縞馬は青い

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映画とか、好きなもの

流れついて、また流れて/濱口竜介『寝ても覚めても』

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人と人が正面衝突して、そのことによってより深く関係が再構築されていく。濱口竜介監督は、平凡からの崩壊、そして崩壊からの再生を描いてきた映画監督だ。

まだ4作品しか見れてないけれど濱口作品は、なんとなく息苦しい毎日が衝突を機にハレバレとする(しかしまた違う苦しさも残る)、そういう一連の流れを必ず描いてきている。『永遠に君を愛す』では“浮気がバレる”ということによってより強固な愛が示され、『天国はまだ遠い』では、“姉の死”や“男の嘘の演技”が妹の感情を発散させる。『ハッピーアワー』なんかは徹頭徹尾、衝突の嵐だ。なぜ、濱口監督は、ソレを描くのか。

そうですね。ハッピーアワーにも価値があるし、アンハッピーアワーにも価値がある。同質的なノリが達成されたときだけが尊いのではなく、それが壊れてバラバラになってしまったときにも実は尊いものがある。そこでは自分自身が新たに発見されているのかもしれない。だからそうやって、人が集まったり離れたりする繰り返しを見ているのが、僕は好きなんだと思います。

───『寝ても覚めても』濱口竜介監督が導く、日本映画の新時代 - インタビュー : CINRA.NETより

離れたりくっついたりする、壊れてバラバラになる。誰しもが平穏に生きていたいと願っているかもしれないなかで、濱口監督はあえてそうした苦しみに立ち向かっていく。なぜそれを描くのかと問われれば、浮き沈みと喜怒哀楽に揉まれ、崩壊と再構築を繰り返すという“慌ただしさ”が人生の豊かさを作り上げることになるから、としか答えようがないだろう。

同質性の中で真に誰とも(自分とも)交わらずに一生を終えるのか、否定と受容、対話と自問自答を繰り返して生きていくのか。少なくとも濱口監督は、後者に人生の重きを置いているのだと思う。

僕も後者の方がなんとなくおもしろそうだなと思う。とは言っても、この映画のようにそれを直で見せられてしまうと、なかなか心にズシンとくるものだ。

 

「ハッピーアワー」から「寝ても覚めても」へ

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前作の『ハッピーアワー』には、自分の“本当の感情”に気づき、そのことによって気持ち悪いくらいに生き生きとしだす人物が登場していた。離婚調停の末に妻である「純」への愛がふつふつと燃え上がってしまった男・「公平」だ。本作2度目の切り返しを見せた朝子(唐田えりか)は限りなくこの男に近い。自分勝手にもほどがあるけれど、汚い川を見て、「でもきれい」と自信をもって言えてしまう、無双感がある。

たびたび使われる「人と人の間にカメラを置く」という撮影方法は濱口監督の常套手段だろうか。他の映画ではあまり見たことがなかったような気がするのだけど、これがすごくおもしろいのだ。人と人の間にカメラを置き、一方の人物を正面から捉える。そしてその人物が話したり、表情を変えたり、動いたりする。そのことによって画面のこちら側(裏側って言ったらいいのかな)にいる人物の動作や表情を想像させる。

まるでその映画の世界の住人になったかのように感じさせる。まるでその人物たちの心のつながりに同期したかのような感覚を覚えさせる。『ハッピーアワー』ではこの手法によって正中線という名の心のつながりを見せていた。決まって誰かと誰かが“通じているとき”に使われていると僕は思った。

本作では結構雑多に使われているような気もしたけど、「非常階段から下にいる朝子を見つける画」や「土下座しているのであろう串橋を見下ろしているマヤ」などつながりが垣間見える場面で使われていたような気がしている*1

そのスペシャルなカメラ位置での印象に残っている場面を2つ挙げて、この映画のレビューとしたい。ラスト付近、朝子が仙台の海という他者と対面するシーンと、2人が並んでこちら側の川を望んでいるラストシーンだ。

まず1つ目から。この映画、なんとなく移動経路が重要な意味を示しているように思う。「大阪→東京→仙台→東京→大阪→東京→仙台(の手前)→(北海道×)→大阪」朝子の移動経路。主題歌の「River」を含め「川」が印象的な映画ですが、高速道路に乗って車が移動するあの空からの映像が、なんとなく川を流れているように僕には見えた。同じ道路を写し、行ったり来たりを繰り返す。

そこで朝子がたどり着いたのは、仙台(正確には仙台の手前)の海だった。麦に別れを告げた後、朝子は仙台の海と対面する。さんざめく波音に臆さない彼女のあの表情は、ラストシーンに次いで美しいショットだ。

あたしはまるでいま、夢を見ているような気がする。ちがう、いままでのほうが全部長い夢だったような気がする。すごくしあわせな夢だった。成長したような気でいた。でも目が覚めて、わたし何も変わってなかった

───「ユリイカ2018年9月号」より引用

こう語った直後の2度目の切り返し。

仙台の海は、否応なく「現実」を突きつけてきた。震災を含めたこの7年の出来事と亮平への愛、麦の底知れなさ、あるいは岡崎の病気が、すべて夢ではなく現実であるということを浮かび上がらせる。そしてそのことによって、北海道という終点へと身を運ぶのではなく、川を流れ続けることを彼女は選択することになる*2

そこからの彼女は強い。目的が明確だからだ。この気づきは、おそらく裏切りという崩壊をもってしないともたらされないものだったのだろうと思う。そうして亮平の元へと戻り、2人で川を眺める。

 

亮平:汚ったねぇ川だな

朝子:でも、きれい

 

亮平にとっては、氾濫して泥にまみれた「汚い川」にしか見えていないかもしれない。しかし同じ川をみて朝子は「きれい」と言ってみせる。そして亮平は朝子を疑問の目で一瞥し、しかし反論はしない。そのまま2人が1つになったかのようにカメラが彼らを映し、暗転する。

今までは1人の人と人の間(あるいは海のような大きな他者との間)に置かれていたカメラが、“2人と川”の間にカメラが位置するという特異なラストシーン。あの場面には、すべてを受け入れてその先に進もうとする、2人が1人になり得た姿が存在していたように僕には見えた。それがすごく美しく、晴れ晴れしく、それでいて汚くも見えたのだけれど、とにもかくにも、豊かな感情を得ることができる気持ちのいい終わり方だった。

 

 

東出さんがヤヴァイとか唐田えりかさんが素朴でかわいいけど目線がまっすぐ過ぎて怖いとか、『パンとバスと2度目のハツコイ』と同じくヒロインの昔の親友っていうポジションでコメディエンヌっぷりを存分に発揮する伊藤沙莉の素晴らしさとかもっと色々書きたいけど長すぎるんでこの辺で。すごくおもしろかった。濱口監督の映画のおかげで人生の楽しみが増えた。

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*1:マヤと亮平が初めて出会った日の別れ際、バイバイをしているときに信号が点滅しだして慌てて振り返るっていう場面がたまらなく好きだ。信号点滅してるよーって指で示したりしてるんだろうなーってのが亮平の表情から透けて見える

*2:前半のバイク事故からしてふたりは一緒に川を流れることに難しさを抱えている