縞馬は青い

縞馬は青い

映画とか、好きなもの

言霊と光、心を導いて/中川龍太郎『わたしは光をにぎっている』

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確信的な 朝を何度も迎えにゆくために/これからもずっと どうにかしなくちゃ/君をおどろかせていたい/確信的だ 今日は必ずいいことあるはずだ/追いかけたバスが待っていてくれた/かっこいいまま ここでさよなら ーー「Home Alone」

恋しい日々を抱きしめて/花瓶に花を刺さなくちゃ/部屋の電気をつけなくちゃ/明日の目覚ましかけなくちゃ ーー「恋しい日々」

君の不安を取り除くのは/お祈り 呪術か魔法/それがだめなら 外にでも出て 美味しいものでも食べてみなーー「カーステレオから」

 

主題歌の「光の方へ」は本作を締めるのにこれ以上ない曲だ。そして映画を観ているあいだ、カネコアヤノの楽曲が紡いできたたくさんの力強い詩のことを思い出した。辛さも喜びもすべてを包み込んで、日々の営みを自分自身で柔らかく肯定していく“祈り”のような言葉たち。「言葉は光、光は心ーー。」。澪(松本穂香)の祖母がそう言うように、言葉は言霊となって行く先を照らす光となり、やがてその光は己の心を抱きしめ、鮮やかな色に染め上げていく。「わたしは光をにぎっている」。劇中で何度も繰り返されるこのタイトル(山村暮鳥の詩)のなんと力強いことか! 読むたびにたくましくなっていく澪の声色は、映画にあった無数の光を掴んだまま私たちを遠く、光の方へと連れて行ってくれる。

 

できないことも頑張って/やってみようと思ってる ーー「祝日」

言葉が反射する こころの底に/言葉じゃ足りないこともあるけど/瞳は輝きを続ける ーー「光の方へ」

 

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カネコアヤノの楽曲と同時に想起したのは、今年3月に放送された『世界ウルルン滞在記』で“世界一寒い村”へ旅に出ていた松本穂香の姿だった。

 

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-50℃にも及ぶ極寒の地で、その小さな身体を酷使しながら家畜の世話をしたり掃除をしたり、子どもをソリみたいなものに乗せて学校まで送っていったり。その辿々しくも一生懸命にホームステイ先の家族たちと歩幅を合わせようとするさまには無条件に心を引きつけられてしまった。その姿とぴったり重なりゆく本作における澪というキャラクターは、松本穂香自身にかなり近いものがあったのだろうと思う。だからこそ、中川龍太郎監督と山村暮鳥の詩、カネコアヤノの歌とともに四身一体となって本作の祈りを体現してみせている。銭湯の入り口にちょっぴり背伸びして暖簾をかけるシーンの反復、あれには坂元裕二(『カルテット』の世吹すずめ、『初恋と不倫』の三崎明希)による生への肯定と同じものを感じる。一挙手一投足がとても彼女らしい。それにしても松本穂香さん、あまりにもかわいすぎひん?

 

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「場所や風景が主人公の映画」とは、中川監督がたびたびインタビューで吐露していること。言葉や人物だけでなく、本作における「立石」という再開発地域や「銭湯」「エチオピア料理屋」「映画館」「商店街」といった“場所”は登場人物の一人ひとりとして強く輝きを放っている。言うなればその場所にいる“人間”や刻まれる“記憶”は、手のひらで掴んだ光のようなものだ。掴んだ手を放すのと同じように、場所がなくなると、人も、そこにあった記憶も薄れていってしまう。しまいには何もかも無くなってしまうかもしれない。そうした“消えていくもの”に対してどう反応し、未来を生きていくか。この映画が見つめるのは、おぼつかないけれど“しゃんと“終わらせて、その先を歩いていく、登場人物たちの一歩一歩だ。

ひとつのものが終わり、新しくなにかを始めるとき。私たちは言いようもない不安に襲われ、孤独に闇を抱えてしまうことがあるかもしれない。幸福な記憶は薄れ、今の恐怖感だけに心が支配されてしまうかもしれない。しかしそれでもこの映画を観ればきっと、確実にそこにあった光のことを、また別の場所に必ずあるだろう光のことを想い、前を向いて歩きだすことができるはずだ。そうしてひとたび光をにぎってしまえば、あとはこっちのもん。わたしは光をにぎっている。この言葉を心に深く刻みこみ、そう力強く生きてやりたい。*1

 

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