縞馬は青い

縞馬は青い

映画とか、好きなもの

先週食べたカルチャー(20年9月2週目)

涼しい風にさらされると「外でのみてえ」としか思えなくなった。別に悲観的に言ってるわけではなくて、むしろ逆。夜風にあたりながら呑む酒ほど気持ちいいものはない。実はお酒の味って初めて呑んだときからずっと変わらず好きじゃないのに割といっぱい呑むタイプなのだけど、夜風×酒(レモンサワー)はいつだってとろけそうになる。でもやっぱり涼しい風にさらされて酒のことしか浮かばないのは嫌だ。大人って感じがするから。きっと高円寺に住んでるせいだ。この街はもうコロナなんて過ぎ去ったみたいに駅前ロータリーには酒呑みが群をなし、大将という大衆居酒屋の路上席ではあふれんばかりの大人が酒を酌み交わしてどちゃどちゃ騒いでいる。それを横目に「ああ俺も酒のみてえな」と思いながら家路につくのが最近のルーティン。家で呑む酒の量は一時期より極端に減ったけど、事務所が三軒茶屋に移転したせいでずっと料理がつくれない。今週末は待望のノーラン新作『TENET』が公開される。映画館の席に着いたときのドキドキを僕は10数年前に無くしてしまったのだけど、ノーランの映画だけはまだそれが体験できる。いつからかマーベルの新作に飛びつかなくなったのも大人になってしまったからだろうか。期待することがなくなってしまったし、過去に抱いたあのドキドキを超えられるものはないと気づいてしまった。でもノーランにだけは期待している。ムビチケは2枚買った。初日に観て頭こんがらがせながら何とか理解して、また週末に彼女と観るのだ。これはああであれはこうだったんだよ、とか説明しながら。

ということで先週みた映画、演劇、漫画、小説などの記録です。

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ポレポレ東中野『眠る虫』を観た。幽霊の声に耳を傾け続けていたら、その死者の音と映像を目から照射できるようになった女の子の話(だいぶ雑なあらすじ)。停留所から停留所へ走行するバスの映像が大半を占める一種のロードムービー。その車内を3駅分くらいまるまる長回すシーンと、降りようとして降りれない1駅分を長回すシーンが強く印象に残った。それが世界にとって必要な時間なのかはわからないけど、映画にとってはとても有意義な時間だったと思う。

昔撮られたおばあちゃんの映像を観たときに、過去に置き去りにされたはずの彼女の声(音)が現在の電気信号を伝って私の耳に届いてることに恐怖を感じて、それが創作の起点

舞台挨拶でそんなふうに金子監督は話してたけど、「恐怖」が創作意欲につながるその思考回路がとても気になる。僕は怖いものにはできるだけ近づきたくない。

Netflixオリジナルの映画『もう終わりにしよう。』は、そういう怖いものには蓋をしたい系の作品だった。本作でいう「怖いもの」とは人生そのもの。彼氏の親に会うために彼氏と田舎を訪れる主人公の女性は、「まじで会いたくねえ」「死にたい」くらいのテンションでいながら彼氏に車で連れていかれたその家で、まぁ摩訶不思議な体験に見舞われていく。ホラーではないのだけど、圧倒的不気味。でも引き込まれてしまう謎の魅力もある。映画側が観客に大きな分断を敷いてるせいでこれは理解不能だ〜とお手上げになるも、Filmarksである人の解釈を読んだらすっかり腑に落ちた。そしてもしかしたらそんなに人生の絶望を描いた映画ではないのかもなんて思ったり。冒頭で「映画を観るなんてクソだ」的な発言があるので、そこで心が折れてしまった人は先を観ないほうがいい。

『推し、燃ゆ』を読むために『文藝2020秋号』を買った。「覚醒するシスターフッド」という特集テーマにも興味があったので。この小説がとんでもなく面白かった。どうしたって意識してしまう著者の21歳という若さ。昨年ハタチで文藝賞を受賞したという前作も読みたくなった。『推し、燃ゆ』はいわゆる“女オタク”を題材にした作品で、主人公の女子高生はあるアイドルグループのメンバーを熱烈に「推す」ことを生きがいにしている。“生きがい”と言うと大げさに聞こえるかもしれないけど、家族や勉強やアルバイトや生活といった世界の事象すべてに生きづらさを感じている彼女には、その「推し」が生きる糧であることは明らかだった。文中の言葉を引用すると、彼女にとって推しとは身体を立ち上げるための「背骨」だったのだ。そんな推しが急にいなくなってしまったら……?という、推しを推すことの幸福とその後の“余生”を丹念に綴っている作品。

同じ年に文藝賞を受賞したもうひとりの作家、遠野遥の『破局』を読むと「今の若者観」というか、ちょっと共時性を感じる部分があった。それは、自分自身の内側にあるものではなく、外側にある“なにか圧倒的なもの”に生が吸いついている感覚。『破局』では社会の定める倫理観に、『推し、燃ゆ』では推しに。そのどちらも物語は急激に破滅へと導かれていく。『明け方の若者たち』など立て続けに20代作家の小説に触れてきたわけだけど、同世代の作家が書いた小説をもっと読みたいなと思う。

CINRAにあった『眠る虫』の映画評と『文藝』のシスターフッドを扇動する力強い文章に立て続けに接し、高島鈴さんというライターにかなり心を持っていかれている今日この頃。eke-kingで連載なさっている「There are many many alternatives. 道なら腐るほどある」がどのテキストもアクロバティックで面白くて大事に一個一個読んでいる。第1回の「現象になりたい」、第5回の「反誕生日会主義」、第10回のパラサイト評(評ではないか)がとくに好き。全言葉に共感しているというよりは、こういうパーソナルな部分をステイトメントや映画評として昇華できることに単純に憧れ感心している。同い年のライターさん、彼女には内面から湧き上がる強さのようなものが見えて、なんでも書けてしまうんだろうなって思ってしまう。別にそんな超人ではないだろうけど。

『水は海に向かって流れる』の最終第3巻、素晴らしかった。全キャラクターが憎めなくて愛らしくて、幸せになってほしいなって切に願わせられる奥行きの説得力がすごい。今月発売されるなんて思ってなくて、ちょうど友だちに1、2巻を貸してしまったところだった。できるなら3巻続けて読んで世界観に浸りたい。そういえば沖田修一監督で映画化する『子供はわかってあげない』の公開日どこいった…?

昨年公開されて邦画シネフィル界ですごく評判のよかった『王国(あるいはその家について)』新文芸坐でやってたので観に行こうと思ったけど気づいたときにはほぼ満席だったのでオンライン視聴に回った。この映画は自宅で観るべきでなかったし、途中休憩を挟むべきでなかった。映画館で観てたらきっと自分自身も“王国の内側に入っていく”ような感覚が得られたのだろうと思う。試みもわかるしストーリーもめっちゃ面白かったので、今度はぜひ映画館で観たい(あらすじにはぜんぜん触れないスタイル)。

ロロのいつ高「心置きなく屋上で」神奈川芸術劇場で。この規模感で観るいつ高、すごい贅沢感。でもぜんぜん持て余してはいなくて、屋上にはぴったりの開放感だった。旧校舎には×、新校舎には◯が書かれていて、魔法陣だと勘違いしてどんどん◯側に人が集まっていくとびきりの幸福さ、青春。たしかに学校の屋上ってものに一度は登ってみたかった(小中高どこにも屋上というものは存在しなかった)。花粉症だと嘘をついて涙。太郎に好きだと詰め寄られてフリたい海荷。誰かに答えられるために存在しているクイズ。書いてないのに自分が書いたみたいな手紙。校舎越し太郎の1番好きな歌に気づく海荷。すべてよかった。

このロロを観たあとに思い立ってIMAXインターステラーを観たから、実はちょっとだけいつ高の繊細さな面白さが吹っ飛んでしまっている。インターステラーは洋画にハマったきっかけみたいな映画でDVDでは何回か観てるけど、映画館では観たことがなかった。それをあのIMAXの大画面・大音響で。もうmajiでgodなfilmだった。「最高」という言葉はこういうときのために普段から出し惜しみしておくべき。伸び縮みする時間の感覚がどうしたって涙を誘い、離れるにつれ近づいていく空間のパラドックスに圧倒される。コロナが明けたら新宿ゴールデン街にある一度だけ何かの弾みで吸い込まれた“ガルガンチュア”というバーにまた行きたい。