縞馬は青い

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毒キノコはなぜ、かくも美しいのか/ポール・トーマス・アンダーソン『ファントム・スレッド』

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彼に恋する事で人生は謎ではなくなるのよ

 

終盤でアルマが語る言葉。人生は謎ではなくなる。そう、この映画では恋愛や結婚といった人間関係の「からくり」が掲示される。その内実は実に高貴で美しく、また滑稽で可笑しく、震えるほどに怖い。ただ、鑑賞中(特に後半)ニヤニヤが止まらなかったのは、彼女と同じように人生の謎から少し解放されたからであり、その「からくり」に今まで経験したことがない感情を投影させられたからである。先日『ヤンヤン 夏の思い出』という映画を観て書いたレビューに「人は多くの役柄を演じている方が(多くの人と密に接している人の方が)、多面的に人生が展開していき、そのことは不幸も内包した人生の“豊かさ”に繋がるのではないか」というような言葉を連ねた。しかしこの映画はその考えを見事に覆す。思考回路が更新される。それが気持ちよくて仕方がなかった。『ヤンヤン』で感じたものも間違いではなかったと思う。多面的な人生にはおそらく豊かさがある。しかしその“豊かさ”ともまた違った人生の美しさがここには存在していた。もしかしたらわたしたちは、ある“たったひとつ”の役柄を演じるために生きているのではないか、とそう思わされてしまう映画だった。

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レイノルズは支配されることを恐れていた。自分を支配するのは、母親と姉だけでいいとずっと思っていたから、異物が混入することに細心の注意を払っていた。だから彼は人を家の中にあえて「招き入れ」、「服をつくり、着せてあげる」という手段でもって他人より優位に立ち、そのことによって聖域を固く守ってきた。そしてそれは、母親の“影”を感じるアルマに対しても何ら変わらぬことであり、決して二人きりになる時間を設けようとはしない。
そんなレイノルズでもある一瞬だけは子供のようにアルマに身を寄せる。ときにスランプに陥り静かに寝込む彼の姿に僕は、体を壊し母親に看病される幼少期のレイノルズを垣間見た。おそらく長い間(母親が死んでから)ひとりで強く生きてきたのだろう。アルマとの喧嘩のシーンでは「四方八方敵だらけだ」と彼は嘆く。愛しているはずのアルマを、最愛の人にしてしまうことに得も言われぬ恐怖があったのだろう。それは、いつか失ってしまうかもしれないことへの恐れなのか、待ちつづけることの寂しさなのか。それでも彼は最後、毒キノコを与え続けられることを受け入れるわけだ。そこに幸せがあることを彼はたぶん知っていたから。母親との関係が、彼をその結末に向かわせたのだろう。

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こんな感じで人生論について深く考えさせられる映画であったのだけれど、それとはまた別のベクトル、「エンターテイメント」という基準ですごく心に刺さってしまう作品だった。あげるとキリがないので割愛するけど、何もかもが「完璧」だった。これは今後映画を観ていく上での「原体験」になり得るような映画だ。小学生の頃に観た『ハリー・ポッター』みたいに。新宿武蔵野館というハコが素晴らしかったのかもしれないけれど、あの最前列で垣間見た人生の美しさと音楽の高貴さ、映像の妖しさは、今後映画館に行く上で1度だって忘れることはないと思う。こんな作品に出合うために、僕は映画を観てきた。そして「出合った」。

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