縞馬は青い

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映画とか、好きなもの

あるかなきかの窓辺 どら焼きの予感/杉田協士『春原さんのうた』

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転居先不明の判を見つめつつ春原さんの吹くリコーダー

ちくま文庫『春原さんのリコーダー』より)

この原作短歌だけを頼りに映画を観ていると、気づいたらこんなところまで来ていた。どういう道を辿ってここまで来たのか、果たして言語化できるだろうか。

カフェの2階にある窓際の席で、ふたりが外を眺めている。その視線の先には五分咲きくらいの桜の木。「満開になったらまた来てね」と店員に言われ、沙知は「はい」と応えるも、その後彼女と春原さんが同一フレームに存在することは永遠になくなってしまう。すぐ次のカットはベランダにいる春原さんと、部屋の中から彼女を見る沙知。まさしくフレームを隔てて窓のあちらとこちら側にいるように、手の届かない存在になってしまうふたり。これは分たれた沙知と春原さんの物語。喪失感を一緒に背負えないまわりの人たちは、みんなとんでもなく優しく彼女たちのことを見守っている。観客もまた、4:3の画面アスペクト比で撮られたこの映画を、窓から外を見つめるように鑑賞することになる。

原作の示す「転居」は、この映画では3つ存在している。まず日高さんという人が宮崎の実家に帰り、次にその部屋に沙知が住むことになり、のちのち沙知は春原さんに葉書を送ると、「転居先不明の判」を押されて返ってきてしまう。日高さんの転居と、沙知の転居と、春原さんの転居。沙知の転居理由だけがこの映画では明確にされていない気がする。いや、春原さんがどこかへ行った理由も明確にされていない。彼女たちはなぜかもといる場所から「動いた」。動いた場所から葉書を出して、動いていたから届かなかった。その「移動」の連関は、終盤の船上にまで続く。

また原作の示す「リコーダー」は、3人の人物によって吹かれる。まず沙知の叔母である妙子が押し入れの中にあるソレを見つけて吹き、次にその持ち主である日高さんに近い人物・幸子が吹き、最後に沙知が転居先不明の葉書を弔いながら吹く。劇中で春原さんが吹くことはないけれど、たぶんおそらく彼女も過去に吹いていたらしい。隠れていた妙子はリコーダーの音で剛おじさんに存在がバレる。幸子のリコーダーは眠っていた沙知を起こす。だとすれば、沙知のリコーダーの音も春原さんに届いただろうか。

この映画といえばどら焼きの存在も忘れがたい。叔父さんも叔母さんも、3つずつどら焼きを持ってくるのは意図的だろうか。自分と沙知、あと沙知の大事な人へ向けて捧げられているように思う。叔父さんが唐突に泣いてしまうのは、その大事な人の存在を近くに感じたからだろうか。3つのケーキを持ってきた友だちの翔子は「自分が食べたかったから」と言っていたけど、この場合はそのままの意味で受け取っていいのかな。この映画で唯一、沙知がひとりで何かを食べるシーン、それは春原さんへ葉書を書いたあとに食べるどら焼き。あるいは妙子が、どら焼きを食べる沙知を写真で撮る瞬間の沙知がとてつもなく幸せそうに頬張っている姿を見るに、どら焼きは存在の予感を覚えさせる。

「撮る」行為は6度出てくる。去り際の日高さんが撮る沙知の写真、大学の課題で学が撮る沙知の映像、希子が撮るアイスを食べてる沙知の写真、沙知が撮る迷い人の写真、妙子が撮る沙知の写真、学が撮る沙知が風林火山の書をしたためる映像。留め置いておきたいという衝動のもとで撮られているような数々。ただ、撮られた写真の中にいる人と私は、どうしても過去と現在に分たれてしまう。窓を挟んだあちらとこちらみたいに、写真の中と外がある。ふだん映画を観ていると、ほんとうにその人が存在していそうと思えたり、スクリーンのなかに吸い込まれて同化してしまうような感覚に陥ることがあります。『春原さんのうた』を見終えたあとに舞台挨拶にいろんな役者さんが登壇していて、ああ生きてるんだなあと思ったと同時に、彼女たちの個人的な体験と映画とのシンクロ話を聴いていると、ふいに涙が滲んだ。この映画でもある場面で窓に映像が投影されたとき、そこに映るものの「存在」が、「そのとき存在していた」と「いまも存在している」を往復する。カメラ・写真・映画を取り払った目の前に、あなたがいる。写真・映画のなかにも、あなたが生きている気がする。カメラは「あるかなきかの存在をあらわにする窓」になる。『春原さんのうた』という窓と、劇中に登場するカメラという窓、二重に窓があり、その最前には私たち観客がいる。観客一人ひとりが存在している。

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「移動」が連動していく映画である。春原さんの旅立ちと日高さんの引っ越しに連なって、沙知は転居する。道に迷っている人に声をかけて案内すると、その人の思い出深い場所に辿り着く。予告なしに突然訪れる剛おじさんは、バイクに乗せて沙知を外に連れ出していく。ラストに向けて沙知と翔子は、北へ北へと歩みを進める。

夜が明けてやはり淋しい春の野をふたり歩いてゆくはずでした

ちくま文庫『春原さんのリコーダー』より)

これは東直子さんの原作短歌集『春原さんのリコーダー』に記されている歌のひとつ。冒頭に記した原作短歌の、ページを挟んだちょうど裏側にこの歌があって、杉田監督はこれを裏原作のように思いながら本作を撮っていたという。ポスターのスチール写真にもこのイメージが用いられている。「転居先」の短歌が春原さんの存在を留め置いた歌で、「夜が明けて」の短歌が沙知の今を切り取った短歌のように思える。そのふたつの短歌はまた隔てられているものの、お互いに作用し合う。

ふたりで一緒に歩いていくこと、移動していくことは叶わなかった。でも、ともに歩んできた道筋は、今もまだはっきりと見えるような気がします。窓は隔てているけれど、あなたの存在は常に感じている。リコーダーが届いたお返しなのか、あなたからさっちゃんの歌が聴こえてくる気がしました。私は不意にどら焼きが食べたくなる。観葉植物に水を与えて、残った水を自分にもやりました。桜が咲いて、蝉がじりじり鳴いて、ちょっと風が強くなってきた。また日が経てば、あの木に桜が咲くでしょう。

劇場を出て、電車に乗って、家に帰ると、僕は元いた場所からずいぶん遠くに移動している気がした。どら焼きが食べたい。そんなこんなで生きていきます。

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