縞馬は青い

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映画とか、好きなもの

人生の豊かさについて/エドワード・ヤン『ヤンヤン 夏の想い出』

2018.6.12

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先日報道ステーションに是枝監督がゲスト出演していて、その時に語っていた言葉はどれもが印象的だった。その中でもキャスターからの「どうして家族を撮るんですか」という問いに対する答え。


「家族ってやっぱりおもしろいんですよ。ひとりの男性を見てみてもその人が父親であり、夫でもあり、また息子、叔父、いとこといろんな役を演じている。人の多面性を撮るにはちょうど良くて、それが浮き彫りになるのはおもしろい」


みたいな。なぜ自分が家族映画を好んで見るのか、その答えがこれだったんだと妙に腑に落ちたものです。ある人物の多様な側面が浮き彫りになるのが家族という共同体で、その「家族」を突き詰めていくとその先に大きな社会が見えてくる。


* * *

 

その是枝監督も愛したエドワード・ヤンの遺作『ヤンヤン 夏の思い出』。鑑賞後の今、人生のすべてを垣間見たような不思議な感覚を抱いている。


本作に登場するのは、あるひとつの家族と彼らを取り巻くさまざまな人々。本作はこの多様な人物たちの群像劇として進行していき、是枝監督の言葉のように人間の多面性を描き出していく。特にN.J.(題名にもあるヤンヤンという少年の父親)にスポットライトを当てる時間が多く、また彼のキャラクターは特に多面的に撮られ、印象的だ。


本作における彼の役柄を挙げてみると「ヤンヤンにとっての父親」「ヤンヤンの祖母にとっての息子」「ヤンヤンの母親にとっての夫」「ヤンヤンの叔父にとっての義兄」「高校時代の恋人にとっての元恋人」と書き出すと止まらないくらい。そしてこの映画を観ていると気づくのは、人生において役柄が多ければ多いほど=多面的であればあるほど、その生き様は豊かで、幸せに違いないということだ。まだ若造なので本当のところはどうなのか分からないけど、他人と多く、密に接している人ほどその人生は幸せ(不幸も内包した“豊かさ”がある)なんだろうなと、感じずにはいられなかった。


ヤンヤンの母親が家を出て行ってしまう理由なんかもここにあるのではないだろうか。母親の前では彼女の娘でしかいられないことへのもどかしさ。そこからの解放を求めるという行動。これは『恐怖分子』において「家を出て行ってしまう」彼女と彼にも同じことが言える。少ない役柄しか演じれないように強制されてしまうと、途端に精神が崩壊してしまうのだ。


本作では出会いと別れ、恋と失恋、生と死などさまざまな事象が画面を往来していく。ときに淡く、ときに厳しく、優しく、辛く。感情もさまざまに往来していく。楽しくて優しいだけではなく、残酷すぎる現実ももちろん訪れる。そうであっても、この静かに躍動する画に、僕の心は掻き乱されてしまった。いつの日か、エレベーターから出てきた人が2、30年前の元恋人だった、みたいな経験をしたいなと、そんな気持ち悪いことを考えさせられてしまう、不思議な映画だった。

 

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静から動への暴力的転換/濱口竜介『PASSION』

2019.3.17 下高井戸シネマ

半年ぶりくらい2度目の鑑賞だけど、何度見ても理性を失いそうになるくらい惹かれてしまう映画だ。濱口竜介の作品はすべてそう。非現実的な会話の応酬によって登場人物たちが連鎖的に突き動かされ、あるいはそもそも“行動的な人間”だったかのように振る舞い出し、その行動は予測不能ながらもどこか感情統制が取れていて(彼らだけ物事の整理がついているような感じ)、破綻しているかのように見えるラストも絶対にこれしかない締め方だと納得してしまう。2008年、東京藝大在学中に制作された映画『PASSION』は、『寝ても覚めても』の片鱗を感じる映画、というか明らかに『寝ても覚めても』より高等なことを実験的に突き詰めようとしている作品だ。そしてその目論見は見事に成功していると言う他ない。現実にはほぼ起こらないだろうことが展開されているけど、それなのになぜか現実の人生を濃縮したようなものが彼の作る映画には写っているから、盲信的に欲しつづけてしまう。

 

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『PASSION』という映画に終始興味を惹かれ続ける要因は、ずっと何かが画面内を動き回っているからだと思う。走ってるとかバスに乗ってるとか、あるいはフリスビーをしているとかそういう身体的な動きだけじゃなくて、とりわけ静止する場所である「家」の中でも常に心や言葉が動き回っていて、そのせわしない動きに僕は興奮させられているのだと感じる。そんなのどんな映画でもそうだろうと思うかもしれないけど、動きのダイナミックさが明らかに飛び抜けているのだ。そしてこの作品が、「静止していたものが動き出す映画」だから、特別そう感じるのだと思う。

 

冒頭、タカコとケンイチロウが亡くなった猫を土に埋めるシーンがある。これは、続いていたものが終わることを示唆しながらも、逆説的に新たなものが始まることを予感させている*1。平穏からの脱却といえるだろうか。またあるいは、劇中で“思考停止”という言葉が発せられることもある。一面的な考え方に納得して考えることをやめてしまっていたカホへ向けてケンイチロウが発するセリフだ。そんなケンイチロウも、カホに会いに行く前に「最初からそうすればよかったのに」とトモヤとタカコから非難されている。翻ってトモヤも、現状に不満を持ちどうしようもなく答えを求めていて…。

 

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しかし、こうして“静止しているという状態”というのは、単なるまやかしに過ぎない。そんなのありえないから。元々彼らの心の中では様々な感情が蠢いていて、それでも外には発さないように我慢しているだけなのだ。それは、家でトモヤの帰りを待つカホがひとりで踊りはじめる場面(その姿を窓の外から写すという描写は、まるで人の中にある心の動きを表しているようだ)や、無抵抗にお湯へと同化していくパスタの姿に表出されているのかもしれない。張り裂けそうなくらい心は暴れまわっているのに、なんとか抑えようとしてきた不器用な大人たち。

 

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そうしてすべてが静止しながらも、外から向けられた暴力(肉体的な暴力、言葉の暴力、キス)によって徐々に自らも暴力をふるうことを促されていき、やがて彼らは真理へとぶち当たることになる。“真理”とはすなわち、思考し続けることの重要性なのだろう。他人のことは何もわからないし、おまけに自分の心と体もバラバラだけれど、他人にとっては自分も他人なのだからせめて“わからないということ”を共有しようではないか、じゃないと何もわからないままなんて虚しいでしょ? といったような。“タカコの家”と“トモヤとカホが住む家”を起点としたダイナミックな登場人物たちの動きによって表出されるのは、彼らが抱える虚しさと微かな希望のようなものだ。クライマックスで濱口監督の十八番である遠景からの長回しによってカホの心は急転換、向かうべき方向性を明確にし、迷いなくそこへ歩みを進めることになる。

  

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*1:「トップシーンは強い画が欲しかったというのが一つの理由としてあります。猫の意味合いに関しては、元々、映画の前後にも時間が流れていることを感じさせるような映画にしたかったんです。それで、ずっと飼っていた猫が死んだという始まりは、長く続いてきたことが終わることの象徴としていいんじゃないかと。平穏に暮らしている時間が長く続いていたんだけれども、そういう時間が終わったという。」参考:http://eigageijutsu.com/article/97397354.html

足が速い女の衝動的プレイバック/ナカゴー特別劇場『駿足』

2019.3.17 あさくさ劇亭

 

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鎌田順也が主催の劇団「ナカゴー」の演劇は、“本公演”と“特別劇場”に分かれている。いちおう上演時間の長さが違ったり、劇場の大きさ、後者にはナカゴーの劇団員があまり出演することがないなど力の入れ方は異なるのだけど、そのどちらもが、オーバーアクションや突飛なセリフまわしによってデフォルメされた登場人物たちが、“笑い”を主軸に置いた作劇を展開していく点において質感的にはさほどの違いはない。本公演だと笑いすぎてマジで疲れるな、って感じるくらいの違い。いうなれば、お好み焼き(特別劇場)と、ライス付きのお好み焼き定食(本公演)を食べてるみたいな、どちらもめちゃくちゃボリューミーで味の濃いやつ*1。まだ3作目なのでそこまでよくわかってはいないのだけど。たぶんそんな感じ。

 

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足の速い女がある事件の犯人探しをするお話をやります。ぜひ。

 

HPに書かれていた本作の宣伝文かあらすじのような文。いつもこんな風にシンプルで内容の検討がまるでつかないあらすじなのだけど(おまけに本編がその前振りとはまったく違う話になっていることもある)、惹きつけられてしまう独特の魅力がある。これは劇団への信頼感と言うべきだろうか。

 

足の速すぎる人が4人ほど出てくる物語。その内訳としては、足が速すぎることで国に狙われている女。足の速さをコントロールできず、運動会で走ることを恐れている男の子。その母で、子供のころから速く走ることを親に禁止されて倒錯した性格になってしまった女(一連の事件の犯人)。公園に住みつく足の速い小学生児童(32歳)。

 

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人物紹介欄に(犯人)とか書かれちゃってる感じがナカゴー流。これだけ見てニヤニヤしてしまった

 

この物語には、「足が速いからすぐに逃げられる人々が、同じく足が速い人に捕まってしまい、現実と向き合うことになる」という正統派な主題がある。そしてあくまでも主人公(小学生の男の子)は別にいて、足の速いものたちの奮闘をはたから見ながら成長していくという展開。まわりを取り巻く(マイノリティな立場にいる)人々の困難や不安を描きながら、徐々にその模様を見ていた男の子とその母親の物語へと波及していく様は、相米慎二『お引越し』、エドワード・ヤンヤンヤン 夏の思い出』などにも投影できる作劇のかたちと言えるかもしれない。そうした主軸にナカゴーお得意の“ごっこ遊び”が加わり、やんわりと生が肯定されていく。

 

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大げさなアクション/リアクションのなかでも、“同じことを繰り返す”という反復的所作が目立った本作。それは、悩める駿足ビトたちによる衝動的な存在証明として、あるいは認められない恐怖から焦燥的に繰り出される行動として捉えることができるかもしれない。首をスーッとするイタズラ、カンチョー、帽子やバナナをこっそり奪うこと、あるいは親から子への“嘘”。すべてがあまりにも子供じみているけれど、そうであるからこそ、純粋な子供心を想起させてくれる。何よりも子供心を取り戻したように小さな舞台で躍動する役者たちが楽しそうで仕方ないのだ。

 

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*1:関西弁が使われるわけではないし(アクセントとしてたまに出てくるが)、鎌田さんは関西人でもないと思うのだけど、同じことの反復で笑いを積み上げていく構造や大げさなアクション/リアクションとかが絶妙に新喜劇的で、関西人の僕には響いてしまう。

踊るしかないこんな夜は/二宮健『疑惑とダンス』

2019.3.3/3.10 ユーロスペース

『チワワちゃん』で岡崎京子の原作をセンセーショナルに現代へとアップデートしてみせた平成生まれの天才監督・二宮健がまたやってくれた。あくまでも個人的な意見だけど、2018年の日本映画界が濱口竜介三宅唱の1年だったとすれば、2019年は二宮健と今泉力哉の1年になるんではないかと思ってる。最近いろいろニュースがあって嫌になっちゃうけど、それでも日本映画界の今と未来は常に明るいはずだ。

 

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この53分中編映画のストーリーはものすごくシンプルで、登場人物は、結婚を控えるカンナ(徳永えり)とマサオ(木口健太)に、彼らの結婚を祝福するカンナの大学時代のダンスサークル仲間4人(コムラ・サトシ・サナ・ツバキ)。映画がはじまってすぐに童貞感の強いコムラが「カンナと昔、一夜だけ関係を持ったことがある」とマサオに口を滑らすことを契機に動き出す「ヤッたかヤッてないか」をめぐる(むしろそれしかめぐらない)いびつな密室会話劇だ。

 

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もう呆れるほどにお話はめちゃくちゃくだらない、でも異常なほどに笑える。すごい落ちこんでて最近笑えてないなーとかいう人を無理やりユーロスペースのなかに押し込んでやりたいくらいに、見たら絶対元気になれる映画だと確信してる。ハードルの上げすぎはよくないけどね。映画を観て驚いたのは、二宮監督が『チワワちゃん』とは全く違うアプローチをしながらも、シネフィルもそうでない人も全員が楽しめる映画を作ってきたこと。「映画で遊ぶ」が本作のコンセプトらしいのだけど、監督も役者も遊びまくってるなーってヒシヒシ感じながら、決して内輪ネタにならない感じがとてもいい。みんな全力を尽くして遊び、ちゃんと観客の姿を見据えているのが伝わってくる大きな熱量を感じる映画だ。


熱量といえば、この映画はユーロスペースでしか上映してないのだけど上映後のアフタートークに全力を注いでいるのがおもしろい。毎日アフタートークをやってるんだけどそのゲストが半端なくて、有村架純戸田恵梨香門脇麦松本穂香、ディーンフジオカなどなどゲストで客を呼ぼうとしてる感じがすごい伝わってくる布陣(笑)。実際この映画を一回見てしまうとハマってしまうのはほぼ確定なので、内容が内容だけに、あの俳優がこの映画をどう見たんだろうとか気になって仕方なくなるんだよな。僕も門脇麦さんが登壇していたやつに行ってから1週間経って、出演者がほぼ勢揃いしてる回にまた行ってしまった。今のところリピーターがすごい多い映画だと思うのだけど、これはホント、1回見てしまうと沼ですよ、沼。安易におすすめしてはいけないかもしれない。

 

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なぜそんなにおもしろいのか。カンナを中心において、他の登場人物たちはほぼ全員カンナのことが好きなのだ。Likeではなく、がっつりLoveなほうで。だからマサオと結婚することを祝いながらも、内心は嫉妬でいっぱい。二宮監督は、冒頭から小道具を使ってその関係性を演出してたりもする。それは例えば、コムラがマサオの結婚を祝ってハグするときにコムラが片手にハサミを持っていたり(不穏な展開を予感させ、マサオを破滅させに向かっているとも取れる描写)、遅れてきたカンナが「おみやげ」といってコムラに「けん玉」を、ほか3人のダンスサークル仲間には「フリスビー」をプレゼントしたり。「けん玉」というのは、今後コムラが「カンナと過去にヤッたということしか話さないマシーン」になることを表象しているし、「フリスビー」というのはもう、投げたカンナのもとに愛という名の攻撃が返ってくることのメタファーにもなっている。人々の愛憎が渦巻き、真実は不明瞭で、カンナとマサオは彼らの望み通りに破滅しそうになる。


『疑惑とダンス』という題名が示唆するように、この映画にとってダンスはかなり重要。ちょっとネタバレになるけど、彼ら2人はダンスをすることで何とか心と心を繋ぎ止めることに成功する。ラストのダンスシーン以外、この映画は徹底的にディスコミュニケーションを描きながら、最後にはダンスをすることで、わかりあえないことを受け入れながらも何とか通じ合ってハグをする。その切実さに、普通に泣きそうになる。


本作は、シナリオと登場人物のキャラクターは監督がある程度考えているものの、脚本はないのでセリフは全部役者のアドリブで構成されているという。そんな映画観たことがなかったからどう言葉に表していいかわからないのだけど、「あ~俳優ってめっちゃ好きやわ~」と再確認できた53分だったように思う。かっこよすぎる。ほぼフルキャストが登壇していたアフタートークでは、「ヤッたことを覚えてない」と言い張るカンナ役の徳永えりさんは「実はヤッたことを覚えていながらも嘘を突き通そう」とキャラクター設定をしていたと語っていたり、サナ役の福田麻由子さんは「虚言癖のレズビアン」という設定で望んだとか、マサオ役の木口健太さんはとにかくカンナに真相究明していくことを胸に誓って徳永さんに嫌われるのを恐れながらも厳しい言葉を投げかけようと頑張ったとか語っていて、すごくおもしろかった。それと同時にその与えられた小さな設定だけでここまで見応えのある会話劇が仕上がっていることに驚きでいっぱいだった。

 

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低予算な映画だと思うけど、会話劇というジャンルのいろいろな可能性(人間関係の難しさをあぶり出したり、役者の本気が見えたり)が垣間見えた作品だった。僕は、映画で遊ぶ彼らがもっと観たい。

好きな三浦透子を集めてみた

出ている俳優で映画を選んでいた時期が僕にもあった。北乃きい長澤まさみ吉高由里子が出ている映画を漁っていたのは中学生くらいの時だったろうか。本格的に映画を見るようになってからはだんだん監督で映画を選ぶようになってきて、好きな俳優が出演していても、なんとなくスルーしてしまうことが多くなったと思う。でも最近思い出した。好きな俳優が出ていれば話がおもしろくなくてもそれなりに楽しめるということを。役者が大好きで、ドラマとか映画を観ていた過去を思い出した。三浦透子さんは今いちばん好きな俳優。ときに艶やかな表情を、またあるときには勇ましい表情を見せる、百の顔を持った現代の名カメレオン俳優だと思ってる。出ている役者で作品を選んでいると、思わぬところで素敵な作品に出合うこともある。そのことを再認識させてくれた三浦透子さんの好きなやつを集めてみた。

 

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月子

DVD化されてない作品を最初に持ってくるのもアレだけど、出会いはこの映画だったと思う。知的障がいを持った少女の役。個人的にはファーストコンタクトにしてベストアクトだと思っているほど印象的で、釘付けになってしまったことを覚えてる。三浦透子さんの良さは、彼女が持つ“かわいらしさ”と“ぶっきらぼう”な感じが作品ごとにうまく配合を変えてその役柄を演じているところにあると思う。

 

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架空OL日記

5人の銀行員の日常を描いた作品のなかで、彼女たちの後輩「かおりん」としてたまに登場した三浦さん。作品自体が最高で、バカリズムもほかの4人もよかったのだけど、なぜかかおりんに惹かれてたんだよな。たぶん最初は『月子』でみた女優と同じ人だとは気づいてなかったと思う。第6話で、出会いがないと言う先輩に知り合いのイケメンを紹介するといってかおりんが見せた写真のその人がかなりハゲていた、というエピソードがおもしろかった。

 

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水本さん


『水本さん』脚本 坂元裕二 監督 清水俊平(『雑談会議』)

 

実は坂元裕二作品にも出てる。東京芸大の学生たちが撮ったワンシチュエーション短編会話劇の一編として。幽霊役の水本さん(三浦透子)が執拗に同僚を死後の世界に誘うという坂元さんらしい可笑しくて変なやつ。幽霊と人間の間に差はないという会話からあらゆるものを肯定していくような坂元さんのおなじみの筆致に驚かされながら、仲のよかった同僚に避けられ、最終的に無理やり死後の世界に連れて行ってしまう水本さんの強引さが見どころ。坂元作品に出る三浦さんももっと見たいな。

 

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スカートのMV


スカート / 視界良好【OFFICIAL MUSIC VIDEO】

 

「CALL」「静かな夜がいい」「視界良好」と3作に出ているスカートのミュージックビデオもとてもいい。軽やかな身体と弾むメロディ。表情の変化だけですべてを雄弁に語ってしまう俳優であるから、このどれもにピタリとハマってしまう。

 

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素敵なダイナマイトスキャンダル

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これは本当に驚いた。母親をダイナマイト心中で亡くしている末井昭の半生を描いた映画でそのストーリーはもちろんすごくインパクトがあるのだけど、そのストーリーの派手さと同じくらい三浦さんの演技もスペシャルで、めちゃくちゃいい。吸い込まれてしまう美しすぎる一挙一動。大人びた風貌なのに当時20、21歳(1996年生まれ)くらいで自分の年下と知ったときには、鳥肌がたった。これからもいろんな三浦さんが見れるんだろうなと確信した瞬間でもある。

 

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デザイナー 渋井直人の休日

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“かわいらしさ”と“ぶっきらぼう”のうまい配合によって百の顔を演じ分けているように見えると前述したけど、これは“かわいらしさ”に全振りしてきたパターンの演技。役の幅が広すぎて、それぞれに顔も違いすぎて、普通に見てると同じ役者だと気づかないと思うんだよな~。そのへんで損してそうなくらいうまい。でも日本映画界とドラマ界はじわじわと彼女に侵食されているのだぞ。

 


このエントリーを記そうと思ってから三浦さんのことを調べてたら、歌手の活動もしている(していた?)ことを知った。そうしてカバーアルバム『かくしてわたしは、透明からはじめることにした』のなかの「遠く遠く」を聞いてたら、思わず泣きそうになった(仕事中に垂れ流してたので、すごい我慢したのだけど)。たしかに、彼女は「声」もとてもいいんだ。これまた“芯のある勇ましさ”と“やわらかく温かな質感”が相まった軽やかな声色。二律背反かもしれないそういう複雑な特徴を持つ彼女であるから、『21世紀の女の子』の一編「君はシーツ」で女性性の中に男性性を覗かせるような役柄を演じたのも、すごく頷けてしまう。

 

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今はAmazonPrimeで見れる『鈴木先生』に夢中だ。三浦さんつながりで見たのだけど、めちゃおもしろいドラマ。(信頼する)監督で映画を選ぶとほとんどハズレがないのだけど、作品的な良し悪しは別にして、役者で作品を選び取るというのも、とても素敵なことです。

 

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普通に顔が好きなんだけどそれを言ってしまうとすぐに終わってしまうので、いろいろ作品を集めてみた。三浦透子さんにいつかインタビューしてみたいな。

 

SFの話をしてるんじゃなくて/贅沢貧乏『わかろうとはおもっているけど』

2019.3.3 VACANT

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最近、ディスコミュニケーションを描く物語に夢中すぎる。うまく通じ合えない瞬間にこそ人間の本質は宿るんじゃないかとさえ思いこんでいるフシがある。思い返してみると昨年一番好きだった映画『ファントム・スレッド』もそういう作品だったと思うし、同じく昨年からめちゃくちゃハマった濱口竜介の映画群はまさしくそれが物語の根底にある。最近見た『ひかりの歌』、『疑惑とダンス』、『デザイナー 渋井直人の休日』なんかもこれこれ!!と唸りながら見ていた。おまけに今は「わかりあえなさ」の最高潮みたいな映画を撮るジョン・カサヴェテスに没頭している。なぜこんなに好きなのかはわからないけど、ディスコミュニケーションを描くことによって光りだすものが必ずあって、これらの作品にも常にそういうものを感じていた。

贅沢貧乏『わかろうとはおもっているけど』ZEITAKU BINBOU "I'm Trying to Understand You, But" - YouTube

そうした好みがあることは薄々感じていたのだけど、本作に関しては無意識に「そういう作品」を選びとっていて自分でもびっくりしてしまった。たぶんステージナタリーか何かのツイートがTLに流れてきて、一瞬で題名に惹かれてしまったんだとおもう(あとロロの島田さんが名を連ねていたから)。山田由梨主宰の劇団・贅沢貧乏『わかろうとはおもっているけど』。タイトルだけでもう最高。だってこんなタイトル、絶対にディスコミュニケーションの作品なんだもん。そして結果的にそうで、鑑賞中は「この作品を無意識に選んでくれた自分ありがとう」という状態だったのだけど、本作のおもしろさはそれだけじゃなかった。この演劇を観なければ知ることができなかったことがいくつかあったので、そのことについて書き記しておきたいと思う。

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身体の距離と心の距離は必ずしも一致するわけではない。相手に慣れれば慣れるほど、距離の近さに特別感がなくなるほど、相手のことがわからないということを強烈に感じることがある。家族とかが一番の例だと思うのだけど、それは悲しくもあり、避けようのないことでもある。本作が描くのは、大好きな人との子どもを授かったのになぜか喜ぶことができない女性と、そうした彼女の姿勢を疑問に思い、困惑する彼との「わかろうとはおもっているけど、どこまでもわかりあえない」関係性。冒頭から随所に垣間見える「会話と心のズレ」がポイントになっていて、身体的な接触を随所に挟むことでその本当の意味での距離の遠さが強調されていくのがおもしろい。(彼女が喜べない理由のひとつが、SEXに同意していなかったからというのもまさしくそう)そうして男と女の決定的なわかりあえない部分を描きながらも本作がさらに秀でているのは、出産や結婚などの男女間の価値観の違いを“家事”や“いびき”など身近な事象に転化させたり、同性でもまったく異なる考え方が提示されるなど、男女のお話だと思っていたら徐々に「個々」のわかりあえなさに飛躍していく点にある。これは語り方がうますぎて見ている間ずっと心が豊かだった。そしてあくまでも「わからない」とは言わないところがさらに本作の誠実なところだと思う。決して諦めようとしてないところがいい。机の下に潜り込んだ彼が「逃げてはない」と言う場面が印象的で、身体の距離の近さというのは「きっとわかりあえる」と信じ続けることの表象でもあるのだと感じさせる。身体までもが離れてしまってはもう終わりだから*1。基本的には希望に満ちた作品。

 


もうひとつ本作を見て気づくことができたのは、「女性は妊娠するとお腹が大きくなる」という至極当たり前のこと。というよりもその一大事さというか。これももしかすると身体の変化に心がついていかないといった「身体と心の不一致」が不安の原因なのかなぁと考えたり。何も身体の変化だけではなく、例えば家事の話の際にも出ていたような「変化にうまく対応してしまいそうな自分」に怖さがあったり。これも男女の身体だけを逆転させた終盤の流れのおかげで、自分の心にも染み入るように感じることができたし、「マタニティーブルー」のようなカテゴライズされた言葉の危うさに心が締め付けられるようだった。あの男女を除いた登場人物の個々のアイコン的な“髪の毛”が捻じ曲げられていくという身体的な変化もすごくおもしろく、切実に問いかけられる。

 


「心」では微妙にわかっていても、それを「言葉」にしようと試みることにもまた別の難しさがあるからディスコミュニケーションの根は深い。言葉はときに全然思ってもないことを伝えてしまうときもあるし。実際この演劇感想も何もかもうまく書けなくて驚く。島田桃子さん演じる主人公が子どもができたのにうれしくないということを友だちに語ったあと、その友だちが数秒間黙り、そのあとで「黙っちゃってごめん。簡単に返答できることじゃないからさ」みたいに一回返答を待つシーンがすごくよくて、コミュニケーションにはああいう誠実さが必要なのだろうなと思った。

それにしても5人の役者が全員魅力的だったな。

高橋源一郎×贅沢貧乏・山田由梨 現実を作り変える作家たちの力 - インタビュー : CINRA.NET

このインタビューを読むと山田由梨さんのめざすところがとてもよくわかる。

もしかしたら僕は、この「ディスコミュニケーション」という敵とずっと戦ってきたのかもしれない。

*1:これに関してはこのあと数日考えて、「身体までもが離れてしまってはもう終わり」というのは、この作品の意図とはちょっと違うかもなって思った。別に距離が離れていても心の距離が遠ざからないこともあるし。「決定的にわかりあえない」ことを受け入れた先に、それでも“生(食事をするという行為)”を渇望するという描写にこそ意味があるのかもしれないと思った。わかりあえないと知ることは必ずしも絶望ではない。本作に関してはむしろ希望として描いているように感じる。

厚い雲に覆われた日常/片山慎三『岬の兄妹』

2019.3.1 イオンシネマ板橋

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上京する1年前にそれまでの22年間住んでいた田舎には、映画館というとイオンシネマ(昔はワーナーマイカルシネマズだった)がひとつだけあった。たいてい大作しかかからないから、シネフィリーをくゆらせだした大学生の終わりごろには1時間かけて大阪まで出ていってたくさんのミニシアター映画を観たものだけど、車を15分走らせてフードコートでビッグマックを食べてから映画を観て、帰り道のドライブ中にその映画について思考を巡らせていた、イオンシネマを巡るあの経験は特別なものだった。大阪から電車で帰る1時間もそれはそれで特別だったんだけど。3月1日の映画の日は『岬の兄妹』を観ようと意気込んでいた。それで退社後に観れる劇場がイオンシネマ板橋しかなかったから、ちょっと遠くはあったけど久しぶりにイオンシネマに行った。地元のイオンシネマ以外のイオンシネマに行くのははじめてだったけど、学生のときに通ったあの劇場とほとんど変わらない構造をしていて、軽く感傷に浸ってしまった。なんと言ってもスクリーンがおっきくて距離が近いのが最高だ。他人の後頭部とかまったく見えずにスクリーンにだけ目線が支配される感じ。そこで観た映画は、新宿とか渋谷で観るよりそこで観るのが最適だなと思わせる絶妙な地方感と退廃した終末的な空気が流れていた。おおよそ電車に乗って1時間、帰り道にその映画のことを考えた。

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映画『岬の兄妹』特報予告【2019年3月1日(金)全国公開】 - YouTube

足の悪い兄と自閉症の妹。この記述はあまりにも記号化しすぎているなと思うけど、映画は最初、この世界が基準とする「普通」の枠組みのなかでは生きられないふたりの兄妹の姿を記号的な部分も含めて印象的に映し出していく。妹が勝手に家の外に出て彷徨わないように兄は彼女を鎖で留め、扉にも南京錠をつけて頑丈に閉鎖する。それでもどうにかして家を飛び出していく妹はある夜、「普通」からはだいぶん外れた方法で生きる手立てを見つけてしまう。“冒険”という言葉が出てきてからの物語は複雑ながらも非常にシンプルだ。「生きるために」兄は妹の売春を斡旋し、そのことによってポケットティッシュに広告ビラを挟み込む1個1円の仕事が、1回1万円へと急激に跳ね上がる。そうすると当たり前のように暮らしは貧しさを抜け出し、家には光が入ってくる。

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印象的なシーンはいくつもある。売春の繰り返しが展開される中盤も、春から夏、夏から秋へと季節の移ろいを感じることができ、そこに息づく彼らの日々の営みには笑いや怒り、涙がある。空と海は基本的に晴れ渡ることがないけれど、ときにこの世とは思えない色をした終末感を漂わせ、またあるときには茜色が映えた美しさを見せる。とても豊かで、とても貧しい生活。どんどんどんどん 彼らのことが好きになる。


冒頭で家を飛び出した妹の真理子(和田光沙)を兄・良夫(松浦祐也)が「出てっちゃダメじゃないか!」と叱るとき、真理子は「出てってないよ!」と反論する。このひとことを聞いただけで、真理子にとって家に閉じ込められていることは非常にナンセンスなことなのだと思い知らされた。この大きな世界、海や空を見るためか、あるいは死んでしまった(良夫は、遠くに行ってしまった、と言う)母親を探してのことなのか。そうすると、この兄妹がたどり着いてしまった生命維持の方法は、必然性をともなって私たちに突きつけられる。


荒々しいラストのモンタージュののち、携帯電話の受話器に耳を当てる良夫と、その姿を見つめる憂いを帯びた表情の真理子。一瞬、時間が巻き戻ったのかと思ったけれど、それは違くてたぶん彼らはループ的な空間の中にいるのだと思う。季節の移ろい、売春、妊娠、堕胎(→売春、妊娠、堕胎)、食事、排便。「それでも人間かよ!」と罵倒されながらも、たしかに繰り返される生命の鼓動。暮らし。彼らふたりを好きになりすぎて、どうかどこにも行かないでくれと願っていたけれど、結局彼らはその円環の中でずっと生きているのだろう、生き続けるのだろうと最後の最後に気づいた。それはうれしくもあり、途方もない絶望でもあった。

 

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安藤サクラさんにも似た自由な演技と飛び抜けた愛らしさがあった和田光沙さん。「お兄ちゃん怒るよ!」が絶妙にかわいくて、「1回、1時間、1万円」と言うときのニヤニヤした顔が忘れられない松浦祐也さん。彼らの演技をこれからもいっぱい見たいし、片山慎三監督についていきたいと思わせるには十分すぎる、衝撃的な映画だった。