縞馬は青い

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映画とか、好きなもの

大九明子×じろう『甘いお酒でうがい』- 履き潰した靴に敬意を込めて

数週間前からスニーカーの先っぽに穴が空いていることに気づいていた。しかも右足と左足の両方に。もっというと1年くらい前から空いていた気がするけど、黒い靴に空いた穴を黒い糸で塞いだりしてなんとかやりすごしていた。目立つようなあれじゃないので誰も気づいてないだろうなとは思いながら、毎朝自分だけはその穴を見ていた。日に日に穴が大きくなっているような気がして、さすがに気持ち悪くなってきた。靴下ならばすぐに捨てるのに、黒い靴下を履けば目立たないという理由で買い替えてなかったのはすごく不思議だ。靴屋で見つけたほぼ同じ形のスニーカーを手に取り、履いていた靴を廃棄してもらってその場で履き替える。履きはじめはちょっと違和感があったけど、1日歩けば慣れてしまう。ほぼ同じ靴を買ってしまったんだな、と振り返ってふと思った。

電車を乗り継いで東京の少し南のほうにあるキネカ大森へ向かう。よく覚えていないのだけど、東京へ上京してからはこの場所に訪れてなかった気がする。だとすればおよそ3年ぶりくらいだろうか。大学4年生の就職活動のとき、説明会や選考のために東京へやってきては、夜行バスまでの時間をここで過ごしていた。東京にはたくさん映画館があるのに、なぜかいつもキネカ大森だった。東京らしからぬ場末感が妙に記憶に焼きついている。

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『甘いお酒でうがい』を観た。9月ごろに公開されていたけど観られてなかった映画。東京国際映画祭で同じ大九明子監督の『私をくいとめて』を観て、観逃していたことに気づいたのだった。2番館的な役割であるキネカ大森はこういうときに頼りになる。実は、同じシソンヌじろうさんとのタッグ作である『美人が婚活してみたら』があんまりだったので、スルーしかけていた。あたりまえだけど、観てよかったという感情は実際に観てみないと得ることはできない。

細部の描き方がすばらしく繊細で、主人公が生きる世界を追体験するのが容易だった。足と手への並々ならぬ執着は大九作品ではもはや見慣れた景色だけど、その指先のころころ変わる表情が、自分の心の奥底にある琴線を揺さぶってくる。小気味よく、心地よく、主人公のことやそのまわりにいる人たちのこと、それを包む世界のすべてが好きになってくる。こんな映画なかなか出会えないだろうな、幸せだな、と思った。観てる最中も観たあとも、好きな人のことを大切にしたいという感情がずうっとめぐる。

僕にとって40代とは未知の領域だった。どんどんボロボロに剥がれ落ちていくんじゃなかろうかという怖さがあった。でも『甘いお酒でうがい』と、同じく大好きなおじさんドラマ『デザイナー 渋井直人の休日』というバイブルがあれば、きっと安心して生きられると思う。

今日、電車に乗っている途中でイヤホンの右耳が聴こえなくなった。映画を待つ間ドトール綿矢りささんの『私をくいとめて』を読んでいたら、しおりがないことに気づいた。不便だけど、たぶんしばらくの間はこのままでいる気がする。

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*1:若林ちゃんみたいな人が幸せでいてくれればそれでいいと思う。黒木華がほんと〜に最高。

痛みと連帯の同時接続/大九明子『私をくいとめて』

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昨日観て抱いた最大限の興奮を忘れないようにここに書いているだけなので、本作が気になっている人はこの後ろは読まずに公開を楽しみにしていただきたい。『勝手にふるえてろ』に続く綿矢りさ原作×大九明子監督の再タッグ作である本作は、刺さる人には刺さりすぎてしまう大九節炸裂のパワーみなぎる大共感映画です。コロナ禍をまたいでつくられた『私をくいとめて』には、こんな心細い世界でもそれでも生きる価値はあると強く抱きしめてくれる包容力がある。キャラクターがまるっと全員いとおしいので、スクリーン上を動き回る彼女たちの多様な生き方をとくとご覧あれ。

経験上、たぶん2度観たあとのほうがいい感想が書けそうなんだけど、1年に2度くらいしか訪れない「ちょっとなんか書いとかないといけないんじゃないっすか!!」な変なテンションが暴発してしまう映画だったので、本作への愛をつらつらと書き連ねてみる。上映前の舞台挨拶に登壇していた橋本愛さんが、コメントの最後にこんなことを言っていた。それは「みつ子はある幸せを見つけるんですけど、それはみつ子にとってのひとつの幸せの形なだけであって、その幸せがこの世のすべての女性にとっての幸せだって謳っている映画ではなく…」的な発言だった。要するに、みつ子のような選択がある一方でまた違った選択もありえること、そのどれもが等しく肯定されるべきものだというエクキューズを彼女はしておきたかったのだろうと思う。これが本当に重要な意味をなす言葉だったと観賞後かなり身にしみた。本作の大枠のテーマのひとつとしてこの「選択」が横たわっており、みつ子は自分の意志にしたがって小さいようで大きな一歩を踏み出す。繰り返すけれど、しかしそのあるひとつの選択が普遍的な正解というわけではない。大事なのは「自分の意志にしたがって」というほう。『私をくいとめて』の面白さは、その自分の意志を主人公が何度も見失ったり見つけたりする少し哀れで不安定な様を、映像的にとことん描写しているところにある。音楽でしか聴いたことがない表現だけど、本作は明らかに何度か「転調」してキーを上げたり下げたりしてみせる。映像、ストーリー、みつ子の表情、そのすべてに変化を超えた変化のようなものが訪れるのだ。思えば大九監督は『勝手にふるえてろ』でも、突然のミュージカル演出の挿入などによって主人公の心情をジェットコースター的に描いていた。人の心というのは突然天まで高揚したり、地獄まで落ち込んだりする。“おひとりさま”に慣れきったみつ子が人と深くつながりそうになるとき、大滝詠一を聴きながら洗濯機を回していた平穏な日常が、寄せては返す波のように激しく揺れ動きはじめる。その無抵抗に行き来する心情の反復行動が、揺れ動き続けるカメラ、明暗を決定づける照明、そしてみつ子を体現するのんさんの一挙手一投足によって「転調」という形で丁寧かつ大胆に綴られていく。孤独な主人公が「相談役“A”」という仮想の人物を脳内につくり上げてしまうという設定の時点から決まっていることだけど、本作はモノローグならざる心情の吐露が極めて多く、だいたいのことをわかりやすい映像表現や言葉で片付けてしまう、もしかしたら映画としては語りすぎなのかもしれない側面が多々ある。その映画としての(わかりやすさという意味での)未熟さを差し置いても、やっぱり映画にしかできないことをあらゆる手法を用いて伝えてくる「映画」だと思う。ちょうど同時期に公開され、心の中に会話相手を見つけてしまう『おらおらでひとりいぐも』(沖田修一監督)と同じく、単純な“ひとりごと”ではない「自分との会話」という描写は、あんがい映画だけに許された特権だとも思うのだ。僕みたいに1日の半分くらい心のなかで自分と対話してるような人間もおそらくいて、でもそれは可視化されることも文章化されることもないわけで。その映像化によって際立つ「私」という存在。このまま私といたほうが楽だけど、誰かと何かを分け合ってみたい。たぶんそういう意志を持ったのだろうみつ子は、近所で偶然すれ違った取引相手の多田くん(林遣都)と奇妙な「交換/交感」をはじめるようになる。料理を分け与えるみつ子に、必ず代わりに何かを差し出してくれる多田くん。そのささやかな交換がやがて感情の交感へとつながり、人生の一部を分かち合うまでへと発展する。そこに向かうまでには幾度とない感情の転調があった。他人と人生を共有するためには、いくらかの痛みを伴うことになる。しかし考えてみれば、孤独な人生にも痛みはつきものだった。セクハラ、優秀な上司、親友との別れ。その痛みさえも分かち合うことができたら…もしかしたら少しだけ楽になれるのかもしれない。いや、楽になれないとしても、それと引き換えに「連帯」を受け取ることができれば、この世界の心細さに少しは対抗できるのかもしれない。そうやってみつ子は自分の一部を多田くんに預けて苦手な空を飛んでみたのだ。痛みと連帯を同時接続させながら。30代目前の人生の選択を精緻に描写した漫画『A子さんの恋人』ともとても共時性のある物語だと思う。偶然だけど、本作にも大事な場面で「海」と「東京タワー」が登場し、自分を形作ってきた“A“についての物語が描かれる。“A”に慣れ親しんできたことの心地よさと、“A”を手放すことの痛みと妙な温かさと。新しい電球をくるっと回すみたいに、閉ざされた暗い部屋に電気をつけてみるのもいいかもしれない。その電球が何を照らしてくれるか、それはやってみないとわからないよね。

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https://m.youtube.com/watch?feature=youtu.be&v=Dq74Xwk4Pmg

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*1:感激すぎて言葉にできないけど、のんさんも林遣都さんも橋本愛さんもめちゃくちゃ輝いていて眩しかった。林遣都さんが「明日も元気でお過ごしください」と爽やかに舞台挨拶を締めておられて、この映画を公開初日にまた観るまでは生きてられるなって思えた。

流れる涙はほんものだろうか/大森立嗣『星の子』

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南先生(岡田将生)の車で家まで送ってもらった夜、ちひろ芦田愛菜)と親友のなべちゃん、その彼氏を含む同乗した4人はちひろの両親たちがしていた“ある光景”を目撃することになる。それを観て南先生は、「不審者が“2匹”いる」「完全に狂ってるな」と冷酷に言葉を吐き捨てた。南先生に恋をしていて、そして両親のことも当然のように愛して止まないちひろはひどく動転し、「どうしようどうしよう……」と呟きながら家とは逆方向に走る。涙を流しながら、走る、走る。そこで映像はシームレスにアニメーションへと転換し、美しい星空のもとで空を舞うちひろの姿を描写していく。天高く舞いながら、ちひろは「まーちゃん(姉/蒔田彩珠)助けて…」とどこにも吐き出せない思いを詰まらせる。



これだけショッキングな場面が映画として他に存在するだろうか、とすら思った。大好きな人と大好きな人の思いが一致しないことがこんなに悲しいだなんて。

南先生が数学の授業で黒板に書き記している内容ーー同類項をまとめれば√を計算することができる、あるいは相似形をなす図形の証明ーーの示す同質性や相似性に相反して、映画で徹底的に描かれるのはこの“差異”のほうだったのだ。

僕は本作を家族映画の傑作であると思っているのだけど、例えば同じ「家族」を描く現代の名匠・是枝裕和監督の映画において「(擬似家族を含む広義の)家族の同質性の描写」がとことん重視される*1のと比較して、『星の子』では「個々の差異」こそがどんどん浮き彫りになっていく*2

「水」と「コーヒー」という対比される飲み物はもっともわかりやすくそれを表していて、4人が一緒に食卓を囲むシーンも(ほとんど?)なく、ちひろが両親の着る緑のジャージのにおいを気にしたり、帰ってきたまーちゃんの生ゴミみたいなにおいを気にしたり(その後お風呂に入ったまーちゃんが自分と同じ“いいにおい”になるという描写はあるが、それも一時的なものである)、「まーちゃんが好きだから」と母親が買っていた棒パンをまーちゃんではなくちーちゃんが食べていたりと、随所に家族のうまくいかなさがちらつく。しかし本来的に家族とは、そういう一面もはらんでいる共同体だと思う。

林家の決定的な差異とは、「金星のめぐみ」という宇宙のエネルギーが流れる水を「信じるか/信じないか」に収斂されるだろう。ここでなぜ「水で救われた」という同じ体験をしたはずの家族間で差異が生じるかというと、「自分の確たる成功体験として認識しているか/していないか」の認識違いが生じているからだ。すがるようになんでも試した両親は、その水を肌の弱い愛する娘に染み渡らせ回復する姿をその目で見た。しかしまーちゃんはそれをハタから傍観していただけで、ちひろ自身も赤ちゃんのころのことだからもちろん覚えていない。だから娘たちにとって信じる要素とは、両親の態度にしか見出すことができなかったのである。それは僕自身の実体験としてもすごくよく「わかる」。両親のことは信じ続けたくても、徐々にいろんな負の要素が浮かび上がってきてしまう。家の貧しさ、友人の目、一面的ではない世界、好きな人からの全否定……。

そういう崩壊する家族間の差異が浮き彫りになるのに反して、宗教団体の人たちの同質性が際立つのも憎らしい事実だ。彼らは「水」と「成功体験」を通して家族以上のつながりを創り出してしまっている。だからあれだけ楽しみにしていた「海路さんのつくる焼きそば」を最終的に食べることがなかったちひろの姿にこそ、その同質性からの離脱が示唆されているように思う。『星の子』はちひろの迷いを描く。なんども両親を信じようとして、でも決定的な差異になんども足元をすくわれる。

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「面喰い」であるちひろの美醜にまつわるサブストーリーや徐々に苦いコーヒーに慣れ親しんでいく姿は、ひとえに15歳の少女の「世界の濁り」への対面を表現するものなのだろう。世界はそんなにきれいにできてはいないし、正解がひとつではないことも知ってしまった。かっこいいと思っていた人のひどい一面も見てしまう。「あなたの意思とは関係なしにこの場所に導かれているのよ」と昇子さん(黒木華)は言うけれど*3、それはほんとうなのだろうか。というか、それでいいのだろうか。“ほんもの”がなにかはわからないけれど、それは自分の目で見極めるしかないんじゃないか。なべちゃんが「それ(水)ひと口ちょうだい」と言って「まずっ」と続けたこと、その歩み寄り方。いろんな悪い見聞に対して「でも噂でしょ?」と劇中で2度発するちひろの、疑わない思考停止さ。

かゆみで泣き叫ぶ赤子を目の前にして、一緒においおいと泣く両親とまーちゃん。物事はすべて一面的ではないからこそ、決してわかりえない部分と同じだけ、きっとわかりあえる部分も存在してる。今は見えないかもしれないけど、あの夜ひとりぼっちで流した涙も、流れ星になって私たちの目の前を覆うときがきっとくる。流れる涙だけはほんもので、それ以外は今はまだわからない。

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*1:それは食卓、身なり、クセ、喋り方、動き、生活のルーティンなど広範囲にわたって描かれる。

*2:作家性を捉えづらい大森立嗣監督のフィルモグラフィーのなかでも、特に近作『タロウのバカ』『MOTHER マザー』を観ていて思ったのは“徹底的に共感性を排除している”ということだった。大森監督は、観客が登場人物へと共感するようには役者を撮らない。本作のちひろにおいてもきっちりと観客とキャラクターのあいだに“距離”があり、それがむしろ当事者意識のある僕にとっては共感へとつながった。

*3:「自由意志」と「決定論」の話はノーランの映画みたいですね。

*4:あとがき:芦田愛菜ちゃんの泣きの演技の切実さ、複合的な感情表現の素晴らしさもさることながら、姉役の蒔田彩珠さんがとてもよかった。これを観たあとにぜひ『朝が来る』の鑑賞もおすすめしたい。そして世武裕子さん(『生きてるだけで、愛。』『心の傷を癒すということ』など)の劇伴がいつもながらめちゃくちゃ染みた。Spotifyにもサウンドトラックがあがっていて音楽作品として単体でも聴きたくなる、作家性の浮き出た音楽。上に挙げた作品たちと同じ世界を共有しているように感じさせてくれる。

先週食べたカルチャー(20年9月2週目)

涼しい風にさらされると「外でのみてえ」としか思えなくなった。別に悲観的に言ってるわけではなくて、むしろ逆。夜風にあたりながら呑む酒ほど気持ちいいものはない。実はお酒の味って初めて呑んだときからずっと変わらず好きじゃないのに割といっぱい呑むタイプなのだけど、夜風×酒(レモンサワー)はいつだってとろけそうになる。でもやっぱり涼しい風にさらされて酒のことしか浮かばないのは嫌だ。大人って感じがするから。きっと高円寺に住んでるせいだ。この街はもうコロナなんて過ぎ去ったみたいに駅前ロータリーには酒呑みが群をなし、大将という大衆居酒屋の路上席ではあふれんばかりの大人が酒を酌み交わしてどちゃどちゃ騒いでいる。それを横目に「ああ俺も酒のみてえな」と思いながら家路につくのが最近のルーティン。家で呑む酒の量は一時期より極端に減ったけど、事務所が三軒茶屋に移転したせいでずっと料理がつくれない。今週末は待望のノーラン新作『TENET』が公開される。映画館の席に着いたときのドキドキを僕は10数年前に無くしてしまったのだけど、ノーランの映画だけはまだそれが体験できる。いつからかマーベルの新作に飛びつかなくなったのも大人になってしまったからだろうか。期待することがなくなってしまったし、過去に抱いたあのドキドキを超えられるものはないと気づいてしまった。でもノーランにだけは期待している。ムビチケは2枚買った。初日に観て頭こんがらがせながら何とか理解して、また週末に彼女と観るのだ。これはああであれはこうだったんだよ、とか説明しながら。

ということで先週みた映画、演劇、漫画、小説などの記録です。

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ポレポレ東中野『眠る虫』を観た。幽霊の声に耳を傾け続けていたら、その死者の音と映像を目から照射できるようになった女の子の話(だいぶ雑なあらすじ)。停留所から停留所へ走行するバスの映像が大半を占める一種のロードムービー。その車内を3駅分くらいまるまる長回すシーンと、降りようとして降りれない1駅分を長回すシーンが強く印象に残った。それが世界にとって必要な時間なのかはわからないけど、映画にとってはとても有意義な時間だったと思う。

昔撮られたおばあちゃんの映像を観たときに、過去に置き去りにされたはずの彼女の声(音)が現在の電気信号を伝って私の耳に届いてることに恐怖を感じて、それが創作の起点

舞台挨拶でそんなふうに金子監督は話してたけど、「恐怖」が創作意欲につながるその思考回路がとても気になる。僕は怖いものにはできるだけ近づきたくない。

Netflixオリジナルの映画『もう終わりにしよう。』は、そういう怖いものには蓋をしたい系の作品だった。本作でいう「怖いもの」とは人生そのもの。彼氏の親に会うために彼氏と田舎を訪れる主人公の女性は、「まじで会いたくねえ」「死にたい」くらいのテンションでいながら彼氏に車で連れていかれたその家で、まぁ摩訶不思議な体験に見舞われていく。ホラーではないのだけど、圧倒的不気味。でも引き込まれてしまう謎の魅力もある。映画側が観客に大きな分断を敷いてるせいでこれは理解不能だ〜とお手上げになるも、Filmarksである人の解釈を読んだらすっかり腑に落ちた。そしてもしかしたらそんなに人生の絶望を描いた映画ではないのかもなんて思ったり。冒頭で「映画を観るなんてクソだ」的な発言があるので、そこで心が折れてしまった人は先を観ないほうがいい。

『推し、燃ゆ』を読むために『文藝2020秋号』を買った。「覚醒するシスターフッド」という特集テーマにも興味があったので。この小説がとんでもなく面白かった。どうしたって意識してしまう著者の21歳という若さ。昨年ハタチで文藝賞を受賞したという前作も読みたくなった。『推し、燃ゆ』はいわゆる“女オタク”を題材にした作品で、主人公の女子高生はあるアイドルグループのメンバーを熱烈に「推す」ことを生きがいにしている。“生きがい”と言うと大げさに聞こえるかもしれないけど、家族や勉強やアルバイトや生活といった世界の事象すべてに生きづらさを感じている彼女には、その「推し」が生きる糧であることは明らかだった。文中の言葉を引用すると、彼女にとって推しとは身体を立ち上げるための「背骨」だったのだ。そんな推しが急にいなくなってしまったら……?という、推しを推すことの幸福とその後の“余生”を丹念に綴っている作品。

同じ年に文藝賞を受賞したもうひとりの作家、遠野遥の『破局』を読むと「今の若者観」というか、ちょっと共時性を感じる部分があった。それは、自分自身の内側にあるものではなく、外側にある“なにか圧倒的なもの”に生が吸いついている感覚。『破局』では社会の定める倫理観に、『推し、燃ゆ』では推しに。そのどちらも物語は急激に破滅へと導かれていく。『明け方の若者たち』など立て続けに20代作家の小説に触れてきたわけだけど、同世代の作家が書いた小説をもっと読みたいなと思う。

CINRAにあった『眠る虫』の映画評と『文藝』のシスターフッドを扇動する力強い文章に立て続けに接し、高島鈴さんというライターにかなり心を持っていかれている今日この頃。eke-kingで連載なさっている「There are many many alternatives. 道なら腐るほどある」がどのテキストもアクロバティックで面白くて大事に一個一個読んでいる。第1回の「現象になりたい」、第5回の「反誕生日会主義」、第10回のパラサイト評(評ではないか)がとくに好き。全言葉に共感しているというよりは、こういうパーソナルな部分をステイトメントや映画評として昇華できることに単純に憧れ感心している。同い年のライターさん、彼女には内面から湧き上がる強さのようなものが見えて、なんでも書けてしまうんだろうなって思ってしまう。別にそんな超人ではないだろうけど。

『水は海に向かって流れる』の最終第3巻、素晴らしかった。全キャラクターが憎めなくて愛らしくて、幸せになってほしいなって切に願わせられる奥行きの説得力がすごい。今月発売されるなんて思ってなくて、ちょうど友だちに1、2巻を貸してしまったところだった。できるなら3巻続けて読んで世界観に浸りたい。そういえば沖田修一監督で映画化する『子供はわかってあげない』の公開日どこいった…?

昨年公開されて邦画シネフィル界ですごく評判のよかった『王国(あるいはその家について)』新文芸坐でやってたので観に行こうと思ったけど気づいたときにはほぼ満席だったのでオンライン視聴に回った。この映画は自宅で観るべきでなかったし、途中休憩を挟むべきでなかった。映画館で観てたらきっと自分自身も“王国の内側に入っていく”ような感覚が得られたのだろうと思う。試みもわかるしストーリーもめっちゃ面白かったので、今度はぜひ映画館で観たい(あらすじにはぜんぜん触れないスタイル)。

ロロのいつ高「心置きなく屋上で」神奈川芸術劇場で。この規模感で観るいつ高、すごい贅沢感。でもぜんぜん持て余してはいなくて、屋上にはぴったりの開放感だった。旧校舎には×、新校舎には◯が書かれていて、魔法陣だと勘違いしてどんどん◯側に人が集まっていくとびきりの幸福さ、青春。たしかに学校の屋上ってものに一度は登ってみたかった(小中高どこにも屋上というものは存在しなかった)。花粉症だと嘘をついて涙。太郎に好きだと詰め寄られてフリたい海荷。誰かに答えられるために存在しているクイズ。書いてないのに自分が書いたみたいな手紙。校舎越し太郎の1番好きな歌に気づく海荷。すべてよかった。

このロロを観たあとに思い立ってIMAXインターステラーを観たから、実はちょっとだけいつ高の繊細さな面白さが吹っ飛んでしまっている。インターステラーは洋画にハマったきっかけみたいな映画でDVDでは何回か観てるけど、映画館では観たことがなかった。それをあのIMAXの大画面・大音響で。もうmajiでgodなfilmだった。「最高」という言葉はこういうときのために普段から出し惜しみしておくべき。伸び縮みする時間の感覚がどうしたって涙を誘い、離れるにつれ近づいていく空間のパラドックスに圧倒される。コロナが明けたら新宿ゴールデン街にある一度だけ何かの弾みで吸い込まれた“ガルガンチュア”というバーにまた行きたい。

先週食べたカルチャー(20年9月1週目)

だいたい先週くらいに摂取した映画や音楽、小説、漫画などの記録。更新できずに丸々1か月くらい経っちゃったけど、8月は夏らしい日々を送ろうと夏らしいカルチャーに必死で触れようとしていた。夏は好きな季節ランキング3位か4位くらいだけど、夏のカルチャーはめちゃくちゃ好きなのだ。

 

* * *

夏の作品といえば今年は真っ先に思い浮かぶのが、さとうもか『GLINTS』だった。“一瞬の煌めき”という意味のタイトルが示すように、夏らしいきらきらを凝縮した「ひと夏の恋にまつわる物語」を集めたアルバム。どの曲もテイストが違うくてとびきりポップで最高なんだけど、「Poolside」と「My friend」がとくに好き。「Poolside」の“永遠に終わりの見えない海”と“泳ぐ前からゴールの見えるプール”という対比のモチーフは、『A子さんの恋人』での海の描写と共通点があるとある方が言っていて、確かにって思った。夏の暑い日は涼しい部屋のなかでこればっかり聴いていた。

 

8月はエビ中にも多く接した記憶がある。昨年の夏ライブDVD(ファミえん)を買って涼しげな水演出と彼女たちの歌声でデトックスして、8月中旬ごろにあった無観客ライブ配信も観た。『playlist』から聴きはじめた超新参者だから、そのパフォーマンスを観れてすごいうれしかったな〜。Nizi Projectとかを観ていて改めて思ったけど、アイドルってほんとうにすごい。彼女たちの体力と精神力に支えられている。

まっとうに王道のYouTubeをしながら独特の捻りを加えてくるかまいたちYouTubeチャンネルが好き。最近だとTHE FIRST TAKEを真似た動画が、ほかの芸人やYouTuberのオマージュ動画とは明らかに一線を画していた(見取り図も面白かった)。山内のすべらない話もっと聞きたい〜。

www.youtube.com

夏らしい映画みたいね〜、と彼女と話し合って『サマーストーリー』『夏物語』という、タイトル意味一緒だしめちゃくちゃ夏っぽい映画をTSUTAYAで借りてきた。昨年はこの時期にフランスのバカンス映画を知ってハマったんだけど、そこからエリック・ロメールに陶酔したりして、今年の夏はロメールの映画ばかり観ていたいと思っていた。でもこれが、TSUTAYAでもVHSしか置いてないくらいロメールの映画ってレアなんすよね。だからもう思い切ってメルカリでVHSデッキ買っちゃいました。イギリスの映画『サマーストーリー』はびっくりするくらい“夏感”がなくって、ベタベタに王道でありながらラストがかなり暗い謎すぎる恋愛映画。『夏物語』は男性主人公がバカンスに訪れた地で3人の女性に惹かれていく、ロメール感たっぷりの求めていた映画だった。『海辺のポーリーヌ』のポーリーヌ役の女優が10数年たった本作にも出ていて、彼女を観れただけでも満足。会話劇と恋愛劇がノリに乗っていて、これを70歳くらいの巨匠が撮っていたというところには驚きしかない。今泉力哉監督とかにも、おじいちゃんになってもこういう映画撮り続けてほしいな。

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ミニシアターエイド基金のリターン、サンクスシアターで今泉力哉監督の処女作っぽい『此の糸』という短編を観た。2005年に撮られた作品。びっくりするほど今泉映画だった。主人公らしい男性は今泉力哉本人が演じていて、彼には好きな女性がいる。その女性は別の男性が好きで、その男性は主人公の親友。「好き」が近場でぐるっと一周してしまうおなじみすぎるやつ。やっぱ端々の会話の自然さがすごいなって思った。

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映画館で観た映画のなかから特別印象に残った作品をいくつか。『ブックスマート 卒業前夜のパーティーデビュー』は前評判どおり右肩上がりに最高が更新されていく、とても現代的なアメリカ青春映画。現代的な、というのは、スクールカーストみたいなものがほぼ存在せず限りなく多様性が認められているように見えるところ。うちの高校も案外あんな感じだったなとは思いつつ、とびきり明るい映画だからこそ、やはりああいう世界観からこぼれ落ちてしまう存在がいることも気になってはくる。青春映画はこういうのとめちゃくちゃ社会的なやつの両軸でいいな。中間はいらない。『思い、思われ、ふり、ふられ』『のぼる小寺さん』は前者だったので好き、『君が世界のはじまり』はどちらでもなかったのでうまくハマれなかった。

k's cinemaで『れいこいるか』という映画を観た。今泉監督が激推ししていたやつ。95年の阪神淡路大震災がテーマになっていて、その震災で娘を失った夫婦のその後の25年間を描いた作品。アンチドラマチックというか、映画が逃れられない物語性やフィクション性に真っ向から抗おうとしている作品なので、こういうテーマだとありがちなわかりやすく泣けるようなシーンは本作では全くなかった。でもだからこそ、震災やそこに生きる人物を近くに感じることができたんだよな。95年に神戸近郊で生まれた僕にとって大震災は意外と遠い存在だったから、脚色の薄いこの映画を観ている時間だけはすっと身体に染み込んでいく感じがした。どんどん巡る季節、変わらないものの存在、消えない記憶。追いかけっこをしているみたいで、ずっと追いつくことができない。でもそれでいい。

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映画の日に観た『ソワレ』に、今もまだ胸がざわつくほど惹かれている。ストーリーは破綻しまくっていると思う。『れいこいるか』なんかに感動してすぐに観たら尚更。でも、本作は荒唐無稽な逃避行劇が軸としてあるのだけど、このストーリーがなければ主人公ふたりがあれだけ輝くことはなかったのかもしれないな、なんて思ったりもする。本作の主演、村上虹郎と芋生悠が素晴らしすぎた。いつ消えてしまうかわからないほどまばゆい光を放つふたりが、とにかく美しすぎたのだ。映像もバシバシ決まってたんだよな。村上虹郎は何もしなくても売れるだろうけど、芋生悠さんの今後はめちゃくちゃ楽しみ。

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やっと『Nizi Project』を観た。シーズン1が少しかったるくて止まってたので韓国合宿のシーズン2から観たらどんどんハマってしまった。

「僕が今までに指摘したことは全部忘れて、思う存分楽しんでください」このJ.Y.Parkの言葉にすごく引っ掛かりを感じた。そんなの無理じゃね?って。でも驚くのは、ひとたび彼女たちのパフォーマンスが始まると、そういうことを全部忘れるくらい画面に釘付けになってしまうことだった。思えばアイドルというのはそういう存在である。裏には途方もない努力があって、苦労があって、もしかしたらとても舞台に立てるコンディションではないかもしれないけれど、それでも立っている。その裏側をファンが知ることはできないし、もしできたとしたら、おそらく冷めてしまう。Nizi Projectには、アイドルがデビューするまでの大変な過程(のほんの一部分)が映し出されている。だからその姿を想いながら、舞台上でパフォーマンスする彼女たちを観て「よく頑張ったねぇ」と涙することも可能だ。でも僕は、彼女たちがその苦労を“全部忘れて”楽しんでいる以上、こちら側もただそこにある煌めきだけを追っていくべきなんだろうと、そんなことを思った。それでもやっぱり、ちょっと感極まってしまうんだろうけど。

芥川賞受賞の破局、読みました。主人公の思考が鮮明に描かれすぎていてめちゃくちゃ気持ち悪かったけど、ところどころ共感の余地もあるし、同世代を捉えた作品としてこれだけ解像度の高いものはないなと思いながら夢中になって一気読みしてしまった。芥川賞受賞会見で本作の著者・遠野遥が述べたコメントも含めて好きだ。

「全然、自分ではそんな変なキャラクターにしようとか思ってなくて、逆に、もう人によってはけっこう、気持ち悪いとか、共感できないとか、怖いとかおっしゃるんですけど、そんなふうに書いたんじゃないのになって思いますね。もう少し親しみを持っていただけたらと思います」

AI的に導かれる思考回路は、データ社会の進行する現代において、まったく人ごとではない。現代を生きるマイノリティの詳細すぎる自分考察がこの作品にはあって、それは世界と地続きだと思った。

破局

破局

 

Amazonの評価がめちゃくちゃ高い『明け方の若者たち』も短かったのですぐ読めた。タイトルが物語っているのだけど、なんとなく没個性な感じが否めない作品だ(とくに『破局』を読んだあとだと…)。朝井リョウの劣化版みたいな若者語りが主軸としてあるのだけど、こと恋愛の描写に関してはそれなりに純度が高いなと思った。しっかり昔好きだった女性のことを思い出してしまったし。同じ業界にいながらカツセマサヒコという人物をまったく存じ上げなかったのだけど(そもそも僕は業界のことをまったく知らない)、ライターが書いてるというだけでちょっと鼻につく部分はありますよね(笑)。負け惜しみ100%の感想なんだけど。

明け方の若者たち (幻冬舎単行本)

明け方の若者たち (幻冬舎単行本)

 

買っていたけどずっと読めていなかった和山やまさんの漫画『夢中さ、きみに。』女の園の星』第1巻を読んだ。面白い〜〜…。男子高が舞台の前者と女子高が舞台の後者。どっちも愛しかなくて最高なんだけど、『女の園の星』はとくにすごいよかったなぁ。最初は表紙に描かれている先生が女子校の中でもてはやされる作品なのかなって想像していたら、別にそんなことなくてまっとうにイジられたり、一定の距離感のあるコミュニケーションが描かれていたり、女子校って未知の世界だけどすごく想像の範囲内の話になってる。想像の範囲内だけど、ともかくギャグセンが高くて、終始ケタケタ笑いながら読んでいた。(P91の)無言のコマが面白い作品は最強だ。

『MIU404』の最終話。一度間違ったピタゴラスイッチをやり直す、第6話の繰り返しのような展開を堂々とやってのけた。捕まった久住が病院で最後「俺はお前たちの物語にはならない」と言う。罪を犯した原因をあるひとつの過去に結びつけるという、物語の強引さに長らくドラマや映画は引っ張られてきたわけだけど、本作はそう結実しない。伊吹はガマさんに会えていないし、ハムちゃんは自由な生活を完全に取り戻したわけではないだろう。その宙ぶらりんな状態に意味を持たせるということ。野木亜紀子のドラマに描かれるその続きをこれからも楽しみにしたい。

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先週食べたカルチャー(20年7月3〜4週目)

先週あたりに観た映画、ドラマ、バラエティなどの記録。気づいたら最近またテレビ番組をよく観るようになったなぁと思うのだけど、これはテレビの面白さが再燃してきてるのか、ただ単に僕がここ1年くらい全然観てなくてテレビはずっと面白かったのか、どっちなんでしょうか。まぁどっちもなんだろうけど。ちょっと前までは千鳥の番組しか観てなかったのに、『あちこちオードリー』『ゴッドタン』『アメトーーク』『爆笑問題のシンパイ賞』『くりぃむナンチャラ』『霜降りバラエティ』あたりを欠かさず観るようになってる(こんなにTverで観れるんだぁという驚きがあって、YouTubeなど観ている暇がなくなった) 。BS日テレの漫画紹介番組『あの子は漫画を読まない。』もけっこう好き。僕がテレビを再び観だしたのはてれびのスキマさんの毎日連載記事の影響もかなり大きい(言うまでもなくこのエントリーはその影響下にある)。「面白いよ!」と誰かに言われたものから逃れられないサガなのだ。

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ちょっと間が空いてしまったけどABCお笑いグランプリはAbemaでリアルタイム視聴していた。関西に住んでいたときはたぶん一度も観たことがなかったのにここにきて初めて観ることになるってことは、僕のお笑い好きのピークが来ているのかもしれない。だからバラエティ番組もよく観るようになったんだろうけど。今さらながら毎年こんな異種格闘技戦が繰り広げられていたとは。すべて振り返っても、Cブロックが実質決勝戦くらいに白熱していたなぁと個人的には思う。特にフタリシズカの1本目ね。他のネタもYouTubeで観たりしたけど、中盤すぎの爆発力が半端ないんだよな〜。それも身体的な特技を活かしている爆発だから、なんの小細工もなしに笑えてしまう。あとはオズワルドの決勝のネタも最高だった。いろいろ技巧的にも凄いところがあるんでしょうが、伊藤の最初のほうの「逆!?」「詳しく聞かせてくれよ」の二言を2回ずつ繰り返すだけで徐々にギアを上げていく感じ、まあうますぎて惚れちゃう。

石原さとみさん主演の『アンサング・シンデレラ』第1話を観た。脚本は『グランメゾン東京』の黒岩勉さん。さいきんのドラマは1話目だけ観て離脱してしまうことがほとんどなのだけど、これはすごく面白かった。病院薬剤師という、その名のとおり病院内にある薬剤部の薬剤師たちにスポットを当てた医療ドラマで、特徴的なのは主要キャストの7、8割くらいが女性であるところ。ゲスト俳優もだいたい女性で、このドラマがいかに社会で働く女性やシングルマザーに焦点を当てようとしているかがわかる。しかもそのフェミニズム的語り口がそんなにクドくなくて無理がないのがいい。「女性だから舐められているんだろうな」と明らかにわかるような石原さとみが窮地に追い込まれるシーン、そこで凡百のドラマであればスーパーウーマンがひとり登場して『スカッとジャパン』みたいな逆転展開を見せるのだろうけど、それで解決すれば無理はないでしょう。でもそんなのいまの社会では悲しいことにあまり現実的ではない。それがこのドラマでは外堀から攻めていくというか、まわりの登場人物(主に女性)たちのゆるやかな連帯によって主人公が助けられていく様が描かれていくのが気持ちいい。第2話はまさかの第1話とほぼ同じ感じのタイムリミットサスペンス的な展開を繰り返してしまっていたのでちょっとガックリしたけど、徐々に桜井ユキさんや田中圭さんあたりのキャラクターが見えてきて相変わらず面白かった。毎回クライマックスで急に石原さとみが説教くさくなる(脚本家の顔が透けて見えてしまう)のだけはちょっと引いてみてしまうものの、テンポ感もいいしキャストもいいし、とりあえず継続視聴すると思う。

『MIU404』がやっぱりずっとすごいことをしている。第4話では社会的弱者である女性を、第5話では外国人労働者の苦悩を真正面から描いてみせていた。第2話までは主人公のふたり(星野源綾野剛)の演技にあまり入り込めなかったものの、案外このふたりのキャラクターの希薄さこそが、社会問題をドラマチックに語りすぎずまっすぐに見つめることへと役立っているのかもしれないなぁと思う。真逆のふたりがバディを組むという凸凹コンビは言うなれば2人を1人に描いているようなものだから、その完全と不完全の狭間にたたずむ(本作が描く)圧倒的な闇テーマに意識を運びやすいのだろう。すべての問題は見ようとすれば見えるけれど、逆にいえば見ようと決心しなければ一生見えない。そこに確かに存在するマイノリティの存在について「意識するかどうか」をただひたすらに問うてくるドラマだ。

試写で観てめっちゃよかった映画について2本連続で。俳優としても活躍するジョナ・ヒルが監督を務めた『mid90s ミッドナインティーズ』(9/4公開)がとーっても面白かった。90年代半ばのLAを舞台に、13歳の主人公の少年がちょっとガラの悪いスケボー友だちと交流していく話。

またしても今年何本目かの子ども映画の傑作が現れてしまった。今年面白かった映画はぜんぶ「子どもが良かった」となりそうなくらい印象的な映画が多い。お兄ちゃん役のルーカス・ヘッジズもかわいかった。

渡辺大知×奈緒『僕の好きな女の子』(8/14公開)をオンライン試写で見させていただき、「大好き!!」となっている。又吉原作の映画化で、監督・脚本は劇団・玉田企画の玉田真也。(玉田さんのさいきんの活躍が案外すさまじいのだよな…。)言ってしまえば『愛がなんだ』の男女逆転版みたいな純粋な片想い映画なのだけど、僕はこの映画の「好きという感情が立ち上がる瞬間を詰め込んだような圧倒的な瑞々しさ」に心を射抜かれてしまった。その前半の微笑ましさと、玉田企画らしさであり又吉作品らしさでもある人間関係の悲哀が現れた後半のバランス感覚。個人的にも共感できることばかりで、これは刺さる人には刺さるじゃないかなと期待している。玉田企画常連キャストに加え、萩原みのり、徳永えり、仲野大賀、朝倉あきジャルジャルあたりの邦画好きホイホイ俳優が多数出演しているのにも注目です(ほとんどがチョイ役だけど)。公開されたらレビュー書く。(『あなたの番です』をちゃんと観てなかったのでヒロインの奈緒さんに一発で惚れてしまったのだけど、くだんのサイコパス役がしみつきすぎて集中できないという感想もみました…。でもめっちゃかわいく撮られてる。)

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その玉田さんが脚本を務める(オリジナルストーリー)BSテレ東のドラマ『40万キロかなたの恋』も第1話が放送開始となっていたのでTverで観てみた。千葉雄大演じる宇宙飛行士の高村宗一が主人公。彼はある理由から人間関係を閉ざしてしまっていて、宇宙船でAIのユリ(声・吉岡里帆)と生活するほうが楽しいと思っている。そこに元恋人の咲子(門脇麦)が彼に密着取材するテレビディレクターとして現れ、三角関係みたいになっていく話らしい。withコロナの時代に合った三密を避けた撮影体制のなかでのアイデア企画という感じではあるものの、宇宙船で起こるさまざまなハプニングやAIの存在が数多のSF映画を想起させる作りになっていて面白い。声だけなのに吉岡里帆がちょっと無機質な(『カルテット』のありすのような…)怖さがあってめっちゃ適役…。全4話なので続けて観てみようと思う。

工藤遥さん主演の青春映画『のぼる小寺さん』。評判がよかったのと、キラキラ以外の青春映画はぜんぶ観なけりゃいけないという強迫観念により観賞した。前評判で聞いていたとおり、『桐島、部活やめるってよ』の“あるひとりの人物を取り巻く群像劇感”と、『町田くんの世界』みたいな主人公の驚異の純粋さ、ポストスクールカースト的なテイストのうえに形成された映画。ボルダリング部に所属し将来はクライマーになりたい圧倒的聖人キャラの小寺さんを中心に置き、まわりの人物が彼女に影響されてよい方向に変わっていくという、すごく安心して観れるほっこり作品ですね。前述の類似2作品が僕はオールタイムベスト級に好きだから、比べてしまうと正直ストーリーは薄いなぁと思ってしまった。でも、一生懸命なにかに取り組むこと、人を見つめることを全肯定するモチーフは大好きだし、こういう青春映画、マイナースポーツを扱った映画はいくらあってもいいと思う。何よりも工藤遥さんの演技というか佇まいが最高に“小寺さん”を形作っていて、すっかり魅了されてしまった。モー娘オタクだからそこは素直にすんごくうれしい。もっといろんな作品で観たい。

NHKで放送されたドラマ&ドキュメンタリー作品『不要不急の銀河』はドラマ好き・街の飲み屋好きは必見だと思う(NHKプラスではまだ観れる。再放送もありそう)。コロナによって多大な影響を受けたエンタメ業界と夜の街関連の業界の苦悩と再生を前半でドキュメンタリーとして描き、後半は又吉直樹脚本によるスナックを舞台にした家族と青春にまつわるドラマが展開されていく。前半で実在のスナックのママが発する言葉一つひとつが、後半のドラマを観るなかで心に染み込んでいく感覚があって構成としても素晴らしいし、そのあられもなく光り輝く存在の愛おしさに涙してしまう。飲み屋にはまだ頻繁には行けないけど、ずっと心の片隅で想っています。

ドラマ&ドキュメント「不要不急の銀河」 - NHK

渋谷のヨシモト∞ホールへネタライブを観にいった。7/24に行われた『PREMIUM∞NETA LIVE ONLINE』というやつ。出演していたのは、さや香、金属バット、蛙亭、ななまがり、コロチキ、ニューヨーク、コマンダンテなどなど計11組。実はお笑いライブというものに初めて行ったもんだから、1時間(だいたい4分ネタ×11)に凝縮されたお笑いの濃度に軽く溺れそうになった。こんなに面白いのかよ。間違いなくクセになってしまう。やばい。劇場なのに床に笑い転げそうになってしまう瞬間がいくつもあって、出演していたすべての芸人を愛でた。劇場は前方は3列くらい空席にしていて、それ以降も2席空けで座席を配置していたり(使っていたのは全体の1/3席くらいでしょうか)、コロナ対策はしっかりしてたと思う。ほんとにどのコンビも面白かったんだけど、ニューヨークと蛙亭には改めて惚れ込んでしまい、ななまがりの異次元の面白さにはこの日いちばん度肝を抜かれた。いいな〜もっと観たいな〜。

そのニューヨークの魅力が大爆発していた『くりぃむナンチャラ』先週と今週の回が素晴らしく面白かった。アイドルの大喜利番組を撮るというニセの企画にMCとして呼ばれるニューヨーク。アイドルにはくりぃむの2人とかまいたち山内が“座付き作家”として付いていて、イヤホン越しに逐一行動を指示していく。そしてその暴走にニューヨークが困惑していくという流れ。もとより僕は『アイドリング!!!』内の「バカリズムは誰だ⁉︎」というコーナーとか、ひなあい宮崎ロケの若林がメンバーに指令を出していくやつとかが無性に大好きなので、その暴走だけでも観てられるのだけど。今回はそこにツッコミ役としてニューヨークが加わっているから、番組の盛り上がりとふたりの手応えが反比例していく様にめっちゃ笑った。ニューヨークが出ているバラエティはできるだけぜんぶ追いたくなっている。

3回目の特番放送となった『あざとくて何が悪いの?』もとてもよかった。秋から『テレビ千鳥』『シンパイ賞』とともにゴールデンのレギュラー進出が決まっている番組。再現ドラマを観てスタジオメンバーがあれこれ言う(2回目の登場『スカッとジャパン』みたいな)番組ってなぜだかすごく嫌悪感があるのだけど、この番組は語る人が全員当事者であるといいますか、あざとキャラの第一線をいく人たちがスタジオメンバーを固めているのがとてもいいと思う。なんというか「批判」の言葉がなくて、ぜんぶ愛らしさに転換されていくんだよな。途中から気づいたけどIndigo la Endとか羊文学とか、J-Rockナンバーを随所で5秒ずつくらい挟み込む感じ、この番組のプロデューサーもこの番組自体も相当あざといなぁと思う(余談、『40万キロかなたの恋』のオープニングにもなってるIndigoの「夜漁り」とてもいい)。あと松本まりかさんのインスタライブは3、4回観たことがあるけど、ほんとやばいよね。あざといとかいうレベルではない。

 

今週食べたいカルチャー

『君が世界のはじまり』7月31日公開。ふくだももこ監督の前作『おいしい家族』が惜しくも観れてないのだけど、松本穂香、中田青渚あたりの俳優陣に惹かれている青春映画。同じく青春映画『アルプススタンドのはしの方』も評判がいいので観にいく。

クレールの膝ロメールの映画が東京都写真美術館で2回だけかかるみたいなので、絶対に行かなければ。ど平日だけども。

沙希ちゃんの瞳にうつる永田を見ていたーー後悔と絶望と祈りの映画『劇場』

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「感情に従順である人間を僕は恐怖の対象として見ていたが、そういう人間こそ尊いと思うようになった」

どうしてこういうことを直接声に出して言えなかったのだろう。
そんな日常の連続で成り立っているのが、『劇場』という映画なのだろう。本作のモノローグの多さは、そのまま永田の「後悔」の数に等しい。誕生日プレゼントを渡した際にふと垣間見た、彼女のいくつもの感情が純粋なままにないまぜになった表情。美しいなと思った瞬間に、なぜ言葉にできなかったのか。でもいつだって人間は、そういう大切な一瞬を取り逃がしてしまう生き物なのではないだろうか。それになんとか抵抗しようと、永田は演劇をやっていたのではないか。

「ねぇ気づいてないと思うんだけどさ、永くんって私のこと褒めたりしてくれたこと一度もないんだよ」

そんな言葉が重く響いた後のある夜に、永田は沙希を自転車の荷台に乗せて走り出した。まるで過去に向かって走っているかのように、自転車とそれを捉えるカメラはX軸でいうところの左(マイナス)方向に流れていく。お台場のライブハウスで汗だくになった帰り道に、沙希ちゃんが帰り道の人々を見ながら「みんな幸せになりますように」と言ったこと。それを聞いて「俺しあわせだわ」と思ったこと。沙希ちゃんに初めて会ったときに「神様だ」と感じたこと……。
このシーンがとてつもなく真に迫っているのは、沙希ちゃんの表情がみるみる変わっていくところにある。思えば『劇場』という作品は、“感情に従順である”という沙希ちゃんの表情の変化を追う映画であったのかもしれない。その表情の変化に比して、何も変わらない永田の存在が浮き彫りになっていく映画だったのかもしれない。

沙希ちゃんが大学の男友達から原付バイクをもらってきた夜もそうだった。無性にむしゃくしゃしていた永田はバイクに乗ってあたりを何周も何周もーー沙希ちゃんを無視して何周も何周も走らせてしまう。1周目では道の陰に隠れて「バァ〜」と驚かそうとした沙希が、2周目では気づかれぬことを恐れてすでに道端に出ている。3周目では無言のまま立ち尽くし、4周目にはその場からついにいなくなってしまう。
永田と沙希の関係性の変化を象徴する場面であると言えるかもしれない。永田は何も変わらず走り続け、そのうち沙希は姿を消してしまう。

永田にとっての沙希ちゃんというのは、いつ何時も味方でいてくれるそれこそ神様のような存在だった。絶対的に他人でありながら、それでいて自分の一部分でもあるような。いわば徹底的に自分に甘い客観性の象徴のようなものだったのかもしれない。そして唯一の理解者でもあるから、自分の演劇に出演してもらうことや自分の演劇を観てもらうこと、他の人の演劇を観て楽しんでいるところを見ることができなかった。観てもらわずとも絶対的に理解してもらえているのだから、わざわざ作品を観てもらう必要がなかったのだ。いうまでもなく絶望的な関係性なのかもしれない。

その客観性という偶像がついに破れ果てるのが、ラストシーンの本作らしい演出によるところ。彼らの日常がたちまち演劇世界へと開かれ、その“劇場”の客席には沙希がいる。いわば永田の心の中(=部屋あるいは舞台上)にいた沙希が、心の外(=客席)に出ていったとも捉えられる場面だ。永田も沙希も、もう独り立ちしている。永田は、心の中に留めていた感情をそのまま取り逃がすことも少なくなるだろう。沙希は劇場から(右手方向=未来に向かって)外へ出て、歩みを進めていくのだろう。

「演劇ができることってなんなんだろうって、最近ずっと考えてた。そしたらさ、全部だったよ。演劇でできることは、現実でもできる。だから、演劇があるかぎり絶望することはないんだって。だから、今から俺が言うことはある意味ほんとのことだし、ぜんぶできるかもしれないことね」

そうやって語られだす、あるとき偶然出会った男女の未来に対しての祈り。