけどさ
そういう事だって 言いたいだけ

ーー「誰にだって訳がある」

ハルレオの奏でる音楽を、ひとつのイヤホンで大事に大事に受け止めるガールとガール。あの名もなき少女たちの存在は、言うまでもなく本作の重要な位置を占めるもの。レオにサインを書いてもらう時間が「省略」されているのは、彼女たちとの“音楽での交流”が、ハルレオと彼女たちとの強い連帯感をつくりあげてきたことを強調するためだろう。音楽には何もかもを超える力がある。そしてそれは、会場にいるファンが大熱唱することによって、ハルレオにも跳ね返ってきた。

この歌はどこへも届かない
きっと 空に消えていくだけ

さよならくちびる
それでも まだ 君に 心が叫ぶの 離れたくないよと
さよならくちびる
あふれそうな言葉を 慌てて たばこに火をつけ 塞いだ

ーー「さよならくちびる」

一度さよならをしても、また戻ってくることはできる。「感情」の赴くまま、音楽を奏で、歌を歌い、行動すること。またスタート地点に戻っただけで、これからいろんな苦労が待ち受けているかもしれないけれど、それでも私たちには音楽がある。そんな連帯感に包まれた清々しいラストカットが、きっとスクリーン越しに観客の心へと届くことだろう。

退屈な日々がこんなにも
激しく回ってる 旅はまだ続く
根拠もない 足跡もない
紡いだ言葉もそれほどないけれど
進んで行こう きっとこの先も
嵐は必ず来るが大丈夫さ

ーー「たちまち嵐」

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三役の見事なアンサンブル

余談。この映画を語るうえで、トライアングルを形成した門脇麦小松菜奈成田凌の演技のことを無視することはできない。ここ2年で3度も共演映画がある門脇麦成田凌の信頼関係によるところなのか、徐々に髪が短くなっていく小松菜奈の神々しさによるところなのか、あるいは「行動」から「感情」を透かす魅力的な演出のおかげなのか、とにかくとってもいいんだ。笑顔から一転、カレーを食べて涙する小松菜奈とか、キスを拒む成田凌のエロい身のこなしとか、2ミリくらいの目と口元の変化だけで感情を表現する門脇麦の演技とか、ずっと何かすごいものを見せられている感じがする映画だ。なんとなく記憶に残っててDVDを買ったとしたら必ずリピートするだろうなと思うシーンがあって、それは大阪・天満のレコード屋の場面なのだけど。バックに流れる音楽を含め、まるで歌みたいなシークエンスだなと無性に感じた。セリフ一つひとつが軽やかで、とてもきれいに撮られている。店を出たあと小松菜奈が大げさな動きを見せるとこも含め、たぶん何度か見返すだろうな。いやぁ、おもしろかったなぁ。

 


【公式】『さよならくちびる』5.31(金)公開/本予告

 

*1:ここまでは塩田明彦監督著『映画術 その演出はなぜ心をつかむのか』の完全なる受け売りなのですが…