縞馬は青い

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映画とかドラマとか、好きなもの

流れる涙はほんものだろうか/大森立嗣『星の子』

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南先生(岡田将生)の車で家まで送ってもらった夜、ちひろ芦田愛菜)と親友のなべちゃん、その彼氏を含む同乗した4人はちひろの両親たちがしていた“ある光景”を目撃することになる。それを観て南先生は、「不審者が“2匹”いる」「完全に狂ってるな」と冷酷に言葉を吐き捨てた。南先生に恋をしていて、そして両親のことも当然のように愛して止まないちひろはひどく動転し、「どうしようどうしよう……」と呟きながら家とは逆方向に走る。涙を流しながら、走る、走る。そこで映像はシームレスにアニメーションへと転換し、美しい星空のもとで空を舞うちひろの姿を描写していく。天高く舞いながら、ちひろは「まーちゃん(姉/蒔田彩珠)助けて…」とどこにも吐き出せない思いを詰まらせる。



これだけショッキングな場面が映画として他に存在するだろうか、とすら思った。大好きな人と大好きな人の思いが一致しないことがこんなに悲しいだなんて。

南先生が数学の授業で黒板に書き記している内容ーー同類項をまとめれば√を計算することができる、あるいは相似形をなす図形の証明ーーの示す同質性や相似性に相反して、映画で徹底的に描かれるのはこの“差異”のほうだったのだ。

僕は本作を家族映画の傑作であると思っているのだけど、例えば同じ「家族」を描く現代の名匠・是枝裕和監督の映画において「(擬似家族を含む広義の)家族の同質性の描写」がとことん重視される*1のと比較して、『星の子』では「個々の差異」こそがどんどん浮き彫りになっていく*2

「水」と「コーヒー」という対比される飲み物はもっともわかりやすくそれを表していて、4人が一緒に食卓を囲むシーンも(ほとんど?)なく、ちひろが両親の着る緑のジャージのにおいを気にしたり、帰ってきたまーちゃんの生ゴミみたいなにおいを気にしたり(その後お風呂に入ったまーちゃんが自分と同じ“いいにおい”になるという描写はあるが、それも一時的なものである)、「まーちゃんが好きだから」と母親が買っていた棒パンをまーちゃんではなくちーちゃんが食べていたりと、随所に家族のうまくいかなさがちらつく。しかし本来的に家族とは、そういう一面もはらんでいる共同体だと思う。

林家の決定的な差異とは、「金星のめぐみ」という宇宙のエネルギーが流れる水を「信じるか/信じないか」に収斂されるだろう。ここでなぜ「水で救われた」という同じ体験をしたはずの家族間で差異が生じるかというと、「自分の確たる成功体験として認識しているか/していないか」の認識違いが生じているからだ。すがるようになんでも試した両親は、その水を肌の弱い愛する娘に染み渡らせ回復する姿をその目で見た。しかしまーちゃんはそれをハタから傍観していただけで、ちひろ自身も赤ちゃんのころのことだからもちろん覚えていない。だから娘たちにとって信じる要素とは、両親の態度にしか見出すことができなかったのである。それは僕自身の実体験としてもすごくよく「わかる」。両親のことは信じ続けたくても、徐々にいろんな負の要素が浮かび上がってきてしまう。家の貧しさ、友人の目、一面的ではない世界、好きな人からの全否定……。

そういう崩壊する家族間の差異が浮き彫りになるのに反して、宗教団体の人たちの同質性が際立つのも憎らしい事実だ。彼らは「水」と「成功体験」を通して家族以上のつながりを創り出してしまっている。だからあれだけ楽しみにしていた「海路さんのつくる焼きそば」を最終的に食べることがなかったちひろの姿にこそ、その同質性からの離脱が示唆されているように思う。『星の子』はちひろの迷いを描く。なんども両親を信じようとして、でも決定的な差異になんども足元をすくわれる。

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「面喰い」であるちひろの美醜にまつわるサブストーリーや徐々に苦いコーヒーに慣れ親しんでいく姿は、ひとえに15歳の少女の「世界の濁り」への対面を表現するものなのだろう。世界はそんなにきれいにできてはいないし、正解がひとつではないことも知ってしまった。かっこいいと思っていた人のひどい一面も見てしまう。「あなたの意思とは関係なしにこの場所に導かれているのよ」と昇子さん(黒木華)は言うけれど*3、それはほんとうなのだろうか。というか、それでいいのだろうか。“ほんもの”がなにかはわからないけれど、それは自分の目で見極めるしかないんじゃないか。なべちゃんが「それ(水)ひと口ちょうだい」と言って「まずっ」と続けたこと、その歩み寄り方。いろんな悪い見聞に対して「でも噂でしょ?」と劇中で2度発するちひろの、疑わない思考停止さ。

かゆみで泣き叫ぶ赤子を目の前にして、一緒においおいと泣く両親とまーちゃん。物事はすべて一面的ではないからこそ、決してわかりえない部分と同じだけ、きっとわかりあえる部分も存在してる。今は見えないかもしれないけど、あの夜ひとりぼっちで流した涙も、流れ星になって私たちの目の前を覆うときがきっとくる。流れる涙だけはほんもので、それ以外は今はまだわからない。

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*1:それは食卓、身なり、クセ、喋り方、動き、生活のルーティンなど広範囲にわたって描かれる。

*2:作家性を捉えづらい大森立嗣監督のフィルモグラフィーのなかでも、特に近作『タロウのバカ』『MOTHER マザー』を観ていて思ったのは“徹底的に共感性を排除している”ということだった。大森監督は、観客が登場人物へと共感するようには役者を撮らない。本作のちひろにおいてもきっちりと観客とキャラクターのあいだに“距離”があり、それがむしろ当事者意識のある僕にとっては共感へとつながった。

*3:「自由意志」と「決定論」の話はノーランの映画みたいですね。

*4:あとがき:芦田愛菜ちゃんの泣きの演技の切実さ、複合的な感情表現の素晴らしさもさることながら、姉役の蒔田彩珠さんがとてもよかった。これを観たあとにぜひ『朝が来る』の鑑賞もおすすめしたい。そして世武裕子さん(『生きてるだけで、愛。』『心の傷を癒すということ』など)の劇伴がいつもながらめちゃくちゃ染みた。Spotifyにもサウンドトラックがあがっていて音楽作品として単体でも聴きたくなる、作家性の浮き出た音楽。上に挙げた作品たちと同じ世界を共有しているように感じさせてくれる。