縞馬は青い

縞馬は青い

映画とか、好きなもの

嫌いになり方がわからない/今泉力哉『愛がなんだ』

2019.4.30 テアトル新宿

三角形の上を動く点Pは定理にしたがってずっと点Qを追いかけているけれど、どこまで行っても同じになることができない。速度を変えたり先回りして待っていても、そこに彼の姿はない。山田テルコは一生、田中守にはなれない。

 

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幕開けと幕切れに訪れる2度のズームアウトは、ホラー映画のような一種の狂気を孕みながらも、しかしどうしようもなく愛おしく山田テルコという人間の生き方の一編を描き出すことに成功している。電話を受けてからの身体の動きは、まるで「アクシオ(来い)」(©︎ハリーポッター)と魔術を唱えられたかのように大胆かつ自然。異様なまでに美しいそのカラダの運び方は、そのあとも幾度となく登場する(守からテルコへ、テルコから守への)電話での呼び出しにおいて、私たちが向こう側にいる人物の表情と身体を想像する助けになるだろう。とりわけ、部屋の電気を消す音の大きさに無頓着なのが、とても狂気的に感じるのだ。そしてラストには、「33歳になったら会社辞めて飼育員になる」という言葉を受けた先回りなのかなんなのか、テルコは象の飼育員になっている。なぜマモちゃんに人生を捧げているのかという疑問への回答はいつまでたっても得られないけれど、生きるすべになってしまっているということはなんとなく理解できる。幸せではない。でもそんなに不幸でもないと、山田さんは思っているはず。*1

 

マモちゃんに家を追い出され、500ミリの金麦をあおりながらトボトボと行く先もなく歩くテルコ。正直言って、あんなにかっこいいタイトルバックは見たことがないです。昨年の東京国際映画祭を含めて3度観たのだけど、毎回鳥肌が立つほどに、「かっけぇ!」と声に出しそうになるほどに大好き。どこからどう見てもテルコがしんどそうに見えないのは、ひとりでいる場面(会社や自室でマモちゃんを待つとき)が映画時間的にあえて少なく撮られているからだろうか。葉子(深川麻衣)が言うように、どんなに辛くても、冗談でも「死にたい」とか言わないのがテルコの性格。「いまどき男でクビって」と同僚の女性(穂志もえか)に言われても、そうだよねぇとめちゃくちゃヘラヘラしている。

 

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結局、どこまで行ってもみんな「自分系」なのだと思う。途切れない継続的な関係を望みながらも、いまの自分を満足させることに最大限に注力しているテルコの姿*2が、みっともなくも人ってそうだよなって思わされる。

 

きっと葉子が帰れと言ったのだ。テルちゃんは話があるにちがいないから、あんたがいたら邪魔だ、帰れ、と。そうしてナカハラくんは、さっきの私と同じように、この明るい夜空の下をとぼとぼ歩いて帰っていくのだ。なんだか、どんなふうにかはわからないけれど、世界はみんなどこかで折り重なって、少しずつつながっているのかもしれない。

ーー角田光代原作文庫版『愛がなんだ』/P15

『愛がなんだ』という映画は、今泉作品らしく人の面と面が重なり合って同じような性格があぶり出されていくところにひとつエクスタシーを感じる作品。そこに登場する麺を中心とした食べ物のイメージもとても雄弁だ。重すぎた味噌煮込みうどんとやさしい味のアルミ鍋のうどん、そして使われることのない土鍋。家でひとりすするカップ麺と仲原くん(若葉竜也)と食べたラーメン。すみれさんがナカハラっちのために作ったはずのパスタはなぜかテルコが必死に食している。中目黒のクラブで守からすみれへ、テルコから守へと届けられるお酒はその後飲まれることがなく、存在意義を問うていた湯葉を、守はあるとき絶賛する。年越し、餃子を欲した葉子だけがそこにおらず、純米吟醸をちびちび飲む3人に奇妙な連帯感が生まれる。年越しを一緒に迎えたテルコとナカハラ。隣にいる人が好きな人ならばどれだけ幸せだろうと思いつつ、互いに顔を見て、その瞳の奥に自分が写っているのを見て目をそらす。すべての場面が表面的な優しさと裏切り、どうでもよさで満ちていて、基本的にはちょっと辛くなる。

 

山田さんのそういうとこ、ちょっと苦手。5週くらい先回りして変に気使うとこっていうか。逆自意識過剰っていうか。

すみれとマモちゃん、テルコが三方向に展開し、テルコはすみれの欠点をラップ調で発したあと再びマモちゃんから言われた苦しい言葉を思い出す。ざまぁみろ。このシークエンスがとても好き、というかどうにも刺さってしまうな。好きな人からとかじゃなくてもあるでしょみんな、こういうこと。例えば、何度も何度も頭を駆け巡るように、マモちゃんから言われた言葉を音声で連続的に流すようなことも演出のひとつとしては考えられるわけだけど、そうではなく、他人事のように一度すみれを介してから自分ごとであると理解する様を描く。とても滑稽で、だからこそリアル。あの一連の苦悩をテルコはあの夜何度も繰り返すのだろうと想像できてしまうところに、演出と脚本の意地悪さとテルコへの愛が垣間見える。

 

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マモちゃんは特別かっこよくないし、おしゃれでもなく、お金をたくさん持っているわけでもない。どこが好きなのか、自分でもあんまりよくわからない。だからこそ抜け出せない迷路感が漂う。好きなところを嫌いになることは簡単だけど、もともと好きなとこなんて手が綺麗なとこくらいだから、一緒にいたくなくなるほど嫌いになんてなれっこない。このテルコの好きのあり方には全然共感できるわけではないし、まじで狂気的だなとすら思うけど、象の飼育員になってしまったテルコを見てやっぱりどうしたってかっこよく思えてしまうのだから不思議だ。かっこいいぜテルちゃん。どうかそのままでいてくれ。

 

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とにかく岸井ゆきのが最高だ。成田凌若葉竜也深川麻衣ももちろんいい。KANA-BOON『ないものねだり』のミュージックビデオからまるで時が止まっているかのような岸井さんの佇まいがエモい。でも確実に表情は豊かになっていて、サブカル感もかなり抜け落ちていてポップで、それなりにエロい。平成が終わりました。

*1:2度のズームアウトに加えて、朝早くに出社しようとするマモちゃんに理由を聞いた時にテルコへと注がれるズームインも印象的。とことんテルコの映画。

*2:捻じ曲げてしまう将来の夢と好みのタイプ、もちろん仕事や好きな人以外への態度も

カルチャーをむさぼり食らう(2019年3月号)

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ネイチャー豊かな世界(兵庫県の田舎)からカルチャーがそこかしこに息づく東京へきて1年が経った。そのタイミングで月単位のカルチャー日記的なものを書きはじめようと思いました。はじめようと思う理由はけっこうあるのだけど、ひとつには、文学や音楽についてのまとまった感想を書くのがすごく苦手で、でも放出できない想いが頭を渦巻いてしんどくて、短文でもいいから記しておきたいと思ったこと。書き始めれば意識的にもっと多種多様なカルチャーを摂取できるのではないかという希望なんかもあって。東京でカルチャーをあらかた貪り尽くしたら、ネイチャーの世界に帰ろうと思うのだけど先は長いかな。ブロガー・ヒコさんの「最近のこと」を読んで育ってきたので、「橋本愛のカルチャー日記。(©︎POPEYE)」の書き方ではなくぶつ切りみたいな感じでトントンいきます。(3月は休日がめっちゃ多かったのでコンテンツ含有量の多さは自負しています)

 

3月1日。映画好きにとっては特別な「映画の日」。基本的には気づかないまま過ぎ去ることが多いけどこの日は『岬の兄妹』を観ようと意気込んでいた。なんでもポン・ジュノに絶賛された映画(助監督も務めたことがあるみたい)ということで期待値は高かったのだけど、余裕でおもしろかった。描写やストーリーはそれこそポンジュノ作品のような韓国映画的でそれなりに過激なので、沢山の人に見てもらって否定派も含めた賛否両論を生む必要がある映画だと感じる。そうした質感でいうと『万引き家族』にとても近いかもしれない。(おもしろかった映画に関しては個別エントリーで詳述しています。)

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3月2日。待ちに待った『オードリーのオールナイトニッポン』の武道館公演へ。リトルトゥースと言えるほどの自信はないのだけれけど、この公演へ向けた番組本の制作に少し携わったりしていてその過程ですごく大好きになっていたので、3時間半くらいに及ぶ公演もめちゃくちゃ楽しかった。ラジオゾーンはオープニングから若林のフリートーク、春日のフリートークへと一定の空気感を纏いながらスムーズに進み、ショーパブゾーンを経て満を持して漫才へ。M-1で有名になりラジオがはじまって10年。超越したかっこよさに痺れまくった。1万2千人が内輪受けで爆笑に包まれるライブなんて最高すぎる。愛しかなかった。

オードリーとオールナイトニッポン 最高にトゥースな武道館編 (扶桑社ムック)

オードリーとオールナイトニッポン 最高にトゥースな武道館編 (扶桑社ムック)

 

 

3月3日。贅沢貧乏という劇団*1の『わかろうとはおもっているけど』という公演へ。ディスコミュニケーションに苦しみながらそれでも何とかわかろうと努力する人たちの物語。笑ったとか泣いたとかではないのだけど、ずっと心が豊かで頭もぐるぐる考えさせられていて、とても楽しかった。もしかしたら今まで見た演劇で一番おもしろかったかも。ロロの島田桃子さんも他の4人の演者もみんな愛らしくて愛らしくて。これから追いかけたい劇団だ。

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『翔んで埼玉』はとても退屈だった。コントだけで押し切ろうとする『銀魂』みたいな映画は好きではないけどこの映画はなんとなくいける気がしてた。でもコントにしては案の定長すぎて…。続けざまにユーロスペースで『疑惑とダンス』を。最高。この週末はジェットコースターのような感情の乱高下だ。途中微妙な映画を挟んでしまったもののたぶん人生ベスト級に豊かなカルチャーウィークエンドだったと思う。とにかく密室会話劇というのが好きで好きで仕方ない。誰かおすすめを教えてほしいものですが、先にこちらからおすすめしておくと今月公開『あの日々の話』*2は最高です。

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飛んで3月9日。イーストウッド『運び屋』を観た。人生失敗してしまったおじいちゃんに人生訓を教えられる映画。最近映画館で泣くことはほとんどないのだけれど、これはけっこうちゃんと泣いてしまった。近くにいる人を大事にしなさい、というありふれた教えが主題にあるのだけど、90歳近いイーストウッドの切実な願いとして表出されるからこそ強く胸を打った。


3月10日。『スパイダーマン:スパイダーバース』の映像の革新性には度肝を抜いた。年々、アメコミ映画にワクワクできないようにはなっているのだけど、これはもう視覚的な刺激が常軌を逸してる。太陽を見た後に他のところを見たら残像が残るじゃないですか。あんな感じで映画館を出た後も数分間、アニメーションの残像が目の前を飛び交っていた。夜に『疑惑とダンス』のおかわり。5~60分でサクッと楽しくて1000円ぐらいで観れるこういう作品が量産されると世界は平和になると思う。アマゾンプライムでドラマ『鈴木先生』と劇場版をビンジウォッチ。久しぶりに夢中になってドラマを見ていた。『3年A組』とかは途中で見るのやめたからわからないけど、やはり説教ではなく「対話」で建設される教師と生徒の関係は美しいと言うほかない。古沢良太脚本だと『デート』がまだ見れていないので早急にどうにかしてみたい。


3月14日。有給をとっていたので高円寺で古着屋巡りをした。1年住んでるけどまだ全然開拓できていなかったんだなと思い知らされてびっくり。パル商店街を一本、中に入ったところにある「CORD」という最高のお店を見つけた。

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「お久しぶりです」「はじめてですよ…?」「あ、すみません。常連さんに似てて…」という店員さんとのいびつな会話から最後にはいい感じの仲になれたのでうれしかった。服で一番重要視している“手ざわり”がこの店は全部よくて「見つけてしまったー!」とこれまたうれしさでいっぱいだった。昼に試写でティモシー・シャラメ主演の『ビューティフル・ボーイ』を観る。ドラッグに溺れる青年を描いた暗く悲しい物語だけど、とにかくティモシー・シャラメが美しい。日本人の映画好きを増やすには彼の活躍が不可欠なので、どんどん公開されてほしい。大地に落とす大粒の涙すら輝いている。


3月16日。Tverで『平成物語』を見ていた。岡山天音松本穂香が出ていた昨年のやつ。ふたりとも今大好きな役者なのだけど、特に松本さんはもうどタイプすぎてやばい。


3月17日。ナカゴー特別劇場『駿足』を観劇。相変わらず嘘みたいに笑えるけど、前2作に比べると中盤少し中だるみしていて、締め方もクールじゃなかったように思う。ただ、足の速い人がたくさん出てきて小さい劇場を躍動する姿は非常にナカゴー的で楽しかった。下高井戸シネマで開催されていた「濱口竜介監督特集」で『PASSION』を観る。『ハッピーアワー』の次に好きな濱口映画で、2度目だけど駆け込んだ。密室会話劇となる中盤の「本音ゲーム」はもとより、あらゆる場面が映像の豊かさで満ちていて飽きない。濱口作品のミューズ的な存在である河井青葉さんもこの映画の彼女が一番素敵だと思う。

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3月18日。有給をとって『バイス』と『アメリカン・アニマルズ』を試写で鑑賞。子ブッシュ時代の副大統領・チェイニーを描いた『バイス』(4/5公開)は、100%社会風刺な映画だけどところどころユーモアがあっておもしろい。ブッシュがバカだったなんて知らないバカだったけどこの映画はそんな僕に親切で辛辣だった。


犯罪映画を参考に作戦を練った大学生、まさかの実話/映画『アメリカン・アニマルズ』予告編

予告編を見ると『ベイビー・ドライバー』の再来かと思わせるようなスタイリッシュな見た目をした『アメリカン・アニマルズ』(5/17公開)は、観れば誰もが“思ったよりスタイリッシュじゃない”と驚くと思う。このギャップがどう転ぶのか、劇場で確認してほしい。同じファントムフィルム配給の『ビューティフル・ボーイ』とはよく似ている部分がある。『グッドワイフ』の最終話を録画で見て、完璧なドラマだなと打ち震えた。終盤に向けての女性たちの連帯がなんとも美しい。

 

3月19日。『青春ゾンビ』の「最近のこと」が1年ぶりくらいに更新された。

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彼の文章がこの世で一番おもしろいと思っているほどのファンなので、『&Premium』の「脚本家が台詞に込めるもの。」という特集記事も楽しく読んだし、「最近のこと」もいちいち感激しながら読みきった。


3月21日。よく晴れた気持ちのいい祝日。昼に友だちと映画を観て、夜にまた違う友だちと映画を観た。故郷から遠く離れた地で、休日にバスに乗って友だちの住んでる場所に近い映画館に行って映画を観るなんて、これ以上に楽しいことはありますでしょうか。みた『君は月夜に光り輝く』はなんとも言えない映画だったけど*3、友だちと観たことでいい思い出として記憶に残った。夜に観たのは『キャプテン・マーベル』。今月公開『アベンジャーズ』を楽しむには必須だというのでしょうがねぇなぁと思いながら観たけどなかなか楽しめた。あらゆる抑圧から解放されるかっちょいい女性を描いた映画でテーマが現代的。次のアベンジャーズもしっかり楽しめそう。


3月23日。アップリンク吉祥寺で『放課後ソーダ日和』を観た。枝優花監督『少女邂逅』のスピンオフとして制作されたもとはYouTubeのドラマが、映画館で公開されるというのはなかなかすごいのではないだろうか。YouTube用だったとは言ってもクオリティは担保されているので、映画館で観ても違和感のない物語の強度を味わった。ほんとうに好きな作品。リアルサウンド映画部で毎週レビューを書いていた『イノセンス』が最終話を迎えた。ドラマの形式はすごく二番煎じ感があったけど、王道だからこそ光る物語のわかりやすさとメッセージ性があったと思う。若い人たちが活躍する弁護士ものというのは新鮮で、とても楽しく毎週原稿を書くことができました。

realsound.jp


3月24日は原美術館で開催されていた『ソフィ カル─限局性激痛』へ。人生最悪な1日の記憶を人の不幸話で相殺させていくという痛々しい展示だったけど、ソフィ・カルという女性による写真と文章を使った感情の放出方法と、弱くて強い生き様に感銘を受けた。『世界ウルルン滞在記』の松本穂香に惚れる。世界で一番寒い場所へ旅に出ていたのだけど、雪を被った彼女のまつ毛になれないものかと必死に考えた。無理だった。テレビ東京の深夜ドラマ『デザイナー 渋井直人の休日』が半端なくおもしろい。最初は周りにいるデザイナーもこんな感じの生活をしてるのかなとか想像を膨らませながら見ていたけど、だんだんこれは自分の物語だと気づきはじめた。どこまでも通じ合わない心と渋井直人の大きな愛。4月に突入してもまだ終わる気配がないのだけど、一生やってくれるってこと?


3月26日。再び「濱口竜介監督特集」で『THE DEPTHS』を鑑賞。これまた最高におもしろい。『PASSION』や『ハッピーアワー』とは映像手法やストーリーがちょっと違うように感じたけど、やっぱりどの場面もバチバチに決まりまくっていてかっこいい。『恐怖分子』や『ヤンヤン 夏の思い出』といったエドワード・ヤンの諸作品を感じたりした。

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3月28日。『あいのりAsianJourney 』のSeason2がついに終わってしまった。最初から最後まででっぱりんのためのシーズンという感じだったけど、結果的に彼女によって見出されることになるトムやAI、じゅんきといった男性陣がみんな魅力的で、ただかき回していただけではないということがわかる。「本音で話したい」と怒り狂う彼女は濱口映画にでも出てきそうなある種フィクショナルな存在だけれど、彼女がいなければここまでおもしろくなってなかっただろうな。


3月29日。ほんとうにたまたま有給を取っていて(有給消化に奔走した月)、坂元裕二著『初恋と不倫』を用いた朗読劇『詠む読む』を観に行くことができた。

往復書簡 初恋と不倫

往復書簡 初恋と不倫

 

観たのは満島ひかりさんとのんさんの回。大好きな女優の声であの物語を聞くことができるなんて、どんだけ幸せなんだ。靴箱を侵犯する手紙に始まってショッピンモール屋上での手繋ぎ、海を渡る描写など、境界を「飛び越えていく」ことが主題にある作品だと思うので、女性と女性によって再構成された今回の「female/female」という形式も違和感なく、むしろ当然の展開のように思えた。朗読劇だからこそ味わえる彼女たちの言葉の“間”の裁量も完璧でドキドキしました。終わったあと少しトークがあったのだけど、満島さんものんさんも挙動がめっちゃかわいかった。家に帰宅したあとすぐ文通をしている友だちに手紙を書いた。充実。

 

3月30日。余韻に浸る間も無く、この日は『ひなフェス』のチケットを取っていたので幕張メッセへ。ダブルユー鞘師里保が復活すると聞いて衝動的に申し込んだ公演。ハロプロは去年の7月くらいにファンクラブに申し込んで何度かライブに行ってるのだけど、いつも思ったより楽しめていない気がしていて(というよりYouTubeやニコ動で動画を漁ってるほうが楽しくて)今回も心配だったのだけど、油断してたわ。どちゃくそに心持ってかれた。今もまだ魂抜けてるくらいの感覚だ。モーニング娘といえば姉と一緒に見てたテレ東の番組の辻ちゃん加護ちゃん、あるいはミニモニだったし、大学生でハマったときには絶対的なエースとして鞘師里保がいたので、僕にとってのモーニング娘のすべてがあの場所にあったような感じ。加えて他のハロプログループもレジェンドたちの輝きに照らされていつも以上によかったのではないだろうかと思ってる。つばきファクトリー小野瑞歩さんと雨ノ森川海の岡村美波さんが特にかっこよかった。あれ以来、本当に魂が抜けたような感覚…。


3月31日。ユーロスペースで昨年『きみの鳥はうたえる』で注目を集めた三宅唱監督の最新作『ワイルドツアー』を鑑賞。愛らしい青春恋愛映画。60分台のサクッと映画がちょうどよく心に沁みた。

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結局、文学も音楽もあまり摂取できていない。AppleMusicからSportfyに移行したのだけど、絶妙に使いこなせてないんだよな。ミツメの新譜は最高ですね。

 

以下、Webで読めるおもしろかった文章。

ecrito.fever.jp

p-dress.jp

www.kansou-blog.jp

drifter-2181.hateblo.jp

 
今月のベスト緑茶割りは「和楽多酒場 新宿店」のやつ。ただ緑茶割り以外の料理とかは極めて普通です。

 

*1:主催は山田由梨さん。

*2:玉田企画による同名演劇の映画化。監督も玉田真也。

*3:『君の膵臓をたべたい』『響』など月川翔監督とは相性がよかったのでなおさら何とも言えなかった。

世界が広がっていく感覚/三宅唱『ワイルドツアー』

2019.3.31 ユーロスペース

きみの鳥はうたえる』の三宅唱監督の最新作は、芸術とテクノロジーを用いた新しい表現を探究する山口情報芸術センターYCAM)のプロジェクトによって生まれた作品。ティーンエイジャーたちの冒険と恋愛模様を描いたみずみずしい青春映画だ。

 

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本作はかなり愛らしい映画なのだけど、普通といえば普通。監督は“SFを撮ろうとした”と言うけれど、やはりこの映画はSF的には見えなかった。でもそれってちょっとした思考の飛躍なのだと思う。揺れる木々も川のせせらぎも、雪の下に眠る緑の芽も、普段はそこにあるということすら意識していないけれど、ひとたびカメラという意識的な機械を持ち出してこの世界に向けてみるとその美しさに気づくということがありえる。見える世界、言わば通常の生活からするとSF的ですらある不思議な現実が広がっていく*1。そしてそれは、日々の嫌なことを一瞬忘れることができる魔法のようなものにもなりうるのだ。

 

ムービー(ドキュメンタリー)を撮れば9割のものが映り込むと思い込んでいた三宅監督はある日、「人が恋する瞬間」や「死ぬ瞬間」などなど、どうしてもドキュメンタリーでは映せないものがあることに気づいたという。(参考:https://www.cinra.net/interview/201903-miyakesho/amp?__twitter_impression=true

 

そこで必要となったのが「劇」。

物語を紡ぐということ。

 

確かにこの映画では、「人」や「もの」だけでなくて、人と人(もの)の間にあるものや、人から発せられるもの、人の感情といったものがしっかりと描写されていたように思う。ときに、「感情」が画面に「映る」ように演技したほうがいいんじゃないかと気づき、監督に進言したのはあの中学生の男の子だったというから、それを聞いてとても驚いたのだけど。

 

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『ワイルドツアー』は、映画という芸術の素晴らしさを知るための映画という感じで、おそらく出演者や製作陣にとってもそうした試みだったのだろうけど、この映画を観て「私も何か撮ってみようかな」と誰か1人にでも思わせることができたなら、これほど素晴らしいことはないなと思った。普段はそう簡単に見ることができない少年少女の無理のない初々しさが映っているというだけで、この映画はSF映画であると断言することができる。刺激的な映画体験だった。

 

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*1:何度も映し出される「立ち入り禁止」の表示は、まるで未知の世界へと誘われているようでドキドキしてしまう。

手さぐりで愛だけを探してる/濱口竜介『THE DEPTHS』

2019.3.26 下高井戸シネマ

わからない。暗すぎて何も見えない。果たしてあなたはこちらが見えているのだろうか。それさえも、何もわからない。出会ったときはあんなにはっきりと、少年が手を離した風船をちょっぴりジャンプして取ってあげるあなたの姿が見えていたのに、今はこの部屋が明るくなったときにどんな顔であなたがこちらを見るのか見当がつかない。もっとも、もう私とあなたの間に光が射すことはない、ということだけは知っているのだけれど。


* * *


対面した他人(あるいはこの世界)に興味を持っても、その人が多面的であると知れば知るほど、底知れなさを感じて不安になる。でも気になる人のことは隅から隅まで知っておきたい。濱口竜介が『PASSION』の次につくった長編映画『THE DEPTHS』(2010)に登場する主人公の韓国人カメラマン(キム・ミンジュン)が直面するのは、そうしたジレンマによる苦悩だ。街ですれ違い興味を持った(カメラにおさめた)リュウ石田法嗣)が、引く手数多の男娼であると知ったあとにとった衝動的な誘導、彼がようやくこちらを向いたときになぜかその目を真っ直ぐに見ることができない鬱屈した感情、そして友人との交わりを見て崩れ落ちる幻想。その人の一面だけを見ているほうがよっぽど楽で、(それが真実であろうとなかろうと)通じ合えていると思えたのに。

 

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奇跡的なまでの美しい画と役者のアドリブ的な身体の動きの連なりによって唯一無二な映画に仕上がっていた前作の『PASSION』*1と比較すると、本作は「すべてが計算されつくした映画」という印象だ。ちょうど『寝ても覚めても』と同じような感じで、映画的な美しいシーンは随所にあるのだけれど、『PASSION』のあとにみると少し作為的な部分が浮き立ってしまう。


本作で映画的に作り上げられた印象的な場面を並べると、そこに「境界」や「越境」という言葉を当てはめるのがしっくりくるだろう。幾度となくペファンとリュウの間を隔てることになる扉や、ファインダー越しという境界、ガラスを突き破る男の存在や、極めつけはすべての境界(国境、性別、人種)を越えていくギルス(パク・ソヒ)という男の姿まで。「自分の生き方に満足している男が、他人に翻弄されて自分を見失う」というプロットは『PASSION』から引き継がれているが、ここではペファンが、“超越的なギルス”と“猫のようなリュウ*2によって変革を強いられる姿が描かれていく。しかも哀れなのは、友人の結婚式に訪れただけの日本でそんなことが起こるなどペファンは微塵も想像していなかったところにあるだろう。端的に言えば、ペファンは人を見下していた。一方で、冒頭でモノレールから幾度となくシャッターを切る彼(のカメラ)は、そうした運命的な出会いを求めているようにも見える。


チャペルの屋上で幸福な笑みを浮かべるカップル。階段を下り、タクシーへと乗り込む別の姿となったカップル。3つあった風船が上下の往来を経て1つになっている。ホテルの一室で冷たくなった肢体は、そのうち海へと放たれる。そうした上下運動の反復によって強調される超越的な身体と、どこまでも平行線を辿り、あるいはすれ違い続ける心と体。

最終的に“飛ぶはずだった”飛行機は欠航してしまい、車はあちらとこちらに引き離される。


* * *


果たしてこの結末は運命だったのだろうか。それとも私が招いたことなのか。あなたと離れたことで、まわりが明るくなってきたような気がする。こんなことの繰り返し。何も見えてない。ずっと暗いまま。ずっと、手さぐりで愛だけを探してる。

 

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*1:実際、遠景長回しの際に画面を横切ったトラックは偶然通り過ぎたものらしい。

*2:『PASSION』で「弱いものに寄り添う」と形容された猫のような男。

人生の豊かさについて/エドワード・ヤン『ヤンヤン 夏の想い出』

2018.6.12

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先日報道ステーションに是枝監督がゲスト出演していて、その時に語っていた言葉はどれもが印象的だった。その中でもキャスターからの「どうして家族を撮るんですか」という問いに対する答え。


「家族ってやっぱりおもしろいんですよ。ひとりの男性を見てみてもその人が父親であり、夫でもあり、また息子、叔父、いとこといろんな役を演じている。人の多面性を撮るにはちょうど良くて、それが浮き彫りになるのはおもしろい」


みたいな。なぜ自分が家族映画を好んで見るのか、その答えがこれだったんだと妙に腑に落ちたものです。ある人物の多様な側面が浮き彫りになるのが家族という共同体で、その「家族」を突き詰めていくとその先に大きな社会が見えてくる。


* * *

 

その是枝監督も愛したエドワード・ヤンの遺作『ヤンヤン 夏の思い出』。鑑賞後の今、人生のすべてを垣間見たような不思議な感覚を抱いている。


本作に登場するのは、あるひとつの家族と彼らを取り巻くさまざまな人々。本作はこの多様な人物たちの群像劇として進行していき、是枝監督の言葉のように人間の多面性を描き出していく。特にN.J.(題名にもあるヤンヤンという少年の父親)にスポットライトを当てる時間が多く、また彼のキャラクターは特に多面的に撮られ、印象的だ。


本作における彼の役柄を挙げてみると「ヤンヤンにとっての父親」「ヤンヤンの祖母にとっての息子」「ヤンヤンの母親にとっての夫」「ヤンヤンの叔父にとっての義兄」「高校時代の恋人にとっての元恋人」と書き出すと止まらないくらい。そしてこの映画を観ていると気づくのは、人生において役柄が多ければ多いほど=多面的であればあるほど、その生き様は豊かで、幸せに違いないということだ。まだ若造なので本当のところはどうなのか分からないけど、他人と多く、密に接している人ほどその人生は幸せ(不幸も内包した“豊かさ”がある)なんだろうなと、感じずにはいられなかった。


ヤンヤンの母親が家を出て行ってしまう理由なんかもここにあるのではないだろうか。母親の前では彼女の娘でしかいられないことへのもどかしさ。そこからの解放を求めるという行動。これは『恐怖分子』において「家を出て行ってしまう」彼女と彼にも同じことが言える。少ない役柄しか演じれないように強制されてしまうと、途端に精神が崩壊してしまうのだ。


本作では出会いと別れ、恋と失恋、生と死などさまざまな事象が画面を往来していく。ときに淡く、ときに厳しく、優しく、辛く。感情もさまざまに往来していく。楽しくて優しいだけではなく、残酷すぎる現実ももちろん訪れる。そうであっても、この静かに躍動する画に、僕の心は掻き乱されてしまった。いつの日か、エレベーターから出てきた人が2、30年前の元恋人だった、みたいな経験をしたいなと、そんな気持ち悪いことを考えさせられてしまう、不思議な映画だった。

 

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静から動への暴力的転換/濱口竜介『PASSION』

2019.3.17 下高井戸シネマ

半年ぶりくらい2度目の鑑賞だけど、何度見ても理性を失いそうになるくらい惹かれてしまう映画だ。濱口竜介の作品はすべてそう。非現実的な会話の応酬によって登場人物たちが連鎖的に突き動かされ、あるいはそもそも“行動的な人間”だったかのように振る舞い出し、その行動は予測不能ながらもどこか感情統制が取れていて(彼らだけ物事の整理がついているような感じ)、破綻しているかのように見えるラストも絶対にこれしかない締め方だと納得してしまう。2008年、東京藝大在学中に制作された映画『PASSION』は、『寝ても覚めても』の片鱗を感じる映画、というか明らかに『寝ても覚めても』より高等なことを実験的に突き詰めようとしている作品だ。そしてその目論見は見事に成功していると言う他ない。現実にはほぼ起こらないだろうことが展開されているけど、それなのになぜか現実の人生を濃縮したようなものが彼の作る映画には写っているから、盲信的に欲しつづけてしまう。

 

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『PASSION』という映画に終始興味を惹かれ続ける要因は、ずっと何かが画面内を動き回っているからだと思う。走ってるとかバスに乗ってるとか、あるいはフリスビーをしているとかそういう身体的な動きだけじゃなくて、とりわけ静止する場所である「家」の中でも常に心や言葉が動き回っていて、そのせわしない動きに僕は興奮させられているのだと感じる。そんなのどんな映画でもそうだろうと思うかもしれないけど、動きのダイナミックさが明らかに飛び抜けているのだ。そしてこの作品が、「静止していたものが動き出す映画」だから、特別そう感じるのだと思う。

 

冒頭、タカコとケンイチロウが亡くなった猫を土に埋めるシーンがある。これは、続いていたものが終わることを示唆しながらも、逆説的に新たなものが始まることを予感させている*1。平穏からの脱却といえるだろうか。またあるいは、劇中で“思考停止”という言葉が発せられることもある。一面的な考え方に納得して考えることをやめてしまっていたカホへ向けてケンイチロウが発するセリフだ。そんなケンイチロウも、カホに会いに行く前に「最初からそうすればよかったのに」とトモヤとタカコから非難されている。翻ってトモヤも、現状に不満を持ちどうしようもなく答えを求めていて…。

 

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しかし、こうして“静止しているという状態”というのは、単なるまやかしに過ぎない。そんなのありえないから。元々彼らの心の中では様々な感情が蠢いていて、それでも外には発さないように我慢しているだけなのだ。それは、家でトモヤの帰りを待つカホがひとりで踊りはじめる場面(その姿を窓の外から写すという描写は、まるで人の中にある心の動きを表しているようだ)や、無抵抗にお湯へと同化していくパスタの姿に表出されているのかもしれない。張り裂けそうなくらい心は暴れまわっているのに、なんとか抑えようとしてきた不器用な大人たち。

 

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そうしてすべてが静止しながらも、外から向けられた暴力(肉体的な暴力、言葉の暴力、キス)によって徐々に自らも暴力をふるうことを促されていき、やがて彼らは真理へとぶち当たることになる。“真理”とはすなわち、思考し続けることの重要性なのだろう。他人のことは何もわからないし、おまけに自分の心と体もバラバラだけれど、他人にとっては自分も他人なのだからせめて“わからないということ”を共有しようではないか、じゃないと何もわからないままなんて虚しいでしょ? といったような。“タカコの家”と“トモヤとカホが住む家”を起点としたダイナミックな登場人物たちの動きによって表出されるのは、彼らが抱える虚しさと微かな希望のようなものだ。クライマックスで濱口監督の十八番である遠景からの長回しによってカホの心は急転換、向かうべき方向性を明確にし、迷いなくそこへ歩みを進めることになる。

  

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*1:「トップシーンは強い画が欲しかったというのが一つの理由としてあります。猫の意味合いに関しては、元々、映画の前後にも時間が流れていることを感じさせるような映画にしたかったんです。それで、ずっと飼っていた猫が死んだという始まりは、長く続いてきたことが終わることの象徴としていいんじゃないかと。平穏に暮らしている時間が長く続いていたんだけれども、そういう時間が終わったという。」参考:http://eigageijutsu.com/article/97397354.html

足が速い女の衝動的プレイバック/ナカゴー特別劇場『駿足』

2019.3.17 あさくさ劇亭

 

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鎌田順也が主催の劇団「ナカゴー」の演劇は、“本公演”と“特別劇場”に分かれている。いちおう上演時間の長さが違ったり、劇場の大きさ、後者にはナカゴーの劇団員があまり出演することがないなど力の入れ方は異なるのだけど、そのどちらもが、オーバーアクションや突飛なセリフまわしによってデフォルメされた登場人物たちが、“笑い”を主軸に置いた作劇を展開していく点において質感的にはさほどの違いはない。本公演だと笑いすぎてマジで疲れるな、って感じるくらいの違い。いうなれば、お好み焼き(特別劇場)と、ライス付きのお好み焼き定食(本公演)を食べてるみたいな、どちらもめちゃくちゃボリューミーで味の濃いやつ*1。まだ3作目なのでそこまでよくわかってはいないのだけど。たぶんそんな感じ。

 

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足の速い女がある事件の犯人探しをするお話をやります。ぜひ。

 

HPに書かれていた本作の宣伝文かあらすじのような文。いつもこんな風にシンプルで内容の検討がまるでつかないあらすじなのだけど(おまけに本編がその前振りとはまったく違う話になっていることもある)、惹きつけられてしまう独特の魅力がある。これは劇団への信頼感と言うべきだろうか。

 

足の速すぎる人が4人ほど出てくる物語。その内訳としては、足が速すぎることで国に狙われている女。足の速さをコントロールできず、運動会で走ることを恐れている男の子。その母で、子供のころから速く走ることを親に禁止されて倒錯した性格になってしまった女(一連の事件の犯人)。公園に住みつく足の速い小学生児童(32歳)。

 

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人物紹介欄に(犯人)とか書かれちゃってる感じがナカゴー流。これだけ見てニヤニヤしてしまった

 

この物語には、「足が速いからすぐに逃げられる人々が、同じく足が速い人に捕まってしまい、現実と向き合うことになる」という正統派な主題がある。そしてあくまでも主人公(小学生の男の子)は別にいて、足の速いものたちの奮闘をはたから見ながら成長していくという展開。まわりを取り巻く(マイノリティな立場にいる)人々の困難や不安を描きながら、徐々にその模様を見ていた男の子とその母親の物語へと波及していく様は、相米慎二『お引越し』、エドワード・ヤンヤンヤン 夏の思い出』などにも投影できる作劇のかたちと言えるかもしれない。そうした主軸にナカゴーお得意の“ごっこ遊び”が加わり、やんわりと生が肯定されていく。

 

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大げさなアクション/リアクションのなかでも、“同じことを繰り返す”という反復的所作が目立った本作。それは、悩める駿足ビトたちによる衝動的な存在証明として、あるいは認められない恐怖から焦燥的に繰り出される行動として捉えることができるかもしれない。首をスーッとするイタズラ、カンチョー、帽子やバナナをこっそり奪うこと、あるいは親から子への“嘘”。すべてがあまりにも子供じみているけれど、そうであるからこそ、純粋な子供心を想起させてくれる。何よりも子供心を取り戻したように小さな舞台で躍動する役者たちが楽しそうで仕方ないのだ。

 

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*1:関西弁が使われるわけではないし(アクセントとしてたまに出てくるが)、鎌田さんは関西人でもないと思うのだけど、同じことの反復で笑いを積み上げていく構造や大げさなアクション/リアクションとかが絶妙に新喜劇的で、関西人の僕には響いてしまう。