縞馬は青い

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「天才」と「凡人」とその狭間/月川翔『響 -HIBIKI–』

f:id:bsk00kw20-kohei:20180929005855j:image映画『響-HIBIKI-』が意外なる傑作だった。監督は『君の膵臓をたべたい』、『となりの怪物くん』、『センセイ君主』と、漫画や小説原作を実写化してきた月川翔。どれも手放しで絶賛できる類の作品ではないのだけど、キミスイでは過去の思い出と相まってしっかり泣かされたし、センセイ君主の方は母校がロケ地ということもあってかなりドキドキさせられた。そう考えると物語の秀逸さというよりも思い出とくっついた副次的な要因が大きいな…。しかし!本作は文句なしにおもしろい!“今の自分(と社会)”に強く突き刺さる、サイコーな映画だ。

まずもって『響』というタイトルが素晴らしくないか?タイトルが主人公の名前になってる映画なんて、ディズニーアニメーション等の洋画の原題とか、黒澤明の時代劇映画でしか僕は見たことがない(勢いで書いたけどたぶん他にも結構ある)。『パディントン』みたいな勢いで『響』とタイトリングされてしまっているわけだ。原作漫画では『響~小説家になる方法~』とサブタイトルが付けられているわけだけど、映画版では『響-HIBIKI-』と“ひびき”のごり押し。要するにこのタイトルが示すのは、響という人物が凡人からはかけ離れた異質な才能を持っているということで、彼女の出現がなにか世界に多大なる影響を及ぼすということ。本作は、今をときめく欅坂46の絶対的エース・平手友梨奈が主演を務めるアイドル映画でありながら、響という天才が出現し、そのことによって世界の歪みが浮き彫りになるという、非常に社会的な作品に仕上がっている。

映画の冒頭、鮎喰響(平手友梨奈)は15歳の天才小説家として世間から注目を浴びることになる。彼女はデビュー作(新人賞への応募作)からすでに文豪の風格をまとっていて、大手出版社の新人賞はいとも簡単に受賞してしまい、さらには直木賞芥川賞にWノミネート。まごう事なき天才の出現。しかし問題となったのは、彼女が“同調的な世間”とは少しズレた感性を持っていることだった──。

この映画を見て、今年のはじめの方に読んで衝撃を受けたあるブログを思い出した。

yuiga-k.hatenablog.com

「凡人が、天才を殺すことがある理由。」という題名から興味を惹かれる記事。映画『響』を観て、「たしかにこういうことって起こってるよな」と漠然と感じた人や、一方で「よくわからなかった」という人にも、このブログを読んでいただきたい。この記事に書かれてある「天才」と「凡人」というのは、まさしく劇中での「鮎喰響」と「世間」を指し示している。「凡人」の集合体的な「世間」が、「天才」である「鮎喰響」を殺しにかかるさまは、実世界でも頻繁に起こっていて、そこに大きな問題があるということが、この記事を読めばわかるかもしれない。

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さて、わたしがこの映画で一番おもしろいと感じたのは、北川景子が演じた編集者の花井という立ち位置だ。予測不能な人生を展開する天才・鮎喰響に振り回されながら、世間との狭間で奮闘するというポジション。動き回っているもののあまり存在感のないように見える彼女だが、実はこの映画、彼女がいないと成立しないようにできているのがおもしろい。というのも、冒頭で捨てられそうになった響の原稿を掬い上げて才能を見出したのは彼女であったし、響が起こし続ける問題も彼女だからこそ対処することができた。

彼女の立ち位置は、先述のブログ記事で言うところの「秀才」のポジションであるとわたしは感じたのだけれど、この映画を見たことでその位置にいることで得られる人生体験の豊かさに気づいてしまったのである。自分が天才ではない以上、どのような手段でもいいから天才の近くで息をするということ。そのことで得られる新鮮さ、敏感さ、感動、喜び。インタビュアーやライター、編集者、マネージャーなどの職業がそれに当てはまるのかもしれないし、ただ単に芸術家の作品に接することや世界の動きに敏感であることがその道へとつながるのかもしれない。

響のまっすぐさはもちろん素晴らしいし憧れるけど、誰もがあれほどのパワーを放てるわけではない。でも、劇中で落ちぶれた天才が「世間と折り合いがついてしまった」と語るように、何もしなければ(精神的にも肉体的にも)世間の中で埋没していくだけだ。だからそうならないように、そのパワーに引き寄せられて生きたい。映画『響』は、“そこ”で生きることの楽しさを感じさせられて、無性に生命力を掻き立ててくれる作品だった。