縞馬は青い

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映画とか、好きなもの

出るものが出る/吉田恵輔『犬猿』

f:id:bsk00kw20-kohei:20180214094133j:image吉田恵輔監督による4年ぶりのオリジナル脚本映画。これがめちゃ面白かった。久しぶりに映画館で泣いた。これは兄弟を持つ人よりもこうゆう兄弟をそばで見てきた人の方が心に刺さるかもしれない。僕はこの映画を観て、子供の頃毎日遊んでた近所の兄弟を思い出してなんだか泣かずにはいられなくなった。彼らの関係が悪化していく様も含め…。しかし泣くだけじゃなくてすんごい笑えるんだよなぁ。吉田恵輔監督の作り出す「喧嘩会話劇」が巧み。当事者にとっては悲劇でも側から見ると喜劇になるってこと、あるんだなぁとしみじみ。兄弟って、家族って、かくも醜く、愛らしいんだ。

吉田恵輔監督が描く壮絶な兄弟&姉妹ゲンカ…『犬猿』予告編 - YouTube

「一番近い他人」それが兄弟であり、姉妹。子供の頃は何も考えずに付いて回ったり、喧嘩したり、ゲームで一喜一憂したり、チャンネル争いで足バタつかせて蹴りあったり…。なんというか「自然に」友達の一人のような感覚で接することができるのだけど、成長していくとそうは言ってもいられなくなって段々と「何か」が変わっていく。

姉をもつ いち弟として、弟は、生きていく上で兄(姉)を意識せざるを得ない生き物なんです。兄があの習い事をやってるから自分もやってみたいとか、兄があの高校に入ったなら自分は一つ上を目指してやろう、とか。そのようにひとりの人物の構成要素における「兄が〜だから」の占める割合が増していき、何をするにしても意識してしまうその存在は、もはや自分の一部と化してしまうほど肥大化していくもの。だからこそ「自分」と混ざり合っていく他者の存在に困惑し、鬱陶しくて、死んで欲しいくらい大嫌いな存在へと変貌していく。

また、ここでいう「自分の一部」というのは精神的な要素が大きいのだけど、本作の劇中における家族や兄弟の「尻ぬぐい」の描写は、もっと可視化してこの「混在化」を表出していく。親子でいうとそれは借金の肩代わりや父のお世話(における採尿)など。兄弟だと、出所してきた兄の身を一時的に預かったり、聞き流すだけの英語が効果を発揮しなかった際に流暢な英語でカバーしたり。流れてくるもの、吐き出されるものを受け止めなければいけないのが、家族や兄弟の宿命であるから、言葉を吐き出し相手にぶつけるという行為も、互いの「受け皿」として機能していく。これは結構ポジティブな意味合いも大きいと思う。だって人間という生き物は「出るものは出る」のだから、受け止めてくれる人がいないと何もない海の真ん中に流れていってしまう。流れる血を止めてくれる人がいないと死へと誘われてしまうように。

すごく面白いと思ったのは、和成(窪田正孝)と真子(筧美和子)の遊園地デートのシーンで、和成は兄のことをボロクソに謗るけど、真子に兄のことを貶されると即座に反論する場面。すんごいあるある、そしてこれぞ「混在化」というような一コマだと思うのです。もはや自分の一部と化してしまっているからこそ、自分はどう思ってもいいけど他人には口出しして欲しくないという感情が芽生えるのだろうなと。なんて面倒くさくて、愛らしい生き物なんだ。

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犬猿の仲」。ラストはもちろんそうなるだろう。無視しようとすればできるのかもしれないけどあえてそうしない兄弟姉妹の衝突。「父の採尿→容器こぼす→リスカ→妹が助ける」という受け皿のリレーが表す家族という愛に満ち溢れた共同体の不器用さ。それは時に面倒くさくて死ぬほど鬱陶しいかもしれない。しかしこの映画が描いているのは、家族って、兄弟って、決して嫌なことばかりじゃないよね、っていうことだろう。チャーハンとベビースターの奇妙なコンビネーションのように、彼らはひしめき合って、共に生きていく。