縞馬は青い

縞馬は青い

映画とか、好きなもの

踊るしかないこんな夜は/二宮健『疑惑とダンス』

2019.3.3/3.10 ユーロスペース

『チワワちゃん』で岡崎京子の原作をセンセーショナルに現代へとアップデートしてみせた平成生まれの天才監督・二宮健がまたやってくれた。あくまでも個人的な意見だけど、2018年の日本映画界が濱口竜介三宅唱の1年だったとすれば、2019年は二宮健と今泉力哉の1年になるんではないかと思ってる。最近いろいろニュースがあって嫌になっちゃうけど、それでも日本映画界の今と未来は常に明るいはずだ。

 

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この53分中編映画のストーリーはものすごくシンプルで、登場人物は、結婚を控えるカンナ(徳永えり)とマサオ(木口健太)に、彼らの結婚を祝福するカンナの大学時代のダンスサークル仲間4人(コムラ・サトシ・サナ・ツバキ)。映画がはじまってすぐに童貞感の強いコムラが「カンナと昔、一夜だけ関係を持ったことがある」とマサオに口を滑らすことを契機に動き出す「ヤッたかヤッてないか」をめぐる(むしろそれしかめぐらない)いびつな密室会話劇だ。

 

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もう呆れるほどにお話はめちゃくちゃくだらない、でも異常なほどに笑える。すごい落ちこんでて最近笑えてないなーとかいう人を無理やりユーロスペースのなかに押し込んでやりたいくらいに、見たら絶対元気になれる映画だと確信してる。ハードルの上げすぎはよくないけどね。映画を観て驚いたのは、二宮監督が『チワワちゃん』とは全く違うアプローチをしながらも、シネフィルもそうでない人も全員が楽しめる映画を作ってきたこと。「映画で遊ぶ」が本作のコンセプトらしいのだけど、監督も役者も遊びまくってるなーってヒシヒシ感じながら、決して内輪ネタにならない感じがとてもいい。みんな全力を尽くして遊び、ちゃんと観客の姿を見据えているのが伝わってくる大きな熱量を感じる映画だ。


熱量といえば、この映画はユーロスペースでしか上映してないのだけど上映後のアフタートークに全力を注いでいるのがおもしろい。毎日アフタートークをやってるんだけどそのゲストが半端なくて、有村架純戸田恵梨香門脇麦松本穂香、ディーンフジオカなどなどゲストで客を呼ぼうとしてる感じがすごい伝わってくる布陣(笑)。実際この映画を一回見てしまうとハマってしまうのはほぼ確定なので、内容が内容だけに、あの俳優がこの映画をどう見たんだろうとか気になって仕方なくなるんだよな。僕も門脇麦さんが登壇していたやつに行ってから1週間経って、出演者がほぼ勢揃いしてる回にまた行ってしまった。今のところリピーターがすごい多い映画だと思うのだけど、これはホント、1回見てしまうと沼ですよ、沼。安易におすすめしてはいけないかもしれない。

 

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なぜそんなにおもしろいのか。カンナを中心において、他の登場人物たちはほぼ全員カンナのことが好きなのだ。Likeではなく、がっつりLoveなほうで。だからマサオと結婚することを祝いながらも、内心は嫉妬でいっぱい。二宮監督は、冒頭から小道具を使ってその関係性を演出してたりもする。それは例えば、コムラがマサオの結婚を祝ってハグするときにコムラが片手にハサミを持っていたり(不穏な展開を予感させ、マサオを破滅させに向かっているとも取れる描写)、遅れてきたカンナが「おみやげ」といってコムラに「けん玉」を、ほか3人のダンスサークル仲間には「フリスビー」をプレゼントしたり。「けん玉」というのは、今後コムラが「カンナと過去にヤッたということしか話さないマシーン」になることを表象しているし、「フリスビー」というのはもう、投げたカンナのもとに愛という名の攻撃が返ってくることのメタファーにもなっている。人々の愛憎が渦巻き、真実は不明瞭で、カンナとマサオは彼らの望み通りに破滅しそうになる。


『疑惑とダンス』という題名が示唆するように、この映画にとってダンスはかなり重要。ちょっとネタバレになるけど、彼ら2人はダンスをすることで何とか心と心を繋ぎ止めることに成功する。ラストのダンスシーン以外、この映画は徹底的にディスコミュニケーションを描きながら、最後にはダンスをすることで、わかりあえないことを受け入れながらも何とか通じ合ってハグをする。その切実さに、普通に泣きそうになる。


本作は、シナリオと登場人物のキャラクターは監督がある程度考えているものの、脚本はないのでセリフは全部役者のアドリブで構成されているという。そんな映画観たことがなかったからどう言葉に表していいかわからないのだけど、「あ~俳優ってめっちゃ好きやわ~」と再確認できた53分だったように思う。かっこよすぎる。ほぼフルキャストが登壇していたアフタートークでは、「ヤッたことを覚えてない」と言い張るカンナ役の徳永えりさんは「実はヤッたことを覚えていながらも嘘を突き通そう」とキャラクター設定をしていたと語っていたり、サナ役の福田麻由子さんは「虚言癖のレズビアン」という設定で望んだとか、マサオ役の木口健太さんはとにかくカンナに真相究明していくことを胸に誓って徳永さんに嫌われるのを恐れながらも厳しい言葉を投げかけようと頑張ったとか語っていて、すごくおもしろかった。それと同時にその与えられた小さな設定だけでここまで見応えのある会話劇が仕上がっていることに驚きでいっぱいだった。

 

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低予算な映画だと思うけど、会話劇というジャンルのいろいろな可能性(人間関係の難しさをあぶり出したり、役者の本気が見えたり)が垣間見えた作品だった。僕は、映画で遊ぶ彼らがもっと観たい。

好きな三浦透子を集めてみた

出ている俳優で映画を選んでいた時期が僕にもあった。北乃きい長澤まさみ吉高由里子が出ている映画を漁っていたのは中学生くらいの時だったろうか。本格的に映画を見るようになってからはだんだん監督で映画を選ぶようになってきて、好きな俳優が出演していても、なんとなくスルーしてしまうことが多くなったと思う。でも最近思い出した。好きな俳優が出ていれば話がおもしろくなくてもそれなりに楽しめるということを。役者が大好きで、ドラマとか映画を観ていた過去を思い出した。三浦透子さんは今いちばん好きな俳優。ときに艶やかな表情を、またあるときには勇ましい表情を見せる、百の顔を持った現代の名カメレオン俳優だと思ってる。出ている役者で作品を選んでいると、思わぬところで素敵な作品に出合うこともある。そのことを再認識させてくれた三浦透子さんの好きなやつを集めてみた。

 

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月子

DVD化されてない作品を最初に持ってくるのもアレだけど、出会いはこの映画だったと思う。知的障がいを持った少女の役。個人的にはファーストコンタクトにしてベストアクトだと思っているほど印象的で、釘付けになってしまったことを覚えてる。三浦透子さんの良さは、彼女が持つ“かわいらしさ”と“ぶっきらぼう”な感じが作品ごとにうまく配合を変えてその役柄を演じているところにあると思う。

 

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架空OL日記

5人の銀行員の日常を描いた作品のなかで、彼女たちの後輩「かおりん」としてたまに登場した三浦さん。作品自体が最高で、バカリズムもほかの4人もよかったのだけど、なぜかかおりんに惹かれてたんだよな。たぶん最初は『月子』でみた女優と同じ人だとは気づいてなかったと思う。第6話で、出会いがないと言う先輩に知り合いのイケメンを紹介するといってかおりんが見せた写真のその人がかなりハゲていた、というエピソードがおもしろかった。

 

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水本さん


『水本さん』脚本 坂元裕二 監督 清水俊平(『雑談会議』)

 

実は坂元裕二作品にも出てる。東京芸大の学生たちが撮ったワンシチュエーション短編会話劇の一編として。幽霊役の水本さん(三浦透子)が執拗に同僚を死後の世界に誘うという坂元さんらしい可笑しくて変なやつ。幽霊と人間の間に差はないという会話からあらゆるものを肯定していくような坂元さんのおなじみの筆致に驚かされながら、仲のよかった同僚に避けられ、最終的に無理やり死後の世界に連れて行ってしまう水本さんの強引さが見どころ。坂元作品に出る三浦さんももっと見たいな。

 

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スカートのMV


スカート / 視界良好【OFFICIAL MUSIC VIDEO】

 

「CALL」「静かな夜がいい」「視界良好」と3作に出ているスカートのミュージックビデオもとてもいい。軽やかな身体と弾むメロディ。表情の変化だけですべてを雄弁に語ってしまう俳優であるから、このどれもにピタリとハマってしまう。

 

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素敵なダイナマイトスキャンダル

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これは本当に驚いた。母親をダイナマイト心中で亡くしている末井昭の半生を描いた映画でそのストーリーはもちろんすごくインパクトがあるのだけど、そのストーリーの派手さと同じくらい三浦さんの演技もスペシャルで、めちゃくちゃいい。吸い込まれてしまう美しすぎる一挙一動。大人びた風貌なのに当時20、21歳(1996年生まれ)くらいで自分の年下と知ったときには、鳥肌がたった。これからもいろんな三浦さんが見れるんだろうなと確信した瞬間でもある。

 

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デザイナー 渋井直人の休日

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“かわいらしさ”と“ぶっきらぼう”のうまい配合によって百の顔を演じ分けているように見えると前述したけど、これは“かわいらしさ”に全振りしてきたパターンの演技。役の幅が広すぎて、それぞれに顔も違いすぎて、普通に見てると同じ役者だと気づかないと思うんだよな~。そのへんで損してそうなくらいうまい。でも日本映画界とドラマ界はじわじわと彼女に侵食されているのだぞ。

 


このエントリーを記そうと思ってから三浦さんのことを調べてたら、歌手の活動もしている(していた?)ことを知った。そうしてカバーアルバム『かくしてわたしは、透明からはじめることにした』のなかの「遠く遠く」を聞いてたら、思わず泣きそうになった(仕事中に垂れ流してたので、すごい我慢したのだけど)。たしかに、彼女は「声」もとてもいいんだ。これまた“芯のある勇ましさ”と“やわらかく温かな質感”が相まった軽やかな声色。二律背反かもしれないそういう複雑な特徴を持つ彼女であるから、『21世紀の女の子』の一編「君はシーツ」で女性性の中に男性性を覗かせるような役柄を演じたのも、すごく頷けてしまう。

 

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今はAmazonPrimeで見れる『鈴木先生』に夢中だ。三浦さんつながりで見たのだけど、めちゃおもしろいドラマ。(信頼する)監督で映画を選ぶとほとんどハズレがないのだけど、作品的な良し悪しは別にして、役者で作品を選び取るというのも、とても素敵なことです。

 

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普通に顔が好きなんだけどそれを言ってしまうとすぐに終わってしまうので、いろいろ作品を集めてみた。三浦透子さんにいつかインタビューしてみたいな。

 

SFの話をしてるんじゃなくて/贅沢貧乏『わかろうとはおもっているけど』

2019.3.3 VACANT

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最近、ディスコミュニケーションを描く物語に夢中すぎる。うまく通じ合えない瞬間にこそ人間の本質は宿るんじゃないかとさえ思いこんでいるフシがある。思い返してみると昨年一番好きだった映画『ファントム・スレッド』もそういう作品だったと思うし、同じく昨年からめちゃくちゃハマった濱口竜介の映画群はまさしくそれが物語の根底にある。最近見た『ひかりの歌』、『疑惑とダンス』、『デザイナー 渋井直人の休日』なんかもこれこれ!!と唸りながら見ていた。おまけに今は「わかりあえなさ」の最高潮みたいな映画を撮るジョン・カサヴェテスに没頭している。なぜこんなに好きなのかはわからないけど、ディスコミュニケーションを描くことによって光りだすものが必ずあって、これらの作品にも常にそういうものを感じていた。

贅沢貧乏『わかろうとはおもっているけど』ZEITAKU BINBOU "I'm Trying to Understand You, But" - YouTube

そうした好みがあることは薄々感じていたのだけど、本作に関しては無意識に「そういう作品」を選びとっていて自分でもびっくりしてしまった。たぶんステージナタリーか何かのツイートがTLに流れてきて、一瞬で題名に惹かれてしまったんだとおもう(あとロロの島田さんが名を連ねていたから)。山田由梨主宰の劇団・贅沢貧乏『わかろうとはおもっているけど』。タイトルだけでもう最高。だってこんなタイトル、絶対にディスコミュニケーションの作品なんだもん。そして結果的にそうで、鑑賞中は「この作品を無意識に選んでくれた自分ありがとう」という状態だったのだけど、本作のおもしろさはそれだけじゃなかった。この演劇を観なければ知ることができなかったことがいくつかあったので、そのことについて書き記しておきたいと思う。

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身体の距離と心の距離は必ずしも一致するわけではない。相手に慣れれば慣れるほど、距離の近さに特別感がなくなるほど、相手のことがわからないということを強烈に感じることがある。家族とかが一番の例だと思うのだけど、それは悲しくもあり、避けようのないことでもある。本作が描くのは、大好きな人との子どもを授かったのになぜか喜ぶことができない女性と、そうした彼女の姿勢を疑問に思い、困惑する彼との「わかろうとはおもっているけど、どこまでもわかりあえない」関係性。冒頭から随所に垣間見える「会話と心のズレ」がポイントになっていて、身体的な接触を随所に挟むことでその本当の意味での距離の遠さが強調されていくのがおもしろい。(彼女が喜べない理由のひとつが、SEXに同意していなかったからというのもまさしくそう)そうして男と女の決定的なわかりあえない部分を描きながらも本作がさらに秀でているのは、出産や結婚などの男女間の価値観の違いを“家事”や“いびき”など身近な事象に転化させたり、同性でもまったく異なる考え方が提示されるなど、男女のお話だと思っていたら徐々に「個々」のわかりあえなさに飛躍していく点にある。これは語り方がうますぎて見ている間ずっと心が豊かだった。そしてあくまでも「わからない」とは言わないところがさらに本作の誠実なところだと思う。決して諦めようとしてないところがいい。机の下に潜り込んだ彼が「逃げてはない」と言う場面が印象的で、身体の距離の近さというのは「きっとわかりあえる」と信じ続けることの表象でもあるのだと感じさせる。身体までもが離れてしまってはもう終わりだから*1。基本的には希望に満ちた作品。

 


もうひとつ本作を見て気づくことができたのは、「女性は妊娠するとお腹が大きくなる」という至極当たり前のこと。というよりもその一大事さというか。これももしかすると身体の変化に心がついていかないといった「身体と心の不一致」が不安の原因なのかなぁと考えたり。何も身体の変化だけではなく、例えば家事の話の際にも出ていたような「変化にうまく対応してしまいそうな自分」に怖さがあったり。これも男女の身体だけを逆転させた終盤の流れのおかげで、自分の心にも染み入るように感じることができたし、「マタニティーブルー」のようなカテゴライズされた言葉の危うさに心が締め付けられるようだった。あの男女を除いた登場人物の個々のアイコン的な“髪の毛”が捻じ曲げられていくという身体的な変化もすごくおもしろく、切実に問いかけられる。

 


「心」では微妙にわかっていても、それを「言葉」にしようと試みることにもまた別の難しさがあるからディスコミュニケーションの根は深い。言葉はときに全然思ってもないことを伝えてしまうときもあるし。実際この演劇感想も何もかもうまく書けなくて驚く。島田桃子さん演じる主人公が子どもができたのにうれしくないということを友だちに語ったあと、その友だちが数秒間黙り、そのあとで「黙っちゃってごめん。簡単に返答できることじゃないからさ」みたいに一回返答を待つシーンがすごくよくて、コミュニケーションにはああいう誠実さが必要なのだろうなと思った。

それにしても5人の役者が全員魅力的だったな。

高橋源一郎×贅沢貧乏・山田由梨 現実を作り変える作家たちの力 - インタビュー : CINRA.NET

このインタビューを読むと山田由梨さんのめざすところがとてもよくわかる。

もしかしたら僕は、この「ディスコミュニケーション」という敵とずっと戦ってきたのかもしれない。

*1:これに関してはこのあと数日考えて、「身体までもが離れてしまってはもう終わり」というのは、この作品の意図とはちょっと違うかもなって思った。別に距離が離れていても心の距離が遠ざからないこともあるし。「決定的にわかりあえない」ことを受け入れた先に、それでも“生(食事をするという行為)”を渇望するという描写にこそ意味があるのかもしれないと思った。わかりあえないと知ることは必ずしも絶望ではない。本作に関してはむしろ希望として描いているように感じる。

厚い雲に覆われた日常/片山慎三『岬の兄妹』

2019.3.1 イオンシネマ板橋

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上京する1年前にそれまでの22年間住んでいた田舎には、映画館というとイオンシネマ(昔はワーナーマイカルシネマズだった)がひとつだけあった。たいてい大作しかかからないから、シネフィリーをくゆらせだした大学生の終わりごろには1時間かけて大阪まで出ていってたくさんのミニシアター映画を観たものだけど、車を15分走らせてフードコートでビッグマックを食べてから映画を観て、帰り道のドライブ中にその映画について思考を巡らせていた、イオンシネマを巡るあの経験は特別なものだった。大阪から電車で帰る1時間もそれはそれで特別だったんだけど。3月1日の映画の日は『岬の兄妹』を観ようと意気込んでいた。それで退社後に観れる劇場がイオンシネマ板橋しかなかったから、ちょっと遠くはあったけど久しぶりにイオンシネマに行った。地元のイオンシネマ以外のイオンシネマに行くのははじめてだったけど、学生のときに通ったあの劇場とほとんど変わらない構造をしていて、軽く感傷に浸ってしまった。なんと言ってもスクリーンがおっきくて距離が近いのが最高だ。他人の後頭部とかまったく見えずにスクリーンにだけ目線が支配される感じ。そこで観た映画は、新宿とか渋谷で観るよりそこで観るのが最適だなと思わせる絶妙な地方感と退廃した終末的な空気が流れていた。おおよそ電車に乗って1時間、帰り道にその映画のことを考えた。

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映画『岬の兄妹』特報予告【2019年3月1日(金)全国公開】 - YouTube

足の悪い兄と自閉症の妹。この記述はあまりにも記号化しすぎているなと思うけど、映画は最初、この世界が基準とする「普通」の枠組みのなかでは生きられないふたりの兄妹の姿を記号的な部分も含めて印象的に映し出していく。妹が勝手に家の外に出て彷徨わないように兄は彼女を鎖で留め、扉にも南京錠をつけて頑丈に閉鎖する。それでもどうにかして家を飛び出していく妹はある夜、「普通」からはだいぶん外れた方法で生きる手立てを見つけてしまう。“冒険”という言葉が出てきてからの物語は複雑ながらも非常にシンプルだ。「生きるために」兄は妹の売春を斡旋し、そのことによってポケットティッシュに広告ビラを挟み込む1個1円の仕事が、1回1万円へと急激に跳ね上がる。そうすると当たり前のように暮らしは貧しさを抜け出し、家には光が入ってくる。

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印象的なシーンはいくつもある。売春の繰り返しが展開される中盤も、春から夏、夏から秋へと季節の移ろいを感じることができ、そこに息づく彼らの日々の営みには笑いや怒り、涙がある。空と海は基本的に晴れ渡ることがないけれど、ときにこの世とは思えない色をした終末感を漂わせ、またあるときには茜色が映えた美しさを見せる。とても豊かで、とても貧しい生活。どんどんどんどん 彼らのことが好きになる。


冒頭で家を飛び出した妹の真理子(和田光沙)を兄・良夫(松浦祐也)が「出てっちゃダメじゃないか!」と叱るとき、真理子は「出てってないよ!」と反論する。このひとことを聞いただけで、真理子にとって家に閉じ込められていることは非常にナンセンスなことなのだと思い知らされた。この大きな世界、海や空を見るためか、あるいは死んでしまった(良夫は、遠くに行ってしまった、と言う)母親を探してのことなのか。そうすると、この兄妹がたどり着いてしまった生命維持の方法は、必然性をともなって私たちに突きつけられる。


荒々しいラストのモンタージュののち、携帯電話の受話器に耳を当てる良夫と、その姿を見つめる憂いを帯びた表情の真理子。一瞬、時間が巻き戻ったのかと思ったけれど、それは違くてたぶん彼らはループ的な空間の中にいるのだと思う。季節の移ろい、売春、妊娠、堕胎(→売春、妊娠、堕胎)、食事、排便。「それでも人間かよ!」と罵倒されながらも、たしかに繰り返される生命の鼓動。暮らし。彼らふたりを好きになりすぎて、どうかどこにも行かないでくれと願っていたけれど、結局彼らはその円環の中でずっと生きているのだろう、生き続けるのだろうと最後の最後に気づいた。それはうれしくもあり、途方もない絶望でもあった。

 

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安藤サクラさんにも似た自由な演技と飛び抜けた愛らしさがあった和田光沙さん。「お兄ちゃん怒るよ!」が絶妙にかわいくて、「1回、1時間、1万円」と言うときのニヤニヤした顔が忘れられない松浦祐也さん。彼らの演技をこれからもいっぱい見たいし、片山慎三監督についていきたいと思わせるには十分すぎる、衝撃的な映画だった。

あなたにとってユーチューバーとは?と問いかけられたような気分──『AGE OF EIJI -アバンティーズのすべて』を見て

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ずっと何かを書きたいと思ってた。1月4日に人気ユーチューバーのアバンティーズ・エイジが亡くなったというお知らせがツイッター上で流れてきたときから、ざわざわと心が落ち着かなかった。この思いをいつか放出しないといけないなぁと思いながら一か月半が経ち、僕がそうやってグズグズしている間に残された3人のアバンティーズメンバーたちはまっすぐな目で未来を見据えることができるまでに、心が整理できているようだった。

 

先日YouTube上に公開された『AGE OF EIJI -アバンティーズのすべて』は、年始からの一連の出来事とアバンティーズのメンバーが出会い、仲良くなり、衝突し、アバンティーズになるまでーー要するに“アバンティーズのすべて”が収められた、YouTuber動画としては異例の68分のドキュメンタリーだ。これを見て単純に、ユーチューバーってやっぱすげぇなって思った。


アバンティーズのすべて


ここまできてあれですが、僕はアバンティーズの動画を十数本くらいしか見たことがありません。たぶん。毎日見てたとかいうあれでは全くない。しかし思い返すと、ここ3、4年はかなりユーチューバーに助けられてきたと思う。映画やドラマ、漫画、音楽などなどエンタメにおける行動範囲が広い自分だけど、YouTube動画は全く別の次元で唯一無二に存在してきた。そうしていつのまにか自分の生活にはなくてはならないものになっていたから、ライターの仕事を始めるときにもこの人たちへの愛ならいくらでも書ける!と思って「パオパオチャンネル」の記事を書いたし、今も毎日欠かさず誰かの動画を見ながら、そこに誰かの“生”を感じてる。

 

YouTuberがつくる動画というのは、画面の向こう側、世界のどこかで、“誰かがそこに生きている”ということを強烈に感じさせるコンテンツだと思う。今日一日辛いことがあっても、あるいは何もなさすぎて憂鬱でも、画面の中にはいつもと変わらないその人たちが生きていて、必死に何かをして僕らを楽しませようとしてくれる。ヒカキンからはじまったのだろう「ユーチューバーは、途切らさずにほとんど毎日動画を投稿すべき」という暗黙のヒット法則的なものも、そんなに無理しなくていいのになと思う自分がいる一方で、結果的に日々の励みになり、途切れることのない他者の暮らしに身を寄せることの喜びを感じることにつながっている。

 

だから、ユーチューバーが死ぬなんて思わなかった。しかも突然。いや、死なんてだいたい突然なのだけど。

 

そういうことで、そこまで熱心に見ていたわけでもないアバンティーズのメンバー・エイジが亡くなったと知ったときにも、心がえぐられるような気持ちになった。おそらく彼らのファンだった人はもっと深い悲しみとどうしようもなさに襲われていたと思う。死の重さを比べるのは良くないけど、樹木希林さん(大好きな俳優だった)が亡くなった時と同じくらい、もしくはそれ以上の喪失感が僕にもあって、自分でもその状況にびっくりしてしまった。自分にとってユーチューバーってこんなに大事だったんだってそのときにようやく気づくことができたんだ。

 

リアルサウンドという媒体でライターとして文章を書き始めることができたのは前述のとおりパオパオチャンネルがあってこそだったし、そもそもライターになろうと思ったきっかけのひとつに「ユーチューバーへの憧れ」があった。自分と同世代の人たちが、日々何10万、何100万という人に動画を届けているというのが、すごく衝撃的だったのだ。だから自分もそういう存在に一歩でも近づきたいと思ったし、同時に彼らの凄さも伝えていければいいなと思った。

 

改めて、先日公開された『AGE OF EIJI -アバンティーズのすべて』はすごくいい動画だった。なぜ彼らがユーチューバーとして動画を投稿し続けるのかがすごくよくわかる内容だったし、僕ら世代の常に先を行く彼らの変わらない“かっこよさ”に感激することができた。画面の向こう側のあの人たちが常に前を向いているからこそ、僕たちも生きていけるのだと。ユーチューバーへの愛が確信に変わった瞬間だった。

 


僕たち活動休止します。


アバンティーズ / HELLO! NEW AVNTIS

 

ほんとうに、アバンティーズは視聴者のワクワクを生み出すのがうまいなぁ。

 
エイジさんのご冥福をお祈りするとともに、アバンティーズのより一層の活躍を願っています。

いちユーチューバーファンより。

『クワイエット・プレイス』との対比に見る「家族の生と死」/グザヴィエ・ルグラン『ジュリアン』

2019.1.26 シネマカリテ

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サスペリア』を鑑賞するにはまだ心の準備が足りないので、とりあえず気になっていたこちらを先に観た。それが、家族映画だと思っていたらとんでもホラー映画だったという、サスペリアよりも怖い可能性がある映画『ジュリアン』。ここでは、思いきって昨年のホラー映画『クワイエット・プレイス』と対比し、両作の類似点*1から「現代家族の生と死」について考えてみたい。


怪物

両作を「ホラー映画」という同じくくりに落とし込みたくなるのは、なんだってどちらにも「怪物」がいるからだ。本気で命を狙いにくる、ただただ害悪な存在の怪物が。言うまでもなくそれは、『クワイエット〜』では“音”に反応して人を襲うあのケダモノのことで、『ジュリアン』では家を襲撃する父親のことを指している*2。予告編なんかを見ていると『ジュリアン』は法廷劇とミステリーで物語を進め、最終的には『クレイマークレイマー』的な落としをするのかなとか安易に想像してたんだけど、最初の数分で(幽霊とかではなく人間の怖さを描く)ホラーだと気づいてしまってからは恐怖しかなかった。怪物は家族の外からやってくるのではなく、中にいるのだという表象は、極めて現代的な家族の描き方だ。加えておもしろいのは、外からの崩壊を描く『クワイエット〜』においても、父親は従来の「ヒーローとしての父親」としては描かれていない点にある。

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父親

クワイエット〜』において父親は、怪物に襲われそうになる子どもたちをかばい、囮となることで名誉の死を遂げる。しかし感動的ではありながらも本当にあの死が必要だったのかと問われると疑問符が浮かぶし、冒頭から息子をあっさりと失ってしまっている点や何せ途中で消えてしまっている点において、彼は前時代の家族映画で描かれてきた“家族を守り続けるヒーロー”としての父親にはなれなかった。要するに父親というのはもはやそういう存在ではないということだ。『ジュリアン』が、父親を家族との関係の中でしか描いていないことにも注目したい。どんな仕事をしていて、どんな友達がいるのか、という彼の周辺がまったく描かれていかないということ。途中、両親にも見放されてしまうという点で同情を一瞬買うものの、やっぱり彼はこの映画では“怪物”としてしか描かれていない。そんな彼の暴走を見ていくなかで私たちは「父親(=父権的な家族)の死」に直面することになる。一方で生き残るのは、母親と子どもが共闘する家族だった。

 

浴槽

追い詰められて、追い詰められて、最後にたどり着く浴槽。『クワイエット〜』では身ごもった母親が赤ちゃんを守りきり、『ジュリアン』ではジュリアンの耳を必死に塞いで父親がいなくなるのを息を殺して待ち続ける。この浴槽というのはまるで、母親の胎内のような「生」と「愛」で満ち溢れた場所として描かれている。「家族の生と死」、もっと詳しく書くと、「父権家族の死」とそれでも生きていく「家族の愛と生」。

愛をもって、怪物は絶たれる。これが現代家族の生と死。

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*1:早稲田松竹あたりの名画座で同時上映されそうなくらい、意外とヴィジュアルもストーリーもかなり似てた。

*2:ラクション、シートベルトの警告音、怒鳴り声、ドアをきつく締める音、チャイム、発砲などなど…こちらの“音”も強烈にトラウマを生む、家族ホラーを作り上げる重要なファクター。

ひかりの道筋をたどって/杉田協士『ひかりの歌』

2019.1.18 ユーロスペース

bsk00kw20-kohei.hatenablog.com

 

ひとつの映画について2度ブログを書くのは初めてのことだ。基本的に、一回長文を連ねてしまうとそれで納得してしまい読み直して的を得ていない内容にムズムズしても新たに文を書くなんてめんどくさくてできっこなかった。今までは。でもこの映画はどうしようもなく何かを書きたくなる。『ひかりの歌』は少ない言葉数で世界を表出している作品だけれど、だからこそたくさんの言葉で余白を埋めたくなるのだ。フツフツと燃え上がるこの映画への愛情をどうも抑えられそうになかったので(桐島部活、ハッピーアワーに次ぐオールタイムベスト3に割り込んできたこの映画に次いつ出会えるのかわからなくて不安になり)、とうとう2度目を観に行った。開演19時というのは社会人にとっては微妙に辛い時間だけど、金曜日の夜に定時ダッシュを決めてやった。来てよかった。そうしみじみと思った。気づいたら劇場の出口に立っていた杉田監督に握手を求めていて、「土曜日にも来たんですが(実際は日曜だった)、余韻がすごかったのでまた見にきてしまいました」ともっと他の言葉でこの映画への熱を伝えられなかったのかと今になっては思う、でも真剣な言葉を伝えていた。末端冷え性で冷えきった手を握ってくれた監督の手は驚くほどにぬくぬくで、力強く、充足感でいっぱいになった。上映後トークのマスター・矢田部吉彦さんがゲストだったのも観に行く決め手だったのだけど。ほんとうに、来てよかった。そう思った。

 

ここからは一瞬、この映画をまだ観ていないあなたへの手紙(ある公の場でこの映画を紹介しようと思って書いた文。ボツったのだけど)。
映画を観るとき、あなたは何を重視して作品を選ぶだろうか。日々のストレスを発散してくれるとびきり楽しそうなエンターテイメント映画や、はたまた自分の知らないことを新たに学ぶことができる社会派映画を求めるだろうか。どれも等しく作品選びには適していて、素敵な映画に出会う方法の一つひとつであることに違いない。一方で、この『ひかりの歌』という映画はどこにでもあるような些細な日常を切り取った作品で、今までの人生で「見たことのある風景」や「知っている感情」で埋め尽くされている。それゆえに、先述したような作品のセレクトからはどうしてもこぼれ落ちてしまう映画だと思う。しかし、常套句ではあるが、騙されたと思て本作を観てみるのはどうだろうか。そうすればきっと、あなたの(なんでもないと思っていたかもしれない)日常が、多くの光によって包まれていることに気づき、劇場からの帰り道は足どりが軽くなるはずだ。

 

手紙終わり。いよいよ収集がつかない文章になってきたけど、ところで本作を観ての一番の学びは映画ってこんなに情報量が少なくていいんだってむしろその方が心に刺さるんだと知ったことだった。主要人物の4人は主に演劇で活躍されている役者さんみたいなのだけどあの場では感情がデフォルメされることも多いだろう彼女らの演技は極限までリアリティを突き詰めた抑制された感情表現と身体の動きをしていた。遠景からの長回しが多く、背中を捉えた映像も多い。セリフも表情も何もかもが大げさでなく“どこかのあの日のそのまま”であるからこそ、私たちの過去の記憶がそのスキに入り込んでしまう。そういうわけで僕たちは、映画の細部に目を配ってすごく集中している一方で自分の過去を無意識に回顧してしまっているという、不思議な体験をすることになる。

 

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衝動で書きはじめたのでうまい締め方が思いつかず…、最後は前のエントリーでも触れなかった好きなところを羅列します。

 

・想い人に再会した後に発する「現国の新井先生」という弾んだ声
・はじめは自転車にすら乗れなかった彼女が抑えきれない感情に身を任せて走り出し、とうとう船で大移動し、車で各所を訪ねたのちに、元いた場所へと帰っていくという、緩やかながらもダイナミックに飛躍する彼女たちの動き
・友達が先生の絵を描いているところを静かに眺める彼
・一緒に食事をすることによって開かれていく言葉・関係・記憶(無言でお茶をすする彼女たちもいいし、チャーハンを食べておいしいしか言えない彼女もまたいい)
・真っ黒なアスファルトに映える自販機のひかり
・ショートカットになって帰ってきた彼女
・おう、おう、おう、うん。帰ってきた夫さんの頷きのリズム

ていうか全部好き!!笑

 

まばゆく今にも消え入りそうな“光”をまた別の“ひかり”が照らし出す。しかしその“ひかり”はあなたが発した“光”(あるいはあなたが生きているという事実)が巡り巡って自分のもとに戻ってきた姿なのだ。つまるところ“光”=“ひかり”。自分も自分じゃない人もすべてを包み込むそういう大きなひかりの中で生きているということをこれからも忘れないでいたい。

 

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