縞馬は青い

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映画とか、好きなもの

エロティックな三浦さん/冨永昌敬『素敵なダイナマイトスキャンダル』

f:id:bsk00kw20-kohei:20180329150441j:image『素敵なダイナマイトスキャンダル』本予告映像 - YouTube

(短文レビュー)

幼い頃に実の母親が隣の家の息子とダイナマイトで心中をした、という驚きの体験をもつ雑誌編集者・末井昭氏の同名自伝を原作として映画化されたのがこの作品。

 「ある一人の人物の栄枯盛衰もの」という括りでいうと白石和彌監督の『日本で一番悪い奴ら』に質感が類似している本作。ゆってもこちらの監督は『南瓜とマヨネーズ』等の冨永昌敬であるのでそこまでのジェットコースター感や誇張されたようなドラマチックさはなく、ただひたすらに、けっこう落ち着いたトーンで末井昭という興味深い人物の人生を描ききっていました。まぁ誇張した演出を加えなくとも刺激的な昭和世界と十分におかしな人生が繰り出されていくので飽きずにすごく楽しめるんですよね。

こたつや職場など、あるいはポケットから出てくるあれやもっと言えば家を出て行った母の姿まで、「出るもの」と「入るもの」が象徴的な映画ですが、そのことによって彼の生き様に豊潤さが増していくのは興味深かったです。また、頻出する「体の一部を怪我していて眼鏡が曇っている」人物たちのことをどう捉えるのか、というのも面白いところ。あんな風に目に見える傷よりも、目に見えない傷を抱えている人の方がこえーな、ってちょっと思った。

そして、本作は何と言っても三浦透子さんが素晴らしすぎる映画です。『月子』で体現したような特殊な演技に加え、艶やかな佇まいやぶっきらぼうな仕草まで、その一挙一動がすごく幅広くバリエーションに富んでいて吸い込まれてしまう。21歳でこんなに多くの色を出せるのは驚きしかないです。これからも楽しみな女優さん*1

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*1:『架空OL日記』のかおりんとスカートの諸々のMVがめっちゃ好き。顔が好きなんだと思います。

最近おもしろかったもの(2018年3月1日~)

 

はじめに

なんかいきなりブログの更新頻度が低くなってしまって焦ってます。というのも春から東京で就職することが決まっており、部屋探しやらなんやら、大学ももうすぐ卒業してしまうので別れゆく友との飲み会やらなんやらで、まとまった文章を書く時間と気力がない…。こんなんで怠けてるようじゃ社会人になってしまったら文章を書けなくなってしまいそうで心配です。ただ、忙しいといっても面白いものには常に触れようと尽力しています。こればっかりは生きがいなんでね。というわけで備忘録として記録しておくために短文で「最近おもしろかったもの」を10個ばかしまとめておくことにしました。ドラマや音楽、漫画など多ジャンルを攻めてるので趣味が合う方がいたら嬉しい限りです。

 

 

最近おもしろかったもの十選

 

【音楽】Rejjie Snow『Dear Annie』f:id:bsk00kw20-kohei:20180314125218j:image

僕の人生と一生交わるはずがなかったヒップホップ。なんだけど、いやぁこれはたまげた。めっちゃいいんだもん。聴くしかないよこれは。とりわけ、24歳というRejjieの同世代感が堪らなくいいです。ダブリン出身ってのも特に理由はないけど好き。中でも「spaceships」と「23」という曲を最近よく聴いてて、リリックを理解しようと必死です。まぁ全然分からないんだけど。私ももうすぐ23です。

 

【音楽】Nulbarich『H.O.T』f:id:bsk00kw20-kohei:20180314125225j:image

あいもかわらず、いい。思わず体が揺れてしまう良曲揃いであることはさておいて、リード曲である「ain’t on the map yet」のミュージックビデオが最高にクールなんだよなぁ。「心が躍る」「想像する」そして「現実を生きる」。音楽を聴くってこういうことじゃない?というのが可視化されていて鳥肌がたった。

Nulbarich – ain't on the map yet (Official Music Video) - YouTube

 

【音楽】andropcocoonf:id:bsk00kw20-kohei:20180314125522j:image

「君がいない」ということと「それでも生きていく」ということをメロディとリリックを変えながら何度も何度も歌い続けた13曲収録のフルアルバム。8曲目である「kitakaze san」の間の抜けた感じがめっちゃ好き。少し暗い楽曲が並ぶ中で、こういった“おとぎ話”はバンプの「ハンマーソングと痛みの塔」や「K」のような優しい役割を果たしている。

 

【ドラマ】Amazonプライム『さまぁ~ずハウス』f:id:bsk00kw20-kohei:20180314125159j:image

さまぁ〜ずと1人の女優がおりなす「一発撮りドラマ」。用意されるのは舞台となる部屋と脚本だけで、撮り直しもリハーサルもなしという画期的(?)で実験的な番組です。2話目に登場するのんちゃんがめちゃ最高なのは言うまでもなく。芸人ぷらす女優のコント風シットコムってまぁ外れることはないんですよ。「住住」しかり「ウレロ」しかり。今後にも期待です。

 

【ドラマ】TBS『アンナチュラル/9話「敵の姿」』f:id:bsk00kw20-kohei:20180314125234j:image

クオリティのおばけ。こんなにしっかりとしたドラマ、『マインドゲーム』とかそこらへんの海外ドラマとも全然肩を並べられるぞ。それを圧倒的に少ない予算で作りあげているのだからもうなんも言えねぇっすわ。毎話毎話言葉にならないほどの衝撃を受けています。

 

【ドラマ】フジテレビ『隣の家族は青く見える/7話』f:id:bsk00kw20-kohei:20180314125243j:image

脚本のクオリティの高さではこちらも負けてません。多様で難しい「家族の問題」を時に交わらせながら個別に語っていく筆致のなめらかさ。少しでも伝え方を間違えれば方々から非難を食らってしまうこの時代に、これほど慎重に、そして温かい目線でこのでこぼこな「パズル」のような世界を巧みに描き出したこのドラマを挑戦的と言わずして何と言うか。今クール、結末が最も気になるドラマです。

 

【バラエティ】静岡朝日テレビ/SunSetTV『Aマッソのゲラニチョビ』f:id:bsk00kw20-kohei:20180314125250j:image

偶然Twitterで見かけたこの番組。静岡朝日テレビが運営するインターネットテレビ局「SunSetTV」にて配信されているコンテンツです。YouTubeで視聴可。Aマッソってやっぱりおもしろい。#32からの「台湾・タイマン・ツアー」が最高。「水曜どうでしょう」的な安物感がいいんだよな。

 #31【Aマッソのゲラニチョビ】「台湾・タイマン・ツアーPart1」 - YouTube

 

【バラエティ】Netflix『あいのりAsianJourney/エピソード20』f:id:bsk00kw20-kohei:20180314125256j:image

ドラマのワンシーンのような追駆劇を見せる男らしさと、愛する人の一つのミスにネチネチとこだわり続ける醜さを併せもった人間が「シャイボーイ」という男なのです。多面性が浮き彫りになるのがこの番組の最大の面白さであるから、人が入れ替わっていってもその質が低下することはありません。今は「ゆうちゃん」の活躍を楽しみにしています。

 

【漫画】コナリミサト『凪のお暇』

凪のお暇 1 (A.L.C. DX)

凪のお暇 1 (A.L.C. DX)

 

空気を読みすぎて過呼吸になった、という魅力的な宣伝ワードに惹かれて読んでみたのだけど、これがすごく面白い。現代的な社会派ドラマを織り込んだほんわかラブストーリーという装いで、すごく楽しく読めます。『A子さんの恋人』と並んでドラマ化待ったなしな感じです。

 

【漫画】マキヒロチ『吉祥寺だけが住みたい街ですか?』 

 東京での部屋探しを前に以前から気になっていた作品を手にとってみました。なんか分からんけど1話1話めちゃくちゃ面白い。「東京って案外ええ街やん」と関西生まれ関西育ち東京春から、な筆者が言うております。

 

映画は『シェイプ・オブ・ウォーター』が大好きなやつでした!ギレルモ・デル・トロ監督、良かったね〜!(笑)

 

孤独の先にある孤独/今泉力哉『パンとバスと2度目のハツコイ』

f:id:bsk00kw20-kohei:20180222211145j:image自分はこうゆう性格だからと決めつけたものの、やっぱりそうじゃないと思ったり実は無意識に正反対のことを強く求めていたり、人間って色んな感情を抱えながら模索して生きている。抽象的な導入になってしまったけど、本作、元乃木坂と三代目が主演のアイドル映画だと侮るなかれ、今泉力哉監督の本気というか、いやいつも本気なのだろうけど、何というかこの映画に全てをぶつけてる感じ。結婚観や恋愛観だけでなく自意識や孤独などをテーマに据えた骨太な作品からは監督のそんな姿勢が窺える。


ケータイを持ち歩かない。イマドキの「インスタ女子」からは遠くかけ離れた位置に存在するのが本作の主人公・市井ふみ(深川麻衣)。パン屋で働く彼女は毎朝3時半に起床。14時頃まで働いて職場を後にし、まかないのパンを食べながら大型バスが洗車される姿を眺める。皆が寝静まった時間に目を覚まし、ひとりでボーッとバスを眺め、ケータイを携帯しない。友達や恋人、妹との会話が冒頭で展開されるものの、このように自ら「ひとり」でいることを求めていく主人公はある種特徴的に変わりものとして映し出されていく。

 

私をずっと好きでいてもらえる自信もないし、ずっと好きでいられる自信もない

そんな彼女は、付き合っている彼から結婚を申し込まれたことによってある事に疑問を抱くようになる。結婚しても、相手のことをずっと好きでいるのなんて不可能なのではないか、と。「そんなこと考えたら結婚できないじゃん」と恋人が正論を返すように、誰もが疑問とそれに対する諦念を抱いているような問いに対して真正面からぶつかっていく彼女の姿も少し変わっているけれどものすごく彼女らしくてリアルに映る。

まずはこの冒頭の人物紹介がとにかく素晴らしくて魅入ってしまう。例えばフランスパンを使ったコミカルなアクションだとか、無意識に指輪をはめてしまっている茶目っ気とか、言葉以外の様々な人物の目線が内に秘めたる感情を雄弁に物語っていたりとか。静かなストーリテリングでありながら中身は詰まりに詰まっているこの感じ、これぞ演出、という監督の手腕に敬服しながら魅了されてしまうのです。

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彼女の“孤独”を象徴するような「パン」と「バス」、そしてそこに訪れたのが「2度目のハツコイ」ふみの初恋相手である湯浅たもつ(山下健二郎)であった。彼はバスの運転手、そして愛し続けた妻に浮気され、離婚を強いられてしまった「孤独」の存在として、再び彼女の前に現れる。そうしてまた、当たり前のようにふみはたもつに惹かれていく。そこには孤独を求めてしまう自意識の肯定や別れた奥さんのことを今でも愛し続けていることへの興味と憧れ、片思いでいられることの気楽さなどの感情が複雑に混ざり合っているように見える。

一面的な見方ではあるけれど、このふみという人間は「孤独」に後ろ髪を引かれながら、たもつの左(斜め後ろ)側にいることを心地よく思っている女性であると言ってしまおう。自分だけにしか描けない絵はないし、人に好きになられたら「私なんか…」と思ってしまうほどに、とにかく自信のないふみは、彼女の言葉どおり「孤独になっちゃう」し、「寂しくありたいんだと思う」。しかし、一方で、本作の主題歌であるLeolaの「Puzzle」が示すのは、愛する人と一緒に生きていきたいという弱々しくも切実な祈りだ。

君が今 誰よりも 会いたいと
いちばんに 想うのは…?
今はまだ、I don't wanna know
その答え 知る勇気なんてなくて…。
でもそれが 私なら なんてこと 考えて
らしくないよね。 もう、バカみたい。
No way! でも気になるの。

緑内障という目の病気を抱えているふみは、右目の右上の部分が見えない。本作ではカウンターや車、道を歩くシーンなど、ふみとたもつが横に並んでいることが多いのだけど、注意して見ていると、そのどの場面においてもふみはたもつの左側にいることが分かる。前述したとおり、ふみにとって右側にいるたもつは、たぶんちょっとだけ、見えにくい。でもたぶん「あえて」、彼女はそこに居る。そうしてそのことは、その位置にいることの心地よさと、まだしっかりと彼に向き合えていないことを明示しているのである。

永遠も約束も これからも、
頼りには出来ないの
それでもね、君にまた胸を焦がすの
左斜め後ろが 今の私の居場所
だけど…
I just want to be with you...

だけど…。本当はもっと違う場所から彼の姿を見てみたい。もっと近くで、あるいは心の中を。けれど洗濯機の不穏な叫びとともに「孤独の守り人」が彼女の眼前に姿をあらわす。このとき突然現れた孤児のような彼は「新しい洗濯機が来たらもうここには来なくていいよ」と言うけれど、ふみは「時々くるよ。私には孤独が必要だから」と応える。ポール・オースターの『孤独の発明』(未読なのでいつか読みたい)が不穏に影を落とし、残ったのは禁断の果実。「孤独」は、いつか離れるべき存在として、儚げに消え去っていく。

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目を離したらその隙に消え去ってしまいそうな、そんな儚げなふみの後ろ姿を不安そうに眺める一筋の視線。ふみの妹・二胡志田彩良)の存在は、本作のほんわかパートも込みで絶妙なアクセントになっていました。憎み合う『犬猿』のきょうだい達と本作の和やかすぎる姉妹。この2作品だけで世のきょうだいの8割くらいはカバーできているのでは。みんな後者のようなきょうだい関係を結ぶことができれば幸せですよね、なんて。そんな理想的な方のきょうだいの妹である二胡は、「ふみのことを分かろうとするため」にお姉ちゃんの家へやってきます。お姉ちゃんが絵を描くのをやめたのは、分かろうとすることをやめて孤独になろうとしていることの表れだと二胡は想像してやってきたのかもしれない。そうして二胡は、ふみを描きながら彼女の本質と対面していきます。ときに見えなくなってしまった彼女を青で塗りつぶし、また描いて、彼女の本質を模索しながら。


本作のラスト、たもつの輪郭と共に、Alone Again (Naturally)という文字が浮かび上がってくる。ピンとこなかったので鑑賞後ネットで検索すると、一曲の歌がヒットした。こちらも恥ずかしながら聴いたことがなかったのだけどギルバート・オサリバンという歌手の楽曲らしい。和訳*1を見てみると、ある男性が結婚式場で婚約者に逃げられて、自身の半生を振り返りながら孤独であることを嘆くような、ものすごく悲しい楽曲であることが分かった。この曲と本作を関連づける前に、ふみが求めてしまう「孤独」とたもつが陥る『孤独』は同じ孤独でも経緯と種類が全く異なるものであるということを記しておきたい。ふみの「孤独」はずっと孤独だけど、たもつの『孤独』は「孤独」の先にある、人を知った先にある孤独だからだ。


このギルバート・オサリバンの「Alone Again (Naturally)」という楽曲は、一見するとすごく悲しくて、救いようがないように感じてしまう。だけど彼が孤独を感じる前には疑いようがなく幸せが存在していたのだ。 別れの前には必ず出会いがあり、悲しみの前には必ず喜びがある。そういった感情の豊かさが人生というものを豊かにするのではないか。ふみは、別れから生まれるこの『孤独』をたもつの生き様に投影し、その美しさに思わず筆を走らせてしまったのだ。

その魅力の本質を知っても
憧れ続けることができるのであれば

パーキングから見えた朱い夕陽。
夜明け間近の青のグラデーション。
きれいな景色を一緒に眺めることができる誰かがいれば、きっと彼女の人生は彩りを増していく。

出るものが出る/吉田恵輔『犬猿』

f:id:bsk00kw20-kohei:20180214094133j:image吉田恵輔監督による4年ぶりのオリジナル脚本映画。これがめちゃ面白かった。久しぶりに映画館で泣いた。これは兄弟を持つ人よりもこうゆう兄弟をそばで見てきた人の方が心に刺さるかもしれない。僕はこの映画を観て、子供の頃毎日遊んでた近所の兄弟を思い出してなんだか泣かずにはいられなくなった。彼らの関係が悪化していく様も含め…。しかし泣くだけじゃなくてすんごい笑えるんだよなぁ。吉田恵輔監督の作り出す「喧嘩会話劇」が巧み。当事者にとっては悲劇でも側から見ると喜劇になるってこと、あるんだなぁとしみじみ。兄弟って、家族って、かくも醜く、愛らしいんだ。

吉田恵輔監督が描く壮絶な兄弟&姉妹ゲンカ…『犬猿』予告編 - YouTube

「一番近い他人」それが兄弟であり、姉妹。子供の頃は何も考えずに付いて回ったり、喧嘩したり、ゲームで一喜一憂したり、チャンネル争いで足バタつかせて蹴りあったり…。なんというか「自然に」友達の一人のような感覚で接することができるのだけど、成長していくとそうは言ってもいられなくなって段々と「何か」が変わっていく。

姉をもつ いち弟として、弟は、生きていく上で兄(姉)を意識せざるを得ない生き物なんです。兄があの習い事をやってるから自分もやってみたいとか、兄があの高校に入ったなら自分は一つ上を目指してやろう、とか。そのようにひとりの人物の構成要素における「兄が〜だから」の占める割合が増していき、何をするにしても意識してしまうその存在は、もはや自分の一部と化してしまうほど肥大化していくもの。だからこそ「自分」と混ざり合っていく他者の存在に困惑し、鬱陶しくて、死んで欲しいくらい大嫌いな存在へと変貌していく。

また、ここでいう「自分の一部」というのは精神的な要素が大きいのだけど、本作の劇中における家族や兄弟の「尻ぬぐい」の描写は、もっと可視化してこの「混在化」を表出していく。親子でいうとそれは借金の肩代わりや父のお世話(における採尿)など。兄弟だと、出所してきた兄の身を一時的に預かったり、聞き流すだけの英語が効果を発揮しなかった際に流暢な英語でカバーしたり。流れてくるもの、吐き出されるものを受け止めなければいけないのが、家族や兄弟の宿命であるから、言葉を吐き出し相手にぶつけるという行為も、互いの「受け皿」として機能していく。これは結構ポジティブな意味合いも大きいと思う。だって人間という生き物は「出るものは出る」のだから、受け止めてくれる人がいないと何もない海の真ん中に流れていってしまう。流れる血を止めてくれる人がいないと死へと誘われてしまうように。

すごく面白いと思ったのは、和成(窪田正孝)と真子(筧美和子)の遊園地デートのシーンで、和成は兄のことをボロクソに謗るけど、真子に兄のことを貶されると即座に反論する場面。すんごいあるある、そしてこれぞ「混在化」というような一コマだと思うのです。もはや自分の一部と化してしまっているからこそ、自分はどう思ってもいいけど他人には口出しして欲しくないという感情が芽生えるのだろうなと。なんて面倒くさくて、愛らしい生き物なんだ。

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犬猿の仲」。ラストはもちろんそうなるだろう。無視しようとすればできるのかもしれないけどあえてそうしない兄弟姉妹の衝突。「父の採尿→容器こぼす→リスカ→妹が助ける」という受け皿のリレーが表す家族という愛に満ち溢れた共同体の不器用さ。それは時に面倒くさくて死ぬほど鬱陶しいかもしれない。しかしこの映画が描いているのは、家族って、兄弟って、決して嫌なことばかりじゃないよね、っていうことだろう。チャーハンとベビースターの奇妙なコンビネーションのように、彼らはひしめき合って、共に生きていく。

人と人は分かりあえるのか/吉田大八『羊の木』考察・感想

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桐島、部活やめるってよ』において吉田大八監督は、カメラを向け合うことによって通じ合う2つの心を描き出した。ラストの屋上のシーン、前田が将来を語り、宏樹が涙するあの場面である。決して交わることのなかったあの2人の邂逅。住む世界が違っても、考え方が違っても、しっかりと目を向ければ「人は分かりあえる」ということをあの8ミリカメラを使って演出していたように感じる。

* * *

本作、すごく難解でした。一日中考えても結局何を伝えようとしているのか分からない。例えるならば現代アートを見せられているような気分。(できればもう一度見て)もう少しだけ考える必要があるとは思うのだけど、この「分からない」という感情も恐らくこの映画のトーンに同調していると思うのでこの状態でとっ散らかった感想を書いてみたい。

 

本作がまず描いていたのは、「私たちは(元)殺人犯と共生できるのか」という問いである。映画『怒り』が描き出したあの「信じる/疑う」という感覚がここでも蘇ることになります。殺人犯に限らず、「人と人は分かりあえるのか」という問題は長い間映画という芸術が対峙してきた問いだと思うのですが、本作が描き出したそれは、難解ではあるけれど非常に見応えがありました。まとめきれないのでちょっとパートに分けます。


※以下、ネタバレを大いに含みます

 


【見る/見られる】

冒頭、月末(錦戸亮)が6人の殺人犯(この時点では知らないが)を駅や空港に迎えに行き、「人はいいし、魚は美味しい」と繰り返し語る場面がある。その場面において彼は、移住者の「食事」をただひたすらに見つめている。見るという行為によって、情報が無く得体の知れない人物たちのことを見定めているようだ。場面は変わって杉山(北村一輝)が登場する多くの場面で、彼は「カメラ」を持ち月末をはじめとして初めて出会う人々を注意深く見ている。月末が杉山のことを見ていると思ったら実は杉山が月末を見ていた、という反転が面白いのだけど、この見る/見られるという演出は他にも、バンド練習を窓から覗く宮藤(松田龍平)や大野(田中泯)の目の傷を見て怯える聴衆の目など(たぶん他にも)随所に表れている。「見る」という行為は、相手を"信じる"か"疑う"かを決定するために人々がとる行為であるだろう。私たちが殺人犯を見定めているのと同じくして、殺人犯である彼らも「この人は信じられるか」と目を凝らしている。何が言いたいかというと、殺人犯であれ何であれ、人間関係における立場は同等である、ということだ。みんな「この人は信じられるのか」ということを確かめるために怯えながら、期待しながら見つめている。

 

【「顔がきれる」という映像演出】

最初から最後までこの演出が多すぎて若干あざとかったんですけど、この演出をどう捉えるかによって受け取り方が変わってくると思う。頭(顔)が見えないことによって、その人物が何を考えているか分からないということを演出しているのだろうけど、登場人物同士が(相手が何を考えているのかを)分かっていないのか、はたまた画面の向こう側である私たちにだけ見えていない(考えていることが分からない)のか。どちらにしろ度重なるこの演出は私の不安感を煽っていきました。「分からない」というのはすごく怖くて不安なんです。*1

 

【共通項、肌、友達】

人は分かりあえるのかということを問うている本作ですが、「分かりあえている」状態って具体的にはどんなだろうか。本作で掲示されるものとして一つ目は「共通項」を持っているということだ。理髪店でのシーンが最も印象的かな。福元(水澤紳吾)は店主にムショ帰りであることがバレたと勘づき、激しく動揺する。「ヒゲを剃る」という行為が「人を殺す」という行為に変わってしまいそうになる中、店主自身もムショ帰りであったことが伝えられることによって福元は緊張から解き放たれ自体は好転した。共通する過去を持っているということ、あるいは趣味や好きなことが一緒であること。それは信頼へと繋がる。度々挿入されるバンド演奏もこれと同じような意味を持っているだろう。ともに演奏をするという行為でもって、長年会っていなかった彼らも心を通わせ合う。

次に、「肌で感じたあの感情はなんだったの?」と大野に訴えかけるクリーニング店の店主(安藤玉恵)の姿も印象的であった。現実に肌で感じたある種の「信頼感」が、過去に犯した殺人という罪によって「疑念」へと変わるのか。文(木村文乃)は宮越の過去を知って動揺し、クリーニング店の女性・内藤は尚も信じようと試みる。どこに違いがあり、行動と意識の差異が生まれるのか。一つ上げられるのは、大野が自らの言葉で相手に真実を伝えたのに対し、文は違う人から真実を告げられた、という違いであろう。大野は内藤を「信じて」真実を語った、一方宮越は、まだ文のことを信じきれていなかった、これこそが重要なポイントであると感じます。お互いを信頼しあうことによって大野と内藤は良い関係を築き上げたのだと思う。

また、宮越は幾度となく「それって友達として聞いてる?それとも市役所として?」と月末に尋ねる。友達は信頼できるけど市役所は信頼できないという宮越の思いは確かに共感できるものである。ただ、この質問をわざわざ「何度も(2回かな?)」するということは、まだ宮越は月末のことを信じきれていないということの現れでもある。友達であってほしいと望みながらも、宮越自身がそもそも友達であると信じきれていないところに問題点を感じました。つまり、私たちが彼らを信じたところで、彼らが私たちを信じないことには何も始まらないということです。

 

【繰り返す】

月末と宮越の関係は、宮越による殺人が繰り返されなければ上手くいっていたのではないか。宮越は殺人という行為をなぜか繰り返してしまうけれど、繰り返しているのは彼だけではない。本作で描かれるそれは例えば、福元の酒乱や太田(優香)による「故意ではない殺人(未遂)」、悪いことを企む杉山など。「人は良いし、魚は美味しいし」と語る月末もそうかもしれない。人は何か「良くないこと」を意識的にも無意識的にも「繰り返して」しまう。そしてそのことによって、心は離れていく。

 

【Death is not the end、死は終わりではなく】

本作の主題歌である「Death is not the end」。

告白すると、この歌が「希望」と「絶望」のどちらを歌っているのか、何度聞いてもわからないのです。その両方かもしれないし、全然違うのかもしれない。そしてそれは、この映画の締めくくりにとてもふさわしいと思えました*2


吉田監督はインタビューでこのように語っている。この映画のラストは希望なのか絶望なのか、それは監督にさえ、"分からない"。月末と宮越のどちらもが生きれる世界ではないということは、まぁ確かなんでしょうね。それが良いことなのか悪いことなのか。分からないけれど、考え続けたい問いとなりました。

 

【分からない】

この映画、とことん分からないんですよ。同じ町に6人もいればそりゃ何かが起こってもおかしくないだろうに元殺人犯を住まわせる市長の気持ちがまず分からないし、同じことを繰り返してしまう彼らの心情も分からない。そしてラストシーン。文の言葉を月末は「ラーメン」だと解釈するわけだけど、本当にラーメンと言っているかどうかは、文にしか分からない。そもそも月末という人物の内面は「文のことを一途に思っている」ということくらいしか観客には知らされません。成長も転落もせず、映画の始まりと終わりで何も変わっていないように見える彼の姿は、他の吉田監督作品と比べても主人公らしくありませんでした。終始『分かったフリ』をしているような人物にも見えたのだけど、うーん。もしかしたら数ある登場人物の中で一番内面の分かりづらい人物だったかもしれない。

人と人は分かりあえるのか。分かりあえることもあるだろうし、分かりあえないこともあるかもしれない。他人なんて分からないことだらけだけど、一人では決して生きていけないから私たちは人と「出会う」。その時に、この月末のように「分からない」ことを「ラーメン」と勝手に解釈して生き続けるか、それでも分かろうと努力し続けるか。反対方向に進んでいくバイクを見守る月末の姿に、「それじゃダメだ」と直感的に感じたのです。f:id:bsk00kw20-kohei:20180205022839j:image

【反駁】いや、「何となく」で通じ合う関係も悪くはないかもしれない。文が実際に「ラーメン」と言葉を発していたとしたら、フィーリングで通じ合えているのは素敵なことだ。ただ、文と月末の心が通じ合っているかと問われれば、微妙なところだろう。

*1:魚の頭を切る、のろろ様の頭が落ちる、など「死」と結びついているようにも感じるこの「顔がきれる」という演出。魚の死骸を植えた土から芽が出、のろろ様が海から引き揚げられたように、「死」による「救済」を表しているようにも思えます。

*2:リアルサウンド映画部」より引用https://search.yahoo.co.jp/amp/realsound.jp/movie/2017/12/post-136945.html/amp?usqp=mq331AQECAEYAQ==

浜辺美波が教えてくれる この世界の美しさ/月川翔『君の膵臓を食べたい』

 

君の膵臓をたべたい Blu-ray 通常版

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〈A面:君と僕 私と彼〉

私が一年前に塾講師のアルバイトをしていたとき、大学受験を控えた高校3年生の生徒が「生きることがつらい」「受験で失敗するのが怖い」とある日突然私に言った。勘が良くて、考える力を持っていた彼は自分の辿る未来を想像することができ、その未来に絶望していた。もちろん未来なんてどうなるか分からないんだけど、彼はこの世界に希望を見出せず、想像できない未来へのスタートを切ることに怯えていたように見えた。

そんな彼がセンター試験の頃(ちょうど一年前くらい)に私に「面白かった!」とおすすめしてくれたのがこの映画の原作小説だった。彼は読書好きであり、こんな風にしていつも好きな小説のことを話してくれる。そんな中でも、目を輝かせてこの小説のことを話してくれる彼の姿は、今までで一番熱がこもっていた。私は彼が「生きる」ことを楽しんでいる姿を見て、涙が出そうになった。f:id:bsk00kw20-kohei:20180202192227j:image

DVDレンタルが開始され、映画版にはなってしまったけれど遂に本作を手にとることができた。タイトルや予告編からなんとなく物語は想像できていたのだけど、予想していたよりも泣いた。涙が止まらなかった。

本作は"君"と"僕"が「君の膵臓を食べたい」という言葉を交わし合うことによって、心を通わし、一体化し、強くなっていく物語だ。君と僕の性格は正反対で、でもどちらも"強さ"と"弱さ"を持っていた。私はこの映画の"僕(志賀春樹)"(北村匠海)に自分を重ねる。おそらく私の生徒だった彼も、彼とこの登場人物を重ねていたように思う。この「僕であり、私であり、彼である人物」の弱さは、一人で殻にこもっていること、そして、楽しさや苦しさから逃れようとしていることだった。人と接することによって得られる喜びや楽しさはもちろん幸福に感じていたけど、裏切られたときの苦しさや、嫉妬している自分の愚かさなどに触れたときに人と接することの面倒臭さを感じてしまうのだ。

さよならをして悲しませるくらいならば仲良くならないほうが良かった

私たちはこう思ってしまう。相手も自分も悲しんでしまう未来があるなら、最初から出会うべきではない、と。しかし、"君(山内咲良)"(浜辺美波)はちょっと違った。もうすぐ死んでしまうというのに、僕と仲良くなろうとしていた。

積極的な君に対していつも受け身な僕。君といる時間は楽しいけれど、すでに失われている未来と対面するのが苦しかった。そんなふうに、人と接することに恐怖を抱いている私たちを"君"は最後に優しく肯定してくれた。

私、そんな春樹に憧れてた
誰とも関わらないで、たった一人で生きている、強い春樹に

私は弱いから、友達や家族を悲しみに巻き込んじゃう。でもね、春樹はいつだって自分自身だった

春樹はほんとうにすごいよ。だからその勇気をみんなにも分けてあげてください
そして誰かを好きになって、手を繋いで、ハグをして。鬱陶しくてもまどろっこしくても、たっくさんの人と心を通わせて、私のぶんまで
うん、
生きて

私ね、春樹になりたい。春樹の中で生き続けたい。ううん、そんなありふれた言葉じゃダメだよね
そうだね、君は嫌がるかもしれないけど、
私はやっぱり、

君の膵臓を食べたい


前途多難であり前途多望である中高生に、この作品が届くことは大きな意味を持つだろう。この小説を読んだ彼が専門学校へと進むことを決めたように、本作は、苦難多き若者の背中をそっと優しく押してくれる。

 

〈B面:浜辺美波という逸材〉

次の駅で新幹線に乗り替えます
君も覚悟を決めなさい

f:id:bsk00kw20-kohei:20180202192242j:image日本アカデミー賞の作品賞にノミネートされたこともあり本作を手に取りましたが、本作の主人公である浜辺美波北村匠海は同賞において新人俳優賞を受賞しています。彼らの演技、うまいとか感情移入できるとかいう類ではないのだけど、一言、気持ち良かった。例えば上にあげたこのセリフ。最後の「決めなさい」の部分で尻上がりになる発声の良さ。なんとなく『ミステリートレイン』や『台風クラブ』の工藤夕貴を彷彿とさせるのです。またそれに加えて、「図書室」「高校生」という設定から連想する映画『Love Letter』の中山美穂も被さってくる。ちょっと昭和的というか、バブリーというか。私はまだ22歳で、実際にその時代を生きたわけではないのだけど、ミステリアスで透明感がある浜辺美波をそういった名女優に重ねてしまいました。

そして相手役の北村匠海といえば今クールのドラマ『隣の家族は青く見える』でゲイの男の子を演じています。中性的な言葉遣いと行動が特徴的な役柄で、この演技はすごく難しいと思うのだけどその女性っぽい部分に「浜辺美波(山内咲良)」要素を感じてこれまた面白いです。彼の発声、「わーたるん」のような尻上がりな口調は、浜辺美波の影響を受けてるんじゃないかなぁ、と勝手に予想しています。すごく聞きとりやすくて、心に入り込みやすい優しいトーン。その心地よいトーンは『君の膵臓を食べたい』にも『隣の家族は青く見える』にもぴったりとフィットしていきました。

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君の膵臓をたべたい (双葉文庫)

君の膵臓をたべたい (双葉文庫)

 

焦らずゆっくりと私たちの家族を作ろう/中谷まゆみ『隣の家族は青く見える/第1話』

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無知こそが要らぬ偏見や差別を生むんですよ

これは、松山ケンイチ演じる五十嵐大器が、後輩社員の矢野朋也(須賀健太)に説教されるシーンで発せられる台詞である*1。本作が伝えようとしているのはまさにこのことではないだろうか。偏見や差別は無知から生まれ、わたしたちはその"無知"から目を逸らしているということ。不妊症や同性愛、DINKsや外面を気にする家族が"ひとつ屋根の下"で息づいているこのドラマが描くのは、私たちが生きているこの世界の多様性と、それを知って(見て)考えることの重要性であろう。

 

この世界に生きる人々の多様性。それは例えば子作りに対する考えの違い。

小宮山深雪(真飛聖):いろんな考え方があっても、子どもを欲しいっていう思いは女性共通の願いよ。やっぱり女は子どもを産んでこそ一人前だもの〜
五十嵐奈々(深田恭子):いろんな価値観があるんで子どもを持つことが女性の全てとは思いませんが、わたしは欲しいと思ってます

子どもを産むことが幸せだと考える人がいれば、欲しくないと考える人もいる。また、色々な事情で子どもを産みたくても産めない人もいる。このように「子作り」という一つの事象を取ってみても人によって考え方は様々なのだ。本作のストーリーメイクには、物事に潜む多様性をできるだけ多角的な視点から、できるだけ注意深く描き出そうという試みが垣間見える。

 

"多様性"がこの作品の深いトーンであるから、上記のセリフによって毒のある女性という側面を覗かせた深雪にも、娘を気遣い愛情を与える母親の側面や、インスタに興じ隣人のバッグを気にする女性としての側面が共存している。また、多様性というのは人物の性格だけではなく様々な事象にも現れる。

大器:うちの家族ってほんとうるさいよなぁ。言いにくいこともガンガン言ってくるし、遠慮がないっつーかなんつーかさぁ
奈々:うーん。そこが良いんだよぉ。ああいう賑やかな食卓には憧れてたんだぁ。大ちゃん家の家族は理想だよ

「孫の顔を見たい」と言う五十嵐聡子(高畑淳子)に、「それはセクハラだよ」と注意する娘の琴音(伊藤沙莉)。この会話によって、フィルターにかけることをせずに何でも言ってしまうこの家族関係に一度は警鐘を鳴らすも、それに対して奈々は優しく肯定してみせる。このようにして物事や人物に対する否定と肯定を繰り返しながら、人や物事には2つ以上の面が存在しているということを、このドラマは丁寧に描き出そうとしている。

少し気になるのは、この「多様性」という語りが心なしか説教じみていて、男性をはじめとして見るのが辛いと思う人も結構いるのではないかなぁということ。しかしこのドラマにおいて素晴らしいと思ったのは、そういった真面目な論を掲示しながらも、男性同士のロマンスが語る愛の美しさや娘へと向けられる笑顔の優しさ、恋人の前で本音を吐き出す純朴さなど、ラブコメディの群像劇としてドラマをいい意味で軽くしている点だ。

 

大器のつった足を伸ばす奈々、という描写から始まる第1話では「焦り」と「引き延ばし」という動きが顕著に現れていた。「僕の子どもを産んでください」といきなりの告白をする大器に、焦らずゆっくりやりましょうと言わんばかりの笑顔を浮かべ足を伸ばしてあげる奈々。この収縮と弛緩という動きは、「子作り」の話になると逆転し、「もう35歳だし…」と焦る奈々に大器は「まだ大丈夫じゃない」とお餅を食べながら引き延ばそうとする。子ども好きな大器がこう言うのは、自らの恐怖に乗じてのことだけではないだろう。私には、焦らずマイペースでやっていこうという自由さと、奈々に降りかかるかもしれない困難を跳ね除けようとする優しさに見えたのです。問題を先送りにしているという側面ももちろんあるのだろうけど…。
まぁ何が言いたいかというと、足りないものをお互いに補い合うというのが夫婦なのではないのか、ということである。一方が与えてばかりなのではなく、互いに与え合うことの重要性。

夫婦関係や家族関係の難しさ。ぴったりとパズルのようにハマっていると思っていたはずが、徐々にズレが生じてくるということ。その違和感や気持ち悪さを本作では「不妊症」という事象を用いて現してはいるけれど、何もそれだけに限ったことではないと、この作品は伝えようとしているのではないか。4つの家族が紡ぎ出すこの世界の真理に、注意深く目を凝らしていきたい。

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*1:職場の年少者が年長者に対してある種格言めいた言葉を発するという手法は映画『永い言い訳』を思い出しました。あまり説教臭くならずに本旨を伝えられるのが良いですね。