縞馬は青い

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映画とか、好きなもの

言葉って(2021年5月7日)

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言葉はどれだけ文字数を尽くしても自分の心と一致しない。それでいてなお言葉が好きで話したり書いたりするのに特別な信頼を置いている理由は、結局言葉を使う以外に自分の心や他人の心を見る方法がないからだと思う。今日も僕は、自分のいまの感情をスケッチするように物を書き、他人の真意を推し量るために言葉を投げかける。言葉はすぐに嘘をつくが、別に心だってすぐに移り変わるのだからその乖離すらも楽しんでいいのかもしれないと思った。昔から、口から言いたいことがすらすら出てくる人のことをずっと不思議に思っていた。すらすら出てくることに感心しすぎて「うわーめちゃくちゃ喋ってるなぁ」とその状態に気が散って内容が入ってこないことがよくある。仕事でインタビュワーを務めることがある身としてはあるまじき体質だ。今日も、映画を観に行ったあとに上映後のトークショーがあって、13年も前に撮った映画のことを監督がさも昨日のことかのように説明しているのを客席で聞いていて、話の内容よりもその記憶力と対話力と想像力に驚いてしまった。監督も疑いながら話しているような語調だったけど。僕は子どもの頃から喋れないことがコンプレックスだったから、それを補完するようにノートに文字を書いた。言葉は書くのも読むのもこの上なく面白い。言葉をいちばん疑いながら、言葉を吐き出すことはやめたくない。

新文芸坐で『PASSION』を鑑賞。もう5度目くらいになるけど、映画館で観るのは2年ぶりとかだろうか。上映後に映画評論家の大寺さんと濱口竜介監督のトークがあって、さまざま思考を刺激する話を聞くことができた。『PASSION』は「言葉を尽くす」映画であり、その言葉を裏切る「行動」の映画でもある。改めてこの映画がすごいと思ったのは、各キャラクターがちゃんと違う人格を有していて、さらにキャラクターそれぞれがまた多重人格を有していることだった。ひとりの人間(監督)の頭のなかなかから生み出された映画という媒体に、多重の人格をもつキャラクターがいて、そのキャラクターたちもまた多重の人格を持っている。そのことの特別さを想う。フィクションってだからすごいんだ、と思った。現実はすべて本物だと過信してるがゆえに「嘘」が浮き出てきたときに焦ってしまうが、フィクションは元よりすべてが嘘であるという前提があるから、すんなりすべての事象を受け入れたうえでじっくり整理したり想像したりすることができる。映画は漫画や小説と違って多数の生身の人間(役者など)を媒介しているから、より多重性が増す媒体であり、それにより生み出される「嘘」がオーディエンスの想像力を多分に刺激してくれるのではないかと思った。映画が好きで、言葉が好き。そしてもっとも、多重な性格を有した人間という生き物の複雑さが好き。そんなことを何度観ても新鮮に考えさせてくれる、『PASSION』は現時点でいちばん好きな映画。

きのうはエビ中のライブをニコ生で観た。現6人体制の最後のライブであり、同時に、新メンバーが3人加入することが発表されたライブ。約1年前、コロナの到来に不安を感じていた時期にデトックスのように心を浄化させてもらいながらハマったアイドル。まだ一度も生のライブを観れていないけれど、続いていくのがエビ中なのであれば、いつか必ずあの色彩豊かな歌声を聴けるんだろうなと楽しみでならない。クリスマス大学芸会2018の映像に心を持っていかれたから、必ずいつかその場所に。ていうかもう一度観たいのだけれどDVD出ないのかなぁ。アイドルはゆるく切実に推していくタイプです。

生活って(2021年5月5日)

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どの言葉を吐いても自分の心じゃないような気がする状態が続いている。続いているというか生まれてこのかただ。息を吐いた途端にその白い水蒸気が寒さを伝えてくるみたいに、見えてなかった心が言葉によって浮かんでくる瞬間も一方ではあるだろう。好きなライターの人がこう言っていた。「自分が書いた文章が2週間くらい経つとまともに読めなくなって、きもちわるっ…てなる」。まったくの同意だが、その人はエッセイストでもあるから余計に乖離を感じるのだと思う。実際の心と吐き出される文章は絶対に何もかもが違うが、美しい文章はそのことを麻痺させてしまう。麻痺していないこの書き手さんはもはやめちゃくちゃ健全で信頼できる、と僕は思う。言葉を吐き出すときは、いまの心を言い表せない気持ち悪さと、ずんずん言葉に連れていかれる気持ちよさを行ったり来たりしている。その話題について書きたいけれどぜんぜん書けない、という状態に陥るときは、往々にして背伸びをしているか、本当はそんなに興味がないか、他のことを考えているか、のいずれかとかだ。そうだとわかりつつも依然そのことについて書きたい、向き合いたいと思うとき、自分は嫌な文章を生み出してしまうだろう。それでも別にいいと思って、一旦はその汚さを認めてみたい。

ゴールデンウィークでやりたい!と思ってたことが多すぎて、結局「『すいか』を全話観る」くらいしか達成できなかった。がびーん。9日までHuluで無料で観れるのだけど、『住住シーズン3』(第2話最高!)と『息をひそめて』を観たくて課金しちゃったぜ。木皿泉脚本、2003年の夏に日テレ土曜9時枠で放送されていた『すいか』。先進的なドラマだった。先進的というか、普遍的というか。普遍的もちょっと違う気がするけど、つまりは2021年に同じ枠で放送されても話題になるだろうと想像できるくらい脚本が鮮やかだった。登場人物はほぼ女性で、彼女たちは結婚とか恋愛とか普通とかお金とか成長とか、おおかた“社会性のある”とされてきた行為に縛られない生き方を志向しようとしていた。彼女たちが大事にするのは、生活であり思いやりであり、友だちであり好きな人であり自分自身だった。社会から外れゆくことの寂しさを抱えながら、そんなこと気にしないみたいにハツラツと共同生活をしている。銀行員の小林聡美に、エロ漫画家のともさかりえ、大学教授の浅丘ルリ子に、大家の市川実日子。ちょうど『大豆田とわ子』第4話で市川実日子が恋愛に囚われない生き方がしたいと言っていたけど、それははるか18年前のこのドラマにすでに実現しているようだった。彼女たちは彼女たちにしかできない生き方をしている。それがとても羨ましく、自分もそうしよう、と思った。

最近読んだ『白木蓮はきれいに散らない』(最高漫画です)なんかも重ねたけれど、生活ってよくも悪くも圧倒的で、生活は素晴らしく、それでいて虚しく、けっきょく生活を楽しむほか人生は…なんてことを軽々しく書こうとしてしまうくらい(いや、正しいのだけど怖いだけ)、生活ってすごいよなって、そんなことを考えたのでした。

エビチリの赤がケチャップ由来だっただなんて誰も教えてくれなかった(2021年5月4日)

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2日前に買った冷凍のむきエビでエビチリを作ろうと思ってレシピを調べたら、あのトロトロの赤の大部分がケチャップで構成されていることを初めて知って驚いた。中の食べ物に洋っぽい調味料が入ってるだなんて。まだまだ世界には知らないことがいっぱいあるんだなぁ。中華料理屋の冷蔵庫にもケチャップがストックされてるってことだよな。エビチリ以外にもケチャップは使うのだろうか。試しにエビマヨのレシピを調べてみたらそっちにも入っていた。オーロラソースでできてるってこと?ちょっとにわかには信じがたいな。内容量を気にしてしまうと素直に味を楽しめなくなってしまうタチで、作ってみたエビチリもなんだか微妙だった。

昨日みた『海辺の彼女たち』のことをぐるぐる考えている。3日前くらいからチケットをずっと取り損ねていてようやく観れた(ずっと販売即満席状態だった)。若き在日ベトナム人女性3人が過酷な技能実習制度から逃げ出したあとを描いた映画。88分という尺のタイトさは「学校の授業とかでも使ってもらえるように」という監督の狙いの結果であるということを後に知って、その姿勢も含めて素晴らしいなと思った。冒頭の夜の逃避行の場面について、映画ジャーナリストの金原由佳さんがパンフレットで書かれている内容がすべてを言い得ていると思う。漆黒の闇とクロースアップ。それは「ぐっと見つめる」という行為を否応なしに引き込む映像。社会の中で不可視化された存在に目を向けさせるという力学でもある。先日の『事件の涙』も想起した。役者との距離感やワンシーンワンショットの技法、政治性よりも人間を重視する姿勢に「日本のクロエ・ジャオ」という見立てをしてみたけれど、まぁ安直な比喩だよなと思う。そんな枠には囚われない面白い監督。

今日は『童年往時 時の流れ』をk’s cinemaで。138分ってちょっと長いし寝そうだから観るの迷ったけど、これを逃すとホウシャオシェンの映画しばらく観ないだろうなと思って(映画館じゃないと眠気が…)行った。とてもよかった。まず第一に、お昼ごはん食べたあとにも関わらず寝なかった。淡々としているけれど、子ども映画の淡々はむしろいつまでも観れるかも。台湾独特のノスタルジーもあるよなぁ。監督の自伝的な映画とされている本作。兄弟めちゃくちゃ多いのに兄弟で戯れあったり喧嘩するシーンがほぼない異様さに気づく。ごく個人的な記憶の羅列のような映像は、それゆえに一般的な家族映画にはないリアルな断片を見せてくれていた。

『大豆田とわ子と三人の元夫』第4話にしてきたきたー!って感じだ。坂元裕二節、大炸裂。正直2、3話でちょっと気分が盛り下がっていたから、ちゃんと引き戻してくれて助かった。今回はセリフとか行動がいちいち面白くて笑ったし、市川実日子アセクシャル描写に地上波ドラマの進歩を見たし、石橋静河に大いに虜にされた。はっさくはもう、A子さんの恋人のA太郎の10年後みたいにしか見えないでいる。好きでもないものをなんとなく…、がテーマな第4話。あるいは好きでもないものは好きでもないと断言するか。

夏と死のにおいがした(2021年5月3日)

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ホウ・シャオシェン大特集」(k’s cinema)で『冬冬の夏休み』と『風櫃の少年』を観て、そのあとポレポレ東中野にうつって『海辺の彼女たち』を観た。

1984年に撮られた『冬冬の夏休み』がノスタルジーだけでなくある種の新鮮さを帯びているのは、現代でも廃れない映画の強度があるからだろう。「強度」のひとつは、「少女の扱い方」。最近『ミナリ』を観たときに兄妹のうちの妹の登場シーンの少なさに違和感を覚え、それだけでなく「少女に限らずあの映画の女性がもはや透明化している」さまにかなり気持ち悪さをを感じていたから、『冬冬』の両性具有的作劇には満足した。本当はそういうことを考えずに観たいのだけど、『はちどり』『わたしたち』『夏時間』という少女視点の素晴らしいアジア映画(ていうか全部韓国)が登場している近ごろにおいては、少年視点の映画の態度にもやはり否応なしに注目してしまう。ホウ・シャオシェンの態度はとても誠実だ。兄妹が夏のひと時を祖父母の家で過ごす物語。この映画でもときおり妹が“いない”ことがあるが(タイトルにも兄の名前が入ってるので少年視点の映画とは明示されている)、それ自体が物語を駆動するきっかけの役割を果たしていて、観客も妹の存在に終始注意を惹かれる。電車に轢かれそうになる、死んだ鳥を弔う。そこに“死”が匂い立っているのも忘れることができない。少年にとっての妹が、“わからない他者”として等身大のまま描写されていることの凄みを感じた。先日観た清水宏風の中の子供』を彷彿とさせるシーンもたくさんあったし、たぶん見てないと思うけど。日本の歌がなぜかいっぱい出てきて簡単に懐かしさに浸ることもできる。ティンティンと寒子の交流も強く印象に残る。揺蕩う時のなかで川で友と遊んだり見知らぬ恩人に身体を預けたりしたこと、そのにおいとかを忘れたくないなと思った。

フンクイはピンとこなかったけど『海辺の彼女たち』は大傑作だったので、感想はまた明日。時間がない。『童年往時 時の流れ』を観にいく。

読めないタイ料理(2021年5月2日)

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まさかの連休1日目と同じことを繰り返す連休2日目の朝。そうならないようにこれ書いてるのに。観たい映画のチケット取れなくて二度寝して、起きたら雨が降っていた。起き上がれないまま『今ここにある危機とぼくの好感度について』第2話を観る。登場人物を多くして話をわざとややこしくしてるような気がしてくる脚本だけど、人の波に呑まれて真実が見えなくなるというのが現実なのかもしれない。鈴木杏の動じなさと少しの揺れの反復が美しくて、松坂桃李(真)のかっこ悪さを際立たせている。どこまでも他人事で、それゆえに愛おしい部分もあるがそんなところを可愛げのようにしていてはいけないんだ。あと3話、展開がまだ見えない。ブラックコメディ要素もぐんとなりを潜めてしまい、脚本はあんまりうまくいってないような気がする。

お風呂入って準備して雨のなか近くのタイ料理屋へ。「〇〇〇〇〇〇(汁入り豚そば)」と書かれてるタイ語の名前(〇〇の部分)が15文字くらいあるもんだから読めなくて、「あ、これで…」とぎこちなく注文した。3か月くらい前に初めてグリーンカレーを食べて感動した手前、すべてのタイ料理にグリーンカレー風味を感じてならない。ココナッツミルクだけじゃない、あの独特の旨みはどこからきてるのか。食べ終わって外に出たら雨足が激しくなっていた。天気の移り変わりが激しい1日でしたね。

やばい、ドラマしか観れない、と思いながら『生きるとか死ぬとか父親とか』の第4話を観る。またもや最近流行りの「変わりゆく街」についての話だった。DMMブックス7割引セールのときにいっぱい買った漫画を読まなければと思い立つ。『うちのクラスの女子がヤバい』。数日前に始まった続編の第1話を先に読んでしまったけど、これは面白そう。でもキャラクターがぽんぽん入れ替わる1話完結感がちょっと虚しい。

夕方に家を飛び出しk’s cinemaで『台北ストーリー』を観た。序盤が話に入り込めなくてうとうとしたものの、中盤以降、画がずっと特殊で目をひいた。序盤寝たからか終盤の展開には納得いかなかったけど。エドワードヤン…という感じのラスト。ホウシャオシェンの顔が誰かに似ていて妙に安心する。自分の叔父さんに似てるのかな。いや、誰か有名な人に似てる気が。

帰りながら、K-PRO主催の無観客ライブ無料配信にギリギリ飛び込んでカナメストーン、キュウ、ウエストランドのネタを観た。きょうのカナメストーン勢いあったなぁ。会場の西新宿ナルゲキは2週間ほど前に初めて行って大爆笑をもらったところだったから、その記憶が蘇ったりした。スタンダップコーギー、サスペンダーズ、かが屋、カナメストーン、ひつじねいりと気になるコンビがたくさんいるマセキのライブに今度行ってみたい。けどYouTube見る限りずっとアクリル板挟んで漫才やってるのね、マセキのライブって。コンビ間でそこ徹底して意味あるのだろうか。そこに苦言を呈しても意味はないが。

スーパーにて、冷凍のむきエビが安かったから買った。火を通したら思ったよりちっさくなってしゅんとした。お酒とかいっぱい買い込んじゃった。チョコレート買い忘れた。

ご飯を食べたあと、昨夜放送されたNHK『事件の涙』を観た。番組内である女性が発する「向こうの人たち」にはなりたくないなと思った。

ようやく観たい映画のチケットを予約できたので、ぐっすりねむります。明日は3本映画を観る。

いちばん面白い、を積極的に乱用する(2021年5月1日)

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連休はだいたいスタートダッシュをミスる。早く起きてもそのままベッドのなかで映画を観てたらうとうと二度寝をしたくなるし、よっしゃ映画予約するぞっと思ったら満席になっていた。今日はだらだらドラマを観ていただけで時が過ぎ、夕方には激しい雨に頭痛がして昼寝ぶちかまし寝ても覚めてもずっと眠い日だ。『すいか』(いまHuluで無料です)第4・5話、『住住』第1話、『息をひそめて』第1話あたりを観た。中川龍太郎『息をひそめて』第1話はとても『街の上で』感のある、というか『わたしは光をにぎっている』なコロナと無くなってしまうものと残り続けるものの話。『住住』はシーズン1が好きすぎるので早く、早く若林と二階堂ふみに登場してほしい。

きのう始まった『半径5メートル』がかなり面白かったようで、1日たったいまもかなり興奮してる。今期数多ある良作ドラマのなかでもいちばん心に刺さる第1話だったのではないか。「いちばん好き」っていう言葉を使いすぎて最近は「もっとも面白い」とか「〇〇とか」(いい類義語を思い浮かばなかった)を使ってるけど、大げさとかじゃなくって「いちばん好きなもの」ばかりに囲まれていたいんだものしょうがないよね。ドラマは週刊雑誌の編集部が舞台で、冒頭は「1折」と呼ばれるいわゆる「スクープ記者」として奮闘する主人公(芳根京子)を描く。が、それはただの大いなる前フリであり、目に見えない読者と見える“熱愛”(あえてこの言葉を)、職場に蔓延るセクハラや男性中心的構造に弾かれてドロップアウトを余儀なくされた芳根京子が、そこでの「疑問」を背負いながら(生活情報を取り上げる、とてもゆるい)「2折」に異動になったあとの「発見」を捉える。そんなドラマだ。大きい出版社の週刊誌で働く知り合い(女性)にまずは想いを馳せた。

脚本とセリフがキレキレだ。橋部敦子さん、そんなに馴染みがないけどこんなことなら知ってるワイフとモコミも観とけばよかったかな。永作博美の存在感が素晴らしくて、「あなたはなにをどう見るの?」という言葉の説得力に射抜かれた。芳根京子との距離感もいい。さすがにあの職場はちょっとファンタジーすぎるけど「ひたすら楽しそうな仕事」って最近のドラマでは観ない気がするからそういう観点でも楽しめる。あとは三島有紀子さんが演出してるからだと思うけど要所に構図で魅せてくる場面があったのもよかった。高低差はさすが『幼な子われらに生まれ』の!って感じだ。関係ないけど。初回放送にしては最後うまくまとめすぎな気もしたけど黒田大輔が熱演してたんでもうそれはOKです。花束を持って走り去ったの倉悠貴だよな。吸い込まれる美形。

乾杯前の一節を言えた試しがない/すきなものノート(2021年3月10日)

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「好きなものを書くの。嫌いなものを書いちゃだめだよ。嫌いなもののことを考えちゃだめなの。好きなもののことを、ずっとずっと考えるの」

ーー坂元裕二『Mother』第1話

「最近なんかあった?」と聞かれると十中八九いやな記憶を引っ張り出してしまうたちだ。それ自体がとてもいや。だから、いつでも好きなもののことをしゅっと取り出せるように、その場面に出会ったらいちいち記録しておこうと思う。『Mother』のドラマ内でつぐみ(芦田愛菜さま)が書いていた「すきなものノート」にならって。やがてきらいなものさえも好きになってしまえたらうれしい。とか言って。*1

  • 洗いものが終わってる洗面台
  • 映画のエンドロールで誰ひとり席を立たなかったとき
  • 褒められること
  • 緑色のセーター
  • コートのポケットにすっぽり収まる本
  • なが〜くてふと〜い鼻毛が抜けたとき
  • 昼寝(机に突っ伏すのじゃないやつ)
  • 演劇の開演前とかに流れる木琴だけでつくったみたいな音楽
  • 明日の天気予報を見て晴れだったとき
  • 乾杯
  • 人の「恐縮です…」って感じの表情
  • 傘を打つ雨の音
  • 読書する、文章を書くとかなんでもいいけど、2、3時間くらい時間の存在を忘れて生きているとき
  • 100%充電済み
  • マスクのせいでメガネくもってる人
  • 高円寺駅構内に立ちこめる焼き鳥のにおい

乾杯が好き。あの、みんながちょっと照れながら、正解の表情もわからないままに目を見合う瞬間。僕はこれまでに一度だって、「じゃあ〇〇さんの誕生日を祝して〜」とか「素敵な夜に〜」とかいう乾杯前の一節を言えた試しがない。「誕生日を祝して〜」は言おうとしたことがあるけど、こんな短いフレーズなのに途中でふにゃふにゃっと噛んでグダグダになってしまったことがある。ていうか言い終わる前にグラスをぶつけてしまった。あの言葉を咄嗟に思いついてズバッと言える人はすごい。尊敬しちゃう。でもやっぱり、乾杯ってちょっと恥ずかしげがあるから好きなんだよな。意味はないけどやってみると楽しい感じとかが。だから、みんなと酒が飲めてうれしいとか何かを祝したいからではなく、ましてやグラスとグラスがぶつかる音が好きとかいう変な趣味があるのでもなく、不意に乾杯をするときの、人のちょっと微妙な表情を見るのが僕は好きなのかもしれない。

 

*1:すきな「もの」を書こうとしたらすきな「瞬間」が多くなってしまった。まぁ、物体よりも時間とか記憶のほうが愛おしいのよね。