My Best Films of 2018
今年ももう終わりですね〜。年間ベストを出すために(そして他の方の年間ベストを見てうわ〜わかるわ〜と頷いたり、へ〜そんなん入ってくんねや〜と驚いたりするために)日々映画館に通ってるフシもあるので、この時期はすごく楽しい。今年は個人的にいろんなことがあって充実してたけど、映画ライフも今まで以上に有意義だった。やっぱりどんな映画も近くで早く観れる東京ってすごいわ。ということで今年100本近く新作を鑑賞したなかから大好きな20本を以下に並べました。いっちょまえにカウントダウンで。
20.デヴィッド・ロウリー『ア・ゴースト・ストーリー』一作目にしてあれだけど、この映画の感想は本当に言葉にしづらい。ある夫婦の、夫さんのほうが交通事故で亡くなってしまい、その後その夫さんが白い布をまとった幽霊となって妻を見守り続けるという非常に不思議なストーリーの映画。今年も勢いが止まることを知らなかった米独立系映画会社「A24」の配給作品ということもあり、結構シュールな様相でありながらポエティックでとにかく美しい。ルーニー・マーラ(妻役)がひとりになってはじめてご飯を食べるシーンの長回しとか言葉のいらない映像のインパクトに心をぶち抜かれ、またそうした静謐な映像表現でありながら、Dark Rooms「I Get Overwhelmed」の歌と歌詞、結局こちら側には見えないあの手紙の内容など、少量の言葉にもしっかりと命が吹き込まれていて抜け目ないのだ。
静かだけど、大きな声で“愛”が叫ばれている。
19.中川駿『カランコエの花』39分の短編映画。『カメラを止めるな!』とか『少女邂逅』と同じ7月あたりの、国内インディペンデントがすごい熱かった時期に公開されたのを記憶している。短編映画ということもあって当初は1週間限定上映の予定だったのが、延長&上映館拡大で東京では12月の半ばまで公開されてたような、これまた話題を呼んだ作品。やっぱりすごいのは39分という尺の短さと質量。『桐島、部活やめるってよ』のような隅々まで配慮した群像劇をやりながら、ラストに「桜はつきちゃんが好き」ということと「桜は教室にいない」という2つの“事実”と“余韻”というピースを残してあとの展開を解くパズルを観客に託す。解けないかもしれないけど、解こうとすることに意味があると、カランコエの花に似た真っ赤なシュシュが伝えている。今年イチ充実したエンドロールだった。
18.ギレルモ・デル・トロ『シェイプ・オブ・ウォーター』言わずと知れた今年度アカデミー最優秀作品。鑑賞から少し時間が経ってしまったので熱量は低めになってしまうけど、やっぱりこの映画は革新的だった。簡単に言うと怪物とおばさんのロマンスを描いた作品。それがあれだけ幻想的でロマンティックに展開し、心を締め付けられるとは思いもよらなかった。“水の中って冷たいし動きづらいし呼吸しづらいんだけど、この映画で描かれる水中は全て温かかった。めちゃくちゃ好みの映画としか言いようがない。” 鑑賞後すぐでさえこれだけ言葉足らずの感想だったのでもう何も言うことはないです。こういう映画に包まれて生きたい。
17.スティーブン・チョボスキー『ワンダー 君は太陽』泣ける泣ける、と言われると100%泣けないのが悲しい天の邪鬼な性。でもこの映画の鑑賞中は「あ~これは我慢しないと無限に出てくるやつや」と思って意図的にがんばって涙を抑えようとした(結果無理だったけど)。あれだけ多くの登場人物に焦点を当てていると「これは自分だ」と感情移入してしまう人も多いと思うんだ。僕はもう、登場人物の3、4人に自分の境遇を重ね、ずるずる引き込まれてしまった。「君は太陽」という副題も悪くないのだけど大事なのは、この映画がオギー以外をただの太陽系の惑星としてではなく、それぞれをちゃんと「太陽」として描いていること。「(君=)みんなが太陽」という大いなる肯定があるからこそ、太陽に照らされた太陽=オギーがより輝いて見えるのだ。
16.中島哲也『来る』この映画を「ホラー」としていいものかわからないけど、今年は本作と『クワイエット・プレイス』の2つのホラー映画がすごくよかった。というのも僕は生涯見たホラーはたかだか10本くらいで(苦手なんです)、ベストにも入ったことがなかったんで2本も心に刺さるホラーに出合うなんて前代未聞だったんです。ホラーというジャンルが僕の好みである「家族映画」の要素を常に孕んでくるということも今さら新たな発見。『来る』に関してはとにかくメリハリがすごくて、トリックアートを見てるみたいに実像が歪んでいく過程も楽しめておもしろかった。今回東宝作品はこれ一本だけですが、『恋は雨上がりのように』(これもスピード感が半端ない)、『未来のミライ』(賛否両論あれどあの家の設計が生理的に好き)、『センセイ君主』(自分の母校で浜辺美波がはしゃいでて歓喜した)、『検察側の罪人』(ゲロ吐くキムタク最高)、『響』(天才と凡人という構図がもう…)とおおいに楽しませてもらった1年でした。
15.アレックス・ガーランド『アナイアレイション ー全滅領域ー 』今年のSFはこれ一本しか観てない気がする。CG、演出、脚本すべてが意味わからない(文字通り)ほどに高水準なのに、実はNETFLIX限定配信。同じくアレックス・ガーランド監督の『エクスマキナ』もネットで見てしまったのでとことん巡りが悪いな。しかしまぁスマホで見ても鑑賞後放心状態だったから、映画館で観てたら魂抜けてたろうな。ここまでストーリーにひとつも触れてませんが、わけわからなすぎて触れられないんですよね。ただただすごい。語彙力なくなったわ。
14.ブラッド・バード『インクレディブル・ファミリー』現実世界では『ミスター・インクレディブル』から14年が経過。映像表現の進化は言うまでもなく(多彩なアングルでの緊迫感が楽しい!)、1作目からの一番大きな成長は登場人物の心情表現の豊かさでしょう。特に3児のママ・イラスティガールの解放感には胸を撃たれた。彼女の活躍に嫉妬するボブの姿も含めて、彼だけが楽しんでいるように見えた1作目とは違った清々しい風が吹く。家族それぞれに悩みを抱えながら、パパは努力して家の内外ともにヒーローとなって家族が形成されていく姿。『そして父になる』をエンタメで楽しく表現していてかなり好き。EDのテーマソングも否応なくアガる。
13.山田尚子『リズと青い鳥』ストーリー(特にラスト)には全然納得いってないのだけど、それも含めてこの映画を構成するすべての要素が好きだった。吹部の演奏ってずるいんですよなんか。音の重なりに青春を見てドキドキしちゃう。(アニメは詳しくないのでわからないけど)百合的なアニメ作品としては突飛な語り口ではないのだろうけど、国内インディペンデント映画で先に出た『カランコエの話』も含めて「ガール・ミーツ・ガール」が熱かったこの年に公開されたことにはすごく意味があると思う。ラストはただ「横並びで歩いてほしい」という願望があったのだけど、「ハッピーアイスクリーム」というキラーワードを聞けたからこれでよかったということにしました。
12.グレタ・ガーウィグ『レディ・バード』ノア・バームバック『フランシス・ハ』という大好きな作品の主演を務めるグレタ・ガーウィグが、その作品とも共鳴する映画を撮ってくれて素直にすごく感激した。とにかくポンポンポンポン青々しい事件が起きていくスピード感が最高で、そんな怒涛の時代を経てクリスティンという名前と人生を受け入れる「余韻」を得るラストもたまらない。青春映画が各地で豊作だったこの年に(加えてこれもA24=インディペンデント)、設定的には15年くらい前だけど、アメリカの等身大の少女成長物語を見れてよかった。そしてシアーシャ・ローナンが現行で一番好きな米女優になってしまった。
11.吉田恵輔『犬猿』 吉田恵輔監督4年ぶりのオリジナル作。まぁこの監督にはオリジナルもクソもないほど個性があるので、作る映画すべておもしろいバイアスが完全に確立されているのだけど。本作は兄弟姉妹についての、お互いに死んでほしいと思うほどの憎しみとほんの少しの愛を描いた作品。この配分が完璧なんだよな。エントリーでも詳述したけど、ラストがとにかくいい!「父の採尿→容器こぼす→リスカ→妹が助ける」という受け皿のリレーが表す家族という愛に満ち溢れた共同体の不器用さ。それは時に面倒くさくて死ぬほど鬱陶しいかもしれないけど、やっぱりこの映画はそのつながりの強さを描いているんだ。チャーハンとベビースターの奇妙なコンビネーションのように、彼らはひしめき合って、共に生きていくのだろうと、強烈に感じた。家族映画のバリエーションはやはり日本映画の強み。
10.枝優花『少女邂逅』上半期の最後の最後、6月30日に公開されたこの映画が結局今年の(インディペンデント)日本映画のすべてを物語っていたと思う。それは、インディペンデント映画の隆盛、既存の概念への問題提起、ガールミーツガール=外側ではなく内面に視線を向けることの重要性(というより切迫感のようなもの)といった諸要素のこと。『カメラを止めるな!』と『万引き家族』の要素が両方詰まってる。後日譚のドラマ『放課後ソーダ日和』もYouTubeでこのクオリティかよと驚くほどに傑作で、細部の演出にいちいち愛を感じる。個人的に2018年を象徴する作品なので1位でもおかしくないのだけど、本作に関していうと音があんまり良くなかった(むしろそれだけの理由なのでこれ以降は実質すべてベスト)。しかしとにかく1994年生まれの同世代監督・枝優花さんの今後がめちゃくちゃ楽しみ。
9.今泉力哉『パンとバスと2度目のハツコイ』今泉力哉監督の映画ってほんと好きなんだよな~。基本的には「人を好きになるとは?」という疑問についての考察なのだけど、醍醐味となるのは登場人物たちの性格・考え方の似た部分が明らかになっていって、最終的にあちら側(フィクション)からこちら側(観客/現実)にも同期してくるところ。身につまされながらも、共感度が高くてドキッとしてしまう。来年春公開の『愛がなんだ』もTIFFで見てさらに上をいく大好きな作品だったので、これからも今泉作品を楽しみに生きていけそう。彼の左側が彼女の心地いい居場所。
8.アルフォンソ・キュアロン『ROMA/ローマ』 こういうなんの盛り上がりもない作品を高予算で撮れるということ自体がまずすごくて、それがめちゃくちゃおもしろいからとりあえず拍手を送りたくなる。アルフォンソ・キュアロン監督の自伝的な映画で、彼がみた家政婦の姿を中心にあるひとつの家族が映し出されていく。家政婦が見たならぬ、彼が見た家政婦。これが、『この世界の片隅に』と同じ空気を感じるくらいに“片隅感”と“なんの変哲もない日常の微かなドラマ”を見せてくれて大満足だった。(駐車のシークエンスなど)お父さんが出てくる場面だけフィクション/コメディ感強いのがある意味リアルなんだろうと感じて、監督すらも愛おしくなる。
7.ダニエル・ヒベイロ『彼の見つめる先に』青春映画では今年一番。製作国ブラジルでは2014年に公開されていたというからびっくり。あらゆる「生の肯定/可能性」が提示されていて、少ない文字数では語りきれないほどサイコーな映画だ。
6.リン・ラムジー『ビューティフル・デイ』タイトル出し、今年一番。孤独なおじさんがいたいけな少女を救うという『タクシードライバー』的な映画。鳴り響く「音」と、均整のとれた構図、血と水の対比がすばらしい。
5.ショーン・ベイカー『フロリダ・プロジェクト』
まるで是枝作品を見ているような感覚を抱かせるけど、本作は紛れもなくアメリカの現状を描き出したショーン・ベイカーの映画。「フロリダ・ディズニーワールドのすぐそばで貧困にあえぐ親子」、この設定(現実)がまず衝撃的なんだけど、そういう社会問題を描きながらも画面が常に鮮やかで明るいのがいいのだ。6歳のムーニーが起こし続ける事件によって結果的に救われていく大人たち。彼女がいるからこそ、それでも世界は続いていくんだなという希望と絶望を得る。ファンタジーとして見てしまうことに少し自戒の念を抱きながら。
4.是枝裕和『万引き家族』みかんをしゃぶる樹木希林さん。ラムネのビー玉を見つめる彼。家族を見つめる希林さん。花火からかろうじて漏れた光を見上げる家族。バラバラに転がっていくみかん。ビー玉を並べる少女。家に戻ってそこに確かに存在していたものを確認する松岡茉優。画が強い。『幻の光』『DISTANCE』など初期の作品で「人と人はわかりあえるのか」という問いに立ち向かい続けた是枝さんが、『そして父になる』で血縁を超える愛を描き、『三度目の殺人』で真実の不透明さ/見えないものにこそ真実が宿るというある一つの解答を示した。そして『万引き家族』。そこに家族は確かに存在しているけど、果たして何のために一緒に暮らしているのか。ビー玉に「未来」を透かした彼は「現在」を見つめ直すことで閉ざされた世界の外に飛び出すことを(半ば衝動的に)決意する。いろんな感情が交錯する是枝中期の最高傑作。
3.関根光才『生きてるだけで、愛。』過眠症の女性とゴシップ誌ライターの男性。すごく似ているのに、どこまでもすれ違う彼女たち。夢(/青/夜)と現実(/赤/日中)の狭間、そのまどろみの中でしか心を通わせることができないっていうのがすごくロマンティックだ。
2.濱口竜介『寝ても覚めても』濱口竜介という監督の存在は今年一番の衝撃だった。『ハッピーアワー』も『PASSION』も、とんでもない傑作で。いやぁ最高でしたね、この映画も。川を流れ続けるしかないという諦めにも似た極大な愛の形。正中線を捉えるカメラワークが大好き。
1.ポール・トーマス・アンダーソン『ファントム・スレッド』上から見ていると場所が把握できるものの、その人混みに混ざると突如彼女を見失ってしまう。あの終盤のダンスパーティーのシーンがすべてを物語っているんだよな~。初めてこの映画をみたときはまるで映画に初めて出会ったときのように「これは原体験になる映画だ」と確信し、エンタメとして純粋に楽しんでいたと思う。そして1年の終わりにもう一度見ておきたいなと思って確認しに見に行ったら、今年1年をあらわす最適な映画であることに気づいた。他の19本の良さもすべてこの映画で説明ができてしまうほどにすごい映画なんだよ。人の外側にしか興味がなく、服を作ることで人の上に立っていた彼が、彼女に惹かれれば惹かれるほど「敵に攻められている」ように感じて心をかき乱され、自信を失っていくという構図。そうやって毒キノコを受け入れるまでのシークエンスは、私たちの人生で何度も訪れるであろう普遍的なものでありながら、美しくも悲劇的だ。そう、この映画はとことん悲劇的だからこそ、途方もなく美しいのだ。
【2018ベスト映画20】
- ファントム・スレッド
- 寝ても覚めても
- 生きてるだけで、愛。
- 万引き家族
- フロリダ・プロジェクト
- ビューティフル・デイ
- 彼の見つめる先に
- ROMA /ローマ
- パンとバスと2度目のハツコイ
- 少女邂逅
- 犬猿
- レディ・バード
- リズと青い鳥
- インクレディブル・ファミリー
- アナイアレイション ー全滅領域ー
- 来る
- ワンダー 君は太陽
- シェイプ・オブ・ウォーター
- カランコエの花
- ア・ゴースト・ストーリー
こうやって20本を選んでみると、やはり(国内外問わず)インディペンデント映画への興味が強かったということと、「人間の外側/内側」への切迫や「見えないもの」へのまなざしなどの共通したものを受け取っていたなと振り返ることができる。ちなみにドラマだとNetflixの『このサイテーな世界の終わり』、『アンナチュラル』、『隣の家族は青く見える』なんかがベストで、ここにも同じ空気を感じてる。青春映画(とくにガール・ミーツ・ガール)にすごく酔狂した年だったのだけど、『ファントム・スレッド』の軸にある「ボーイ・ミーツ・ガール」(おじさんだけど彼は完全にボーイだ)を含め、人と人が「出会うこと」の可能性や豊かさを改めて実感する一年だったように思う。今までにないほど、統一感のあるベストで素直にうれしいのです。来年もたくさんのいい映画に出会えますように。もちろん人にもね。
My Best Music of 2018
1.カネコアヤノ - 祝祭Best Track:ごあいさつ
2.SAKANAMON - ・・・Best Track:STOPPER STEPPER
3.シャムキャッツ - Virgin GraffitiBest Track:あなたの髪をなびかせる
4.折坂悠太 - 平成Best Track : 平成
5.羊文学 - 若者たちへBest Track:ドラマ
6.indigo la End - PULSATEBest Track:ハルの言う通り
7.米津玄師 - Lemon (Single)
8.Jamie Isaac - (04:30)IdlerBest Track:Doing Better
9.ストレイテナー - Future SoundtrackBest Track:Boy Friend
10.ジェニーハイ - ジェニーハイBest Track:ランデブーに逃避行
11.サイダーガール - SODA POP FUNCLUB 2Best Track:約束
12.KANA-BOON - アスターBest Track:彷徨う日々とファンファーレ
13.くるり - ソングラインBest Track:ソングライン
14.フィロソフィーのダンス - シャル・ウィ・スタート (Single)
15.androp - cocoon Best Track:Kitakaze san
16.tofubeats - RUNBest Track:RIVER
17.世武裕子 - Raw ScaramangaBest Track:スカート
18.アンジュルム - 46億年LOVE (Single)
19.Snail Mail - LushBest Track:Pristine
20.クリープハイプ - 泣きたくなるほど嬉しい日々にBest Track:栞
圧倒的にカネコアヤノの1年でした。結局4回聴きに行ったのかな。
ちなみに映画音楽だと、「Phantom Thread」「You Were Never Really Here」のJonny Greenwood、『恋は雨上がりのように』のポルカと「フロントメモリー」、『生きてるだけで、愛』『日日是好日』の世武裕子、『寝ても覚めても』のtofubeats、『万引き家族』の細野晴臣、「The Shape of Water」のAlexandre Desplatがベストです! あとポストクラシック枠でNils Frahm『All Melody』、Goldmund『Elegance』もよく聞いてましたね〜。
まどろみのなかで出会ったふたり/関根光才『生きてるだけで、愛。』
夜を描く映画ってなんだかものすごく惹かれてしまう。直近でいうと『きみの鳥はうたえる』がそうだったように、本作はもうポスターを見ただけで好きな映画なんだろうなと確信していた。結果すごく好きな映画だった。
夜は暗い。ちょっと怖くなるくらいに夜は暗い。でもなんだか、日常から切り離されたその時間は心地よく感じる。*1私たちの夜は夢と現実を行ったり来たりしながら、でも感覚的には数秒で、明るい朝に移り変わってしまう。本作がおもしろいのは、夜と日中、暗さと明るさ、夢と現実、生と死、自由と不自由などの事象が対比され、登場人物がその間を頻繁に行き来しつつ、そのことによって最終的に人と人との出会いの尊さが描かれていくところにある。
主人公の寧子(趣里)は鬱が原因で過眠症になっている女性。物語の序盤なんかは常に眠っていて、夢と現実の狭間でまどろんでいる姿が印象的だろう。津奈木(菅田将暉)が彼女に出会ったのは、ある日の飲み会のこと(これなんの飲み会だったんだろう)。酔っ払った彼女は、「みんなに見透かされてるような気がして」と言葉を漏らし、不自由さから解放されるように夜に向かって走り出した。その姿を見た津奈木は、少しの共感と憧れを抱いたのだと思う。
場面は飛んで彼らが同棲して(寧子が津奈木の家に転がりこんで)3年が経過。2人は別々の寝室を持っていて、寧子はずっと寝ているからふたりが出会うのは夜ご飯を食べる時くらい。「焼きそばと親子丼どっちがいい?」という津奈木の問いかけから、会話はほとんど発展しない。
常にまどろんでいた寧子は、あることをきっかけにアルバイトを始めるようになる。不自由だけれど、無性に生きている感覚を得られる日中の世界に身を置くことに。そうしてようやく日中の世界に生きる津奈木と話が合うかと思いきや、彼は彼でゴシップ誌のライターという仕事に飽き飽きし、夜の闇にいざなわれようとしていた。アルバイトの出来事を楽しそうに語る寧子に、「いいから寝かせて」と言って部屋の扉を閉めてしまう場面がなんとももの悲しくうつる。
そういったすれ違いも含め、彼らふたりは「ほんの少しだけ」わかりあえた存在だった。死にも似た夢の世界に逃避してしまうことや、見透かされることのない自分だけの自由な世界を求めたこと、頑張ろうとするとすぐに闇が襲ってくる(停電してしまう)この世の生きづらさなど多くを共有していたものの、夜の世界はふたりでは生きていけない、危険な死の香りが漂っていた。でもその「ほんの少しだけわかりあえた」という事実が、明日の夜の闇を照らして歩きやすくしてくれるのだと思う。それを教えてくれただけでも、すごく豊かな3年間だった。
*1:“夜”は、その「怖さ」と「自由さ」の2つの顔を持っているからこそ魅惑的で、あらゆる人生の物語を暗示しうる。
戒めの映画日記ーー薄給社会人1年生のくせに1ヶ月で16本も映画館鑑賞してしまったことへの。
過ぎてしまったことは仕方がない。と、いきなり開き直る。なんかお金の減り方が半端ないなと思って数えてみたら、今月16回も映画館に通っていたのだ。数えるまでは10本くらいだと思ってたのに、まぁそれでもやばいのだけど。これはお母さんが知ったら驚かれるだろうな…。しかし本当に、過ぎてしまったことは仕方がないのだ。これだけインプットをしたからにはアウトプットにも尽力すべき。そうでないとたくさん見た意味がないので今月見た16本をレビューすることにする。
以下鑑賞順。
『愛と、酒場と、音楽と』
3つの短編映画からなるオムニバス映画。昨年の映画『月子』や去年の大河ドラマ『直虎』とかも出てて俳優としても活躍している井之脇海くんが監督を務めた短編と新進映画監督兼女優の小川紗良さんの短編に惹かれてユーロスペースへ。16本のなかで一番後悔したやつだ。井之脇監督の1作目がかろうじて見れたくらいで、特別どれもおもしろくなかった。小川さんの『BEATOPIA』と言う作品の中で、主演でもある小川さん(作中ではドキュメンタリー映画を撮っている)がドキュメンタリーに自分の演出を加えちゃっていて、なんかイラっとして思考力が閉ざされてしまった。
『アントマン』の2作目とか『デッドプール2』とか、最近“2作目”に全く手が伸びないでいるのだけど、これは別腹。アクション映画のなかでロバートマッコールさん(デンゼルワシントンさん)が一番好きだ。内容はもう忘れたけど。
SNSで話題すぎて見るしかなくなった系の映画。最近多いなそういうの。個人的にアニメ映画は当たる可能性が低く、フレンドリーな幽霊が出てくる作品が苦手という難点がありつつ、本作、ちゃんとおもしろかった。ていうか普通に泣いたんだった。最初から強い女の子に見えるヒロインが、実はそんなことはなく、感情をあらわにするたびにだんだん強くなっていく姿がじんわりくるんだわ。
ナタウット・プーンピリヤ『バッドジーニアス』
これも上に同じな理由で鑑賞。上に同じな感想。危なげない完走。大きすぎる反響。
クライム映画と言われると物足りなくて社会派映画と言われると少しもやっとする。ただカメラワークとかがすごくて大興奮だった。見なくてもよかった映画なのかもしれない(今後のスマートな映画鑑賞のための断捨離的なブログであったことを思い出した)。
大杉漣さん最後の主演作ということで観に行ったけどこれはすごくおもしろかった。教誨室というところ(まぁ面会室みたいなとこ)で死刑囚と教誨師(教えを説く人)がただひたすらに会話を重ねる114分。死刑制度や罪と赦し、生きていくことについてなど、内包するテーマがすごく深く、大杉漣さんと観客との最後の対話のような側面もあって「終わってほしくないな」「考え続けないとな」という感情を抱かせる。会話だけで物語や人の関係がグラつく正統派な会話劇をやっている。
デヴィッド・ロバート・ミッチェル『アンダー・ザ・シルバーレイク』
途中が長すぎた。期待度が高まりすぎて、あんまり…となってしまう典型パターン。A24作品はみんな絶賛するけど個人的にたまにこういうこともある。『ムーンライト』『パーティで女の子に話しかけるには』などなど。A24作品は軒並み出てる俳優がドンピシャすぎて見ちゃうんだけど断捨離しなきゃ。とは言ってもさすがにこの勢いからすると時代に逆行することになるか(結局見るんだろうな…)。
ジョン・クラシンスキー『クワイエット・プレイス』
人生でホラー映画5本くらいしか見てないから簡単に言っちゃうけど、これホラーで1番好きだわ。ホラーと言っても敵が幽霊じゃなくて怪物な点(幽霊ってのは想像掻き立てられてしまうので怖すぎて無理)と大好きな「スリラー映画」と「家族映画」に分類される点、クライマックスの夜のシーンが無意識に心を湧き立たせる点(映画原体験のひとつ『ハリーポッターと炎のゴブレット』の影響だと思う)が最高。横にいた友達が明転後すぐ「おもしろくなくない?」と聞いてきたので「おもしろいよ」と返した。
山中瑶子『あみこ』
勝手にガールミーツガール系の映画だと思っていて慌てて見たのだけど一番の力点はそこではなかった。監督は弱冠21、2歳らしいのだけどものすごいシネフィルで本作にもオマージュがたくさんあるらしい。途中でいきなり3人の男女がダンスを踊り始めるシーンがあって、これはゴダール『はなればなれに』のオマージュか!と色めき立ったら、そのシーンをオマージュしたハルハートリー『シンプルメン』のオマージュだったらしく、「うわ~こいつ…」ってなった。踊ったあとに「日本人は勝手に体動きださねぇんだよ」みたいに吐き捨てるセリフもいい。世紀の女の子映画『21世紀の女の子』にも名を連ねてるけど、日本映画の未来は明るい、ていうか今現在の日本映画の幅の広さを感じて興奮した。
傑作。4月に公開された映画、ユジク阿佐ヶ谷で『少女邂逅』とともに上映されていたので今さら鑑賞した。ブログも書いたけど今年やけに多い「ガールミーツガール系」の映画。アニメってこんなすげぇことできるんだなってのが一番の驚きで、手足の細かな動きとか声のトーンとかがグサグサと刺さりまくって大変だった。ちょっとモヤっとする、定型にはまらない終わり方がまたいいんだよな。
大森立嗣『日日是好日』
この映画に関しては「希林さんの登場シーンで泣いた」以上の感想がない。もっと希林さんの言葉を聞きたかったな。あのおもしろさを味わいたかったな。
これは刺さった。自分の境遇や今の環境、未来、に則しすぎていて他人事にできない映画だった。とりわけ、ゲーセン、ファミレス、ラブホといった地方都市のアイコンがそれぞれの姿を見せている(退廃したり、変わらず賑わっていたり、常に気だるそうだったりしている)のが登場人物とも重なっていて印象的。2018年を彩るバイプレイヤーといえば渡辺大知と伊藤沙莉だよなぁ。なんか愛らしいこの2人を対比してみたくなる。
映画よりも満島真之介さんと岡部尚さん(最近濱口竜介作品を数本見てたからお目にかかれてよかった)が登壇していた舞台挨拶の方の熱気にやられてしまった。2人の映画人の熱を直に感じ、もっと頑張らなきゃって自然と思える。落ち込んでいる若者に「もっとやってやろうぜ!」と勇気を与えてくれる作品だ。
スタンリー・キューブリック『2001年宇宙の旅』IMAX上映
去年初めて観て、これは絶対に死ぬまでに一度でいいから映画館で観たい!と思ったやつ。こんなにすぐに見れるとは。『インターステラー』もそうだったけどこういう系、2回目は結構眠いね。ただクライマックスは圧巻だった。キューブリックの映画を映画館で観るってこんなに贅沢なことはないよ。
玉田真也『あの日々の話』
東京国際映画祭日本映画スプラッシュ部門。16本に達してしまったのはこの映画祭のせいでもある。これに関してはもうしょうがない。さて『あの日々の話』。劇団・玉田企画の同名舞台を映画化した作品だ。夏に観劇した『バカンス』もそうだったけど会話劇によって人間の多面性が浮き彫りになる様が気持ちよすぎる。たくさん笑った。手で膝を叩いちゃうくらい笑った。マウンティングと性と友情についての、おぞましくもおかしい、これでもか!と人の裏側がむき出しになり続ける100分間の密室会話劇。刺激的な会話の応酬に、シドニー・ルメットとバカリズムと濱口竜介を感じた。役者は元の舞台と一緒だと言うから、その演技は完成されすぎてて鳥肌が立つレベル。ちょい役太賀くんと村上虹郎くんも存在感はすごいのだけど、ほとんど見たことない俳優の中でも彼らが全然浮かないのが、他の俳優たちの強さなんだよな。忘れかけていた大学生の楽しさと気だるさを少し思い出しながら、六本木のハロウィンの空気から逃げるように家路についた。
今泉力哉『愛がなんだ』
こちらも東京国際映画祭。やはりおもしろい。今泉監督はツイッターとかを見ていると(ツイ廃なので)大したことなさそうに見えるのだけど、いざ映画を見てみるとやっぱすげぇ人だ!ってなる。今月は宮部純子さんの演劇『お見合い』のアフタートークでも今泉監督を拝見したのだけど、そのときのコメントもあぁすごい視点だなぁって感じたんだけど、今日の上映後のQ&Aはもっとすごかった。常に「誠実さ」を感じる監督だ。時には言わない方が良いことも言ってしまう。本作も「誠実さ」が軸にある映画だと思う。というより段々登場人物たちみんなが誠実さを意識しだすというか。(名前が出てくる最後のシークエンスは誠実さのリレーだと思う)
今泉映画は自然の成り行きで共感させられてしまう。まるで折り紙を折るように、人の面と面が重なり合って同質化していくのが気持ちよく、やがて私たちたちにも重なってきてドキッとする。今泉映画の醍醐味のひとつだ。面といえば本作は麺の映画でもある。アルミ/土鍋うどん、カップ麺/ラーメンの対比から感情が透けて見えるのがつらい。とにかく全役者魅力的すぎるんだけど、なんと言っても岸井ゆきのさんが最高。つまんなそうな顔とにやけ顔の往来がかわいすぎる。KANA–BOON『ないものねだり』のあの不貞腐れた女の子が、東京国際映画祭の舞台に立っているなんて、到底信じられないし、でも当然なような気もする。もっと書きたいことがあるんだけど公開は来春らしくて今語っても全く需要がないので、来春まで我慢する。角田光代原作だけど極めて今泉印な映画だった。
16本目は10月30日鑑賞予定ののロン・マン『カーマインストリートギター』。こちらも東京国際映画祭。理由はわからないけど予約済み。自分が怖い。
ということで16本。これだけ見てもほとんどハズレがなかったのだから、映画って怖いわ。でも芸術の秋だったからってことで、自分で自分を許してあげようと思う。
“ガール・ミーツ・ガール映画”が救う世界──『少女邂逅』から『カランコエの花』、そして『21世紀の女の子』へ
映画以外にもガールミーツガールが暑かった今年の夏
今年の日本映画界、すごくないっすか? 2016年の勢いをもう一度取り戻しているように見えるのだけど、あの時とも少し違うなっと思うのは、いわゆる「ミニシアター」で上映されるようなローバジェットな映画がとんでもない動員数を示していること。『カメラを止めるな!』はもはや言うまでもない盛り上がり、『寝ても覚めても』は『万引き家族』とともにカンヌに正式ノミネートされ、公開後も同日公開の『きみの鳥はうたえる』とともに邦画のニューウェーブとして注目を集めた。今現在は『若おかみは小学生!』がSNS等の口コミでジワジワと広がりを見せている。『カメラを止めるな!』から生まれた“ポンデミック”という言葉に象徴されるように、SNSの力もあって“いい映画”が毛細血管の奥の奥まで流れていく世界になった。
そんななか本稿で取り上げたいのは、2018年の邦画界ーーとりわけミニシアター邦画界を語る上で欠かせない、「ガール・ミーツ・ガール」というジャンルをつくりあげている映画の隆盛についてだ。
「ガール・ミーツ・ガール」って?
少年が少女に出会うことによって物語がドライブしていく「ボーイ・ミーツ・ガール」という物語の類型はいわば映画の定型である。それはときに恋愛に発展することもあるし、ジブリ映画なんかでは友情にとどまることも多い。それが今、少女と少女が出会う「ガール・ミーツ・ガール」の物語へと幅の広がりを見せているのだ。まずは今年公開されたものをザッと挙げてみよう(漏れもあると思います)。
中川駿『カランコエの花』
この隆盛を語る上で欠かせないのが、「ガール・ミーツ・ガール」をまさに漢字に変換したような題名の『少女邂逅』。カメ止めがものすごい感染の広がりを見せるなか、同時期に公開された『少女邂逅』も新宿武蔵野館で2ヶ月のロングランヒットを記録するなど、現在も公開館数を増やしながらファンを増やしている*1。
上記に挙げた映画群の共通点は、①学生が主人公で、②少女と少女の物語であること、また、③男性がほとんど出てこない、などが挙げられるだろうか。これらの映画以外にも、例えば平手友梨奈主演の『響』においても、男女の恋愛よりも響と祖父江凛夏という、少女たちの友情・対立・結合が物語を加速させていたし、『SUNNY 強い気持ち・強い愛』は女子高生6人グループに焦点を当てた作品になっていた(こっちは未見ですが笑)。また、広義での「同性meetsもの」へと視野を広げると、ドラマ『おっさんずラブ』が爆発的な人気を見せ、異性の恋愛を描く作品が減少しているように思われる。それではいったいなぜ、こういう流れが訪れたのだろうか。
異性恋愛作品のバリエーション枯渇と多様性の受容
とりあえず本稿では、学生に焦点を当てた青春映画に限定して書いてるのだけど、そこに限定しなくても全体的にストレートに恋愛を描く作品というものがなくなってきている。あるとしたら少女漫画原作で、ジャニーズあたりが出演している映画しかないんじゃないか(こういうのすら一時期に比べ減ってる気がする)。
この前「WOWOWぷらすと」という番組で映画ジャーナリストの宇野維正さんがこの現象について興味深い話をしていた。これによると、『君の膵臓をたべたい』とか『恋は雨上がりのように』といった最近の作品が、ある男女の物語でありながら友達以上恋人未満のような関係にとどまり、恋愛を描くことに固執しない。そして、「恋愛を描いてるようで実は描いてないみたいな映画の方が当たっていて、ドンピシャで恋愛を描くものが実は全然当たってない」とのこと。*2
また、『テラスハウス』や『あいのり』といった恋愛リアリティーショー(リアルなのかどうかはここでは一旦置いておくけど)が流行し、“ノンフィクションの恋愛”を追うエンタメが増えているなかで、わざわざ映画やドラマにリアリティーを求めなくなっているという側面もあるかもしれない。不倫とかを描く非日常(非リアル)の恋愛作品が求められるのはそういう理由かも。
そうして純粋な異性恋愛を描かなくなり友情関係を描くようになると、同性2人が主人公の方が自然だし、新たなバリエーションを生めるんじゃないか、となってくるわけだ。
もう一つ挙げられるのは、「多様性の受容」としての同性meets映画の隆盛という視点。『ムーンライト』のアカデミー賞受賞から『君の名前で僕を呼んで』、ブラジル映画『彼の見つめる先に』のヒットなど、もはや同性恋愛と異性恋愛との“差”がなくなってきている現在において、もちろん今までは異性恋愛作品と比べて同性恋愛の方が描かれる回数が少なかったのだから、いざ同性恋愛を描くとなるとそのバリエーションには富むはずだ。加えて、異性2人が主人公だと恋愛を描く必然性がある代わりに、それが同性だと、恋愛と友情の2つから選べるという側面もあるし。
「ガール・ミーツ・ガール」が増えているのにはもっともっと色々な側面があると思う。例えば『少女邂逅』は枝優花監督の実体験が基になっているという。学生時代にガールミーツガールの傑作『花とアリス』を作った岩井俊二に影響を受け、また救われて、いま彼女が映画を作っているように、少女時代の自分と、自分のように苦しんでいる女の子へ向けてそういった映画を作っている監督もいる。そういったいろいろな要素が組み合わさって今年、少女と少女が出会うことになった。そしてこの流れから、若手女性監督と新進女優がまさしく“出会う”「21世紀の女の子」という映画が誕生することになる。
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「天才」と「凡人」とその狭間/月川翔『響 -HIBIKI–』
映画『響-HIBIKI-』が意外なる傑作だった。監督は『君の膵臓をたべたい』、『となりの怪物くん』、『センセイ君主』と、漫画や小説原作を実写化してきた月川翔。どれも手放しで絶賛できる類の作品ではないのだけど、キミスイでは過去の思い出と相まってしっかり泣かされたし、センセイ君主の方は母校がロケ地ということもあってかなりドキドキさせられた。そう考えると物語の秀逸さというよりも思い出とくっついた副次的な要因が大きいな…。しかし!本作は文句なしにおもしろい!“今の自分(と社会)”に強く突き刺さる、サイコーな映画だ。
まずもって『響』というタイトルが素晴らしくないか?タイトルが主人公の名前になってる映画なんて、ディズニーアニメーション等の洋画の原題とか、黒澤明の時代劇映画でしか僕は見たことがない(勢いで書いたけどたぶん他にも結構ある)。『パディントン』みたいな勢いで『響』とタイトリングされてしまっているわけだ。原作漫画では『響~小説家になる方法~』とサブタイトルが付けられているわけだけど、映画版では『響-HIBIKI-』と“ひびき”のごり押し。要するにこのタイトルが示すのは、響という人物が凡人からはかけ離れた異質な才能を持っているということで、彼女の出現がなにか世界に多大なる影響を及ぼすということ。本作は、今をときめく欅坂46の絶対的エース・平手友梨奈が主演を務めるアイドル映画でありながら、響という天才が出現し、そのことによって世界の歪みが浮き彫りになるという、非常に社会的な作品に仕上がっている。
映画の冒頭、鮎喰響(平手友梨奈)は15歳の天才小説家として世間から注目を浴びることになる。彼女はデビュー作(新人賞への応募作)からすでに文豪の風格をまとっていて、大手出版社の新人賞はいとも簡単に受賞してしまい、さらには直木賞・芥川賞にWノミネート。まごう事なき天才の出現。しかし問題となったのは、彼女が“同調的な世間”とは少しズレた感性を持っていることだった──。
この映画を見て、今年のはじめの方に読んで衝撃を受けたあるブログを思い出した。
「凡人が、天才を殺すことがある理由。」という題名から興味を惹かれる記事。映画『響』を観て、「たしかにこういうことって起こってるよな」と漠然と感じた人や、一方で「よくわからなかった」という人にも、このブログを読んでいただきたい。この記事に書かれてある「天才」と「凡人」というのは、まさしく劇中での「鮎喰響」と「世間」を指し示している。「凡人」の集合体的な「世間」が、「天才」である「鮎喰響」を殺しにかかるさまは、実世界でも頻繁に起こっていて、そこに大きな問題があるということが、この記事を読めばわかるかもしれない。
さて、わたしがこの映画で一番おもしろいと感じたのは、北川景子が演じた編集者の花井という立ち位置だ。予測不能な人生を展開する天才・鮎喰響に振り回されながら、世間との狭間で奮闘するというポジション。動き回っているもののあまり存在感のないように見える彼女だが、実はこの映画、彼女がいないと成立しないようにできているのがおもしろい。というのも、冒頭で捨てられそうになった響の原稿を掬い上げて才能を見出したのは彼女であったし、響が起こし続ける問題も彼女だからこそ対処することができた。
彼女の立ち位置は、先述のブログ記事で言うところの「秀才」のポジションであるとわたしは感じたのだけれど、この映画を見たことでその位置にいることで得られる人生体験の豊かさに気づいてしまったのである。自分が天才ではない以上、どのような手段でもいいから天才の近くで息をするということ。そのことで得られる新鮮さ、敏感さ、感動、喜び。インタビュアーやライター、編集者、マネージャーなどの職業がそれに当てはまるのかもしれないし、ただ単に芸術家の作品に接することや世界の動きに敏感であることがその道へとつながるのかもしれない。
響のまっすぐさはもちろん素晴らしいし憧れるけど、誰もがあれほどのパワーを放てるわけではない。でも、劇中で落ちぶれた天才が「世間と折り合いがついてしまった」と語るように、何もしなければ(精神的にも肉体的にも)世間の中で埋没していくだけだ。だからそうならないように、そのパワーに引き寄せられて生きたい。映画『響』は、“そこ”で生きることの楽しさを感じさせられて、無性に生命力を掻き立ててくれる作品だった。
流れついて、また流れて/濱口竜介『寝ても覚めても』
人と人が正面衝突して、そのことによってより深く関係が再構築されていく。濱口竜介監督は、平凡からの崩壊、そして崩壊からの再生を描いてきた映画監督だ。
まだ4作品しか見れてないけれど濱口作品は、なんとなく息苦しい毎日が衝突を機にハレバレとする(しかしまた違う苦しさも残る)、そういう一連の流れを必ず描いてきている。『永遠に君を愛す』では“浮気がバレる”ということによってより強固な愛が示され、『天国はまだ遠い』では、“姉の死”や“男の嘘の演技”が妹の感情を発散させる。『ハッピーアワー』なんかは徹頭徹尾、衝突の嵐だ。なぜ、濱口監督は、ソレを描くのか。
そうですね。ハッピーアワーにも価値があるし、アンハッピーアワーにも価値がある。同質的なノリが達成されたときだけが尊いのではなく、それが壊れてバラバラになってしまったときにも実は尊いものがある。そこでは自分自身が新たに発見されているのかもしれない。だからそうやって、人が集まったり離れたりする繰り返しを見ているのが、僕は好きなんだと思います。
離れたりくっついたりする、壊れてバラバラになる。誰しもが平穏に生きていたいと願っているかもしれないなかで、濱口監督はあえてそうした苦しみに立ち向かっていく。なぜそれを描くのかと問われれば、浮き沈みと喜怒哀楽に揉まれ、崩壊と再構築を繰り返すという“慌ただしさ”が人生の豊かさを作り上げることになるから、としか答えようがないだろう。
同質性の中で真に誰とも(自分とも)交わらずに一生を終えるのか、否定と受容、対話と自問自答を繰り返して生きていくのか。少なくとも濱口監督は、後者に人生の重きを置いているのだと思う。
僕も後者の方がなんとなくおもしろそうだなと思う。とは言っても、この映画のようにそれを直で見せられてしまうと、なかなか心にズシンとくるものだ。
「ハッピーアワー」から「寝ても覚めても」へ
前作の『ハッピーアワー』には、自分の“本当の感情”に気づき、そのことによって気持ち悪いくらいに生き生きとしだす人物が登場していた。離婚調停の末に妻である「純」への愛がふつふつと燃え上がってしまった男・「公平」だ。本作2度目の切り返しを見せた朝子(唐田えりか)は限りなくこの男に近い。自分勝手にもほどがあるけれど、汚い川を見て、「でもきれい」と自信をもって言えてしまう、無双感がある。
たびたび使われる「人と人の間にカメラを置く」という撮影方法は濱口監督の常套手段だろうか。他の映画ではあまり見たことがなかったような気がするのだけど、これがすごくおもしろいのだ。人と人の間にカメラを置き、一方の人物を正面から捉える。そしてその人物が話したり、表情を変えたり、動いたりする。そのことによって画面のこちら側(裏側って言ったらいいのかな)にいる人物の動作や表情を想像させる。
まるでその映画の世界の住人になったかのように感じさせる。まるでその人物たちの心のつながりに同期したかのような感覚を覚えさせる。『ハッピーアワー』ではこの手法によって正中線という名の心のつながりを見せていた。決まって誰かと誰かが“通じているとき”に使われていると僕は思った。
本作では結構雑多に使われているような気もしたけど、「非常階段から下にいる朝子を見つける画」や「土下座しているのであろう串橋を見下ろしているマヤ」などつながりが垣間見える場面で使われていたような気がしている*1。
そのスペシャルなカメラ位置での印象に残っている場面を2つ挙げて、この映画のレビューとしたい。ラスト付近、朝子が仙台の海という他者と対面するシーンと、2人が並んでこちら側の川を望んでいるラストシーンだ。
まず1つ目から。この映画、なんとなく移動経路が重要な意味を示しているように思う。「大阪→東京→仙台→東京→大阪→東京→仙台(の手前)→(北海道×)→大阪」朝子の移動経路。主題歌の「River」を含め「川」が印象的な映画ですが、高速道路に乗って車が移動するあの空からの映像が、なんとなく川を流れているように僕には見えた。同じ道路を写し、行ったり来たりを繰り返す。
そこで朝子がたどり着いたのは、仙台(正確には仙台の手前)の海だった。麦に別れを告げた後、朝子は仙台の海と対面する。さんざめく波音に臆さない彼女のあの表情は、ラストシーンに次いで美しいショットだ。
あたしはまるでいま、夢を見ているような気がする。ちがう、いままでのほうが全部長い夢だったような気がする。すごくしあわせな夢だった。成長したような気でいた。でも目が覚めて、わたし何も変わってなかった
───「ユリイカ2018年9月号」より引用
こう語った直後の2度目の切り返し。
仙台の海は、否応なく「現実」を突きつけてきた。震災を含めたこの7年の出来事と亮平への愛、麦の底知れなさ、あるいは岡崎の病気が、すべて夢ではなく現実であるということを浮かび上がらせる。そしてそのことによって、北海道という終点へと身を運ぶのではなく、川を流れ続けることを彼女は選択することになる*2。
そこからの彼女は強い。目的が明確だからだ。この気づきは、おそらく裏切りという崩壊をもってしないともたらされないものだったのだろうと思う。そうして亮平の元へと戻り、2人で川を眺める。
亮平:汚ったねぇ川だな
朝子:でも、きれい
亮平にとっては、氾濫して泥にまみれた「汚い川」にしか見えていないかもしれない。しかし同じ川をみて朝子は「きれい」と言ってみせる。そして亮平は朝子を疑問の目で一瞥し、しかし反論はしない。そのまま2人が1つになったかのようにカメラが彼らを映し、暗転する。
今までは1人の人と人の間(あるいは海のような大きな他者との間)に置かれていたカメラが、“2人と川”の間にカメラが位置するという特異なラストシーン。あの場面には、すべてを受け入れてその先に進もうとする、2人が1人になり得た姿が存在していたように僕には見えた。それがすごく美しく、晴れ晴れしく、それでいて汚くも見えたのだけれど、とにもかくにも、豊かな感情を得ることができる気持ちのいい終わり方だった。
東出さんがヤヴァイとか唐田えりかさんが素朴でかわいいけど目線がまっすぐ過ぎて怖いとか、『パンとバスと2度目のハツコイ』と同じくヒロインの昔の親友っていうポジションでコメディエンヌっぷりを存分に発揮する伊藤沙莉の素晴らしさとかもっと色々書きたいけど長すぎるんでこの辺で。すごくおもしろかった。濱口監督の映画のおかげで人生の楽しみが増えた。