縞馬は青い

縞馬は青い

映画とかドラマとか、好きなもの

世界が鳴ってるーー抑圧と開放の映画『蜜蜂と遠雷』

 

「音楽になったね」

耳をすましてみると、外でポチャンと音がした。なんだか雨が降ってきたみたい。その音に合わせて鍵盤を一音、また一音とはじいてみる。すると心地のいいリズムが、私とお母さんの心が高鳴り出す瞬間を捉える。

いつしか一音は連続して音楽になって、ピアノと、そして音楽と一体化した私たちは、広い世界へと羽ばたいていく。

音楽になったねーー。

私たちはいま、世界と一緒になって鳴っている。

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なんて美しい映像なんだ、と思ってボロボロと涙があふれた場面。私たちは音楽を通じて世界と、人と、つながっている。映画が内包するそうしたテーマを、なんともかわいらしく、原体験のごとき妖艶さを伴って描きだした、魔法のような時間。

「あなたが世界を鳴らすのよ」と、お母さんは娘にささやく。あのときの母なる優しい目線は、中盤で塵(鈴鹿央士)と交わす連弾と、本番前のマサル森崎ウィン)をサポートする亜夜(松岡茉優)の目線に呼応していくだろう。そうした場面のエロティシズムさえ感じる美しさの強度は、ひとえに、あの密室空間が作り出しているのだろうと思う。亜夜とマサルが再会するエレベーターのシーンにも、計算され尽くしたドキドキがある。あなたと私だけがいる空間。そんな小さな空間だけれど、ピアノを介すことによって外の大きな世界とつながっていく。月が照らす闇夜。海の彼方の遠雷。抑制された空間が、徐々に開放感を得ていく快感。

「抑圧」と「開放」というのはまさしくこの映画の根底をなすもののひとつだ。クラシックを更新したいというマサルの想いや、「完璧」よりも大事だったはずの、「ピアノが好き」という気持ちへの回顧、または風間塵のなにも恐れていない型破りな演奏方法まで。そして、亜夜がおそらく対峙してきた「母親がいない今、なぜピアノをやるのか」という自己問答。序盤はなかなかピアノの演奏を聴かせてくれなかったり、かと思えば中盤でカデンツァというフリーなスタイルを見せつけてきたり、本作においての「抑圧」と「開放」による快感は凄まじいものだ。特にやっぱり、母親と連弾していた過去のあの場面からの盛り上がりは半端じゃない。母と娘の俯瞰的な映像が、顔を捉えるクローズアップに変わるとき、心をグイッと引かれる音がした。

序盤と終盤で2度訪れる、亜夜が地下駐車場で音に惹かれていく場面。どこかで音が鳴っている。その音が聴きたくて、その音と一体化したくてしょうがないから、亜夜はまたピアノの前に戻ってくる。そうしてまた、私たちをいざなってくれるのだ。音楽によってつながるあの幻想的な「世界」へと。

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