縞馬は青い

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映画とか、好きなもの

今泉力哉『有村架純の撮休』第6話:好きだから不安

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有村架純の撮休』がとんでもなくおもしろい。有村架純有村架純としてそのまま本人役を演じるこのドラマでは、是枝裕和今泉力哉砂田麻美ふじきみつ彦といった名監督/脚本家たちの手によって有村架純の日常にそれぞれが考える「物語」が被さり、そのことで有村架純の多面的な魅力が浮き彫りになっている。

是枝監督回の第1話「ただいまの後に」では(実際の地元である)兵庫への帰省や(風吹ジュン演じる)母親との滋味深きやりとりが描かれたり、今泉監督回の第2話「女ともだち」では(伊藤沙莉が演じる)親友とのごく自然的な会話、ささやかな連帯感が示されたりして、作家によって「有村架純の撮休」へのアプローチはさまざま。最近勢いがある本田翼や川口春奈佐藤健がやっている俳優YouTubeが、ある種「物語」(演じること)から解放された姿が映っていることで特異性を得ているのとは対照的に、本作では作家たちが考える「物語」や「演じること」を通して、有村架純の魅力が最大化されている。一見不思議な対比関係のようでもあるけれど、俳優YouTubeというリアルが見えた今だからこそ、より“俳優を俳優たらしめる”こうしたフェイクドキュメンタリーのような作品も初々しさを増しているのだと思う。

第6話は監督・脚本ともに今泉力哉。彼氏がいるという設定や好きな人をめぐる会話劇、11分にも及ぶ長回しなど、ここでもなんとも愛らしい今泉映画の香りが有村架純という人と日常のなかを漂っている。有村架純はとても魅力的に撮られているし、彼氏役の渡辺大知はちょっと今までに見たことがない色気を放っていて最高。渡辺大知の元カノ役の徳永えりも、病床に付している役どころなのにめちゃくちゃキュートだった。さすがは役者の魅力を最大化させることに長けた今泉監督。クイックジャパンのロングインタビューでもこう語っていた。

常にその役者の代表作に並ぶような映画を作りたいなっていう意識がありますね。あと、役者をいかに魅力的に見せるかを大事にしたほうが、結果的に作品自体も面白くなると思うんです。ーー『クイック・ジャパン Vol.149』

「成長を描きたくない」「必ずしも主人公が成長する物語ばかりでなくてもいいのではないかと」ということを今泉監督はTwitterでも、キネ旬QJなどの最近のインタビューでも常に語っていて、そうした非成長主義の作風が及ぼす作品や人への“肯定感”が、有村架純というある種神聖視されそうな人にも身近な人間味を与えていたりする。

第6話の面白いところは、「休日の予定」がどんどんすり変わっていくところ。彼氏と外でランチをするはずが(店を探すシーンも描いておきながら)、徳永えりから届いた結婚式への招待状を見つけたことを契機に彼氏への不安や嫉妬が湧き上がり(お湯が沸騰する描写)、「普通」に関する会話劇が展開され、なぜか徳永えりが入院しているという病院に一緒に行くまで。特別大きなことが起きるわけではないけれど、ある意味予測不能な展開。これも今泉作品に共通するもの。

今泉力哉監督の作品とは「旅」なのではないだろうか。それも、行き当たりばったりで予測不能で、偶然誰かに会っちゃったりして、そして最終的には元いた場所に「なんの成長もなく」戻ってくるまでを描いた。『インターステラー』のような大きな映画とはまるで正反対だけど、同じ“行って帰ってくる”映画。行って帰ってきたり、同じところをぐるぐるまわることで、元いた場所の魅力に気づく。変わらずにあるその日々に感謝する。その肯定がとても気持ちいいし、その世界に生きる有村架純も最上級にかわいい。

赤名リカ、その存在の証明/坂元裕二『東京ラブストーリー』

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輝くほど真っ白なコートに身を包み、まっすぐでピュアネスな恋心を交感させるリカとカンチの恋物語、『東京ラブストーリー』。飛行機に乗って文字どおり“空から東京の地に舞い降りた”カンチに、まるでそのときを待ち望んでいたかのように惹かれてしまうリカ。“天使性”とでも呼びたくなるような、そのどこまでも純白で軽やかな空気をまとったふたりはお互いの名前を繰り返し呼び合うことで「ここにいる」という実感を確かなものにし、個々の存在を強く相手の心に刻みつけようとする。

本作の放送は1991年。1995年生まれの僕にとっては何もかもが新鮮だったんだけど、とりわけ赤名リカのキャラクター造形がすばらしすぎやしない? あっけらかんとして思ったことなんでも口にしているようで、実は心の奥底に本当の想いを隠していたり、恋敵であるはずの関口に絶妙なパスを出してしまったり。「思ってることをそのまま口にしない」というのは脚本の坂元裕二先生ならではの性格も現れつつ、赤名リカがその(不確かな)存在をなんとか証明しようとし、でも証明しきれなかったりする様に自分でもビックリするほど釘付けになってしまう全11話でした。

赤名リカの存在証明の軌跡は、例えば第1話のラストにおける「帰ろうとして帰らない」所作(トレンディすぎて最高!)や、どこからともなく聞こえてくる「カーンチッ!」という呼びかけに現れているのだけど、それ以上に印象的なのは2度繰り返される彼女の「不在」だろう。逆説的ではあるものの、彼女はその存在感の強さゆえに「不在」こそが最も大きな存在証明になり得てしまうのだ。「“いなくなる”ってことは、“ここにいた”っていうこと」(©︎今泉力哉『退屈な日々にさようならを』)の最大級の形である。

彼女たちがついぞ結ばれることになる第4話の「不在」ドラマもすばらしいのだけど*1、第10話→第11話の一連の流れはまじ半端なく秀逸。「突然消えてしまったリカ」からはじまり、「地元の愛媛へリカを探しにいくカンチ」→「かつて“名前を彫った”と話した小学校の柱に“赤名リカ”の名前を見つける」→「校庭での再会」→「電車の時間をズラし、訪れる不意のお別れ」に至るまで。その柱の名前に加え、駅のホームに結ばれたハンカチーーそこに口紅で書かれた「バイバイカンチ」の文字が、彼女が「存在していた」という事実を強く決定づけることになる。赤名リカはそこに確かにいて、でもいなくなってしまった。

第3話においてリカはある印象的な言葉を残していた。

人が人を好きになった瞬間ってずっとずーっと残ってくものだよ。それだけが生きてく勇気になる。暗い夜道を照らす懐中電灯になるよ*2

いなくなってしまっても、離れ離れになっても、そこにあった確かな存在と「好き」という想いは未来永劫、決して無くならない。だから私たちはその思い出を強く抱きしめて、ずーっと先の未来に向かって歩いていくことができる。赤名リカがその存在をこの世界に強く刻みながら教えてくれたのは、そういう「人生を照らしつづける愛」を信じた生き方だった。

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*1:このあたりが物語の幸福感のピークで、どんどんどんどん辛くなっていくんですよね……

*2:後の坂元作品でも繰り返し語られるこの言葉、ようやくその原典にたどり着きました。この言葉が僕にとっての懐中電灯なんだよな。

転生したら幸せになれますか?/森下佳子『だから私は推しました』第7話

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ついに訪れた“押す”瞬間。第7話でもこれまた不気味な「階段」 が頻出し、 迷宮のようなこの世界から抜け出せずにいる登場人物たちの苦悶する様が描かれる。

高校生活でいじめ/ いじめられていた塚本美花はサニーサイドアップのハナとして第二の人生を生き、ライブ会場から追い出された瓜田は、実はスイカちゃんとしてネットの世界に生き続けていた。 同じように遠藤愛は、他界(アイドル用語でオタクを辞めること) したかと思えば成仏できずに戻ってきて、 再びハナと手を取り合って推し/推しされる関係を再構築する。 しかし、その直後でグループは解散することを決めてしまい……。 一回死んで生き返るハナと、死んだようで死にきれない瓜田、愛。しかし本質的にはいずれも、なんとか別の世界でやり直そうと奮闘して、それでも不運が襲いかかってきてやり直せない人たち。 思えばこのドラマは、いいね競争から脱落したOLが、 地下アイドルの世界に居場所を見つけるところから始まっていた。居場所というのはどこにでもあるようで、 実はどこにもないような、辛い現実を見せつけてくる『 だから私は推しました』。

であるならば、「力を試してみたい」 と言ってサニサイからの卒業を決心する花梨や、それを止める小豆さんの心理も「生まれ変わりたい/ ここで生き続けてほしい」という風に“居場所” に根ざした行動原理だと説明がつく。罪深くも、みんな「 自分だけを見てくれる世界」を望んでしまうんだ。

居場所を求めて彷徨い続ける愛、ハナ、瓜田。 その三者が奇妙に交差することで起きてしまう、墜落事故( あるいは殺人未遂)。死にかけて生き延びる瓜田と、突き落とした愛(もしくはハナ?) が最後に辿りつく場所とはいったい。 こんなに苦しい物語でもやっぱりどうしたって思い出してしまうのは、第1話、前髪を切って涼やかに踊っていた、あのハナの神々しさだよな。

持てあました想い/森下佳子『だから私は推しました』第5-6話

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こんなにも各々が発する「好き」という想いは溢れているのに、それがどこにもぶつかることなく、幻想だけがガタガタっと崩れ落ちていく悪夢のような展開。ハナの過去(と現在の計算づくかもしれないふるまい)にある事実に気づくことですぐに消滅してしまう彼女を「推す」動機というのは、そんなに軽いものだったのだろうか。ハナが前髪を切ったとき、ライブ中に初めて目と目があった瞬間、同僚を振り切って推しに駆け寄ったとき。そうした瞬間を緩やかに劇的に描いてきたこのドラマを観ていた私たちにはわかるはずだ。愛とハナの交流には紛れもなく「愛」なるものが存在していたことを。たとえ一方的だったとしても、すぐさま否定されてしまうような軽い感情ではなかったはずなのに。

第6話の最後では、ハナを推す前の生活に逆戻りを果たす愛。だけど、やっぱり何かが物足りない。以外にも同僚・マイが愛のことを真剣に気にかけていることに少し安心したけれど、彼女の想いにしても、愛を真に癒す手段にはなりえない。想いは交差しつつも一方通行で、登場人物たちはゴールの見えない迷路に迷い込んでいく。

realsound.jp

リアルサウンド映画部で『だから私は推しました』の作品評を書いた。本作におけるストーリーと映像への没入感は、「上昇」と「下降」という相反するイメージが混ざり合うことによって生じているのではないか、というドラマの外枠にある“巧さ”について考えたもの。本作の軸となるのは、サニサイを地上へと押し上げる「上昇」のストーリーと“瓜田が押し倒されるまで”を描く「下降」のストーリーだ。例えば第6話においても、卵を使った動画配信を行うハナと愛(視聴数の増減)を交互に展開することによって、視聴者に複雑な感情を持たせることに成功している。このドラマを見ているとずっと、なんだか素直に喜べないし、なんだか素直に苦しめないのだ。いいことも悪いこともないまぜになっているから。

嘘に気づいた愛は思っただろう、ハナに裏切られたと。でもほんとうにそうだろうか?彼女と出会ってできた思い出の数々、救われた経験はそんなに簡単になくなってしまうものだったろうか。彼女たちが上昇と下降を続けるペンローズの階段から抜け出すのに必要なのは、上昇と下降(いいことと悪いこと)をないまぜなままにするのではなく、整理して考えることなのではないか。そうすればきっと、抱いていた想いのまっすぐさに気づくはずなんだ。

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光の海を超えてゆこう/森下佳子『だから私は推しました』第4話

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その闇に光を灯すことができるのは「お金」だけなのだろうか。そんなわけない!と否定してみても、現実はそう甘くはない。サニーサイドアップがアイドルフェスに出場できたのも、ハナが見違えるほどのパフォーマンスを披露できたのも、闇に隠れた愛の努力があったから。「光の海」がきれいであればあるほどに、見えない場所で血反吐を吐くものの姿が透けて見えてしまうというこのドラマ構造が伝えるのは、世の不条理、表裏一体でなければ成立し得ないという現実の残酷さであろう。

映画や演劇、それこそドラマやアイドルなど多種多様なカルチャーに接していると、時々思うことがある。自分がこの場でお金を落とさないと、この映画を次に見る機会や誰かに見てもらう機会、劇団やアイドルの存続が脅かされるのではないかと。それは決して大げさなことなんかではなく、サブカルという言葉が死語になり多様な娯楽から好きなものを選び取ることができるようになった現在では、人気のないカルチャーは衰退していく、それは避けようのない現実なのだ。いくらそれへの「想い」が溢れていても、目に見える「もの」がなければ伝わらない……なんて辛い世の中なの。。

さらに辛いのは、目に見えるお金を工面していると、そのうち根元にあった「想い」が蔑ろになってしまう可能性があること。ライブには行けないしチェキも撮れない、おまけに新曲ははじめて聞くし、動画配信を覗いている隙もない。一番わかりやすくそれが可視化されているのは、いつもなら動画配信を見ていた時間が、愛がお金を工面する時間に移り変わっていることであろう。どちらも動画配信を行っているのに明らかな光と闇で分裂してしまっているのも悲しい。

ハナと愛。この2人の関係性が、夢を追う彼氏とそれを支える彼女みたいな関係性にどうしたって見えてしまうのは、やっぱり彼女たちがひとりでは自立できていなからなんだろう。前のエントリーではこの2人は共依存なんかじゃない!と無責任に言ってしまったものの、何をするにもお金が必要なことと同じく、これは否定しても意味がないことなのかもしれない。むしろこの作品が描こうとしているのは、「共依存で何が悪い!」という訴えのようにも思えるのだ。

フェスでのパフォーマンスを成功させてから、サニーサイドアップが解散ライブを行い、愛が取り調べを受けている現在までの道筋にいったい何があったのか。これから辛いことしか起きなさそうな展開ではあるけれど、もう最後まで彼女たちを見届けずにはいられないな、という強い心持ちでいます。

陽の当たる場所へ/森下佳子『だから私は推しました』第3話

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「私はあの子のオタなの」。そう告白しながら、徐々に黄色く染まっていく愛。まるで、後ろで出番を控えるサニーサイドアップに共鳴するかのように、まるで彼女たちに照らされているかのように、悔しさを吐露しながらも愛は美しく光り輝いていく。どうして彼女たちが身の程をわきまえる必要があるのか。がんばってる子を応援することに、なぜ遠慮が必要なのか。自分の思いを告白し、文字通り一皮むけるまでのこのシークエンスに、心を掴まれずにはいられなかった。

愛が心のうちに秘めた感情に向き合う間に、サニーサイドアップという地下アイドルはその名が示す「陽の当たる場所」への一時的なステップアップを果たしている。というよりも、彼女たちがそこへ上がってきたからこそ、愛もすべてを投げ打つ決心がついたのかもしれない。彼女たちがめざすのは、サニーサイドで堂々とパフォーマンスをする未来。その第一歩を踏み出した愛とアイドルたちの姿が重なって描かれることで、ストーリーにも厚みが生まれ出す。そしてそれを共依存によるものとみなすのは、あまりにも短絡的なのだ。なぜなら、愛の建設的なアイデアによって動画配信の視聴者が増え、ハナの頑張りと彼女からもらったオタTが愛の決心を後押しするなど、お互いに自立することでいい影響を及ぼし合うという関係を私たちはしっかり見ていたから。桜井ユキさんが主演している『真っ赤な星』という映画があるのだけど、その作品でもまさしく自立する女性2人の姿が描かれていて、それはもう美しいとしか言いようのない光景だった。愛とハナを見て少なくとも僕は、この世で一番美しい関係性だと強く思うのだ。

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第1話でことごとく「否定したはずのものに導かれてきた」愛は、ここでもまた、オタクという言葉を受け入れることで違うステージに歩みを進めることになる。オタへの階段を登った愛がなぜ刑務所という絶望(?)の未来に向かうことになったのか。めっちゃ気になるわ〜〜*1

*1:ネットで服の値段を見て、「チェキ25枚分か」とチェキ計算してしまう感じ、、めっちゃわかるな。僕の場合は映画鑑賞料金が生活のベースになってる。。

あなたと私、目があった/森下佳子『だから私は推しました』第1-2話

m.youtube.comアイドルが髪を切る。そこに圧倒的な生の煌めきと幸福感が宿るのは、やっぱりこのMVを思い出してしまうからなんだろう。髪を切るなんてほんの些細な出来事かもしれないけれど、それを彼女が軽やかに踊りながら見せると、「何かいいことが起きそうな予感」に世界が満ち溢れる。似たような「予感」を、NHKよるドラ枠ではじまった『だから私は推しました』というドラマの第1話を見ていて感じた。いい予感か悪い予感かはまだわからないけれど、「何かが起きそう」という予感が漂っているのだ。

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このドラマの主人公・遠藤愛(桜井ユキ)と彼女が“推す”ことになるアイドル・栗本ハナ(白石聖)は、まるで運命に導かれるようにしてある日突然、出会うことになる。地上と地下、OLとアイドル、出会うはずのなかった彼女たちを引き寄せるのは、「私は推される側の人間にはなれなかった」という悲痛な現実だ。アフターファイブはジムにヨガ、週末は彼氏とデート、平日の夜には映えるレストランで女子会をして、インスタでいいねを押してもらうことを生きがいにしていた愛。彼女はその日、恋人にイタいと言ってフラれ、落としたスマホを求めて彷徨うと、地下のライブハウスにたどり着いていた。そこで見たのは、キラキラしたアイドルのなかにひとりだけどうしようもなく歌とダンスが下手くそで、「なんでそこにいるの?」と突っ込んでしまう女の子。その子の惨めさに自分を投影してしまった愛は、酔いにまかせて暴言をぶちまけてしまう。「なんだよその前髪!コミュ障かよ!」って。最悪の出会いだった。もう会わないだろうと決め込んでいたものの、彼女への罪悪感とそこにいた「自分の分身」のようなハナのことが気になって、愛は後日、もう一度ライブハウスへと訪れることになる。しかしそこには、前に会った時とは違う、前髪を切って少しだけ堂々としたアイドルの姿があったーー。

「だから私は推しました」。“推す”理由となる「出会い」はこのようにして紡がれる。このドラマでどこまで深く語られるかはわからないけれど、ハナへとぶつけた暴言はきっと、すべて愛自身のことなのだろう。前髪のこともたぶんそう。前髪を上げて自信満々かのようにおでこを出す愛と、前髪を切ったハナとの身体の照応が、彼女たちの同質性を強く決定づけている*1。一転して気になるのは、刑務所らしき薄暗い部屋にいる目にかかりそうなくらいの前髪をした愛の姿。地下のライブハウスにも似た「陽の当たらない場所」で瓜田を押し倒すまでの日々を訥々と語る愛は今、何を思っているのか*2。そこに見る一定の不穏さ。

「推した理由」が「押し倒した理由」に徐々につながっていくという物語の構造にも言えることだが、このドラマではそうした因果応報的な、宿命的な愛の行動を軸にストーリーが進んでいく。そこでさらに気づくのは、愛が、「一度消えたはずのものに導かれている」点だ。“落とした携帯”が地下へと誘い、“人格を否定した”ハナに生きがいを見出す。“切られたクレーム電話”はまるでハナへの暴言と同じで、身につまされた愛は再び会いに行くことを決意する。そうなると気になるのは、愛がバカにした「オタク」という言葉や、第2話の時点でいなくなった瓜田が、今後どのように物語へと関わってくるか。人生の“いいねを無くした”愛が、ハナとの出会いを通して再びいいねを取り戻すまでの記録。になってほしいというのが、率直な願いだ。いやはや、『あまちゃん』や『武道館』などアイドル側の視点に立ったドラマは数あれど、アイドルオタクとともに描くドラマは珍しいのでとてもわくわくしている。とんでもない作品が生まれそうな「予感」に満ち溢れてはいませんか?

*1:彼女たちの服を中心に目立っているドラマのイメージカラー的な「黄色」も気になるところ。

*2:“また、「サニーサイドアップ」というグループ名には、「『サニーサイド』という日の当たらない地下の反対である日向と意味する言葉と、『ダウン』の対義語である『アップ』。もっと上に行きたい、日向を目指したいと思いながらも今置かれている場所で腐ることなく活動している熱意あるグループを描きたいという意味が込められています」と話す。”ーーhttps://thetv.jp/news/detail/197443/p3/