縞馬は青い

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映画とか、好きなもの

今泉力哉『街の上で』ーー下北沢という街に生きる人間たちの、“ストレートな想い”の物語

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10月13日(日)に開催された下北沢映画祭にて、今泉力哉監督の長編映画最新作『街の上で』がワールドプレミア上映を迎えた。台風によって開催も危ぶまれたなか、一本の映画は堂々と産声を上げながら誕生し、会場に響き渡っていた笑い声や感嘆の声から察すれば間違いなく、下北沢の街に祝福されていた*1

主演は『愛がなんだ』の仲原青役が記憶に新しい若葉竜也。その脇を穂志もえか、古川琴音、萩原みのり、中田青渚といった新進女優が固め、あの人気俳優や人気ミュージシャン*2の突然の登場も作品に彩りを加える。共同脚本には漫画家の大橋裕之。振り返ってみれば、群像劇によって登場人物と街の身体が浮かび上がる様は、彼の代表作『シティライツ』のようでもあった。

シティライツ 完全版上巻

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まず最初に言っておくと、俳優がまじでみんないい。よすぎるんだよ。今泉監督がよくおこなう“役者への当て書き”の効用もあってのことか、みんながみんな、生き生きとしているのだ。下北沢の街にほんとうに住んでいそう、歩いていそうな気がしてしまう人ばかりがそこに映っていた。観たあとに誰もが必ず心を奪われてしまうだろう女優もいて、中田青渚さんという方なのだけど……。『3月のライオン』や『ミスミソウ』に出ているらしいのだけどどちらも未見だったのですぐ見てみたいと思います。これに関しては公開後のみんなの反応がすごく楽しみ。

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『街の上で』は、下北沢を舞台にして撮られた、まさしく“下北沢という街の映画”であり、“下北沢にいる人間たちの映画”である。「下北沢映画祭」からのオファーによって誕生したこの映画は、下北沢を舞台にしていれば物語の内容など他の部分は今泉監督にお任せするということだったらしく、監督自身「好き勝手に撮らせてもらった」と舞台挨拶で言っていた。『愛がなんだ』、『アイネクライネナハトムジーク』と、原作があったり大きめの配給会社が付いていたりと近作にはある程度しばりがあっただろうから、これぞ今泉映画!というものを観られるのは久しぶりかもしれない。そうして出来上がった本作は、『こっぴどい猫』や『サッドティー』のような拗らせた雰囲気も少しは感じつつ、しかし今までに観たことがない作品になっていたから、純粋に驚き、素直に感心してしまった。

今泉力哉監督が撮る映画の登場人物たち(おもに主人公)は、みな一様に何かに対して“疑問”を浮かべている」三浦春馬×多部未華子『アイネクライネナハトムジーク』の小さな魔法 今泉監督が投げかける疑問とは|Real Sound|リアルサウンド 映画部

これは『アイネクライネナハトムジーク』の作品評を書いたときに僕が言及したこと。「好きになるってどういうこと?」をはじめとした、普通に生活していれば通り過ぎてしまいそうなことに登場人物たちが“疑問”を持つことで、普通の日常が「映画」となる。そしてときに、普通からは逸脱しているからこそ、今泉映画に登場する人間たちはちょっとこじらせているようにも見える。いや、完全にこじらせている、と観る人が大半なのだろう。『パンバス』のふみ(深川麻衣)は好きな人がいながらもその人に対して「好きにならないで」と言ってみたり、『愛がなんだ』のテルコ(岸井ゆきの)は、振り向いてくれないと内心ではわかっていながらマモちゃんを追うことを止められない。仲原くんと葉子の関係性の歪さを問い詰めながらも、同じことをしてしまったりする。「どうしてだろう。私はいまだに田中守の恋人ではない」。

そうした“こじらせ”をときにコミカルに表出してきた今泉作品ではあるものの、『街の上で』のおもしろさはそれとはある種、正反対のところにあると思っている。今泉映画の新境地とも言えるかもしれないそれは、今までの“配線がこんがらかった感じ”ではなく、“ストレートな想い”によって紡がれていくのだ。

『街の上で』には、ストレートな愛やリスペクトの数々がそこかしこに点在している。カルチャー、人物、場所、そして街。それぞれを挙げれば長くなってしまうが、映画や音楽、漫画といった文化に対するリスペクト、実在する人物のカッコ良さに直接言及するシーンもあるほど、そうしたものへのストレートな想いにあふれている。下北沢という街らしく、この映画には「何を生業にして生きているかわからない人」という人物も出てきたりするのだけど、彼らへの目線がとりわけやさしい。そもそもが、スーツを着た人がほぼいない街。カルチャーが根付く街ならではの生の表出はやはり新鮮だ。カット割も極端に少なく、超がつくほどの長回しばかり。一筆書きで想いを伝えようとする今泉監督の決意を感じる。

登場人物もけっこうハッキリしている人が多い。例えば、“2股をかけてしまう人”というのが今泉映画の過去作品ではよく出てくるけど本作のある人物はきっぱりと別れようとする。ある人物はダメなものは切り捨てようとするし、またある人物は、モヤモヤした感情から脱しようとする。今泉映画にしては、なんだか誠実な人間の割合が多い(笑)。それだとちょっとおもしろくないんじゃないの? と思われるかもしれないけど、そこはご安心ください。ちゃんと(?)こじらせてる人も出てくるし、ハッキリしてる人も数ミリだけこじらせ成分を見せてきたりしてるから。そして、そのハッキリした性格のなかのこじらせというギャップが、自然なコミカルさ、笑いを生み出しているので。ほんとうに笑える場面ばかりで、元気になる映画だ。

前述したように役者が全員すばらしく、人間が魅力的に映っているがゆえに、下北沢という街全体もひときわ愛らしく映る。僕は似たような街でも高円寺に住んでいる人間だから、ちょっと嫉妬してしまったりもした。シモキタよすぎでしょ。たまに行く「hickory 」という古着屋が主人公の勤め先だったり、みん亭、下北沢トリウッドや古書ビビビ、THREEが舞台となっていたり、下北沢好きにもたまらない映画になっているはず。劇場公開される運びになったらまたゴリゴリにネタバレありの感想も書きますが、ひとまずは公開されるのを待つことにしましょう。最後に、若葉竜也が演じた主人公・荒川青の人物造形が絶妙で、これは自分の映画だ、と思ったことを記しておきます。はやくみんなのもとに届きますように。

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*1:思えば、東京国際映画祭で『愛がなんだ』のプレミア上映を観たのがちょうど1年前くらい。そのときも今泉監督と若葉竜也さんがいた。

*2:今泉監督のツイートには名前出てたけどどこまで出していいかわからないのでとりあえず伏せときましょう。

世界が鳴ってるーー抑圧と開放の映画『蜜蜂と遠雷』

 

「音楽になったね」

耳をすましてみると、外でポチャンと音がした。なんだか雨が降ってきたみたい。その音に合わせて鍵盤を一音、また一音とはじいてみる。すると心地のいいリズムが、私とお母さんの心が高鳴り出す瞬間を捉える。

いつしか一音は連続して音楽になって、ピアノと、そして音楽と一体化した私たちは、広い世界へと羽ばたいていく。

音楽になったねーー。

私たちはいま、世界と一緒になって鳴っている。

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なんて美しい映像なんだ、と思ってボロボロと涙があふれた場面。私たちは音楽を通じて世界と、人と、つながっている。映画が内包するそうしたテーマを、なんともかわいらしく、原体験のごとき妖艶さを伴って描きだした、魔法のような時間。

「あなたが世界を鳴らすのよ」と、お母さんは娘にささやく。あのときの母なる優しい目線は、中盤で塵(鈴鹿央士)と交わす連弾と、本番前のマサル森崎ウィン)をサポートする亜夜(松岡茉優)の目線に呼応していくだろう。そうした場面のエロティシズムさえ感じる美しさの強度は、ひとえに、あの密室空間が作り出しているのだろうと思う。亜夜とマサルが再会するエレベーターのシーンにも、計算され尽くしたドキドキがある。あなたと私だけがいる空間。そんな小さな空間だけれど、ピアノを介すことによって外の大きな世界とつながっていく。月が照らす闇夜。海の彼方の遠雷。抑制された空間が、徐々に開放感を得ていく快感。

「抑圧」と「開放」というのはまさしくこの映画の根底をなすもののひとつだ。クラシックを更新したいというマサルの想いや、「完璧」よりも大事だったはずの、「ピアノが好き」という気持ちへの回顧、または風間塵のなにも恐れていない型破りな演奏方法まで。そして、亜夜がおそらく対峙してきた「母親がいない今、なぜピアノをやるのか」という自己問答。序盤はなかなかピアノの演奏を聴かせてくれなかったり、かと思えば中盤でカデンツァというフリーなスタイルを見せつけてきたり、本作においての「抑圧」と「開放」による快感は凄まじいものだ。特にやっぱり、母親と連弾していた過去のあの場面からの盛り上がりは半端じゃない。母と娘の俯瞰的な映像が、顔を捉えるクローズアップに変わるとき、心をグイッと引かれる音がした。

序盤と終盤で2度訪れる、亜夜が地下駐車場で音に惹かれていく場面。どこかで音が鳴っている。その音が聴きたくて、その音と一体化したくてしょうがないから、亜夜はまたピアノの前に戻ってくる。そうしてまた、私たちをいざなってくれるのだ。音楽によってつながるあの幻想的な「世界」へと。

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ポップカルチャーをむさぼり食らう(2019年9月号)

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タイトルに“ポップ”って付け加えてみた。いや、今まで不安だったんですよね。自分の好きなものってメジャーからは外れたもので、ポップと言ってしまうのはおこがましいんじゃないかってずっと思ってて。でもポップって別にメジャーってことじゃないし、僕は自分が愛しているカルチャーはこんなにおもしろいんだ!って主張していきたいし、好きなものたちをポップと思ってないみたいなのもかなり失礼だし、そもそも商業的に成り立っているカルチャー(要するにアンダーグラウンド以外のもの)はポップカルチャーと呼ぶらしいし、ししし*1。これには最近spotifyでよく聴いてる「POP LIFE:The Podcast」と、敬愛するブログ「青春ゾンビ」の“ポップカルチャーととんかつ”というブログ説明文に多大な影響を受けた。今月は漫画にもアメリカンドラマにも手を出したので*2ポップカルチャーを極めにかかっています。2019年9月。


広島お好み焼うまい

月初は取材で広島に行き、お好み焼をたらふく食べた。計6店舗。行く前までは広島お好み焼童貞だったけど、これはもうお好み焼マスターと言っても差し支えないのではないだろうか。それぐらいいっぱい食べた。1店舗目でまず驚いてしまったのは、関西のお好み焼との圧倒的別物感。関西出身のぼくは正直“ひろしまふう”を舐めきっていた。しかし“ふう”なんてもんじゃないぞこれは。これこそが真のお好み焼だと思った。関西人の友だちにそのことを力説すると、ちょっと鼻で笑われたけど。とりあえず、東京にもあるし広島にも数店舗ある「八昌」と名のつくお店に入れば間違いないのではと。広島というとあとは、隠れたホットスポット三段峡」が最高だった。夏なのに涼しくてヒーリング効果抜群でね。

モーニング娘。になれなかった女の子

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9月21日、モーニング娘。’19の秋ツアー初日に行った。今までハロコン*3では何回か見てるけどモー娘の単独ライブへ行くのははじめて。今回は微動だにせずじっくり見たいと思って着席でみれる席へ。遠いから顔を認識するのはキビイけどじっくり見たい自分には合ってたんじゃないかな。どれだけ心のうちでは興奮していてもほんとに微動だにせずに見きった。いや〜、ライブはもう圧巻だったよ。初夏ごろに加入して初ライブだった15期ちゃんたち3人がフレッシュすぎてゲロかわで、もうそれだけでクラクラした。やっぱりモー娘の楽曲はポップでちょいダサで最高だと再認識しました。これでハロプロの単独ライブはアンジュルムとモー娘を制覇したので、ハロプロ箱推しとしてJuice=Juiceも行ってみたいと思う。行くぞ。ーー先月は眉村ちあきに激ハマりし、今月はONE PIXCELというグループにちょいバマりしてしまった。ドラマ『だから私は推しました』を見てからアイドルへの気運が高まってる気がするな。このグループも眉村さんのときと同じく『火曜TheNight』という番組で知ったアイドル。アイドルというよりアーティスト色が強い感じはする。なんでもセンター的なポジションにいる田辺奈菜美さんが元ハロプロ研修生だったんだって知って。それ聞いてあーどっかで見たことある!と思ってた自分の心が晴れた。2014年までいたってことは自分もギリギリハロプロオタクになってるもんな。とりあえず「Final Call」という曲がベリーグッドなんで貼っておきます。歌とダンスがうまくていかにもハロプロ好きが傾倒しちゃいそうなやつ。韓流にちょっとハマってた時期を思い出すな。f(x)というグループの曲の感じに似てる。

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古本マンガの紙のにおいが好き

数年ぶりくらいに漫画への想いが再燃してきて、今月はめっちゃ読んだ。古本屋(中野のまんだらけ)で漫画を選んでる瞬間って、レンタルビデオ屋で映画探してるときより楽しいし、なんなら人生でいちばん楽しい瞬間かも。言いすぎましたけどバカ買いするときの幸福感はハンパないよな〜。

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この回のポッドキャストシャムキャッツの夏目くんと漫画家の西村ツチカさんがおすすめしてたやつを数冊買いました。いちばん気になってたのは『あれよ星屑』。作者による綿密な時代考証をもとに戦前戦後の世界を描いた作品。50年代の日本映画(必然的に舞台は40年代の世界とかになる)が好きなんで、その世界を確かな情報のもとで描いてくれる漫画はマイニーズしかなかった。風俗関係の話とか楽しく読んじゃうんよね。完結してるみたいだしじっくり読んでいきたい。ーー自分に似たものが描かれてるかもと思って買ったのは『ものするひと』。主人公は30歳の小説家で、別に小説だけで食えてるわけじゃないからハタから見ると「何やってるかわかんない人」になってる人。その微妙な生きづらさと、日常生活のふとした瞬間にイマジネーションが広がっていく感覚がおもしろく描写されていて、これも「自分の漫画だ」って思った。絵はシンプル。線が細い。素朴に生きてる感じがページの端々から伝わってくる筆致だ。ーー田島列島の漫画がすごいってよく聞いてたので、『子供はわかってあげない』『水は海に向かって流れる』ぜんぶ買った。とにかく純なボーイミーツガールが瑞々しすぎて癒される。メインストーリーとサブストーリーの作り込みがすばらしくて、それはそのまま読後感の豊かさにつながっていた。登場人物がめちゃくちゃ愛らしいんだよね。なんか現実世界にこの人たちいたらいいよねっていう信頼できる人しか出てこなくて。僕は高校時代水泳部で、せっかく男女合同型の部活なのにぜんぜん女子部員としゃべれなかったっていう残念な思い出があるので、『子供はわかってあげない』のサクタさんの姿を見てその空虚な記憶の穴埋めをしました。ぜんぜんできてないけど。あんな青春時代ほしかったよね。ーートーチwebで連載されている『かしこくて勇気ある子ども』を読んでる。第2話にして悲しくて泣いてしまった。

あれよ星屑 1巻 (ビームコミックス)

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ものするひと 1 (ビームコミックス)

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子供はわかってあげない(上) (モーニング KC)

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シネコン行くならグランドシネマサンシャイン

長くなるけど映画の話しますね。まず今月みたいちばんおもしろかったやつから。ーー先月のエントリーで大期待を込めていた『わたしは光をにぎっている』、ひと足早く試写で観てきた。今夏のベストムービー『四月の永い夢』の中川龍太郎監督作。主演は松本穂香(大好き)。主題歌はカネコアヤノ(大好き)。もうね、おもしろくないわけがないよね。映画としてはまったく起伏がないまま進んでいくストーリーだから途中で眠くなったりも当然するんだけど、役者の一息ひと息、自然・街の風景のひとつずつに対して丁寧にカメラが向けられていて、映るものすべてのよい未来を祈るように紡ぐこの映画の姿勢にやられた。これはカネコアヤノの歌を聴いていても同じことを感じる。アルバム『燦々』とっても好き。CINRAのインタビューとかでも言及されてるところで、「かみつきたい」の<自ら不幸にならない/ なろうとはしないで>っていう詩はほんとうに救いになる言葉だと思った。意地でも明るくいようぜ、だって勝ちてぇもんっていう彼女の念には力強さがみなぎっている。言霊の力、どんなことがあっても「大丈夫だよ!」と自分に言い聞かせるパワー。弱い自分に負けそうになってもカネコアヤノの曲を聴いていればたぶん生きていけるし、強くなれる気がした。『わたしは光をにぎっている』もまさしくそんな映画で、そうした「祈り」を松本穂香が小さな身体とかすかな表情の変化、声量の変化で体現してみせている。11月15日公開、クソおすすめです。

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もう一本、同じ11/15公開の『殺さない彼と死なない彼女』もかなりいい映画。青春映画。キラキラ寄りかと思いきや、だいぶ大人っぽい。まずもってしてキャラクターの造形がすばらしいんだよな。できあがりまくってる。これはロロのいつ高シリーズとか、同じく三浦さんの『それでも告白するみどりちゃん』とかをみてるときの心情にかなり近くて、キャラをすごい好きになってしまった。好きな男の子になんども告白する撫子ちゃんという女の子が出てきて、もうそれは『それでも告白する〜』と同じなんだけどこの子の「〜だわ」口調が様になりすぎていてかわいさに悶えた。

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大作の『いなくなれ、群青』、小品の『左様なら』と、今月は青春映画がなかなかよかった。10代、20代前半の俳優が飽和状態なくらいすてきな役者が多いから、作品もいいものがたくさん出てくるといいな〜って思ってる。ーーあとは『アス』のユーモアたっぷりのホラーも最高だったな〜。予想できないわけではないのに展開がすごいおもしろくて終始ニヤニヤしてた。『ゲットアウト』より断然好きだな。SFの『アド・アストラ』もすげぇ好きだった。宇宙を舞台にしてるのにパーソナルな話題が主題、っていうストーリーテリングが個人的にはツボで、そういう意味で『ファースト・マン』とも似てて暗いけど楽しい。観念的な映像美は寝る前に見るのにもぴったり。ーー今泉監督の『アイネクライネナハトムジーク』。はじめて仕事で映画評を書いたから冷静には楽しめなかったのだけど、相変わらずよくできてるし、人物造形に愛があるよな〜とは思った。でもやっぱり登場人物が多すぎることによる弊害が出ていて、「怒る人」という装置化した人間を今泉映画で観るのは辛かった。その点、テルコにフォーカスした『愛がなんだ』はやっぱ魅力的だよな〜。ちゃんと分析することで彼の映画の好きなところが「常に主人公がなんらかの疑問を浮かべている点にある」という新発見があったのはとてもよかったです。あと今泉映画は女優の魅力がたっぷり。多部ちゃんと森絵梨佳さんがやわらかくてめちゃよかった。

realsound.jp

フランス映画大ブームは9月も継続中。新文芸坐でやっていたクロード・シャブロル特集に金曜の夜を3回投げ打って3本みた。『野獣死すべし』『一寸先は闇』『破局ヒッチコックともまた異なる映像的な完成度の高いミステリーを3本も観れて幸福でした。映画評論家の大寺眞輔先生による講義も大ボリュームで言葉をまくしたてていて大満足。これからも新文芸坐シネマテークのラインナップはチェックし続けたい所存です。ーーもう一本フランス映画。アンスティチュ・フランセ東京でジャック・ロジエ監督の『メーヌ・オセアン』という映画がやってたので思わず飛んでいった。ジャック・ロジエは先々月に「ヴァカンス映画特集」ってのでみた『オルエットの方へ』が大好物な映画だったんだよな。本作もなかなかに登場人物たちみんな浮かれてて、でも必死で、めっちゃ笑えて楽しかった。フランス映画のユーモアの感覚を享受できるのはなんだかうれしいな。女性がとにかく輝いてるんだけど、加えてオルエットの方へにも出てきたベルナール・メネズがめっちゃ損な役回りででも愛らしくて相変わらずいい。

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かつてゆとり世代(ミレニアル世代)と呼ばれたものたちのドラマ

いくつかドラマをみていると、その主人公がみんな20代なことに気づいた。いま。無意識に選びとってたんだろうな。『だから私は推しました』の放送枠「NHKよるドラ」はドラマを見なくなった若い世代にターゲットを向けてるんだって。いやはや、見たいと思ってるもの全部を見れてるわけじゃないけどおもしろいドラマがたくさんあります。『推しました』の最終回、あんなにぐるぐるとデフレスパイラルみたいな状況下にいた登場人物たちが最後には晴れやかな笑顔を浮かべている。別に異国へ飛び立ったわけでもこの状況下から抜け出したわけでもない、むしろいる場所(地下のライブハウス)は変わっていないのに、状況だけが好転している。それが無理なく描かれていてあらためてすばらしいドラマだなと感心した。最終回のレビューも書かなくては。ーーAmazonプライムの『アンダン〜時を超えるもの〜』がかなりおもしろかった。20数分×8話のサクサク観れるアニメーション・コメディー・ドラマ。アニメーション・コメディー・ドラマってなんだよ!って思うでしょ。僕もよくわかってないんだけど、ロトスコープアニメーション(一度実写で撮影した映像をトレースしてアニメ化する手法)を採用してるんだって。実写らしい人間のリアルな身体・表情の動きと、アニメーションだからこそ可能になる倒錯した世界観の描写。その融合によって紡がれたのは時間旅行を繰り返すタイムリープものでした。最初の1、2話なんかはちょっと気持ち悪くなるくらい映像のトリップ感がすごくて、正直しんどい。それはストーリーが、主人公であるアラサー女性の切迫した日常に寄り添っているからでもあるのだ。なんか説明がむずいんで、『パターソン』と『メッセージ』を組み合わせたようなドラマってな感じで紹介しておきます。おすすめ。

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TOKYO MXで9月20日に放送されていた『おやすみ、また向こう岸で』というドラマがすばらしかった。『あみこ』『21世紀の女の子』の山中瑶子監督作。主演は三浦透子さん。20分くらいのドラマなのに、映像的技法や真に迫るストーリーが展開されていてびっくりしてしまった。山中さんには期待しかないや。もう放送されることも中々ないと思うので、長めに記録しておきましょう。

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関係者の合意に基づき、複数の人と恋愛関係を結ぶ「ポリアモリー」に着想を得てつくられた作品。恋人・ヒロキ(中尾暢樹)との関係に違和感を抱く一方で、高校の同級生・カナコ(古川琴音)に惹かれていく女性・ナツキ(三浦透子)の心の揺らぎが描かれる。

恋人と一緒に暮らすナツキの家にカナコがやってきて、最終的に3人で住もうという話になったりする。それだけ聞くとロロの三浦さんがちょっと前にドラマやってた『ガールはフレンド』みたいだね。でも本作はもっと内容がハード。ポリアモリーや同性愛、SEXの不快感といった性質・現象・問題を扱っている。すばらしいのは映像演出と女優2人の演技だ。例えばポリアモリーという言葉は実際にこのドラマには出てこない。でも話の流れでそういう選択肢もありなのかもしれないと思わされたりする。セリフの言葉選びやストーリーの進め方がとにかく秀逸なのだ。あとは「境界線」のイメージが作中にうまく織り交ぜられている。歩道橋、ベランダ、ベッド、車、池。そして家。ラスト数分のところでいきなり物語がジャンプアップしてファンタジー味が出だすのも急ではありながらおもしろいアイデア。かなり抽象的なラストだったけど、主人公の思考の変遷がかなり明確に映像化されていて、山中さん天才だわ…って唸った。ここで主人公に三浦透子をキャスティングしたのも抜群だったと思うな。物事に白黒つけない中立的な立場がぴったりハマる。山中さんにはバンバン映画つくってほしい。

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月初あたりにAmazonプライムで『宮本から君へ』のドラマ版を観ていた。9/27公開の劇場版に向けて。昨年放送のリアルタイムでは4話目くらいでやめてしまってたのだけど、実はそっからが真のおもしろさを発揮するところだったんよね。性格から何から自分とは正反対で現実世界にいたらどう接したらいいかわかんないだろう宮本。まぁいないんだよな今はこういうがむしゃらなやつが。でも宮本の姿を見て仕事がんばろって思ったのは事実だ。なんかかっこいいんだよな〜。そして9月29日に劇場版を鑑賞した。びっくりした。ドラマ版からの飛躍がすごすぎて。宮本が宮本のままパワーアップしてる感じで。見事な映画化だった。暴力表現とかジェンダー的な部分を鑑みるとすんげぇ問題作(ここでいう問題作というのは質が悪いという意味ではない)だと思うけど、宮本=池松壮亮の熱量がそれを突き破ってくる。問題作と言いつつもポリコレ的な部分もかなり気を使ってるような印象を受けたりもする(とくに中野靖子の人物造形)。でも賛否両論はあるんだろう。むしろ、宮本の発するこの最上級の愛がみんなにわかってたまるか!と反発してみたりもしたくなる。映像的な部分で、「信号」が頻出するのが気になった。最初「黄色信号」が映って、「赤信号」はまぁ出てこないんだけど金魚、血、血、血、「薔薇色の人生」と赤が印象的に並べられ、青信号の横断歩道で後ろに引き返す宮本をもって幕を閉じる(それと白シャツについた血)。要するに彼らの置かれた立場は赤信号の真っ只中のままだ。ハッピーエンドとは言いがたく。あとは「家」や「人」を媒体にした「侵入する/される」の関係性と序盤と終盤のその反転。風間や拓馬が靖子の家に侵入してきたかと思えば、終盤では宮本が拓馬の家へ侵入しようとしたりする。中野靖子の両親に挨拶しにいったりする。何者でもなかったものが攻める存在になり、そして守る存在になるまでの描写が「宮本が父になる」ストーリーの根底を支えていたように思う。「寝ている」シーンの頻出も印象的だったな〜。子どもみたいにすやすや寝ていて、そのままずっと寝てるほうが幸せかもしれないけど宮本はちゃんと起き上がってメシ食って。そういう映像の積み重ねもさることながら、やっぱり池松くんがすごいんだわ。まぁ控えめに言って今年ベスト級の映画でしたよ。

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舞台と日常が融解するとき

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9月22日に贅沢貧乏の『ミクスチュア』を観劇。今年ベスト演劇がおそらく同劇団の『わかろうとはおもっているけど』で、今回もそれに並び立つ傑作だった。断片的な描写から何かが印象に残ってもらえれば、と主宰の山田由梨さんは控え目に言うけれど、パフォーマンスも物語も、ぜーんぶちゃんと繋がっているのだからすごい。人間はどこまでいってもバラバラなもの。真には通じ合えないもの。でも彼らが時おり結びついたり、また離れたりする刹那に心が動かされる。たとえ世間一般の“普通”とは違う異物であっても、やっぱりそこで生きていければいいなと切実に、ささやかに、思っている人たち。2人1組で人間界に降り立ってしまった野生生物と「好き」がわからないあの男女が正反対に描かれながらもなんだか同じものに見えたりもして刺激的。贅沢貧乏の演劇の好きなところはユーモアがあるところです。ーーキングオブコントの影響でコントにハマる。かが屋のコントの美しさに一発で心を掴まれてしまったのよ。YouTubeでみてて一番グッときたのはこれ。

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初対面の男女のノリがすれ違い、徐々にノリを理解しだし、会話が成立し、グルーヴが生まれるまでのキュンキュンする秀逸なコント。アルバイト先の飲み会で知り合ったというかが屋のふたりにもきっとこういう瞬間があったんだと想像すると、もう泣けてきちゃいますね。ああいう心が通じ合う瞬間が人生やってて一番楽しくないすか?長らくそういうのない気がするわ…。

shiomilp.hateblo.jp

潮見さんのエントリー読んですごい納得。始まりと終わりが欠けているということは日常に直に接続しているということで、コントが終わってもその世界で生きる彼らの行く末を想像できるということなんだろう。まるでよくできた映画だよな。追いかけます。ーー蛙亭のコント「犬」も好きだった。華麗なる二重人格。

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バラエティだと『テレビ千鳥』の「全部嘘さ!選手権」で笑いすぎて腹壊された。「ひとりフレンドパーク」というパワーワードが出てくる場面を刮目してほしい。

 

*1:要するに、マイナーのなかに埋もれた“ポップ”を発掘したいってのが一番の欲望かな

*2:小説は相変わらずまだ…、伊坂幸太郎の「アイネクライネ〜」は予習した

*3:ハロー!プロジェクトのグループがぜんぶ集結してやるコンサート。

転生したら幸せになれますか?/森下佳子『だから私は推しました』第7話

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ついに訪れた“押す”瞬間。第7話でもこれまた不気味な「階段」 が頻出し、 迷宮のようなこの世界から抜け出せずにいる登場人物たちの苦悶する様が描かれる。

高校生活でいじめ/ いじめられていた塚本美花はサニーサイドアップのハナとして第二の人生を生き、ライブ会場から追い出された瓜田は、実はスイカちゃんとしてネットの世界に生き続けていた。 同じように遠藤愛は、他界(アイドル用語でオタクを辞めること) したかと思えば成仏できずに戻ってきて、 再びハナと手を取り合って推し/推しされる関係を再構築する。 しかし、その直後でグループは解散することを決めてしまい……。 一回死んで生き返るハナと、死んだようで死にきれない瓜田、愛。しかし本質的にはいずれも、なんとか別の世界でやり直そうと奮闘して、それでも不運が襲いかかってきてやり直せない人たち。 思えばこのドラマは、いいね競争から脱落したOLが、 地下アイドルの世界に居場所を見つけるところから始まっていた。居場所というのはどこにでもあるようで、 実はどこにもないような、辛い現実を見せつけてくる『 だから私は推しました』。

であるならば、「力を試してみたい」 と言ってサニサイからの卒業を決心する花梨や、それを止める小豆さんの心理も「生まれ変わりたい/ ここで生き続けてほしい」という風に“居場所” に根ざした行動原理だと説明がつく。罪深くも、みんな「 自分だけを見てくれる世界」を望んでしまうんだ。

居場所を求めて彷徨い続ける愛、ハナ、瓜田。 その三者が奇妙に交差することで起きてしまう、墜落事故( あるいは殺人未遂)。死にかけて生き延びる瓜田と、突き落とした愛(もしくはハナ?) が最後に辿りつく場所とはいったい。 こんなに苦しい物語でもやっぱりどうしたって思い出してしまうのは、第1話、前髪を切って涼やかに踊っていた、あのハナの神々しさだよな。

カルチャーをむさぼり食らう(2019年8月号)

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8月が終わった。なんだか暑くてぼーっとしていたような記憶しか残っていない。お盆に実家に帰ったりすると、帰京するころには抜け殻になってしまったりするから厄介だ。間違いなく実家でしか食えない、冬瓜の酢の物的なやつ(ネットでそれっぽいの調べても出てこないからうちの母親しか作ってないんじゃないか)とかがぶちうますぎて、東京でひとりで生きていく生気を吸い取っていくのだ。それまでやっていたこと、思っていたことがリセットされてしまう感じがした。まぁ実家でも原稿を2本書いたりバリバリカルチャーモードでしたが。

ここ数か月ずっと、「本を読む」というのを目標に掲げては達成できない日々を過ごしている。とりわけ小説を読みたい、けれど今までそんなに読んでこなかったからどの作家にコミットすればいいのか、本屋に行っては逡巡する毎日。かといって映画をめちゃくちゃ観れてるかというとそうでもないし……*1。だんだんと未知のものに挑戦するのが億劫になってしまってるんだろう。ほんとうは古典的ハリウッド映画もヌーベルバーグの作品群も台湾ニューシネマも黒澤明村上春樹吉田修一山崎ナオコーラ柴崎友香も触れたくてしょうがないのだけれど、どうしても近くにあるものに手を伸ばしてしまう。そんな停滞期な8月のカルチャー日記は5つの印象的なカルチャー(作品・人・祭り)についての記録。

 

<映画- 中川龍太郎四月の永い夢』>

今気づいたけど、レンタルで観た『四月の永い夢』が紡ぐストーリー、抱いた感想は、上記の文に合致しすぎるものだった。そこはかとなくある、停滞感。

3年間ものあいだ「四月」に取り残された女性が、3年目の夏に経験するゆるやかな日常の変化によって現実に回帰してくるという、ちょっぴり幻想的でゴリゴリに詩的なお話。昨年の5月に公開されて、ずっと観たかったやつだ。期せずして夏の暑い日に実家で見ることができたのは、とてもラッキーなタイミングだったと思う。昨日行った服屋のお兄さんにも勧めたくらい、今夏のカルチャーといえばこれ!という映画(昨年公開ですけどね)。ほんとうは感想を長々と書きたいのだけど、全然うまく書けそうにないのでとりあえずDVD買って数か月に一回見返してやろうと思う。みんなが口々に大好きだと言う朝倉あきには一発で惚れ込んでしまったし、監督・中川龍太郎の次作『わたしは光をにぎっている』には期待しかない。なんたって主演は松本穂香で、主題歌はカネコアヤノなのだ。「光の方へ」はこの間ライブでも聞いていたし、今年を印象づける映画になることはすでに確定している。

ちょっとだけ心に刺さった部分を書こうか。一番は「手紙」の存在。そして、ラジオ、電話、音楽と、音が想いを運んでいく作劇の安心感。包容力。物語内でも大きな役割を果たしている赤い靴による主題歌「書を持ち僕は旅に出る」もすばらしい。

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<映画- 杉田協士『ひとつの歌』>

もう一本、映画の話を。今年の新作映画ベストワンにすでに内定している『ひかりの歌』の東京凱旋上映が月初めにあり、同時に監督の過去作の上映も行われていたので、前作の(と言っても9年前に撮られたものだけど)『ひとつの歌』を観に行った。東京都写真美術館にて。これが、自分がもし映画を撮るとしたらこういう方向性を志向するだろうなというタイプの作品だった。世界の切り取り方に感動したのだ。『ひとつの歌』では、セリフが極端に少なくて言ってしまえば開始10なん分くらいまで会話という会話が聞こえてこない。ずーっとある一人の男(の後ろ姿、だいたい)をカメラは追いかけていって、徐々に彼の日常の行動範囲が明らかになり、ある女性への特別な視線が浮き彫りになっていくという、まさに「映像がモノを言う」映画だった。これを観ていて素直に、映画ってこうあるべきなんじゃない?と思ったのだ。言葉なんかなくても、映像の連続だけで伝えうるものがあるということ。僕が『ブリッジ・オブ・スパイ』の冒頭なんかに惚れ込んでしまう要因がやっとわかってきた。登場人物がいきなり叫ぶやつとか嫌っしょ?会話劇はめちゃくちゃ好きだけど、映画で何かを語ろうとするならば、言葉なんていらないんじゃないか。

言葉がないと、必然的に映像の特性に目がいくことになるんだ。特に印象に残ったシーンはこんなふうに描かれる。

固定カメラが写す映像のなかに入ったり出たりしていく男、女。多用されているわけではないが、なんだか印象に残る。まだそこでカメラは男と女を同じ世界に収めることを許していないよう。そう思っていると、駅のホームで少し距離を空けて男女が並ぶシーンが訪れる。カメラは何度か左右に動き、男と女を交互に映す。女が男の存在に気づき、近づいていく。男が女にあるものを手渡し、固定カメラの射程のなかにすっかり収まるふたり。するとそこで、画面の左右両方から電車が勢いよくホームに侵入してくる。

映像のパン、人物のフレームイン/アウトを用いてささやかかつダイナミックに描き出す、男と女の心が通じ合う瞬間。開始30分くらいの場面にもかかわらず美しすぎて泣きそうになった。

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<アイドル- AbemaTV『火曜TheNight』/眉村ちあき

どういうタイミングだったか、たぶんYouTubeのレコメンドに流れてきたんだと思うけど、AbemaTVの『火曜TheNight』という番組を見る機会があった。矢口真里ピン芸人岡野陽一がパーソナリティを務めていて、ゲストに毎回アイドルがやってくるバラエティ番組。結構何年もやってるみたいなんだけどドルバラ好きの自分の触覚がうまく働いてなくてバッチリ初見。産休に入るやぐっちゃんの代わりに3か月だけ鈴木愛理がMCを務めるということでちょっと見始めたり過去放送を見たりしている。そこでみた眉村ちあきというアイドルにグサッと心を射抜かれ、一気にどハマってしまったのだ。

m.youtube.com

一体なにものなんだ。ゴッドタンを毎週見ている人なら知ってたんだろうけど、僕は全然知らなかった。喋りのバカっぽさと歌のうまさのギャップはもはや言うまでもないんだろうな。いやはや、YouTubeに転がっているどのライブ映像を見たって、その場所は多幸感であふれていて、求めていたのはこれかもしれないって思った。


2019/5/11 眉村ちあき@上野恩賜公園野外ステージ


<ドラマ- NHK『だから私は推しました』>

アイドルはそれなりにずっと好きだけど、お金を大量に落とすほどハマったことはない。映画への気持ちのほうがよっぽどオタク的かな。ただアイドルとか映画とか関係なく、好きなものに忠実に生きていたいと望むものにとってどうしても刺さってしまうドラマがこの『だから私は推しました』という作品だ。地下アイドルと女オタを描いたドラマだけれど、妄信的な恋愛感情のようなものまでがこの作品には落とし込まれていて、愛とどうしようもなさの表裏一体に引き込まれてしまう。毎話しんどくなりながらレビューを書いているのがその証左。

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<8.24-25 東京高円寺阿波おどり

まるでロックフェスのような阿波おどりの祭典。去年に引き続き、土日2日連続で観に行ってしまった。踊ってる人たちまじでみんなかっこいいし、浮かれきった祭りの雰囲気が最高なのだ。1日目は同じ高円寺に住んでる友だちと行ったのだけど、暑い暑いと言ってバテていたので彼をほっぽって夢中に推しの天水連をみる。2日目は1日目の夜になんやかんやあって知り合った女の子と見たり、途中で帰ってしまったりして(詳述はしないけど辛い思い出だった…)、まぁ結局は浮かれながら推しの舞蝶連と華純連をみた。なんかいろんな出会いがあった気がするけど別にその後につながるわけではなく、つなげようとしない自分も自分で、やっぱりあれは祭りだったんだなと懐かしむばかり。しかし、1年に1回だけでもすべてが吹っ切れる瞬間があると精神衛生上とてもいいと思うな。きっと1年後も僕は高円寺に住んでいる。

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〈他・雑記〉

黒木香の許可が取れてなかった云々で色々あった『全裸監督』。おもしろかった、という記憶を吹き飛ばしてしまうほどぐるぐる考えてしまったが、鑑賞中はとにかく楽しかった。満島真之介の存在に想いを馳せないわけにはいかなくて、彼と村西チームの紅一点である伊藤沙莉の存在によってバランスが取れていると感じた。モヤモヤした気持ちは忘れたくないな。ーー相変わらずおもしろいなテラスハウス。最近のおもしろさは、声が大きくなりすぎている山ちゃんによってつくられていると思う。言ってしまえばとっても悪質なコンテンツになり下がってきているのだ。この番組を見ていて例えば軽井沢編のゆいちゃんの件とかから気になっていたのは、スタジオメンバーがすぐに住人に対してレッテルを貼ってしまうこと。そしてまんまと視聴者である私たちもそれを間に受けてしまうこと。テラスハウスにはカメラが設置されているわけだけど、だからといって決して彼らのすべてが私たちに見えているわけではない。もしかしたら1%だって見えていないかもしれないのだ。にも関わらず変に期待したり蔑んだりして、住人がその妄想の逆方向に行けば非難する。とっても恐ろしい。だけどそんなものが成立するのは、生活をカメラが捉えているというそれ自体がいびつなこの構造だからこそのものだから、それも含めてやっぱりおもしろいのだ。リアルなのかシナリオがあるのかも含め、多層性/多面性に満ちた番組が今後も続いていくことを望むのみ。今はとにかく翔平くんと香織さんがかっこよくて困っている。仕事への取り組み方が参考にしかならない。ーー8月15日、終戦記念日に『ゆきゆきて神軍』を観た。ずっと観たかったドキュメンタリーがアップリンク吉祥寺でやっていたので。原一男監督と松崎健夫さんのトークショーがとてもよかった。ドキュメンタリーってあんまり観たことないけど、やっぱりあそこにも真実と虚構、本当に大切なものはなんなのかという視線があるんだよな。ーー『無限ファンデーション』という全編即興劇で綴られた映画を観てだいたい落胆した。南紗良さんの演技は飛び抜けてたけど、『幼な子われらに生まれ』『志乃ちゃんは自分の名前が言えない』には遠く及ばないよな〜とか。即興だからって演出サボってる気がしてならなかった。

8月は愚痴で終わりますね。

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*1:全然観てねぇな……と思ってたけどちゃんと調べたら17本も観てた。じゅうぶん。

持てあました想い/森下佳子『だから私は推しました』第5-6話

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こんなにも各々が発する「好き」という想いは溢れているのに、それがどこにもぶつかることなく、幻想だけがガタガタっと崩れ落ちていく悪夢のような展開。ハナの過去(と現在の計算づくかもしれないふるまい)にある事実に気づくことですぐに消滅してしまう彼女を「推す」動機というのは、そんなに軽いものだったのだろうか。ハナが前髪を切ったとき、ライブ中に初めて目と目があった瞬間、同僚を振り切って推しに駆け寄ったとき。そうした瞬間を緩やかに劇的に描いてきたこのドラマを観ていた私たちにはわかるはずだ。愛とハナの交流には紛れもなく「愛」なるものが存在していたことを。たとえ一方的だったとしても、すぐさま否定されてしまうような軽い感情ではなかったはずなのに。

第6話の最後では、ハナを推す前の生活に逆戻りを果たす愛。だけど、やっぱり何かが物足りない。以外にも同僚・マイが愛のことを真剣に気にかけていることに少し安心したけれど、彼女の想いにしても、愛を真に癒す手段にはなりえない。想いは交差しつつも一方通行で、登場人物たちはゴールの見えない迷路に迷い込んでいく。

realsound.jp

リアルサウンド映画部で『だから私は推しました』の作品評を書いた。本作におけるストーリーと映像への没入感は、「上昇」と「下降」という相反するイメージが混ざり合うことによって生じているのではないか、というドラマの外枠にある“巧さ”について考えたもの。本作の軸となるのは、サニサイを地上へと押し上げる「上昇」のストーリーと“瓜田が押し倒されるまで”を描く「下降」のストーリーだ。例えば第6話においても、卵を使った動画配信を行うハナと愛(視聴数の増減)を交互に展開することによって、視聴者に複雑な感情を持たせることに成功している。このドラマを見ているとずっと、なんだか素直に喜べないし、なんだか素直に苦しめないのだ。いいことも悪いこともないまぜになっているから。

嘘に気づいた愛は思っただろう、ハナに裏切られたと。でもほんとうにそうだろうか?彼女と出会ってできた思い出の数々、救われた経験はそんなに簡単になくなってしまうものだったろうか。彼女たちが上昇と下降を続けるペンローズの階段から抜け出すのに必要なのは、上昇と下降(いいことと悪いこと)をないまぜなままにするのではなく、整理して考えることなのではないか。そうすればきっと、抱いていた想いのまっすぐさに気づくはずなんだ。

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光の海を超えてゆこう/森下佳子『だから私は推しました』第4話

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その闇に光を灯すことができるのは「お金」だけなのだろうか。そんなわけない!と否定してみても、現実はそう甘くはない。サニーサイドアップがアイドルフェスに出場できたのも、ハナが見違えるほどのパフォーマンスを披露できたのも、闇に隠れた愛の努力があったから。「光の海」がきれいであればあるほどに、見えない場所で血反吐を吐くものの姿が透けて見えてしまうというこのドラマ構造が伝えるのは、世の不条理、表裏一体でなければ成立し得ないという現実の残酷さであろう。

映画や演劇、それこそドラマやアイドルなど多種多様なカルチャーに接していると、時々思うことがある。自分がこの場でお金を落とさないと、この映画を次に見る機会や誰かに見てもらう機会、劇団やアイドルの存続が脅かされるのではないかと。それは決して大げさなことなんかではなく、サブカルという言葉が死語になり多様な娯楽から好きなものを選び取ることができるようになった現在では、人気のないカルチャーは衰退していく、それは避けようのない現実なのだ。いくらそれへの「想い」が溢れていても、目に見える「もの」がなければ伝わらない……なんて辛い世の中なの。。

さらに辛いのは、目に見えるお金を工面していると、そのうち根元にあった「想い」が蔑ろになってしまう可能性があること。ライブには行けないしチェキも撮れない、おまけに新曲ははじめて聞くし、動画配信を覗いている隙もない。一番わかりやすくそれが可視化されているのは、いつもなら動画配信を見ていた時間が、愛がお金を工面する時間に移り変わっていることであろう。どちらも動画配信を行っているのに明らかな光と闇で分裂してしまっているのも悲しい。

ハナと愛。この2人の関係性が、夢を追う彼氏とそれを支える彼女みたいな関係性にどうしたって見えてしまうのは、やっぱり彼女たちがひとりでは自立できていなからなんだろう。前のエントリーではこの2人は共依存なんかじゃない!と無責任に言ってしまったものの、何をするにもお金が必要なことと同じく、これは否定しても意味がないことなのかもしれない。むしろこの作品が描こうとしているのは、「共依存で何が悪い!」という訴えのようにも思えるのだ。

フェスでのパフォーマンスを成功させてから、サニーサイドアップが解散ライブを行い、愛が取り調べを受けている現在までの道筋にいったい何があったのか。これから辛いことしか起きなさそうな展開ではあるけれど、もう最後まで彼女たちを見届けずにはいられないな、という強い心持ちでいます。