縞馬は青い

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沙希ちゃんの瞳にうつる永田を見ていたーー後悔と絶望と祈りの映画『劇場』

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「感情に従順である人間を僕は恐怖の対象として見ていたが、そういう人間こそ尊いと思うようになった」

どうしてこういうことを直接声に出して言えなかったのだろう。
そんな日常の連続で成り立っているのが、『劇場』という映画なのだろう。本作のモノローグの多さは、そのまま永田の「後悔」の数に等しい。誕生日プレゼントを渡した際にふと垣間見た、彼女のいくつもの感情が純粋なままにないまぜになった表情。美しいなと思った瞬間に、なぜ言葉にできなかったのか。でもいつだって人間は、そういう大切な一瞬を取り逃がしてしまう生き物なのではないだろうか。それになんとか抵抗しようと、永田は演劇をやっていたのではないか。

「ねぇ気づいてないと思うんだけどさ、永くんって私のこと褒めたりしてくれたこと一度もないんだよ」

そんな言葉が重く響いた後のある夜に、永田は沙希を自転車の荷台に乗せて走り出した。まるで過去に向かって走っているかのように、自転車とそれを捉えるカメラはX軸でいうところの左(マイナス)方向に流れていく。お台場のライブハウスで汗だくになった帰り道に、沙希ちゃんが帰り道の人々を見ながら「みんな幸せになりますように」と言ったこと。それを聞いて「俺しあわせだわ」と思ったこと。沙希ちゃんに初めて会ったときに「神様だ」と感じたこと……。
このシーンがとてつもなく真に迫っているのは、沙希ちゃんの表情がみるみる変わっていくところにある。思えば『劇場』という作品は、“感情に従順である”という沙希ちゃんの表情の変化を追う映画であったのかもしれない。その表情の変化に比して、何も変わらない永田の存在が浮き彫りになっていく映画だったのかもしれない。

沙希ちゃんが大学の男友達から原付バイクをもらってきた夜もそうだった。無性にむしゃくしゃしていた永田はバイクに乗ってあたりを何周も何周もーー沙希ちゃんを無視して何周も何周も走らせてしまう。1周目では道の陰に隠れて「バァ〜」と驚かそうとした沙希が、2周目では気づかれぬことを恐れてすでに道端に出ている。3周目では無言のまま立ち尽くし、4周目にはその場からついにいなくなってしまう。
永田と沙希の関係性の変化を象徴する場面であると言えるかもしれない。永田は何も変わらず走り続け、そのうち沙希は姿を消してしまう。

永田にとっての沙希ちゃんというのは、いつ何時も味方でいてくれるそれこそ神様のような存在だった。絶対的に他人でありながら、それでいて自分の一部分でもあるような。いわば徹底的に自分に甘い客観性の象徴のようなものだったのかもしれない。そして唯一の理解者でもあるから、自分の演劇に出演してもらうことや自分の演劇を観てもらうこと、他の人の演劇を観て楽しんでいるところを見ることができなかった。観てもらわずとも絶対的に理解してもらえているのだから、わざわざ作品を観てもらう必要がなかったのだ。いうまでもなく絶望的な関係性なのかもしれない。

その客観性という偶像がついに破れ果てるのが、ラストシーンの本作らしい演出によるところ。彼らの日常がたちまち演劇世界へと開かれ、その“劇場”の客席には沙希がいる。いわば永田の心の中(=部屋あるいは舞台上)にいた沙希が、心の外(=客席)に出ていったとも捉えられる場面だ。永田も沙希も、もう独り立ちしている。永田は、心の中に留めていた感情をそのまま取り逃がすことも少なくなるだろう。沙希は劇場から(右手方向=未来に向かって)外へ出て、歩みを進めていくのだろう。

「演劇ができることってなんなんだろうって、最近ずっと考えてた。そしたらさ、全部だったよ。演劇でできることは、現実でもできる。だから、演劇があるかぎり絶望することはないんだって。だから、今から俺が言うことはある意味ほんとのことだし、ぜんぶできるかもしれないことね」

そうやって語られだす、あるとき偶然出会った男女の未来に対しての祈り。