縞馬は青い

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映画とか、好きなもの

境界線を溶かす「音楽」という魔法ーー映画『さよならくちびる』で反復される“不在”と“存在”の意味

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「一緒に音楽やらない?」

そういきなり声をかけるハルと、彼女がつくったカレーを食べて涙を流すレオ。あるいは楽屋の椅子を蹴っ飛ばすシマまで。本作が特異的なのは、常に「行動」が先立っていることだ。彼女たち3人の性格や人物背景、生い立ちを知らせることなく、すべてを「行動」によって物語っていくという方法をとっていること。人物の性格や感情を事細かに言葉で説明してしまう作劇がある一方で、このように「行動」が先行する映画は、われわれ観客の心が入り込む“スキ”に満ちた映画として、人を選びながらも刺さる人にはとことん刺さってしまうものになりうる。そんな大きな可能性を秘めつつ、加えて本作は、「バカみたいでなにが悪い」とレオが度々発するように、「感情」に身をまかせて「行動」することをハルをはじめとした彼女たち3人が徐々に肯定していく映画であるからこそ、非常に効果的にこの演出が機能していると言えるだろう。それはいったいどういうことか。“不在”と“存在”の反復的所作、あるいは「感情」と「音楽」が境界を徐々に溶かしていく物語として、映画『さよならくちびる』を見てみる。

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消えていた境界がある日突然、目の前に現れる

厚さは異なれど、人と人の間には必ず「境界」というものがある。そして映画はときに、それを超えたり超えなかったり、「超えてはいけない一線」を視覚的に表現したりして、その両側に立つ人びとの機微を描いてきた*1。では、本作において境界はどのように描かれているのか。


最も印象深くその“超えられない一線”が現前したのは、コインランドリーの駐車場でのシーン。コンクリートに小さなスコップを打ちつけるレオという名の女の子に、ハルは気になって声をかけてみるのだけど、「お父さんは好き?」と何気ない質問を投げかけたあと、彼女たちはどうなってしまったか。駐車場に引かれた白線もかなり示唆的だが、そこではハルと女の子(あるいはハルとレオ)の間にある「超えられない一線」の存在が浮き彫りになる。この場面においてハルは2度タバコを吸おうとして結局やめるという細かな動きを見せているのだけど、思い返してみると同じような場面が過去に存在していたことに気づくかもしれない。


それはハルがレオにはじめて声をかけたあの時。「一緒に音楽やらない?」と言って、返事がなくて、吸いかけたタバコを箱に戻し、「やっぱ忘れて」と去っていくあのシーンが、まったく似たような構造で撮られているのだ。あぁふたりの間には超えられない一線があるのだなと、そう思ったのもつかの間、しかし次の場面ではハルの家でレオとギターの練習をはじめているふたりの姿が映しだされる。


みんなが絶賛する本作の映画的「省略」。それについてはいろいろな場面を挙げられるのだろうけど、僕はこのシーンの「省略」に激しく胸を打たれてしまった。あんな出会い方をしておきながら、はじめて会話をする、であるとか、部屋の敷居をまたぐ、といったような越境行為を描かずして、まるで境界など初めから存在していなかったかのようにそこに“いる”ふたりを描写してみせる。越境のアイコンみたいなカレーという食べ物が出てくるのはもはや言うまでもない感じのあれなのだけど、そこで涙を流してハルに頭を預けるレオを見ていると、「もうここで終わっていいんじゃないの?」という気分にすらなる。だって境界はもう超えているんだもの。同じようにしてシマも突然ふたりの前に姿を現すことになるわけだが、この3人の出会いから拳を高く突き上げたあの瞬間までを見て、境界線なんか無いなと安心してしまうのはやっぱり違う。なぜならこの映画は、その境界を「省略」していたに過ぎないから。子供時代のレオに出会ったかのようにも受け取れるコインランドリーのあの場面のように、ある日突然、「超えられない一線」は目の前に姿をあらわすことになる。

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“不在”と“存在”の反復によって境界は曖昧に、そして「音楽」と「感情」が境界を溶かしていく

そうして、超えられない一線があったりなかったりするのに加え、「行動」のなかでも“不在”と“存在”の繰り返しが際立つ本作。レオはすぐに男についていき、ハルも途中で一瞬姿を消す。ライブ会場で欠けたひとりを待つシーンが2度挿入されたり、車から消えたと思ったら突然戻ってきたりするなど、そうした行動の反復がある種、この映画の原動力になっているのは間違いない。ではこの反復が何を表そうとしているのかと言えば、それは境界の“曖昧さ”なのだろうと思う。いつでも出ていけるのと同じく、いつでも戻ってこれる。車内禁煙、車内飲食禁止、そしてユニット内恋愛禁止。そうやって線(不在)を引きながらも、すぐに破ってみせる(存在する)彼女たちの姿をみると、きれいな三角形をした恋愛のイザコザも、もはやどうでもいいように思えてくる。キスだって、簡単にできてしまうんだ。

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それでも境界は曖昧になっているだけで、やはり完全に消えることはない。境界を取っ払う決め手となるもの。本作が「音楽映画」として素晴らしいのは、ここに「音楽」という飛び道具を使用できたことだ。こぼれ落ちそうになる言葉とメロディを拾い上げて歌を紡いだ“ハルレオ”の音楽は、同じ想いを抱えるリスナーの心に届いていく。彼女たちには歌を歌う理由があって、それは聴き手である私たちが生きる理由とも相似形を成しているのだと、気づかせてくれる。そして歌い手と聴き手の間にある境界は、一瞬で溶けていく。

誰にだって訳があって
今を生きて
私にだって訳があって
こんな歌を歌う
全部わかって欲しい訳じゃないけどさ
そういう事だって 言いたいだけ

ーー「誰にだって訳がある」

ハルレオの奏でる音楽を、ひとつのイヤホンで大事に大事に受け止めるガールとガール。あの名もなき少女たちの存在は、言うまでもなく本作の重要な位置を占めるもの。レオにサインを書いてもらう時間が「省略」されているのは、彼女たちとの“音楽での交流”が、ハルレオと彼女たちとの強い連帯感をつくりあげてきたことを強調するためだろう。音楽には何もかもを超える力がある。そしてそれは、会場にいるファンが大熱唱することによって、ハルレオにも跳ね返ってきた。

この歌はどこへも届かない
きっと 空に消えていくだけ

さよならくちびる
それでも まだ 君に 心が叫ぶの 離れたくないよと
さよならくちびる
あふれそうな言葉を 慌てて たばこに火をつけ 塞いだ

ーー「さよならくちびる」

一度さよならをしても、また戻ってくることはできる。「感情」の赴くまま、音楽を奏で、歌を歌い、行動すること。またスタート地点に戻っただけで、これからいろんな苦労が待ち受けているかもしれないけれど、それでも私たちには音楽がある。そんな連帯感に包まれた清々しいラストカットが、きっとスクリーン越しに観客の心へと届くことだろう。

退屈な日々がこんなにも
激しく回ってる 旅はまだ続く
根拠もない 足跡もない
紡いだ言葉もそれほどないけれど
進んで行こう きっとこの先も
嵐は必ず来るが大丈夫さ

ーー「たちまち嵐」

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三役の見事なアンサンブル

余談。この映画を語るうえで、トライアングルを形成した門脇麦小松菜奈成田凌の演技のことを無視することはできない。ここ2年で3度も共演映画がある門脇麦成田凌の信頼関係によるところなのか、徐々に髪が短くなっていく小松菜奈の神々しさによるところなのか、あるいは「行動」から「感情」を透かす魅力的な演出のおかげなのか、とにかくとってもいいんだ。笑顔から一転、カレーを食べて涙する小松菜奈とか、キスを拒む成田凌のエロい身のこなしとか、2ミリくらいの目と口元の変化だけで感情を表現する門脇麦の演技とか、ずっと何かすごいものを見せられている感じがする映画だ。なんとなく記憶に残っててDVDを買ったとしたら必ずリピートするだろうなと思うシーンがあって、それは大阪・天満のレコード屋の場面なのだけど。バックに流れる音楽を含め、まるで歌みたいなシークエンスだなと無性に感じた。セリフ一つひとつが軽やかで、とてもきれいに撮られている。店を出たあと小松菜奈が大げさな動きを見せるとこも含め、たぶん何度か見返すだろうな。いやぁ、おもしろかったなぁ。

 


【公式】『さよならくちびる』5.31(金)公開/本予告

 

*1:ここまでは塩田明彦監督著『映画術 その演出はなぜ心をつかむのか』の完全なる受け売りなのですが…

カルチャーをむさぼり食らう(2019年4月号)

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日記「カルチャーをむさぼり食らう」第2回です。3月に摂取したカルチャーの濃密さに比べるとどうしても薄いな今月は。というのも、4月はほとんど『テラスハウス』に支配されたひと月だったから。中学生か高校生の時にやってたファーストシーズンはテレビで姉と母と楽しく見ていたのを覚えてるけど、嘘くさい感覚を覚えてその後のシーズンは見ていなかったテラスハウス。しかし軽井沢に旅行で行く予定があったので軽井沢編を見てみると、これほどおもしろいエンターテイメントがこの世にあるのか!というほどに熱狂してしまったのだ。何にかはわからないけど、お恥ずかしい気持ちでいっぱい。触発されて無性に恋をしたくなっていたりもする。そんな4月。そんなにおもしろくなかった映画の話は排除して、ほぼテラスハウスに関する論考を記すカルチャー日記となることでしょう。

 


4月5日。仕事終わりにポレポレで『グッドバイ』をみる。とても抽象的な映画で、映画誌「NOBODY」のライター・結城秀勇さんと監督とのアフタートークがなければなんにも理解できていなかったと思う。少し油断するとレッテル貼りにもなりかねない「言葉」の暴力性と鋭利さを改めて実感し、それと対比的に、境界の曖昧さを表出することができる「映像」の雄弁さに見惚れた。どれだけ言葉を重ねても、現実と映像の強固さには敵いようのない気がした。

filmarks.com


4月7日。玉田企画『かえるバード』を観劇。前作の『バカンス』、映画版の『あの日々の話』を先に見ていたので、特有の「気まずさ」を描写する作風に慣れていたしそれを求めてもいたのだけど、本作がその2作とは全く違う様相で驚いた。「今までとは違うスタイルに挑戦したかった」とはアフタートークで玉田さん自身が話していたが、「気まずい」という言葉をセリフの中に出すメタ的な演出や、舞台上の2つの場所とそれを隔てる道の大きな存在感が印象的だった。玉田企画の演劇はいつも台本が完成するのが本番の数時間前とのことで、役者が噛み噛みだったり妙な緊張感で覆われているのはアリなのかナシなのか。いい方に働くことはない気がするのだけど。

昨年くらいからずっと見ていたカルチャー番組『ぷらすと』が終わってしまうとのこと。(6月からアクトビラで再開するらしい。)尊敬する映画ライターである宇野維正と松崎健夫を知ったのはこの番組からなんだよな。『アフロの変』とか変なカルチャー番組を昔から好んで見ていたなぁと思い出す。

このあたりからテラスハウスを見はじめて、寝ても覚めてもそのことで頭がいっぱいだった。テラスハウスがなぜこんなにもおもしろいのかと必死に考えたのだけど、それは人が恋する瞬間とか怒る瞬間とか泣く瞬間とか、理性の飛んでしまう一瞬が映ってしまっているからなのだと思う。カメラがそこかしこに設置されている家に住んでいるのだから、聖南さんのように自分の写り方を気にすることや裏でコソコソと秘密のやりとりを交わしてるなどは当然あってもおかしくないこと。しかしそうして気を張っていても、生きていると理性を失ってしまう一瞬というのが必ずあって、そうした表情や行動がカメラに映ってあらわになってしまうからこそこの生活ドキュメンタリーはおもしろいのだ。ドキュメンタリーには人が恋する瞬間は写すことができないからと、物語を用いて映画を撮ることに挑んだ三宅唱監督(『きみの鳥はうたえる』)https://www.cinra.net/interview/201903-miyakesho/amp?__twitter_impression=true。いやいや、もう映像カルチャーは、そんな瞬間さえも収めることに成功してしまっているのだよ。「物語」の必要性さえもが脅かされるとんでもないカルチャーだと思う。おもしろすぎて怖い。

この勢いのままに軽井沢へと旅行に行き、カルテットのロケ地とテラスハウスの家(おそらく)を訪れ、冴沙で温かい天ぷらそばを食べて富男も拝んできた。別になにか特別に訪れるべき場所があるわけではないのだけど、無性に惹きつけられ、中毒性のある街。きっとまた2、3度足を運ぶことになると思う。

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カネコアヤノの新譜「愛のままを/セゾン」がとてもいい。昨年の『祝祭』がそうだったように、春の高揚感と気だるさを共にするにはぴったりの楽曲だと思う。昨年末のカウントダウンジャパンから、バンドセットではなく弾き語りのライブをずっと見たいと思ってる。

愛のままを/セゾン

愛のままを/セゾン

 

 

7年前くらいから応援しているサッカーチームのトッテナム・ホットスパーがCLのベスト4に進出した。知ってます、このチーム?知らなくて当然ですよ、そんなお金持ちの強豪チームじゃないんで。だからこそヨーロッパで4本の指に入っている特別さが浮き立ってくるというもの。ああ、もう一度ロンドンに行きたい。

4月20日。中国の青春映画『芳華Youth』を見た。コンディションが悪く最初の30分くらい寝てしまったものの、そこから90分の映画だったみたいにしっかり楽しむことに成功した。純白と鮮やかすぎる赤。『チワワちゃん』にも共通するその色の組み合わせは、青春色として深く心に刻み込まれた。

リアルサウンド映画部にて『俺のスカート、どこ行った?』の毎話レビューを担当しています。1話目はすごいおもしろかったけど、2話目は特に…って感じ。教師陣のキャラが濃く、生徒は無名俳優ばかりなので(無名俳優が出演する学園ドラマはだいたいおもしろくなる)今後が楽しみ。

realsound.jp

4月21日。今泉力哉監督作『愛がなんだ』をみる。昨年の10月に東京国際映画祭で見ていたので2回目だったけど、その時より共感度が高くなっていて身につまされながらもすんごく楽しんでみてしまった。角田光代の原作小説を読んでから後日3度目を観に行って、感想文とテルコという人物についての考察を書きました。今まで書いてきたなかで最も自信のある文かもしれない。というか、『勝手にふるえてろ』のヨシカとか『パンバス』の市井ふみとか、あるいは『怒り』の田中や『あいのり』のでっぱりんなど、ひとりの人物に迫って論考を記すことが好きみたいだ。

こういう一番嬉しいことも言ってもらえるし、今泉監督の次作『アイネクライネナハトムジーク』はリアルサウンドでレビュー書けるようになんかがんばろう。

 

4月22-24日は旅行記事の仕事で日本最北端の地へ飛んでいた。前を向く決心のつく有意義な時間だった。f:id:bsk00kw20-kohei:20190504013847j:image
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4月27日。『アベンジャーズ/エンドゲーム』を見た日。これほどネタバラシ感想を避ける必要があると、レビューを書き忘れてしまって終いには何が良かったか忘れてしまうのだよな。そうだからいつもすぐにレビューを書いているのだけれど。でも11年の戦いに終止符が打たれたのだから、それはそれは衝撃的な作品でしたよ。ヒーローにも生命が息づいていて、そうした生活描写の細かさに胸がえぐられました。

 

4月はテラスハウスと愛がなんだで満たされた、表層的には何もない月だった。海外旅行したい。

 

山田テルコはひとり静かに越境するーー映画『愛がなんだ』におけるアシ(足)をなくしたテルコについて

 

「山田さん、うちくる?」

マモちゃんはそうキラーワードを放って颯爽とタクシーに乗り込み、「世田谷代田まで」と運転手に告げる。そして窓越しにおいでおいでのサインを受けたテルコは、エサに飛びつく犬のようにタクシーへと吸い込まれていく。

呼び出された瞬間からまるでマモちゃんの家へと終着することが運命付けられていたかのようなテルコの自然な身の運び。同じように、呼び出されて追い出される冒頭シーンにおいても、缶ビールというエンジンを手にして夜の街を歩きながら、その道の果てしなさに滅入ったテルコはついに葉子へと電話をかけ、葉子の指示どおりに高井戸方面へとタクシーを向かわせる。このようにして他人に依存しながら移動するテルコの姿はある種、自我が欠落しているようにすら映る。そう、山田テルコという女性は常に自らのコンパスを見失い、“アシ(足)がない”存在として描かれているのだ。彼女はいつまでも、ひとりでに歩き出すということに意味を見出すことができない*1

 

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それを最も示唆するのは、ポスターに使用されているこのジャケット画像のふたりの姿だろう。このポスター画像の裏話については舞台挨拶などでも度々語られているようだが、僕が聞いたアフタートークでは、編集段階でうまくハマらなくなって不採用になってしまった場面なのだと今泉監督が明かしていた。結婚式のパーティで知り合った夜に、ヒールが折れて歩けなくなったテルコをマモちゃんがおんぶするという場面を実際に撮っていたのだという。要するにあの夜からテルコはアシをなくし、マモちゃんに身を委ねることを決めてしまったのである。


すべてを飲み込んでしまうテルコが徐々に言葉を吐き始める

マモちゃんという迷路に迷い込んでしまったテルコは一度たりとも彼への不満を漏らすことなく、反対に、“すべてを飲み込んでしまう”存在として克明に描写されていく。それは、単に言葉を飲み込む*2という意味だけでなく、文字どうり食べ物や飲み物を飲み込む飲食シーンの多さにこそ現れているだろう。例えば、同僚の女性に「いまどき男でクビって」と言われたあとに「そうだよねぇ」とヘラヘラしながら答えてビールをゴクリと流し込んだり、年越しは餃子がいいと言った本人だけがなぜかいない場所で、日本酒と餃子を交互に口に入れたり、「(マモちゃんは)結局自分系じゃん?」とすみれに言われたあとそれでいいのだと言わんばかりにパスタを吸い込む場面などに刻み込まれている。マモちゃんがいるいない以前の問題にも思えるが、とにかく悲しいことにテルコは、目の前にある現実を飲み込むことをシいられてしまっているのだ。

 

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そうして成されるがままに身を運び、すべてを飲み込んでしまっていると、テルコ(や鏡像関係にある仲原)の望む現状維持という目標にも暗雲が立ちこめるように。いつのまにかマモちゃんにはすみれさんという好きな人ができていて、仲原は葉子との関係に見切りをつけてしまっている。そうするとダンマリを決め込んでいるわけにはいかなくなり、この理想と現実との歪みを受けて、テルコはついに心のうちにあった言葉を吐き始めるのだ。

「幸せになりたいっすね!」と言う仲原には「うっせぇバーカ!」と語気を荒げ*3、葉子にはあなたがやっていることは父親と同じことだという、おそらく一番葉子にとっては辛いだろう(しかし的を得た)批判を浴びせる。その言葉は葉子を経由しながらも、結局マモちゃんを通してテルコへと伝えられることになるのだから、これほど皮肉的なことはないだろう。「俺たちちゃんとしよう」と、体調を崩して思考回路が鈍ったテルコにそんなパンチが打ち込まれる。そこで用意されるのは、重ったるい味噌煮込みうどんなどではなくやさしい味の醤油煮込みうどんであるから、やはりテルコは飲み込まざるを得ない状況に陥ってしまうのだが。ここに来てようやく彼女は気づいたのではないだろうか。マモちゃんのいない人生など想像することができないと。失ってなるものかと。だから必死で未来へとつながる言葉を取り繕って、どうか飲み込んでくれとマモちゃんには多い方のお茶を手渡す。その目論見がどうやら成功したらしいということは、お茶を飲み込み、うどんを一口すするマモちゃんの姿にこそ表れているのだろう。

「そうまでしてマモちゃんにくっついていたいの?」と自問自答して「そうだよ」と自信を持って答える姿に、もはや過去の自我の欠如したテルコの面影は見当たらない。オリの向こう側へとひとり静かに越境し、象にバナナをやっているラストシーン。もう、オリのこちら側へと戻ることはできないということを示唆しつつも、その佇まいはこれ以上ない自身で満ち溢れている。テルコの想いは今もまだ、マモちゃんへと注がれ続けているのだ。

 

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*1:すみれのことをラップ調でディスったあとにマモちゃんの言葉が蘇ってくる場面や、朝早く起こされて土鍋を抱えている場面など、行き場を失って立ちすくんでしまう姿もとても印象的。

*2:テルコの心のうちを表すナレーションの多さも今泉作品では珍しく感じる。33歳になったら会社辞めて飼育員になると言ったマモちゃんに、テルコは泣き、理由は告げない。

*3:鏡像関係にある仲原は別れ際に唾を吐く。

嫌いになり方がわからない/今泉力哉『愛がなんだ』

2019.4.30 テアトル新宿

三角形の上を動く点Pは定理にしたがってずっと点Qを追いかけているけれど、どこまで行っても同じになることができない。速度を変えたり先回りして待っていても、そこに彼の姿はない。山田テルコは一生、田中守にはなれない。

 

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幕開けと幕切れに訪れる2度のズームアウトは、ホラー映画のような一種の狂気を孕みながらも、しかしどうしようもなく愛おしく山田テルコという人間の生き方の一編を描き出すことに成功している。電話を受けてからの身体の動きは、まるで「アクシオ(来い)」(©︎ハリーポッター)と魔術を唱えられたかのように大胆かつ自然。異様なまでに美しいそのカラダの運び方は、そのあとも幾度となく登場する(守からテルコへ、テルコから守への)電話での呼び出しにおいて、私たちが向こう側にいる人物の表情と身体を想像する助けになるだろう。とりわけ、部屋の電気を消す音の大きさに無頓着なのが、とても狂気的に感じるのだ。そしてラストには、「33歳になったら会社辞めて飼育員になる」という言葉を受けた先回りなのかなんなのか、テルコは象の飼育員になっている。なぜマモちゃんに人生を捧げているのかという疑問への回答はいつまでたっても得られないけれど、生きるすべになってしまっているということはなんとなく理解できる。幸せではない。でもそんなに不幸でもないと、山田さんは思っているはず。*1

 

マモちゃんに家を追い出され、500ミリの金麦をあおりながらトボトボと行く先もなく歩くテルコ。正直言って、あんなにかっこいいタイトルバックは見たことがないです。昨年の東京国際映画祭を含めて3度観たのだけど、毎回鳥肌が立つほどに、「かっけぇ!」と声に出しそうになるほどに大好き。どこからどう見てもテルコがしんどそうに見えないのは、ひとりでいる場面(会社や自室でマモちゃんを待つとき)が映画時間的にあえて少なく撮られているからだろうか。葉子(深川麻衣)が言うように、どんなに辛くても、冗談でも「死にたい」とか言わないのがテルコの性格。「いまどき男でクビって」と同僚の女性(穂志もえか)に言われても、そうだよねぇとめちゃくちゃヘラヘラしている。

 

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結局、どこまで行ってもみんな「自分系」なのだと思う。途切れない継続的な関係を望みながらも、いまの自分を満足させることに最大限に注力しているテルコの姿*2が、みっともなくも人ってそうだよなって思わされる。

 

きっと葉子が帰れと言ったのだ。テルちゃんは話があるにちがいないから、あんたがいたら邪魔だ、帰れ、と。そうしてナカハラくんは、さっきの私と同じように、この明るい夜空の下をとぼとぼ歩いて帰っていくのだ。なんだか、どんなふうにかはわからないけれど、世界はみんなどこかで折り重なって、少しずつつながっているのかもしれない。

ーー角田光代原作文庫版『愛がなんだ』/P15

『愛がなんだ』という映画は、今泉作品らしく人の面と面が重なり合って同じような性格があぶり出されていくところにひとつエクスタシーを感じる作品。そこに登場する麺を中心とした食べ物のイメージもとても雄弁だ。重すぎた味噌煮込みうどんとやさしい味のアルミ鍋のうどん、そして使われることのない土鍋。家でひとりすするカップ麺と仲原くん(若葉竜也)と食べたラーメン。すみれさんがナカハラっちのために作ったはずのパスタはなぜかテルコが必死に食している。中目黒のクラブで守からすみれへ、テルコから守へと届けられるお酒はその後飲まれることがなく、存在意義を問うていた湯葉を、守はあるとき絶賛する。年越し、餃子を欲した葉子だけがそこにおらず、純米吟醸をちびちび飲む3人に奇妙な連帯感が生まれる。年越しを一緒に迎えたテルコとナカハラ。隣にいる人が好きな人ならばどれだけ幸せだろうと思いつつ、互いに顔を見て、その瞳の奥に自分が写っているのを見て目をそらす。すべての場面が表面的な優しさと裏切り、どうでもよさで満ちていて、基本的にはちょっと辛くなる。

 

山田さんのそういうとこ、ちょっと苦手。5週くらい先回りして変に気使うとこっていうか。逆自意識過剰っていうか。

すみれとマモちゃん、テルコが三方向に展開し、テルコはすみれの欠点をラップ調で発したあと再びマモちゃんから言われた苦しい言葉を思い出す。ざまぁみろ。このシークエンスがとても好き、というかどうにも刺さってしまうな。好きな人からとかじゃなくてもあるでしょみんな、こういうこと。例えば、何度も何度も頭を駆け巡るように、マモちゃんから言われた言葉を音声で連続的に流すようなことも演出のひとつとしては考えられるわけだけど、そうではなく、他人事のように一度すみれを介してから自分ごとであると理解する様を描く。とても滑稽で、だからこそリアル。あの一連の苦悩をテルコはあの夜何度も繰り返すのだろうと想像できてしまうところに、演出と脚本の意地悪さとテルコへの愛が垣間見える。

 

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マモちゃんは特別かっこよくないし、おしゃれでもなく、お金をたくさん持っているわけでもない。どこが好きなのか、自分でもあんまりよくわからない。だからこそ抜け出せない迷路感が漂う。好きなところを嫌いになることは簡単だけど、もともと好きなとこなんて手が綺麗なとこくらいだから、一緒にいたくなくなるほど嫌いになんてなれっこない。このテルコの好きのあり方には全然共感できるわけではないし、まじで狂気的だなとすら思うけど、象の飼育員になってしまったテルコを見てやっぱりどうしたってかっこよく思えてしまうのだから不思議だ。かっこいいぜテルちゃん。どうかそのままでいてくれ。

 

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とにかく岸井ゆきのが最高だ。成田凌若葉竜也深川麻衣ももちろんいい。KANA-BOON『ないものねだり』のミュージックビデオからまるで時が止まっているかのような岸井さんの佇まいがエモい。でも確実に表情は豊かになっていて、サブカル感もかなり抜け落ちていてポップで、それなりにエロい。平成が終わりました。

*1:2度のズームアウトに加えて、朝早くに出社しようとするマモちゃんに理由を聞いた時にテルコへと注がれるズームインも印象的。とことんテルコの映画。

*2:捻じ曲げてしまう将来の夢と好みのタイプ、もちろん仕事や好きな人以外への態度も

カルチャーをむさぼり食らう(2019年3月号)

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ネイチャー豊かな世界(兵庫県の田舎)からカルチャーがそこかしこに息づく東京へきて1年が経った。そのタイミングで月単位のカルチャー日記的なものを書きはじめようと思いました。はじめようと思う理由はけっこうあるのだけど、ひとつには、文学や音楽についてのまとまった感想を書くのがすごく苦手で、でも放出できない想いが頭を渦巻いてしんどくて、短文でもいいから記しておきたいと思ったこと。書き始めれば意識的にもっと多種多様なカルチャーを摂取できるのではないかという希望なんかもあって。東京でカルチャーをあらかた貪り尽くしたら、ネイチャーの世界に帰ろうと思うのだけど先は長いかな。ブロガー・ヒコさんの「最近のこと」を読んで育ってきたので、「橋本愛のカルチャー日記。(©︎POPEYE)」の書き方ではなくぶつ切りみたいな感じでトントンいきます。(3月は休日がめっちゃ多かったのでコンテンツ含有量の多さは自負しています)

 

3月1日。映画好きにとっては特別な「映画の日」。基本的には気づかないまま過ぎ去ることが多いけどこの日は『岬の兄妹』を観ようと意気込んでいた。なんでもポン・ジュノに絶賛された映画(助監督も務めたことがあるみたい)ということで期待値は高かったのだけど、余裕でおもしろかった。描写やストーリーはそれこそポンジュノ作品のような韓国映画的でそれなりに過激なので、沢山の人に見てもらって否定派も含めた賛否両論を生む必要がある映画だと感じる。そうした質感でいうと『万引き家族』にとても近いかもしれない。(おもしろかった映画に関しては個別エントリーで詳述しています。)

bsk00kw20-kohei.hatenablog.com

 

3月2日。待ちに待った『オードリーのオールナイトニッポン』の武道館公演へ。リトルトゥースと言えるほどの自信はないのだけれけど、この公演へ向けた番組本の制作に少し携わったりしていてその過程ですごく大好きになっていたので、3時間半くらいに及ぶ公演もめちゃくちゃ楽しかった。ラジオゾーンはオープニングから若林のフリートーク、春日のフリートークへと一定の空気感を纏いながらスムーズに進み、ショーパブゾーンを経て満を持して漫才へ。M-1で有名になりラジオがはじまって10年。超越したかっこよさに痺れまくった。1万2千人が内輪受けで爆笑に包まれるライブなんて最高すぎる。愛しかなかった。

オードリーとオールナイトニッポン 最高にトゥースな武道館編 (扶桑社ムック)

オードリーとオールナイトニッポン 最高にトゥースな武道館編 (扶桑社ムック)

 

 

3月3日。贅沢貧乏という劇団*1の『わかろうとはおもっているけど』という公演へ。ディスコミュニケーションに苦しみながらそれでも何とかわかろうと努力する人たちの物語。笑ったとか泣いたとかではないのだけど、ずっと心が豊かで頭もぐるぐる考えさせられていて、とても楽しかった。もしかしたら今まで見た演劇で一番おもしろかったかも。ロロの島田桃子さんも他の4人の演者もみんな愛らしくて愛らしくて。これから追いかけたい劇団だ。

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『翔んで埼玉』はとても退屈だった。コントだけで押し切ろうとする『銀魂』みたいな映画は好きではないけどこの映画はなんとなくいける気がしてた。でもコントにしては案の定長すぎて…。続けざまにユーロスペースで『疑惑とダンス』を。最高。この週末はジェットコースターのような感情の乱高下だ。途中微妙な映画を挟んでしまったもののたぶん人生ベスト級に豊かなカルチャーウィークエンドだったと思う。とにかく密室会話劇というのが好きで好きで仕方ない。誰かおすすめを教えてほしいものですが、先にこちらからおすすめしておくと今月公開『あの日々の話』*2は最高です。

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飛んで3月9日。イーストウッド『運び屋』を観た。人生失敗してしまったおじいちゃんに人生訓を教えられる映画。最近映画館で泣くことはほとんどないのだけれど、これはけっこうちゃんと泣いてしまった。近くにいる人を大事にしなさい、というありふれた教えが主題にあるのだけど、90歳近いイーストウッドの切実な願いとして表出されるからこそ強く胸を打った。


3月10日。『スパイダーマン:スパイダーバース』の映像の革新性には度肝を抜いた。年々、アメコミ映画にワクワクできないようにはなっているのだけど、これはもう視覚的な刺激が常軌を逸してる。太陽を見た後に他のところを見たら残像が残るじゃないですか。あんな感じで映画館を出た後も数分間、アニメーションの残像が目の前を飛び交っていた。夜に『疑惑とダンス』のおかわり。5~60分でサクッと楽しくて1000円ぐらいで観れるこういう作品が量産されると世界は平和になると思う。アマゾンプライムでドラマ『鈴木先生』と劇場版をビンジウォッチ。久しぶりに夢中になってドラマを見ていた。『3年A組』とかは途中で見るのやめたからわからないけど、やはり説教ではなく「対話」で建設される教師と生徒の関係は美しいと言うほかない。古沢良太脚本だと『デート』がまだ見れていないので早急にどうにかしてみたい。


3月14日。有給をとっていたので高円寺で古着屋巡りをした。1年住んでるけどまだ全然開拓できていなかったんだなと思い知らされてびっくり。パル商店街を一本、中に入ったところにある「CORD」という最高のお店を見つけた。

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「お久しぶりです」「はじめてですよ…?」「あ、すみません。常連さんに似てて…」という店員さんとのいびつな会話から最後にはいい感じの仲になれたのでうれしかった。服で一番重要視している“手ざわり”がこの店は全部よくて「見つけてしまったー!」とこれまたうれしさでいっぱいだった。昼に試写でティモシー・シャラメ主演の『ビューティフル・ボーイ』を観る。ドラッグに溺れる青年を描いた暗く悲しい物語だけど、とにかくティモシー・シャラメが美しい。日本人の映画好きを増やすには彼の活躍が不可欠なので、どんどん公開されてほしい。大地に落とす大粒の涙すら輝いている。


3月16日。Tverで『平成物語』を見ていた。岡山天音松本穂香が出ていた昨年のやつ。ふたりとも今大好きな役者なのだけど、特に松本さんはもうどタイプすぎてやばい。


3月17日。ナカゴー特別劇場『駿足』を観劇。相変わらず嘘みたいに笑えるけど、前2作に比べると中盤少し中だるみしていて、締め方もクールじゃなかったように思う。ただ、足の速い人がたくさん出てきて小さい劇場を躍動する姿は非常にナカゴー的で楽しかった。下高井戸シネマで開催されていた「濱口竜介監督特集」で『PASSION』を観る。『ハッピーアワー』の次に好きな濱口映画で、2度目だけど駆け込んだ。密室会話劇となる中盤の「本音ゲーム」はもとより、あらゆる場面が映像の豊かさで満ちていて飽きない。濱口作品のミューズ的な存在である河井青葉さんもこの映画の彼女が一番素敵だと思う。

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3月18日。有給をとって『バイス』と『アメリカン・アニマルズ』を試写で鑑賞。子ブッシュ時代の副大統領・チェイニーを描いた『バイス』(4/5公開)は、100%社会風刺な映画だけどところどころユーモアがあっておもしろい。ブッシュがバカだったなんて知らないバカだったけどこの映画はそんな僕に親切で辛辣だった。


犯罪映画を参考に作戦を練った大学生、まさかの実話/映画『アメリカン・アニマルズ』予告編

予告編を見ると『ベイビー・ドライバー』の再来かと思わせるようなスタイリッシュな見た目をした『アメリカン・アニマルズ』(5/17公開)は、観れば誰もが“思ったよりスタイリッシュじゃない”と驚くと思う。このギャップがどう転ぶのか、劇場で確認してほしい。同じファントムフィルム配給の『ビューティフル・ボーイ』とはよく似ている部分がある。『グッドワイフ』の最終話を録画で見て、完璧なドラマだなと打ち震えた。終盤に向けての女性たちの連帯がなんとも美しい。

 

3月19日。『青春ゾンビ』の「最近のこと」が1年ぶりくらいに更新された。

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彼の文章がこの世で一番おもしろいと思っているほどのファンなので、『&Premium』の「脚本家が台詞に込めるもの。」という特集記事も楽しく読んだし、「最近のこと」もいちいち感激しながら読みきった。


3月21日。よく晴れた気持ちのいい祝日。昼に友だちと映画を観て、夜にまた違う友だちと映画を観た。故郷から遠く離れた地で、休日にバスに乗って友だちの住んでる場所に近い映画館に行って映画を観るなんて、これ以上に楽しいことはありますでしょうか。みた『君は月夜に光り輝く』はなんとも言えない映画だったけど*3、友だちと観たことでいい思い出として記憶に残った。夜に観たのは『キャプテン・マーベル』。今月公開『アベンジャーズ』を楽しむには必須だというのでしょうがねぇなぁと思いながら観たけどなかなか楽しめた。あらゆる抑圧から解放されるかっちょいい女性を描いた映画でテーマが現代的。次のアベンジャーズもしっかり楽しめそう。


3月23日。アップリンク吉祥寺で『放課後ソーダ日和』を観た。枝優花監督『少女邂逅』のスピンオフとして制作されたもとはYouTubeのドラマが、映画館で公開されるというのはなかなかすごいのではないだろうか。YouTube用だったとは言ってもクオリティは担保されているので、映画館で観ても違和感のない物語の強度を味わった。ほんとうに好きな作品。リアルサウンド映画部で毎週レビューを書いていた『イノセンス』が最終話を迎えた。ドラマの形式はすごく二番煎じ感があったけど、王道だからこそ光る物語のわかりやすさとメッセージ性があったと思う。若い人たちが活躍する弁護士ものというのは新鮮で、とても楽しく毎週原稿を書くことができました。

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3月24日は原美術館で開催されていた『ソフィ カル─限局性激痛』へ。人生最悪な1日の記憶を人の不幸話で相殺させていくという痛々しい展示だったけど、ソフィ・カルという女性による写真と文章を使った感情の放出方法と、弱くて強い生き様に感銘を受けた。『世界ウルルン滞在記』の松本穂香に惚れる。世界で一番寒い場所へ旅に出ていたのだけど、雪を被った彼女のまつ毛になれないものかと必死に考えた。無理だった。テレビ東京の深夜ドラマ『デザイナー 渋井直人の休日』が半端なくおもしろい。最初は周りにいるデザイナーもこんな感じの生活をしてるのかなとか想像を膨らませながら見ていたけど、だんだんこれは自分の物語だと気づきはじめた。どこまでも通じ合わない心と渋井直人の大きな愛。4月に突入してもまだ終わる気配がないのだけど、一生やってくれるってこと?


3月26日。再び「濱口竜介監督特集」で『THE DEPTHS』を鑑賞。これまた最高におもしろい。『PASSION』や『ハッピーアワー』とは映像手法やストーリーがちょっと違うように感じたけど、やっぱりどの場面もバチバチに決まりまくっていてかっこいい。『恐怖分子』や『ヤンヤン 夏の思い出』といったエドワード・ヤンの諸作品を感じたりした。

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3月28日。『あいのりAsianJourney 』のSeason2がついに終わってしまった。最初から最後まででっぱりんのためのシーズンという感じだったけど、結果的に彼女によって見出されることになるトムやAI、じゅんきといった男性陣がみんな魅力的で、ただかき回していただけではないということがわかる。「本音で話したい」と怒り狂う彼女は濱口映画にでも出てきそうなある種フィクショナルな存在だけれど、彼女がいなければここまでおもしろくなってなかっただろうな。


3月29日。ほんとうにたまたま有給を取っていて(有給消化に奔走した月)、坂元裕二著『初恋と不倫』を用いた朗読劇『詠む読む』を観に行くことができた。

往復書簡 初恋と不倫

往復書簡 初恋と不倫

 

観たのは満島ひかりさんとのんさんの回。大好きな女優の声であの物語を聞くことができるなんて、どんだけ幸せなんだ。靴箱を侵犯する手紙に始まってショッピンモール屋上での手繋ぎ、海を渡る描写など、境界を「飛び越えていく」ことが主題にある作品だと思うので、女性と女性によって再構成された今回の「female/female」という形式も違和感なく、むしろ当然の展開のように思えた。朗読劇だからこそ味わえる彼女たちの言葉の“間”の裁量も完璧でドキドキしました。終わったあと少しトークがあったのだけど、満島さんものんさんも挙動がめっちゃかわいかった。家に帰宅したあとすぐ文通をしている友だちに手紙を書いた。充実。

 

3月30日。余韻に浸る間も無く、この日は『ひなフェス』のチケットを取っていたので幕張メッセへ。ダブルユー鞘師里保が復活すると聞いて衝動的に申し込んだ公演。ハロプロは去年の7月くらいにファンクラブに申し込んで何度かライブに行ってるのだけど、いつも思ったより楽しめていない気がしていて(というよりYouTubeやニコ動で動画を漁ってるほうが楽しくて)今回も心配だったのだけど、油断してたわ。どちゃくそに心持ってかれた。今もまだ魂抜けてるくらいの感覚だ。モーニング娘といえば姉と一緒に見てたテレ東の番組の辻ちゃん加護ちゃん、あるいはミニモニだったし、大学生でハマったときには絶対的なエースとして鞘師里保がいたので、僕にとってのモーニング娘のすべてがあの場所にあったような感じ。加えて他のハロプログループもレジェンドたちの輝きに照らされていつも以上によかったのではないだろうかと思ってる。つばきファクトリー小野瑞歩さんと雨ノ森川海の岡村美波さんが特にかっこよかった。あれ以来、本当に魂が抜けたような感覚…。


3月31日。ユーロスペースで昨年『きみの鳥はうたえる』で注目を集めた三宅唱監督の最新作『ワイルドツアー』を鑑賞。愛らしい青春恋愛映画。60分台のサクッと映画がちょうどよく心に沁みた。

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結局、文学も音楽もあまり摂取できていない。AppleMusicからSportfyに移行したのだけど、絶妙に使いこなせてないんだよな。ミツメの新譜は最高ですね。

 

以下、Webで読めるおもしろかった文章。

ecrito.fever.jp

p-dress.jp

www.kansou-blog.jp

drifter-2181.hateblo.jp

 
今月のベスト緑茶割りは「和楽多酒場 新宿店」のやつ。ただ緑茶割り以外の料理とかは極めて普通です。

 

*1:主催は山田由梨さん。

*2:玉田企画による同名演劇の映画化。監督も玉田真也。

*3:『君の膵臓をたべたい』『響』など月川翔監督とは相性がよかったのでなおさら何とも言えなかった。

世界が広がっていく感覚/三宅唱『ワイルドツアー』

2019.3.31 ユーロスペース

きみの鳥はうたえる』の三宅唱監督の最新作は、芸術とテクノロジーを用いた新しい表現を探究する山口情報芸術センターYCAM)のプロジェクトによって生まれた作品。ティーンエイジャーたちの冒険と恋愛模様を描いたみずみずしい青春映画だ。

 

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本作はかなり愛らしい映画なのだけど、普通といえば普通。監督は“SFを撮ろうとした”と言うけれど、やはりこの映画はSF的には見えなかった。でもそれってちょっとした思考の飛躍なのだと思う。揺れる木々も川のせせらぎも、雪の下に眠る緑の芽も、普段はそこにあるということすら意識していないけれど、ひとたびカメラという意識的な機械を持ち出してこの世界に向けてみるとその美しさに気づくということがありえる。見える世界、言わば通常の生活からするとSF的ですらある不思議な現実が広がっていく*1。そしてそれは、日々の嫌なことを一瞬忘れることができる魔法のようなものにもなりうるのだ。

 

ムービー(ドキュメンタリー)を撮れば9割のものが映り込むと思い込んでいた三宅監督はある日、「人が恋する瞬間」や「死ぬ瞬間」などなど、どうしてもドキュメンタリーでは映せないものがあることに気づいたという。(参考:https://www.cinra.net/interview/201903-miyakesho/amp?__twitter_impression=true

 

そこで必要となったのが「劇」。

物語を紡ぐということ。

 

確かにこの映画では、「人」や「もの」だけでなくて、人と人(もの)の間にあるものや、人から発せられるもの、人の感情といったものがしっかりと描写されていたように思う。ときに、「感情」が画面に「映る」ように演技したほうがいいんじゃないかと気づき、監督に進言したのはあの中学生の男の子だったというから、それを聞いてとても驚いたのだけど。

 

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『ワイルドツアー』は、映画という芸術の素晴らしさを知るための映画という感じで、おそらく出演者や製作陣にとってもそうした試みだったのだろうけど、この映画を観て「私も何か撮ってみようかな」と誰か1人にでも思わせることができたなら、これほど素晴らしいことはないなと思った。普段はそう簡単に見ることができない少年少女の無理のない初々しさが映っているというだけで、この映画はSF映画であると断言することができる。刺激的な映画体験だった。

 

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*1:何度も映し出される「立ち入り禁止」の表示は、まるで未知の世界へと誘われているようでドキドキしてしまう。

手さぐりで愛だけを探してる/濱口竜介『THE DEPTHS』

2019.3.26 下高井戸シネマ

わからない。暗すぎて何も見えない。果たしてあなたはこちらが見えているのだろうか。それさえも、何もわからない。出会ったときはあんなにはっきりと、少年が手を離した風船をちょっぴりジャンプして取ってあげるあなたの姿が見えていたのに、今はこの部屋が明るくなったときにどんな顔であなたがこちらを見るのか見当がつかない。もっとも、もう私とあなたの間に光が射すことはない、ということだけは知っているのだけれど。


* * *


対面した他人(あるいはこの世界)に興味を持っても、その人が多面的であると知れば知るほど、底知れなさを感じて不安になる。でも気になる人のことは隅から隅まで知っておきたい。濱口竜介が『PASSION』の次につくった長編映画『THE DEPTHS』(2010)に登場する主人公の韓国人カメラマン(キム・ミンジュン)が直面するのは、そうしたジレンマによる苦悩だ。街ですれ違い興味を持った(カメラにおさめた)リュウ石田法嗣)が、引く手数多の男娼であると知ったあとにとった衝動的な誘導、彼がようやくこちらを向いたときになぜかその目を真っ直ぐに見ることができない鬱屈した感情、そして友人との交わりを見て崩れ落ちる幻想。その人の一面だけを見ているほうがよっぽど楽で、(それが真実であろうとなかろうと)通じ合えていると思えたのに。

 

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奇跡的なまでの美しい画と役者のアドリブ的な身体の動きの連なりによって唯一無二な映画に仕上がっていた前作の『PASSION』*1と比較すると、本作は「すべてが計算されつくした映画」という印象だ。ちょうど『寝ても覚めても』と同じような感じで、映画的な美しいシーンは随所にあるのだけれど、『PASSION』のあとにみると少し作為的な部分が浮き立ってしまう。


本作で映画的に作り上げられた印象的な場面を並べると、そこに「境界」や「越境」という言葉を当てはめるのがしっくりくるだろう。幾度となくペファンとリュウの間を隔てることになる扉や、ファインダー越しという境界、ガラスを突き破る男の存在や、極めつけはすべての境界(国境、性別、人種)を越えていくギルス(パク・ソヒ)という男の姿まで。「自分の生き方に満足している男が、他人に翻弄されて自分を見失う」というプロットは『PASSION』から引き継がれているが、ここではペファンが、“超越的なギルス”と“猫のようなリュウ*2によって変革を強いられる姿が描かれていく。しかも哀れなのは、友人の結婚式に訪れただけの日本でそんなことが起こるなどペファンは微塵も想像していなかったところにあるだろう。端的に言えば、ペファンは人を見下していた。一方で、冒頭でモノレールから幾度となくシャッターを切る彼(のカメラ)は、そうした運命的な出会いを求めているようにも見える。


チャペルの屋上で幸福な笑みを浮かべるカップル。階段を下り、タクシーへと乗り込む別の姿となったカップル。3つあった風船が上下の往来を経て1つになっている。ホテルの一室で冷たくなった肢体は、そのうち海へと放たれる。そうした上下運動の反復によって強調される超越的な身体と、どこまでも平行線を辿り、あるいはすれ違い続ける心と体。

最終的に“飛ぶはずだった”飛行機は欠航してしまい、車はあちらとこちらに引き離される。


* * *


果たしてこの結末は運命だったのだろうか。それとも私が招いたことなのか。あなたと離れたことで、まわりが明るくなってきたような気がする。こんなことの繰り返し。何も見えてない。ずっと暗いまま。ずっと、手さぐりで愛だけを探してる。

 

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*1:実際、遠景長回しの際に画面を横切ったトラックは偶然通り過ぎたものらしい。

*2:『PASSION』で「弱いものに寄り添う」と形容された猫のような男。