縞馬は青い

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映画とか、好きなもの

手さぐりで愛だけを探してる/濱口竜介『THE DEPTHS』

2019.3.26 下高井戸シネマ

わからない。暗すぎて何も見えない。果たしてあなたはこちらが見えているのだろうか。それさえも、何もわからない。出会ったときはあんなにはっきりと、少年が手を離した風船をちょっぴりジャンプして取ってあげるあなたの姿が見えていたのに、今はこの部屋が明るくなったときにどんな顔であなたがこちらを見るのか見当がつかない。もっとも、もう私とあなたの間に光が射すことはない、ということだけは知っているのだけれど。


* * *


対面した他人(あるいはこの世界)に興味を持っても、その人が多面的であると知れば知るほど、底知れなさを感じて不安になる。でも気になる人のことは隅から隅まで知っておきたい。濱口竜介が『PASSION』の次につくった長編映画『THE DEPTHS』(2010)に登場する主人公の韓国人カメラマン(キム・ミンジュン)が直面するのは、そうしたジレンマによる苦悩だ。街ですれ違い興味を持った(カメラにおさめた)リュウ石田法嗣)が、引く手数多の男娼であると知ったあとにとった衝動的な誘導、彼がようやくこちらを向いたときになぜかその目を真っ直ぐに見ることができない鬱屈した感情、そして友人との交わりを見て崩れ落ちる幻想。その人の一面だけを見ているほうがよっぽど楽で、(それが真実であろうとなかろうと)通じ合えていると思えたのに。

 

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奇跡的なまでの美しい画と役者のアドリブ的な身体の動きの連なりによって唯一無二な映画に仕上がっていた前作の『PASSION』*1と比較すると、本作は「すべてが計算されつくした映画」という印象だ。ちょうど『寝ても覚めても』と同じような感じで、映画的な美しいシーンは随所にあるのだけれど、『PASSION』のあとにみると少し作為的な部分が浮き立ってしまう。


本作で映画的に作り上げられた印象的な場面を並べると、そこに「境界」や「越境」という言葉を当てはめるのがしっくりくるだろう。幾度となくペファンとリュウの間を隔てることになる扉や、ファインダー越しという境界、ガラスを突き破る男の存在や、極めつけはすべての境界(国境、性別、人種)を越えていくギルス(パク・ソヒ)という男の姿まで。「自分の生き方に満足している男が、他人に翻弄されて自分を見失う」というプロットは『PASSION』から引き継がれているが、ここではペファンが、“超越的なギルス”と“猫のようなリュウ*2によって変革を強いられる姿が描かれていく。しかも哀れなのは、友人の結婚式に訪れただけの日本でそんなことが起こるなどペファンは微塵も想像していなかったところにあるだろう。端的に言えば、ペファンは人を見下していた。一方で、冒頭でモノレールから幾度となくシャッターを切る彼(のカメラ)は、そうした運命的な出会いを求めているようにも見える。


チャペルの屋上で幸福な笑みを浮かべるカップル。階段を下り、タクシーへと乗り込む別の姿となったカップル。3つあった風船が上下の往来を経て1つになっている。ホテルの一室で冷たくなった肢体は、そのうち海へと放たれる。そうした上下運動の反復によって強調される超越的な身体と、どこまでも平行線を辿り、あるいはすれ違い続ける心と体。

最終的に“飛ぶはずだった”飛行機は欠航してしまい、車はあちらとこちらに引き離される。


* * *


果たしてこの結末は運命だったのだろうか。それとも私が招いたことなのか。あなたと離れたことで、まわりが明るくなってきたような気がする。こんなことの繰り返し。何も見えてない。ずっと暗いまま。ずっと、手さぐりで愛だけを探してる。

 

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*1:実際、遠景長回しの際に画面を横切ったトラックは偶然通り過ぎたものらしい。

*2:『PASSION』で「弱いものに寄り添う」と形容された猫のような男。