縞馬は青い

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映画とか、好きなもの

ポップカルチャーをむさぼり食らう(2019年11月号)

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11月は、“人生でいちばん口内炎が痛い日”があった。これはその日に書いている。憎たらしいったらありゃしないそいつは、下の歯にちょうどあたる位置にできていて、しゃべるのはおろか、何もしてなくてもずっと全身を痛みが貫いてくる。こうやって事細かに描写して読んでる人にその痛みをお裾分けすることでしか心身を和らげられないのだけど、お陰さまで言うほどでもないかなという気分になってきました。ありがとうございます。今日は一日中取材をしててしゃべり倒しだったんでほんと死ぬかと思った。

けどなんとか生きて家路についたので、服を着替えて20時ごろに再び家を出てアップリンク吉祥寺に行き『若さと馬鹿さ』という映画を鑑賞。古アパートに同棲して暮らす30手前のダラダラカップルの日常が描かれた映画。粒子が粗く自然光をとらえた温かい映像がとてもよくて、一つひとつの生活描写もグッとくるものばかり。例えるならば『きみの鳥はうたえる』『愛がなんだ』のような自然さ。とことんダメなふたりだからこそ共感して無理なく寄り添える。締め方はちょっと気に食わなかったけど、それ以上に主演の松竹史桜さんの魅力が爆発していて、今年みたインディーズ映画のなかでもかなり印象に残る映画だった。『岬の兄妹』には俳優として出ていた中村祐太郎監督、こういう映画を撮り続けてほしいな。映画を観終わったあとは最寄りの銭湯で体を温め、心身のパワーをチャージした。仕事終わりでも映画観て銭湯に行ける。まるで休日みたい!と思ってめちゃくちゃ元気になりましたとさ。めでたしめでたし。

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いやでもね、まだ口内炎の話題はつづきますけどね。笑うのすら激痛だからしんどかったんだけど、Gyaoで見られるM-1 3回戦のみんなのレコメンドがTwitterでいっぱい回ってくるもんだからまぁ見ちゃうよね。シンクロニシティは爆笑しそうになったので思わず停止してしまい後で見ることに(それくらい最高)、蛙亭、ラランド、ミルクボーイ、シシガシラ、キュウ、Dr.ハインリッヒ、しんぼる あたりが最高だった。そのせいで口内炎ができてから4日くらい経った今も、一向に治る気配がなく酷くなってきています。しかしM-1楽しみっすね!(笑いたいけど笑えないという経験は、「笑ってはいけない」の擬似体験としてはおもしろかったけど、普段爆笑できることの幸せを強く噛み締めた。みんな笑えるんだから、たくさん笑って生きていこうね。)

* * *

口内炎は治った。でも体調が悪いのでプラマイゼロ。と言いたいところだけど、やっぱりおいしいごはんと笑いという感情を取り戻した僕は最強だ。なんだってできちゃう。いやはや、テレビ千鳥の「高級レストランに行きたいんじゃ!」回のおもしろさったら……。友だち同士の悪ふざけ極まれり、な笑い。若年のシェフとスタッフさんがちょっと悲しそうな顔をしていたのは気になったけど、内心どう思ってたのか気になるな。アート映画をあんな風に笑いに変えられたら俺はぜんぜん笑っちゃうんだろうな。ーーAマッソを久しぶりにYouTubeで見かけたら、すごいおもしろくなくなっててショックだった。こんなことあるかと思って加納さんがちくまwebで連載しているコラムを読みにいったら、秀逸な文章で唸ってしまうという…。第19回「拳銃!」。何気ない日常の所作の積み重ねがドラマになり、最後にはサスペンス味を帯びだすというスペクタクルテキスト。第18回の森見登美彦風テキストもいい。やっぱりおもしろいんですよAマッソは。安堵。

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今月は後半の体調崩し期の前に『最初の晩餐』『マチネの終わりに』『わたしは光をにぎっている』と3つも感想エントリーを書けたので満足。『わたしは光を〜』では、言霊を信じて強く生きてやりたい、と踏ん張って意気込んだけど、そうするとしんどいときに取り返しがつかないことになるんだと最近気づいたので、もうちょっと適当にゆるく生きるのが性に合っていそうだ。こうやって、言葉を言葉で打ち消すのはとても大事。リアルサウンドに寄稿した「桜井ユキ評」が思ったよりよく書けて、彼女と彼女が演じるキャラクターたちのことがもっと好きになった。意志を強く持っているけれどそれゆえに生きづらく、時々迷いの表情が現れる女性たち。『真っ赤な星』の桜井ユキがその最たる例だと思う。三浦透子もいるしユマニテは強い。

Netflixで12/15配信、11/29に劇場先行公開の映画『マリッジ・ストーリー』がとてもとてもすばらしい。『フランシス・ハ』『マイヤーウィッツ家の人々』の大好きなノア・バームバック監督。東京国際映画祭でひと足早く見たとき、劇場がまるで『フルハウス』に差し込まれた笑い声みたいに数秒ごとにどんどん受けていて、なんか映画を観ているよりお笑いを観ているみたいな、それくらい異様なお笑い家族映画だった。だけど内容は、幸福だった家族が離婚を決め、血みどろの裁判に突入していく様が描かれているので『ブルーバレンタイン』のように極めて地獄。甘辛の塩梅がえげつないほどうまいから、笑えるし、本気で苦しくなるし、泣いてしまう。スカーレット・ヨハンソンアダム・ドライバーは、間違いなくベストアクトだし、あの体格差は妙に愛らしかった。配信されたら数日は冒頭シーンを繰り返し観ると思う。『最高の離婚』が好きなひと、絶対観るべし。

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乗り物をうまく活用している作品はなんかめちゃくちゃ心を惹かれてしまう。『このサイテーな世界の終わり』シーズン2もすばらしかった。アリッサとジェームズはS1から「横に並ぶ」というだけで特別な意味づけをされているから、車で“彼らの間にいるボニー”という表象の仕方や、最後のほうの展開は鳥肌モノだった。もっとみていたい。ーーここにきて高畑勲にハマる。『おもひでぽろぽろ』も純然たる乗り物映画。寝台列車でひとり過去を回顧し、田舎で同乗した青年に心を許して、最後の電車での決断に至るまで。『WOOD JOB!』とか最後の流れほぼ一緒やん!とか思ったし(大好き)、『四月の永い夢』とも通じる部分が多々ある。主人公のタエ子にはめちゃくちゃ共感できてしまうタイプの人間です。ーー続けてみた『かぐや姫の物語』も半端なかったなぁ。照射されるのは現代人が抱えるフラストレーションと同じもので、その生きづらさに真っ向から立ち向かいながら、この彩りに満ちた世界の美しさを垣間見せる。「生きるために生まれてきたのに」と嘆くかぐや姫の儚さたるや。数少ないアニメ映画鑑賞数のなかでは一番好きな作品だ。

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シャムキャッツのEP『はなたば』がめちゃいい。なかでも「はなたば 〜セールスマンの失恋〜」をリピートして聴いてる。三部構成みたいな音楽のなかに、かわいい日常と異世界感と切なさの刹那が盛り込まれていて、なんだかクセになって繰り返し聴いてしまうんだよな。〈くたびれたコンビニの前で缶ビールを開けたときにふと思った〉〈プールサイドで涼しい風にちょっと当たっていたかったね〉とかまずフレーズが最高だし、言葉が音のなかに最大限に詰め込まれてて耳心地もいい。

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ある事情からYouTubeにめちゃくちゃ刺激を受けたひと月だったのだけどその折に見た『みんなのかが屋』がとてもおもしろかった。かが屋のふたりが展開するYouTubeチャンネル*1。漫画『バクマン』で亜城木夢叶のライバルとして登場する七峰透が編み出した漫画制作の手法ーーインターネットで募ったモニター50人から物語のアイデアを得て、それを組み合わせて漫画を作るーーに感銘を受けた加賀くんが、「悪いモンがやったからダメになったけど、(俺たち)良いモンがやったらうまくいくんじゃないか」との発想でうまれた企画とのこと。生配信で行われる『みんなのかが屋』は“15分”の制限時間のなかで視聴者からアイデアを募り、ひとつのコントを作り上げていく。これがまぁ想像以上に毎回よくできていて、ハプニング的なものも含めてぜんぶおもしろいのよ。1回目放送のひとつ目の『トイストーリー』を題材にしたコントからもう2人の魅力が爆発してて最高なのでぜひご覧あれ。


みんなのかが屋 15分でコント1本つくる生配信 概要

今月最後のビッグトピックといえばアンタッチャブルの復活ですね。ネットでバズってるのを確認してから後追いで見ることになったけど、わかっててみてもめっちゃおもしろいし、今世紀最大のグッとくる〜案件だったわ。『M-1 2004』のときのネタを見返したり、TLでまわってきた柴田さんがネタ中に爆笑しちゃうやつ見たり、単純に幸せでした。また見れる、と思いながら振り返れることの喜び。

来月は12月なんで演劇とかYouTubeとかの年間振り返りorベスト(映画は個別エントリーで)を書きまっす。いや〜忙しい忙しい。インフルエンザにだけは注意したい。

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*1:作家として『Aマッソのゲラニチョビ』『しもふりチューブ』等の白武ときお氏が参画。

言霊と光、心を導いて/中川龍太郎『わたしは光をにぎっている』

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確信的な 朝を何度も迎えにゆくために/これからもずっと どうにかしなくちゃ/君をおどろかせていたい/確信的だ 今日は必ずいいことあるはずだ/追いかけたバスが待っていてくれた/かっこいいまま ここでさよなら ーー「Home Alone」

恋しい日々を抱きしめて/花瓶に花を刺さなくちゃ/部屋の電気をつけなくちゃ/明日の目覚ましかけなくちゃ ーー「恋しい日々」

君の不安を取り除くのは/お祈り 呪術か魔法/それがだめなら 外にでも出て 美味しいものでも食べてみなーー「カーステレオから」

 

主題歌の「光の方へ」は本作を締めるのにこれ以上ない曲だ。そして映画を観ているあいだ、カネコアヤノの楽曲が紡いできたたくさんの力強い詩のことを思い出した。辛さも喜びもすべてを包み込んで、日々の営みを自分自身で柔らかく肯定していく“祈り”のような言葉たち。「言葉は光、光は心ーー。」。澪(松本穂香)の祖母がそう言うように、言葉は言霊となって行く先を照らす光となり、やがてその光は己の心を抱きしめ、鮮やかな色に染め上げていく。「わたしは光をにぎっている」。劇中で何度も繰り返されるこのタイトル(山村暮鳥の詩)のなんと力強いことか! 読むたびにたくましくなっていく澪の声色は、映画にあった無数の光を掴んだまま私たちを遠く、光の方へと連れて行ってくれる。

 

できないことも頑張って/やってみようと思ってる ーー「祝日」

言葉が反射する こころの底に/言葉じゃ足りないこともあるけど/瞳は輝きを続ける ーー「光の方へ」

 

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カネコアヤノの楽曲と同時に想起したのは、今年3月に放送された『世界ウルルン滞在記』で“世界一寒い村”へ旅に出ていた松本穂香の姿だった。

 

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-50℃にも及ぶ極寒の地で、その小さな身体を酷使しながら家畜の世話をしたり掃除をしたり、子どもをソリみたいなものに乗せて学校まで送っていったり。その辿々しくも一生懸命にホームステイ先の家族たちと歩幅を合わせようとするさまには無条件に心を引きつけられてしまった。その姿とぴったり重なりゆく本作における澪というキャラクターは、松本穂香自身にかなり近いものがあったのだろうと思う。だからこそ、中川龍太郎監督と山村暮鳥の詩、カネコアヤノの歌とともに四身一体となって本作の祈りを体現してみせている。銭湯の入り口にちょっぴり背伸びして暖簾をかけるシーンの反復、あれには坂元裕二(『カルテット』の世吹すずめ、『初恋と不倫』の三崎明希)による生への肯定と同じものを感じる。一挙手一投足がとても彼女らしい。それにしても松本穂香さん、あまりにもかわいすぎひん?

 

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「場所や風景が主人公の映画」とは、中川監督がたびたびインタビューで吐露していること。言葉や人物だけでなく、本作における「立石」という再開発地域や「銭湯」「エチオピア料理屋」「映画館」「商店街」といった“場所”は登場人物の一人ひとりとして強く輝きを放っている。言うなればその場所にいる“人間”や刻まれる“記憶”は、手のひらで掴んだ光のようなものだ。掴んだ手を放すのと同じように、場所がなくなると、人も、そこにあった記憶も薄れていってしまう。しまいには何もかも無くなってしまうかもしれない。そうした“消えていくもの”に対してどう反応し、未来を生きていくか。この映画が見つめるのは、おぼつかないけれど“しゃんと“終わらせて、その先を歩いていく、登場人物たちの一歩一歩だ。

ひとつのものが終わり、新しくなにかを始めるとき。私たちは言いようもない不安に襲われ、孤独に闇を抱えてしまうことがあるかもしれない。幸福な記憶は薄れ、今の恐怖感だけに心が支配されてしまうかもしれない。しかしそれでもこの映画を観ればきっと、確実にそこにあった光のことを、また別の場所に必ずあるだろう光のことを想い、前を向いて歩きだすことができるはずだ。そうしてひとたび光をにぎってしまえば、あとはこっちのもん。わたしは光をにぎっている。この言葉を心に深く刻みこみ、そう力強く生きてやりたい。*1

 

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狂う男、狂わされた女ーー死の季節に生が薫る『マチネの終わりに』

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『昼顔』の西谷弘監督×井上由美子脚本コンビということもあり、ただの大人の恋愛映画じゃないんだぞ、という薫りがぷんぷん漂う本作『マチネの終わりに』。はじまりからしてとても不穏で、いやに甘美。

 

そのはじまり。耳心地のいい音楽が心をやさしく撫でてくれたかと思いきや、その音の発生源である蒔野(福山雅治)は、ときに暗闇のなかに吸い込まれそうなイメージを纏い、終演後の楽屋では水を飲みながらうなだれている。徐々に明かされることであるが、20歳でデビューを果たしたこの天才ギタリストは、歳を重ねていくなかで若いころには感じ得なかった、「見えない未来への恐怖感」を抱いていた。11月という草木の枯れた季節を舞台にはじまる本作。そこでは、水を常に手に持ちながらしかし吐き出してしまう枯れた姿や、まるで“喪に服している”かのように漆黒な服装など、蒔野にどこか「死」のオーラが漂っている。心情面でも明らかなように、怖いものなしだったころの過去に囚われ、“これから”を歩み出すことができていない。

そんなおりに訪れる小峰洋子(石田ゆり子)との出会い。マチネ(昼公演)の終わり、対照的に「白い服」が目立つ洋子を目の前にして蒔野はどうしようもなく心を惹かれてしまうが、彼女には婚約者がいると釘を刺されてしまうーー。

死の淵にいる蒔野がついぞ見つけた「生きる対象」。しかし東京とパリという遠距離、婚約をしているという洋子の現状は、簡単にふたりを結びつけてはくれなかった。

 

ロマンティックでありながらホラー的。本作を簡単に表すならこうだ。彼らが辿った遠回りの時間とは果たしていったい何を意味したのか。6年の期間をもって描かれるのは、“死の季節”の只中で、それでもふたりが生きていくことを決める、そこに至るまでの長い軌跡である。そんなふうに僕は解釈している。

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人は、変えられるのは未来だけだと思い込んでる。だけど、実際は、未来は常に過去を変えてるんです。変えられるとも言えるし、変わってしまうとも言える。過去は、それくらい繊細で、感じやすいものじゃないですか?

はじめて出会った夜に蒔野が語る、過去という時間概念の頼りなさ、あるいは希望。未来の行動次第では過去は変えられる。変わってしまうとも言える。蒔野における過去とは、天才が手にした「栄光」であり、「常に未来がある」という状態だった。しかし今は、その未来がない。おまけに、自分の過去は本当に栄光だったのかすら、確信を持って言えない始末。過去は「悪かったもの」として、変わっていってしまう。

ただそれでも彼が決定的な死を選ぶことがないのは、洋子という生きる対象があるからだ。自爆テロに出くわした洋子の安否を確認するメールにて蒔野が語る、「幸福の硬貨」の挿話。「なんでも買える“幸福の硬貨”を手にしたら、あなたは何がほしい?」。洋子さんと「幸福の硬貨」の話がしたいというのは、あなたと未来の話がしたい、ともに生きたい、というプロポーズでもある。また、再会を果たしたレストランでは「もし洋子さんが地球のどこかで死んだと聞けば、僕も死ぬよ」とも言ってみせる。あまりにもキザなセリフだけれど、「あなたがわたしの生きる意味」であることを強く言い表そうとしている。

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いっぽうで洋子のほうはどうだろうか。蒔野を「生きる意味」とするまでに愛していたのだろうか。「わたしもよく考えてみた。わたしは蒔野さんが死んでも生き続ける。蒔野さんの残した音楽をみんなに伝えたいから」。それはまるで対照的なように思える。そもそも洋子は結婚を控えているのだから、これからの人生に狂いはないはずだった。なのに、蒔野に徐々に心を惹かれてしまう。お互いにとって、出会いさえしなければ時間はそのまま進んでいたに違いないけれど「出会ってしまったから。その事実をなかったことにはできない」「だから(蒔野は、洋子さんとその進みゆく時間を)止めにきた」のだ。

文字通り“すべてを捨てて”日本にやってきた洋子は、まるで蒔野みたいに“黒い服”を身にまとっている。ついにふたりが結ばれるというなかでも、未来へ向かっているというよりは、やはり「静止」や「死」を感じさせてしまう場面。結果的に災厄のごとき出来事が起こったことで、蒔野と洋子の時間はそのまま止まり続けることになった。

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3年後、彼らの時間がそれでも“個別に”動きだしたのだろうということは、すぐにわかるだろう。結婚、出産、移住。そして蒔野は、長らく停止していたクラシックギターの活動を再会し、復帰コンサートを開催するに至る。「師匠の死」によって未来への諦め(どうせ未来は際限があるのだから、怖がっていても仕方ないという真理)にたどり着いたのかもしれない。

蒔野の止まっていた時間を進める最後の後押しをするのは、さすが「名脇役」な三谷早苗(桜井ユキ*1。真相を聞かされた洋子はいつもと反対方向に坂道を下り、印象的なあの石の上に腰を下ろす。溜め込んでいた涙があふれでる場面である。再び過去に引きずられるわけであるが、そのことによって静止していたはずの時間が少しずつ動き出していく。

そして、再会の「マチネ」。デビューしたのと同じ会場で、新たなる出発を迎える蒔野。自信に満ち溢れる彼から画面は徐々に“時計回り”に横移動(パン)し、そこにいる洋子を捉える。あの出会いの場面と同じく、「真白な」服でいるのがグッとくる、おそろしく甘美な場面…。思えば今までは、コンサートでの演奏中、“反時計周り”にカメラがパンして蒔野を捉え、過去に囚われた彼の苦しい姿が映し出されてきていた。その時間の逆行がついに方向性を変え、順行して動き出すのだ。「最後にもう一曲お聞きください」。そう言って演奏するのは、蒔野と洋子の思い出の曲「幸福の硬貨」。「未来に向けた曲」をあなたに向けて演奏する。

 

セントラルパーク、枯れた噴水の周り。“反時計回り”に等間隔で歩くふたりは、このままでは一生出会うことがない。しかしファンに声を掛けられて振り返った蒔野は、洋子を見つけ、“時計回り”に姿勢を変える。それはまるでこれまでの6年間が凝縮されたような描写だ。三谷早苗が引き起こしたすれ違いも、彼らが前を向くためには必要だったのかもしれない。「未来によって過去は変わりゆく」ということ。そうして蒔野はついに未来へ、洋子は過去に置いてきたものを拾いに行くという意味で蒔野のもとへ歩を進める。その合流地点こそが、彼らが生きゆく真の未来なのだろう。「マチネの終わりに」、そこに向かって歩きだすふたりの顔の明るさをもって、この映画は幕を閉じる。死の季節に再び生が薫りはじめる刹那、彼らはそのあときっと、「幸福の硬貨を手にしたら、あなたはなにがほしい?」という未来の話を再開するに違いない。*2

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*1:登場人物たちのなかで一番心を掴まれてしまうのは、やっぱりこの桜井ユキだ…。圧倒的にヒールなのに、なかなかそう見させてくれない感情を押し殺して生きる演技。『G線上』も『だから私は推しました』も、どんな役でも彼女が演じると感情移入してしまう。

*2:正直いうと洋子の気持ちはあまり理解できていない。あくまでも蒔野が主人公で、彼に振り回されてる感がすごくて…。原作を読んでる途中ですが、洋子の話は実はかなり深いっぽい。そうした点を含めかなり表層的で本質の欠いたレビューですが、どうかお許しください。

ポップカルチャーをむさぼり食らう(2019年10月号)

 

10月もカルチャーは豊作であった。

とりあえず羅列してみる。

 

[映画]女が階段を上る時(DVD)/ジョーカー/蜜蜂と遠雷/宮本から君へ(2回目)/お嬢ちゃん(2回)/ぼくのエリ(ヒューマントラストシネマ渋谷)/街の上で(下北沢映画祭)/ブルーアワーにぶっ飛ばす/タレンタイム(UPLINK吉祥寺)/夏の遊び(ユジク阿佐ヶ谷)/退屈な日々にさようならを(ユジク阿佐ヶ谷)/カツベン!(東京国際映画祭)/タイトル、拒絶(東京国際映画祭)/ひとよ(東京国際映画祭)/わたしの叔父さん(東京国際映画祭)/劇場版おっさんずラブ

[演劇]別冊根本宗子『墓場、女子高生』/今泉力哉と玉田企画『街の下で』

[ドラマ]G線上のあなたと私/グランメゾン東京/モダン・ラブ(AmazonPrime)/決してマネしないでください。/おっさんずラブ

[本・雑誌]江國香織きらきらひかる』/鷲田清一『「待つ」ということ』/映画芸術/QuickJapan

[音楽]眉村ちあき(NEWTOWN)/Juice=Juice LIVE 2018 at NIPPON BUDOKAN TRIANGROOOVE(DVD)/indigo la end『濡れゆく私小説

YouTube]さんこいち/ヴァンゆんチャンネル

[バラエティ継続視聴]相席食堂/テレビ千鳥

 

映画みすぎてるわ…(その割に旧作掘れてないし…)とちょっと落ち込むものの、東京国際映画祭に関しては全部無料で観てるのでオールOKということにする。というのも、かの日本最大級映画レビューアプリFilmarksさまの抽選で(5名さまにあたる!)プレスパスを頂戴したから。時間さえあえばほんと全部タダで観られるので、期間中に10本くらい観ようと思ってます。これが無ければおそらく出会っていなかっただろう(映画祭の作品なので劇場上映されるかもわからず本当に一生出会えなかった恐れすらある)コンペティション部門で観たデンマーク映画『わたしの叔父さん』がとんでもない傑作だったから、ほんとうにFilmarksさまには頭が上がりませぬ(4年間くらいずっとお世話になっております)。6、70代くらいの叔父さんと30前後の姪。家畜の世話をしながら暮らすそのふたりのただの日常を描いているだけの作品でありながら、生きることの尊さが優しく伝播していくとんでもない映画。姪の役者はれっきとした女優(イェデ・スナゴーさんという方)だけど叔父の方はそのイェデさんの実の叔父さんらしく、演技未経験の素人。ただ実際の近親関係であるからこその空気感がバリバリに作用していて、会話の少なさや相手への微かなイラつき、クスッと笑ってしまう出来事など、もうすべてが愛らしい。基本的には和やかな気持ちで観られる映画だけど個人的にぐさっと刺さる部分もあり、こんなに涙って出るっけ?ってくらいシトシト号泣してしまった。こんな経験は後にも先にもないかもしれない。この勢いで劇場未公開作に切り込むと、今泉力哉監督の新作『街の上で』は人生で5本の指に入るほどの神傑作。ネタバレなしで個別エントリーにも記しました。ハードルを上げすぎても誰も喜ばないと思うのでとりあえず劇場公開が決まるまでは黙っておくけど、『愛がなんだ』を軽々超えてくるやつなんでまじお楽しみに。自分が一番もう一度見るのを楽しみにしてるわ。10月は今泉力哉監督月間だったと言っても過言ではない。10月27日、こまばアゴラで玉田企画との共作『街の下で』を観劇し、その夜にはユジク阿佐ヶ谷で『退屈な日々にさようならを』を観た。『パンとバスと2度目のハツコイ』以降、今泉作品は毎回長文の感想を書いてるのだけど、この2作においてそれが途絶えたのは、とっても書きにくい作品だったから。だからここでも特段なにかをかける気はしない。『街の下で』は突拍子のない展開の連続で心の整理がつかなくて、今泉力哉と玉田真也のどちらがどこを作・演出しているのかも判別がつかず書きづらい*1。『退屈な日々に〜』は昨年の同時期にはじめて観た(NEWTOWNの無料上映、今泉監督のとなりで)ときより驚くほどおもしろく、めちゃくちゃ理解できたものの、かなり深い作品でもう一度観ないと整理できなくてこれまたまだ書けない。今泉作品のなかで『街の上で』『退屈な日々に〜』『愛がなんだ』は別格におもしろいと思っている。もうこうなってくるといま一番信頼できてコンスタント(と言うにはあまりも多作)に作品を発表する作家は今泉監督を差し置いて他にいないかもしれない。突如現れている『おっさんずラブ』は、リアルサウンドで毎話レビューを書くために急いで観たやつ。劇場版は都内最終上映にすべりこみ、OL民(おっさんずラブファンの通称)のすすり泣く声を聞きながら大いに映画を楽しんだ。11/2からはじまった新章。これがとんでもないおもしろさでびっくりしている。はじめてみた根本宗子の演劇も「これが根本宗子か…」と唸る快作だった。乃木坂のアンダーメンバーによっても演じられていたりするベッド&メイキングスの戯曲『墓場、女子高生』。根本宗子は演出だけでなく主演もはっていて、その圧倒的なパワー、演技の超絶なうまさに驚かされた。歌もうまいし。月刊根本宗子の公演もできるだけ早く観てみたい(でもチケット代高いよね…)。今期のドラマは『グランメゾン東京』を一番に推したい。何に似てるかわからないくらい王道のストーリー(離散していた仲間が集い、下克上のすえヒールとなる相手を負かすという作劇。『七つの大罪』とかね)だけれど、とにかく塚原あゆ子(『アンナチュラル』、『グッドワイフ』など)の演出がすばらしく、毎話大きく心を動かされてしまう。キムタクドラマを見るのは実は2009年の『MR.BRAIN』以来。安心感とその風格はやっぱり唯一無二だ。10月20日、CINRAが主催する「NEWTOWN」で眉村ちあきのライブをはじめてみた。「こんな奇跡みたいな子、ほんとにいたんだ…」という気持ちに包まれる。わずか30分強のライブだったけど楽しいったらありゃしない時間。12月の単独ライブに当選したのでそのときに文章で思いをぶちまけたいと思います。ここ数日はまったくYouTubeを見てないものの、月初めは沼にハマっていた。“恋人同士ではない男女コンビのYouTuber”の人気ぶりを俯瞰するコラムを書くために見始めた「さんこいち」と「ヴァンゆんチャンネル」。あんまり興味がなく見始めても、見てるうちにだんだん好きになってしまうのがこのコンテンツの恐さだと再認識した。熱しやすく冷めやすいので、もう飽きてますけど「さんこいち」はほんとに結構好きだった。仕事関係抜きにして久しぶりに小説をまるまる一冊読むことに成功。会社の先輩天才ライター山本さんが大好きな江國香織を手にとってみた。外から見れば歪な夫婦の、お互いの感情が交互に描かれていく。言葉一つひとつが感受性の高いままに並んでいるので、読むときどきによって色が変わっていく作品なんじゃないかなと思う。そういえば、くっきーと又吉が旅人だったこの前の『相席食堂』、最高だったよね? ドリフ的サイレントコメディ、天丼、奇妙な海の合致などなど一瞬やらせを疑うくらいよくできていて、長州力回に並ぶ傑作だ…と唸りながら笑い転げた。読みかけの『「待つ」ということ』を読破して、来月は中川龍太郎『わたしは光をにぎっている』とともに「時間」について書こうと思います。書かないかもしれないですが。

あ、『ジョーカー』と『お嬢ちゃん』のこと書き忘れた…!*2

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*1:判別がつかないとは言っても冒頭は今泉さんのものだと思うし、ラストは玉田さんっぽい。中盤のあの“変なやつ”は意外と2人でやってる気がする。

*2:いつも以上に適当に手早く書いていたら途切れ途切れになってしまいました。最近は欲に勝てない日々が続いている。一度、一週間どれだけ欲に勝てないことがあったか数えてみようかなとか思ったけど、そう思った日に映画観て古本屋で4冊本買って、酒飲んでアレして、部屋は汚いけどやっぱり掃除は出来なくて、こんなの数えてたら死んでまうわと思ってやめた。その次の日に部屋を掃除することができた。ちょっとがんばったら自分にご褒美をあげたくなるとことん自分に甘い性格だけど、そうしているうちは幸せなんだからもうこれでやっていくしかないんだと思う。最近は社会学を学んでいたころを思い出してそっち系の学術書を読みたいと思いだした。思ってるだけ。『街の上で』はやくもう一回みたい。風邪こじらせて知らぬ間に秋になってたけど調子はいい気がする。病床のおじいちゃん心配だなぁ。

血のつながらない家族をつなぐもの/常盤司郎『最初の晩餐』

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「食卓」ってとても不思議なものだ。家族がそろって机を囲み、同じものを食べる。みんなで一緒にテレビを見ることがなくなり、ましてや一緒に外に出かけることがなくなっても、食卓だけは、家族が集い同じものを享受する場所として残っていたりする。みんな食べたいものが違っても、そこでは同じものを食べることを強いられる。ときにそれは“個食”や“孤食”として家族の分解を意味するようになったりもするけれど、それはだいたい「テレビを見ること」や「外に出かけること」などの後にやってくるものだろうから、食卓は、家族が「家族」たりえる最後の砦としてあるように思う。

本作の「家族」は、父母のお互いが再婚をした末に生まれたステップファミリー。血のつながらないもの同士が新たにつくる家族だ。そしてそれは、夫婦の間に子どもが生まれることでできる(中動的な)家族と比べると、いくぶんか能動的な側面が大きい。ちゃんと「家族」になれるかは分からないけれど、お父さん(永瀬正敏)は家族を“つくろう”とした。そして彼と家族の面々が“つくる”ちょっぴり風変わりな「料理」はこの新たな家族の表象として、これまた家族が共有する場所である「食卓」に並ぶことになる。それはまるで、真っ白な画用紙にこれから自分たちが辿る未来をスケッチしていくように。

卵とチーズの異色の組み合わせによる目玉焼きや合わせ味噌を使った味噌汁は、2つの家族が1つになろうとする過程を捉え、ホクホクな焼き芋や魚の骨は、家族が溶け合い、つっかえを取っ払っていく時間の経過とシンクロする。息子が好きだと言えば嫌な顔ひとつせずにピザにキノコを載せるし、ツナ入りの餃子も食べるだろう。娘はラーメンに紅生姜を載せ*1、息子はすき焼きに食べるラー油をかける。彼らにはない、赤(血)というワンポイント。それは重要なものかもしれないけれど、彼らはそれ以上のつながりをなんとか模索していく。

食卓を彩ることで家族は家族であるという認識を強めるが、やがて「秘密」が暴露され、家族は離散する。「家族ってなに?」そう彼(染谷将太)が問うように、血のつながりがないものたちがバラバラになり、彼らをつなげた食卓も失ったとき、果たして5人のあいだにはなにが残るのだろうか。そんな疑問を投げかけながら、本作ではやはり「食卓」が、もしくは料理の「味」が、家族をつなぐものとして機能することになる。食卓は、家族が模索しながら歩んできた道程そのものだった。

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* * *

家族映画にはまぁだいたい食卓が登場するけれど、それをメインに据えた作品はなかったと思うので意外と新鮮な映画。永瀬正敏斉藤由貴窪塚洋介戸田恵梨香染谷将太と豪華キャストがつくり出す家族のなかで一際輝きを放つのは、しかしその誰でもなく戸田恵梨香の子ども時代を演じた森七菜だったように思う。伏し目がちな斉藤由貴も哀愁漂っていてよかったけど。岩井俊二の新作『ラストレター』でも広瀬すずと並ぶ役どころの森七菜さん。めっちゃ楽しみ。

 

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映画『最初の晩餐』予告編

*1:彼女は最初、“赤”味噌を「濁っている」と言って遠ざける。

今泉力哉『街の上で』ーー下北沢という街に生きる人間たちの、“ストレートな想い”の物語

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10月13日(日)に開催された下北沢映画祭にて、今泉力哉監督の長編映画最新作『街の上で』がワールドプレミア上映を迎えた。台風によって開催も危ぶまれたなか、一本の映画は堂々と産声を上げながら誕生し、会場に響き渡っていた笑い声や感嘆の声から察すれば間違いなく、下北沢の街に祝福されていた*1

主演は『愛がなんだ』の仲原青役が記憶に新しい若葉竜也。その脇を穂志もえか、古川琴音、萩原みのり、中田青渚といった新進女優が固め、あの人気俳優や人気ミュージシャン*2の突然の登場も作品に彩りを加える。共同脚本には漫画家の大橋裕之。振り返ってみれば、群像劇によって登場人物と街の身体が浮かび上がる様は、彼の代表作『シティライツ』のようでもあった。

シティライツ 完全版上巻

シティライツ 完全版上巻

 

まず最初に言っておくと、俳優がまじでみんないい。よすぎるんだよ。今泉監督がよくおこなう“役者への当て書き”の効用もあってのことか、みんながみんな、生き生きとしているのだ。下北沢の街にほんとうに住んでいそう、歩いていそうな気がしてしまう人ばかりがそこに映っていた。観たあとに誰もが必ず心を奪われてしまうだろう女優もいて、中田青渚さんという方なのだけど……。『3月のライオン』や『ミスミソウ』に出ているらしいのだけどどちらも未見だったのですぐ見てみたいと思います。これに関しては公開後のみんなの反応がすごく楽しみ。

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『街の上で』は、下北沢を舞台にして撮られた、まさしく“下北沢という街の映画”であり、“下北沢にいる人間たちの映画”である。「下北沢映画祭」からのオファーによって誕生したこの映画は、下北沢を舞台にしていれば物語の内容など他の部分は今泉監督にお任せするということだったらしく、監督自身「好き勝手に撮らせてもらった」と舞台挨拶で言っていた。『愛がなんだ』、『アイネクライネナハトムジーク』と、原作があったり大きめの配給会社が付いていたりと近作にはある程度しばりがあっただろうから、これぞ今泉映画!というものを観られるのは久しぶりかもしれない。そうして出来上がった本作は、『こっぴどい猫』や『サッドティー』のような拗らせた雰囲気も少しは感じつつ、しかし今までに観たことがない作品になっていたから、純粋に驚き、素直に感心してしまった。

今泉力哉監督が撮る映画の登場人物たち(おもに主人公)は、みな一様に何かに対して“疑問”を浮かべている」三浦春馬×多部未華子『アイネクライネナハトムジーク』の小さな魔法 今泉監督が投げかける疑問とは|Real Sound|リアルサウンド 映画部

これは『アイネクライネナハトムジーク』の作品評を書いたときに僕が言及したこと。「好きになるってどういうこと?」をはじめとした、普通に生活していれば通り過ぎてしまいそうなことに登場人物たちが“疑問”を持つことで、普通の日常が「映画」となる。そしてときに、普通からは逸脱しているからこそ、今泉映画に登場する人間たちはちょっとこじらせているようにも見える。いや、完全にこじらせている、と観る人が大半なのだろう。『パンバス』のふみ(深川麻衣)は好きな人がいながらもその人に対して「好きにならないで」と言ってみたり、『愛がなんだ』のテルコ(岸井ゆきの)は、振り向いてくれないと内心ではわかっていながらマモちゃんを追うことを止められない。仲原くんと葉子の関係性の歪さを問い詰めながらも、同じことをしてしまったりする。「どうしてだろう。私はいまだに田中守の恋人ではない」。

そうした“こじらせ”をときにコミカルに表出してきた今泉作品ではあるものの、『街の上で』のおもしろさはそれとはある種、正反対のところにあると思っている。今泉映画の新境地とも言えるかもしれないそれは、今までの“配線がこんがらかった感じ”ではなく、“ストレートな想い”によって紡がれていくのだ。

『街の上で』には、ストレートな愛やリスペクトの数々がそこかしこに点在している。カルチャー、人物、場所、そして街。それぞれを挙げれば長くなってしまうが、映画や音楽、漫画といった文化に対するリスペクト、実在する人物のカッコ良さに直接言及するシーンもあるほど、そうしたものへのストレートな想いにあふれている。下北沢という街らしく、この映画には「何を生業にして生きているかわからない人」という人物も出てきたりするのだけど、彼らへの目線がとりわけやさしい。そもそもが、スーツを着た人がほぼいない街。カルチャーが根付く街ならではの生の表出はやはり新鮮だ。カット割も極端に少なく、超がつくほどの長回しばかり。一筆書きで想いを伝えようとする今泉監督の決意を感じる。

登場人物もけっこうハッキリしている人が多い。例えば、“2股をかけてしまう人”というのが今泉映画の過去作品ではよく出てくるけど本作のある人物はきっぱりと別れようとする。ある人物はダメなものは切り捨てようとするし、またある人物は、モヤモヤした感情から脱しようとする。今泉映画にしては、なんだか誠実な人間の割合が多い(笑)。それだとちょっとおもしろくないんじゃないの? と思われるかもしれないけど、そこはご安心ください。ちゃんと(?)こじらせてる人も出てくるし、ハッキリしてる人も数ミリだけこじらせ成分を見せてきたりしてるから。そして、そのハッキリした性格のなかのこじらせというギャップが、自然なコミカルさ、笑いを生み出しているので。ほんとうに笑える場面ばかりで、元気になる映画だ。

前述したように役者が全員すばらしく、人間が魅力的に映っているがゆえに、下北沢という街全体もひときわ愛らしく映る。僕は似たような街でも高円寺に住んでいる人間だから、ちょっと嫉妬してしまったりもした。シモキタよすぎでしょ。たまに行く「hickory 」という古着屋が主人公の勤め先だったり、みん亭、下北沢トリウッドや古書ビビビ、THREEが舞台となっていたり、下北沢好きにもたまらない映画になっているはず。劇場公開される運びになったらまたゴリゴリにネタバレありの感想も書きますが、ひとまずは公開されるのを待つことにしましょう。最後に、若葉竜也が演じた主人公・荒川青の人物造形が絶妙で、これは自分の映画だ、と思ったことを記しておきます。はやくみんなのもとに届きますように。

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*1:思えば、東京国際映画祭で『愛がなんだ』のプレミア上映を観たのがちょうど1年前くらい。そのときも今泉監督と若葉竜也さんがいた。

*2:今泉監督のツイートには名前出てたけどどこまで出していいかわからないのでとりあえず伏せときましょう。

世界が鳴ってるーー抑圧と開放の映画『蜜蜂と遠雷』

 

「音楽になったね」

耳をすましてみると、外でポチャンと音がした。なんだか雨が降ってきたみたい。その音に合わせて鍵盤を一音、また一音とはじいてみる。すると心地のいいリズムが、私とお母さんの心が高鳴り出す瞬間を捉える。

いつしか一音は連続して音楽になって、ピアノと、そして音楽と一体化した私たちは、広い世界へと羽ばたいていく。

音楽になったねーー。

私たちはいま、世界と一緒になって鳴っている。

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なんて美しい映像なんだ、と思ってボロボロと涙があふれた場面。私たちは音楽を通じて世界と、人と、つながっている。映画が内包するそうしたテーマを、なんともかわいらしく、原体験のごとき妖艶さを伴って描きだした、魔法のような時間。

「あなたが世界を鳴らすのよ」と、お母さんは娘にささやく。あのときの母なる優しい目線は、中盤で塵(鈴鹿央士)と交わす連弾と、本番前のマサル森崎ウィン)をサポートする亜夜(松岡茉優)の目線に呼応していくだろう。そうした場面のエロティシズムさえ感じる美しさの強度は、ひとえに、あの密室空間が作り出しているのだろうと思う。亜夜とマサルが再会するエレベーターのシーンにも、計算され尽くしたドキドキがある。あなたと私だけがいる空間。そんな小さな空間だけれど、ピアノを介すことによって外の大きな世界とつながっていく。月が照らす闇夜。海の彼方の遠雷。抑制された空間が、徐々に開放感を得ていく快感。

「抑圧」と「開放」というのはまさしくこの映画の根底をなすもののひとつだ。クラシックを更新したいというマサルの想いや、「完璧」よりも大事だったはずの、「ピアノが好き」という気持ちへの回顧、または風間塵のなにも恐れていない型破りな演奏方法まで。そして、亜夜がおそらく対峙してきた「母親がいない今、なぜピアノをやるのか」という自己問答。序盤はなかなかピアノの演奏を聴かせてくれなかったり、かと思えば中盤でカデンツァというフリーなスタイルを見せつけてきたり、本作においての「抑圧」と「開放」による快感は凄まじいものだ。特にやっぱり、母親と連弾していた過去のあの場面からの盛り上がりは半端じゃない。母と娘の俯瞰的な映像が、顔を捉えるクローズアップに変わるとき、心をグイッと引かれる音がした。

序盤と終盤で2度訪れる、亜夜が地下駐車場で音に惹かれていく場面。どこかで音が鳴っている。その音が聴きたくて、その音と一体化したくてしょうがないから、亜夜はまたピアノの前に戻ってくる。そうしてまた、私たちをいざなってくれるのだ。音楽によってつながるあの幻想的な「世界」へと。

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