縞馬は青い

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それは幻想か、あるいは忘れてしまった現実か/ショーン・ベイカー『フロリダ・プロジェクト』

f:id:bsk00kw20-kohei:20180521215201j:imageなんて美しい世界なんだ。「“夢の国”のすぐ隣には辛く苦しい現実があった」というドロドロに腐りきったこの世界を映しておきながら、どうしてこんなにも彩り豊かで鮮やかになるのだろう。どうしてこの世界はこんなにも美しく、またそれを覆ってしまうほどに汚れているのだろうか。


僕はこの映画を観て自分にもたしかに存在していた「クソガキ時代」を夢想する。暇があれば川や公園に行き、ぐちょぐちょになって家に帰っていたあのときのこと。何の用もないのに駄菓子屋やスーパーを駆け回り、自販機のまわりにお金が落ちてないか漁ったり、道の向こう側に石を投げようとしたら車に当たってしまいバチバチに怒られたりしたこと。幼なじみとともに経験したその“冒険”には確かに幸せがあって、何もない田舎の風景も鮮やかな世界へと様変わりしていた。 f:id:bsk00kw20-kohei:20180521215224p:imageこの映画の描く世界を、モーテルの「部屋の中」と「部屋の外」に分けた場合、それはすなわち「圧迫された世界」と「自由な世界」ということになるだろう。そしてヘイリーを含めた大人たちは部屋の中にいて、ムーニーたちは外にいる。そう考えると、モーテルの停電や廃屋の火事などによって大人たちが部屋から飛び出すという画の動きは、ヘイリーが大人たちを自由の世界へ連れ出そうとしているようにも感じられる。たとえムーニーにそういった意図がなくても、大人たちはそれによって救われている。そしてジャンシーも、ムーニーによって外へ連れ出されたうちのひとりだった。だからこそ、ムーニーが圧迫された現実に引き込まれそうになる瞬間で、彼女はムーニーの救出に試みたのだろう。


その先が本当に自由なのか、なんてそんなのはどうでもよくて。だってこの経験がなければ、彼女たちはあのモーテルとこの社会に殺されていただろうから。

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