縞馬は青い

縞馬は青い

映画とか、好きなもの

怒らない国ミャンマーで怒りが爆発した彼女/Netflix『あいのり Asian Jorney/Season1-6』

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NETFLIXとフジテレビが共同で製作した『あいのり』の新シーズン。地上波放送からは実に8年ぶり(CS版を含めると5年ぶり)の復活ということで、その頃少年だった筆者にとっては少しの懐かしさもありつつ、この番組を見れるほど大人になったことに喜びを感じています。Season1は早くも6話まで進みましたが、やはりこの番組は面白い。その面白さ、右肩上がりで留まることを知りません。

以前のテレビ放送では今田耕司久本雅美ウエンツ瑛士などのスタオジオメンバーが旅のVTRを見てあれこれ言い合うというスタジオパートがありましたが、本作でもその姿は健在です。スタジオパートの出演者はベッキー河北麻友子、オードリー(若林・春日)、大倉士門の5人。本編の面白さは言うまでもないですが、このスタジオパートもすごく見応えがあるのです。大倉士門さんというお方、あまり見たことがありませんでしたが「イケメンな癖して」女心をひとつも分かっていない。彼が的はずれな意見を言うたびにベッキー河北麻友子から厳しいご指摘が。

大倉:女の子が弱い部分を自分に見せてくれてるっていうことは、それは(女の子から自分への)ヘルプで(恋愛対象として)見られてんのかなって思っちゃうんですよ

河北:それは勘違いだよ

(第2話より)

一刀両断のこの場面以外にもたくさんありますが、この大倉士門が的はずれな意見を言うたびに愛らしさが増していくのも面白いところです。このように男性陣と女性陣の間で明確に恋愛格差が生じる場面が多々あり、恋愛弱者が恋愛強者から恋の指南を受ける様はどこか滑稽であり、しかし勉強になる。「女心を分かっていない」男性陣と「それに呆れる」女性陣の会話は、それだけでエンターテイメントとして成立するだけのクオリティがあります。

さて第6話のお話。怒らない国ミャンマーで、でっぱりんが怒りを爆発させてしまう。ミャンマーの国民がなぜ「怒らない」のかということを聞かされた場面での改心はどこに行ってしまったのでしょうか。

ハト胸:まさしく心の余裕なかったんやなって今の話聞いて思った

アスカ:結局自分のことしか考えてないってことだよね。一番は、相手のことを考えるのが大事なのかなぁって思う

でっぱりん:感情的になって怒ったりとか、それで伝えようとしたことって何回もあって。でも怒って伝えるんじゃなくて、冷静に話す伝え方ができるようになったらなぁって…

(第5話より)

なかなかうまくいかないのが人生ですよね。怒らないって決めたはずなのに彼女は「怒り」という伝え方で目の前にいる人の心を変えようとしてしまいました。この場面の日本人は恐ろしいくらいに愚かです。ミャンマー人の運転手さんは怒っていないのにその気持ちを代弁するかのように怒るディレクターも、その怒りに反発して今までの不満もぶつけてしまうでっぱりんも、彼女の怒りを冷静に受け止めきれず自分が言いたいことを言ってしまうハト胸も。なぜここまで感情の発露に対応できないのでしょうか。怒りに対して怒りで対応してしまうことの滑稽さ、その気持ちが分かってしまうだけに悲しいですね。去年公開の『怒り』という映画のことも思い出してしまいました。怒りに震える犯人とそれに対して怒りで返してしまう少年の姿。怒りという感情が壊してしまうこの世界の何もかもを、なんとかして救う手立てはないのでしょうか。ただそんな中にも救いがありました。シャイボーイとオードリー若林の発言です。

シャイボーイ:それでいいと思うよ。僕はでっぱりんの意見に賛成で…(でっぱりんに発言を遮られる)

若林:あの状態のでっぱりんに甘えって言葉は入ってこないでしょ。一回「わかる」っていってあげないと。

ああ若林…。あなたを信じてきてよかったよ…。奇しくも恋愛弱者であるはずの2人が導き出した真理。この一致は偶然ではないでしょう。若林とシャイボーイがいるだけで「あいのり」はすごく見る価値がありますよ!!!奥さんも青年も少年少女もこの番組を見て恋愛と人生について学びましょう!

おしゃれな田舎ムービー/森ガキ侑大『おじいちゃん、死んじゃったって。』

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今年も、血の繋がらない家族が描かれた『幼な子われらに生まれ』や『彼らが本気で編むときは、』、家族に危機が訪れるSFちっくな『サバイバルファミリー』、『美しい星』などが公開され、《家族》を題材にするとそのバリエーションに事欠かない日本映画ですが、今作『おじいちゃん、死んじゃったって。』は極めて"普通"な家族を描いています。そういった意味では、日本テレビ夏クールの『過保護のカホコ』に少し似た部分もあり、両作には一般的な家族にもやはり煩わしさがつきものであるという、共通したイメージを受け取ることができます。こういった家族ドラマは、上に挙げたマイノリティ家族よりも普遍的で、より共感性を得られやすいのではないでしょうか。

おじいちゃんの死による「お葬式」で集まった2組の家族が、ときに衝突しながら成長を遂げていく分かりやすいストーリー展開。お葬式という固そうな題材を扱いながらも、クスッと笑わせる場面もあり、非常に見やすい。この「お葬式」「家族」「コメディ」というキーワードで思い浮かぶのは伊丹十三監督の『お葬式』という映画ですが、下世話で醜い大人たちを観れるという点など、この映画にかなり似ていると思います。

既存の家族映画に似てるなと思わせる場面は多かったけど、それを超えてくることは決してないように感じてしまった。特に、予告編でもあるけど「私、おじいちゃんが死んだとき、セックスしてたんだよね」というセリフ、劇中で2度発せられるのだけど、明らかに『永い言い訳』のあのセリフなのに加えて、その発言と末路に重みがない。そんなこと改めて言葉に発しなくても分かってるよ…という発言の多さと言葉選びのセンスのなさに段々引いてしまった。

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兄弟の取っ組み合いは『マイヤーウィッツ家の人々』が最高だったからなぁ。ストーリーもセリフも、オリジナル性に欠けてしまった印象がある。コメディとしての笑いの取り方もあまりピンとこない。ただ、岸井ゆきの岡山天音小野花梨、池本啓太といった若手俳優陣の演技は見てて楽しかった。

奴らと彼はいつもそばにいて/トム・フォード『ノクターナル・アニマルズ』

やられた───。面白すぎた。今作は「スリラー映画」の部類に属すると思うのだけど、それを形作っている「ミステリー」と「ホラー」の両側面がパーフェクトな割合で調合されている。オープニングから強烈な今作ですが、その謎解きと驚嘆の演出に興じつつ、美麗に彩られた映像世界に身を預けているとあっという間にエンドロールが流れていることに驚きます。そのうえストーリーも濃厚。その「ドラマ」性の高さに鑑賞後も頭をかき乱され、考えに耽りたくなる。まさに映像のマジック。これは見る人が見ればかなり刺さってしまうであろう、ちょっと怖いくらいな映画。興奮剤なので多量摂取は危険です。

f:id:bsk00kw20-kohei:20171107154721p:imageアートギャラリーのオーナーを務め、大きな家でイケメンな夫と暮らしている主人公のスーザン(エイミー・アダムス)。何不自由のない暮らしをしているはずなのにどこか彼女の表情は物憂げで、お金、地位、恋人を手にしながらも"何か大事なもの"を失っているのだろうということが伺える冒頭の風景。こういった「ブルジョワの抱える空虚」というのはよく目にするけれど、原因の所在を心の内にしまい込んでいるようなスーザンの姿には次第に興味がわいてくる。

そんな彼女の元に届いたのが20年前に別れた元夫エドワード(ジェイク・ギレンホール)からの一冊の小説。小説家である彼が執筆した新作だった。小説に添えられていた手紙には「君との別れから着想を得た」と記してあり、表紙をめくると1ページ目には「For Suzan」の文字が。スーザンは空虚さを埋めようとするかのようにその小説を読み耽っていくわけですが、物語の内容は極めて暴力的で荒廃している。まさしく空虚。観客である私たちは"スーザンに捧げられた"その物語が実際にあった物語なのか、はたまたフィクションなのかさえ分からない。物語は〈現在〉〈20年前の過去〉〈小説〉の3点軸で進行していき、時に交錯することによって徐々にその輪郭が明らかになっていきます。

f:id:bsk00kw20-kohei:20171107154750p:imageそれは「愛」なのか「復讐」なのか───。ポスターにもある主題ですが、どちらとも受け取れるラストだと思います。観客にその判断は委ねられている。「復讐」だと示唆する場面は多々あるけれど、あのラストシーンを経たスーザンは間違いなく今までとは違う価値観を得ているはず、それだけでこれは「愛」だったと受け取れるのではないだろうか。劇中の〈小説〉やそれを映写したこの〈映画〉という『物語』は、ときに私たち観客に大事な考え方を与えてくれる。私たちがそうであるようにスーザンもまた何かを得るのだろう。不確定な未来でも決定した過去でもなく、よりリアリティのある"今"の選択を間違えないこと。その重要性を知ったからこそ、あのラストにはエドワードの「愛」を感じとりたい。一見バッドエンドのようだけど間違いなくその先に彼女の幸せな姿が見えているから。"奴ら"に打ち勝つ彼女の姿が、そこにはある──。

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【雑記】〈小説〉内に登場したマイケル・シャノン、アーロン・テイラー=ジョンソン、エリー・バンバーといった俳優たちの演技が軒並み素晴らしかった。3層構造の映画でこんなふうに1つ1つの作りがしっかりしてるととにかく満足感が凄いですね。ファッションデザイナーであるトム・フォード監督が作り出す世界観も違和感なく入り込める不思議な奇抜さだったし、アベル・コジェニオウスキの音楽もたまらない。そして何よりもエイミー・アダムス。今年公開された2本の映画はどちらも素晴らしかったし、伝えたいメッセージが互いに共振しているのも好感が持てる。トム・フォード監督の今後の映画製作にも期待です。ジェイク・ギレンホールはさすがってことで。

君の名は希望/白石和彌『彼女がその名を知らない鳥たち』

この映画こそ〇〇〇〇返しという宣伝文句を使うのに相応しい作品なのにあえて使わない頭の良さ。宣伝が難しそうな映画だけど予告編もうまく出来てるんだよなぁ。製作陣及び宣伝会社の愛を感じる。しかし良い映画だった。しみじみと。それにしても、2016〜18年の間の3年間で5本の映画を生み出す白石和彌という化け物監督。その量も去ることながら1本1本のクオリティも半端ないよ。要チェックってことで。

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以下ネタバレあり

 

実際に阿部サダヲが演じた陣治のような人間はこの世に存在するのでしょうか。監督もしくわ原作者が、こうゆう人がいてくれたら世界は救われるだろうと願い作り出した偶像のようにも感じる。一方で松坂桃李竹野内豊が演じたクズたちはいくらでもこの世に存在しているでしょう。

十和子の姉は「あんたみたいな子は外に出ないと」と言い、水島と黒崎は十和子を家から連れ出し外の世界を見せる。知らない世界を見て十和子は心を弾ませるけれど、その先に本当の幸せが訪れることはない。

他方、陣治は十和子を部屋に閉じ込めようとする。いわばそこは陣治と十和子の2人だけが存在する世界で、そこにしか幸せはないと陣治は十和子に信じこませる。それは、外の世界が危険に溢れていて、そこに本当の幸せがないと知っているからだろうか。

十和子は、こういった陣治の過保護な働きかけに嫌悪感を抱き、不潔で男らしくないと彼を貶す。「普通」より下の今の生活から抜け出したい、こんなみすぼらしい人間とどうして一緒に住んでいるんだろう、という疑問が頭を巡り…。次々と彼らの部屋(世界)に入ってくる水島、姉、警察。彼らの世界は乱されていき、十和子は陣治以外の全てを信じ、外へと繰り出していく。

というのが大まかなあらすじでしたが、ラストの展開によって全てがひっくり返った。

黒崎と悲痛な別れを遂げて「自分の部屋に閉じこもっていた」のは十和子の方だった。陣治はそんな十和子に幾度となく歩み寄り、外の世界の素晴らしさを見せてくれようとしていた。クリームパンからクリームがはみ出ると食べることができなくなる。彼はクリームがはみ出たパンもクリームを掬って食べてくれるような人間だったのでしょう。この世界で、ひとりで歩くことすらままならない彼女を、外に出ても生きていけるように、陣治は見守り続けた。時には電車に乗ってきた男を押し出し、水島の跡をつけ、黒崎との出来事を隠し続け。その行動は愛とも狂気とも受け取れるけれど、「優しさ」が確かに存在していた。

この世界は「シンデレラ」や「白雪姫」のようなおとぎ話の世界ではない。彼は誰よりもそのことを知っていて彼女にそのことを教えてあげる。しかし、彼は物語の最後にこの世から姿を消し、外の世界に「極上の幸せ」があると伝えた。この世界はクソだけど、それでも生きている価値はある。素晴らしい世界だって広がっている。僕はそこには行けないけれど、君ならその場所に行ける。どうか幸せになって、僕はずっと見守っているから。

羽ばたいていった陣治の姿と、今後この大きな世界に羽ばたいていくのであろう十和子の姿に、僕は感涙を禁じ得なかった。

「パオパオチャンネル」というYouTuberについて

近年のYouTube、とりわけYouTuberの隆盛について真面目に論じているライターやブロガーっているんだろうか。YouTuberを特集している雑誌なんかではもしかしたらそういった記事があるのかもしれないけど、身近ではあまり見かけることがない現状。音楽や映画と同じようにもっと身近にそういったものが溢れていてもおかしくはないのになぁともやもやしたんで自分で書いてみよう。

上記のように、真面目に論じられることの少ない「YouTube」は、エンターテイメントという分野の中でもまだまだ軽視されがちなカルチャーであると感じる。最近になってテレビ番組でYouTuberが特集される機会というのが増えてきたけれど、「過激なことやって面白がってるだけでしょ?」とか「遊んでるだけじゃないの?」という偏見の声はまだまだ聞こえてくるんですよね。確かに「過激なこと」や「遊び」を映像に収めているだけなのかもしれない。けれど、そこがテレビと違って自由度が増す面白い部分だと感じるし、そもそもエンターテイメントってどれも好奇心が生み出した「遊び」が発端なんじゃないの、と突っ込まずにはいられないのです。「遊び」だからってYouTubeポップカルチャーとして認められないのはおかしな話でしょ?ただ、その「遊び」のレベルが他のエンタメと比べて稚拙だったり、YouTuberと呼ばれる演者が学生や若者に集中しているという点において、視聴者の側にある種の「年齢制限」が掛かっているとは言えなくもない。つまり「YouTube」というエンタメは概ね30代以下くらいの人が観れば面白さを享受出来るけど、そのぶん「大衆性」には欠けているんだろうな、というのが結論です。ポップカルチャーを語る人がその「30代以上」に多いのがまだまだ認められない要因かもしれません。

 

* * *

 

さて、本題は「パオパオチャンネル」というYouTuberのお話。今年、いろいろなYouTuberを見てきた中でも特別面白く、また親しみやすさを感じた彼らのことを。

パオパオチャンネル - YouTube

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男女2人組のYouTuberで、右の男性が「ぶんけい」、左の女性が「@小豆」といいます(ぬいぐるみは「パオぞう」)。

この2人、実は、「付き合ってないんです!」(笑)そう、この2人は付き合ってないんですよ。大事なことなので2度言いましたが、彼らの動画のコメント欄には「付き合ってないんですか?」とか「2人が付き合ったらうまくいくと思います!」というコメントが溢れている。これは何故かというとまず男女2人でYouTubeをやるのはカップルチャンネルだけだろう(実際にカップルチャンネルというのも多く、また人気なので)という視聴者の先入観があり、次に彼らの「仲が良すぎる」点に起因する。まぁ特に後者だと思うんですが、そんな彼らは「質問コーナー」と題した動画の中で再三「付き合ってるんですか」という質問を視聴者からぶつけられる。

視聴者A:ぶんちゃんとあーずーは付き合ってますか?
2人:付き合ってませーん(苦笑)
視聴者B:二人は付き合ってるの?
2人:…。(無言)

またそういったコメントの多さについて

質問者C:付き合ってるんですか?カップル?というコメントの多さにどう感じてますか?
@小豆:期待されているのか?という気持ち。応えなければいけないのか?という変な気持ち。でも応えることは(でき)ないという気持ち

心の底では付きあって欲しいと願う視聴者もこれには納得してしまうでしょう。だって誰もが不可能だと論じた「男女間の友情」がここには存在しているから。

ただ彼らのズルいところは、そういった「カップル論争」を動画のネタにしている点にある。「もしぼくたちが付き合ってデートに行くとしたら」という動画に始まり「初めての共同作業やっちゃいました」や「今まで一緒だった2人が遠距離になってしまったら。」とか…釣りにも程があるんですがそれが「ありえそうでありえない」彼らだからこそ見てしまうんですよね。慣れてくると、こんな事をネタに出来るなんてよっぽど友情が深いんだな、とフラットな目線で楽しむこともできます。さて、そういった「擬似カップル」的な動画だけでなく、ドッキリや逆再生など面白い動画は沢山あるのですが、ここでは彼らの「友情関係」をもっと深掘りしてみたい。その人間性と2人の関係性に親近感を覚えるから。

2度目の「質問コーナー」と「相性診断」という動画内で見られた彼らの互換性について。「質問コーナー」では再びあの質問が。

視聴者D:なんで付き合ってないんですか?
@小豆:チャンネル開設して半年以上経つけど、言われ続けるね。今後も言われ続けると思う(笑)
ぶんけい:あれじゃない、タイプじゃないからじゃない?笑
@小豆:(笑)まぁそうゆうことになるよね
ぶんけい:もう「おとん」やねんな、たぶん。
@小豆:確かにね。もうそうゆう仲だよね
ぶんけい:家族みたいな感じかも
@小豆:そうだね

ほんとかなぁ?笑 まぁ突っ込むのは野暮なので信じましょう。しかし「タイプ」という曖昧な尺度表現を超えて、彼らには驚くほどの「互換性」があることが動画を通して伝わってくる。

・2人のよく使う絵文字欄をみたい!という質問で明らかになった共通する落ち葉🍂の絵文字
・即興で同じポーズできるかやってみてほしい!に対して完全一致した2人のポーズ
・叩いてかぶってじゃんけんぽんを3連発で!に対してあいこが4回も続いてしまって笑い転げる2人の姿

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また「【相性診断】」という動画の中でも諸々の一致を見せ、その中で「恋人と一緒に見たいアニメといえば?」に対して「クレヨンしんちゃん」と答えを一致させた2人の理由が印象的だった

@小豆:私はこうゆうくだらないのでも笑えるよ、みたいな
ぶんけい:そのくだらない中で笑いあえる関係が理想的ってことよな

いや、そうなるとあなたたちこそ理想の関係じゃないですか。とまたしても野暮な意見を口に出してしまうのだけど、それでも友情関係を維持し続ける彼らの姿にどこか共感に似た気持ちと親近感を覚えるのです。また、彼らの関係にはMr.Childrenの「LOVE」という曲を思い出してしまった。

振り向けば 心の隅に君がいて
I want smiling your face 
いつもそれだけで
投げやりな気持ちが空に消えてくよ
でも“愛してる”とは違ってる
ちっぽけなプライドも遠慮もいらない
束縛やヤキモチはちょっぴりあるけど
燃えるような恋じゃなく ときめきでもない
でもいいじゃない
それもまた一つの Love…Love…Love…

これはちょっぴり浮気心を持った男性目線の歌ですが、恋人とも友情とも言えないけれどそこには確かに「Love」がある、それで十分でしょ?と語るこの歌に2人の関係を重ねてしまう。

「男女間の友情」は成立するのか。彼らの関係がその答えを示してくれることでしょう。こういった「リアルな人間関係」が見えるのも他のエンタメにはないYouTubeが持つ素晴らしい側面だと感じます。

↓ライティングさせて頂いたこちらの記事も合わせて是非。

realsound.jp


助けてください。相方が童心を取り戻してしまって困っています。


みんなで楽しめる「逆再生チャレンジ」を考案!の巻

金城一紀「奥様は、取り扱い注意/2話」

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ドラマのレビューも頑張って書いていこう、ということで書きたいことが見つかった「奥様は、取り扱い注意」の第2話について。
水曜10時と言えば、TBSの「水曜日のダウンタウン」と日テレの水10ドラマのどちらを見るか、という問題が発生しますよね。同時間帯に見たい番組が2つ以上あるというのは10年前なら当たり前だったでしょうが、今の時代には嬉しい悲鳴でしょう。

さて、そんな状況の中で取り立てた理由もなく「奥様は、取り扱い注意」の方を2週連続で見ているわけですが、このドラマは安定した面白さを見せてくれています。初回の放送では、主人公である奥様・伊佐山菜美(綾瀬はるか)が、過去にある国家のスパイとして働いていたということが明かされ、近所の奥様方が抱える問題をその正義感の強さと拳の強さで解決していく様が描かれていきました。この様子はアントワーン・フークア監督の映画「イコライザー」とも酷似していて、悪をその手で裁いていく菜美の姿は同作での主人公・マッコール(デンゼル・ワシントン)を見ているようでした。

イコライザー (字幕版)
 

このように、ヴィジランテ映画のような爽快感を与えてくれる一方でキャラクターは極めて綾瀬はるか的、すなわちフニャっとした親しみ易さを感じさせてくれるので、コメディとしても見やすく、その目新しい映像体験に惹きつけられてしまうのです。

第2話で描かれたのは「付きまとう過去は消し去ってしまえ!」という希望的なテーマだったでしょうか。第1話では「料理教室」に通っていた筈の奥様3人組が、第2話では「着付け教室」に通っている、そのつっこむ隙させ与えさせない華麗なる転換には思わず「四畳半神話体系」を思い出させました。

四畳半神話大系 (角川文庫)

四畳半神話大系 (角川文庫)

 

もちろん今作はパラレルワールドものでもタイムリープものでもないでしょうが、第1話という「過去」さえも無かったかのように展開されていく第2話には「今を生きることの重要性」のような同一のテーマが浮かび上がってくるように感じます。そもそも「夫の胃袋を掴んで職場からまっすぐ家へと帰宅させるため」に始めた料理教室を、上達する前に辞めてしまっている(?)ことに驚きます。その上「肉が食べたいな」と言う夫・勇輝(西島秀俊)に対して「玄米と野菜中心の食事にする」とまで言ってしまう始末。「料理」が夫婦を親密にさせると信じた第1話との明らかな矛盾に少し困惑してしまいますが、「過去なんてクソくらえ!」と訴える第2話の空気感を考えるとなるほど納得してしまいます。

第1話と第2話、そしてこれからのお話において倒し続けるであろう悪。そういった悪討伐の物語もやがて消し去りたい過去のことになるでしょう。その時、過去が現在に襲いかかってくる中でこの物語はどうゆう結論を出すのか、そこが気になるところです。

このドラマで特に好きなのは綾瀬はるか西島秀俊の夫婦関係です。夏クールの「ハロー張りネズミ」第8話において森田剛國村隼という映画的で濃い俳優が涙を誘ったのとはまるで逆位置にあるようなこの2人。そこには共感に包まれるような親和性や応援したくなるような愛らしさが充満しているように見えます。中でも食事のシーンが最高でした。褒められておどける綾瀬はるかと困惑気味に満面の笑みで応答する西島秀俊、という愛おしい構図をニヤニヤして眺めてしまったのは私だけでしょうか。ともかくこの2人が醸し出す「優しさのオーラ」がこのドラマを左右していくことに間違いはなさそうです。

木下惠介「永遠の人」

雄大な阿蘇山麓で繰り広げられる
男と女の愛憎の叙情詩

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これは面白すぎてどうにかなりそうでした。欲にまみれた人間関係や観るものを激情に駆る大仰な演技など随所にこの時代の邦画らしい側面を感じるものの、一方で今まで観てきた邦画とは似ても似つかない唯一無二の存在感と娯楽的な面白さがある。中でも特筆すべきは、この物語が5つの章で構成されていることです。その1つ1つがとにかく素晴らしいということは言うまでもなく、山場が5つも(つまり各章ごとに)訪れるのでその満足感と言ったら半端じゃない。また、様々な「音」の使い方には衝撃を受けました。

この映画が具体的にどうゆう物語なのかと聞かれると色々ありすぎて困ってしまうけれど、物語の軸として、運命と呼ぶにはあまりにも「非情な現実」に逆らい続けた女性の〈29年間〉の記録がしっかりと刻まれています。周りの人物達の心理描写も繊細に作り込まれていて、圧倒的に悪いことをしているサイテー男も利己心に乏しい優男も、その背景を考えると一定の共感を許してしまう。登場人物たちを簡単に善悪で判断できないところがこの物語の難しさであり、突出した面白さを作り出している要因の1つでした。

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「この時代に日本にもこんな素晴らしい映画が…!」という言葉はあまりにも短絡的なので使いたくないですが、明らかに現在の邦画では再現不可能な最高峰のエンターテイメントがここに存在していますし、まだまだこういった名作が昔の邦画にも隠れていると思うと楽しみが尽きません。
映画館で観たいクオリティー!

 

木下惠介生誕100年「永遠の人」 [DVD]

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