縞馬は青い

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映画とか、好きなもの

平成最後の夏、あるいは青春時代の終わりに/枝優花×羊文学『放課後ソーダ日和』

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bsk00kw20-kohei.hatenablog.com

映画『少女邂逅』のアナザーストーリーとしてYouTubeで公開されているドラマ『放課後ソーダ日和』が予想以上にグサグサと心に刺さりまくっている。映画が学生時代のリアルな闇の部分を描いていた作品であったから、光に焦点を当てたこのドラマのキラキラした青春模様にドキドキしてしまう。結局同じことを伝えようとしている2作品ではあるのだけれど、この光と闇の二面性が物語を豊かにしている。枝優花監督はやっぱりおもしろいぞ。

一話一話がほんとうに素晴らしくて書きたいことが多い作品だ。でももう6話まで公開されてしまっているので、かいつまんで、簡潔に…。

第1話のサブタイトルは「特別な時間のはじまり」。冒頭ナレーションの「ほんとうにこれでいいの?」という問いかけから物語に引き込まれてしまうのだけれど、この作品は明確にあのころの「特別な時間」について描こうとしている。今も辛いときにはそっと背中を押して寄り添っていてくれるあの時間について。

映画とドラマをつなぐ「第1話」では特に、就職活動中のミユリが本作の主人公である3人を親のような表情で見つめるカットがグッときた。あの時間を私たちは大切にできていたのかなと自問自答し、新しい世界へと歩みを進めること。枝監督も主題歌を担当している羊文学も(そして就活中のミユリも)、僕の同世代なのでちょっと共感できるのだけど、モラトリアムな私たちはそうゆうことを回顧したくなる年ごろなのだ。

青春時代が終わればわたしたち、生きてる意味がないわ

という書き出しが衝撃的な主題歌『ドラマ』も、エンディングの『天気予報』では

僕らが憧れた未来予想のその先は ドキドキするような未来を運ぶかい?

となる。『天気予報』というタイトルからも想像できるように、目線を未来へと移し変えている。「あのころ」の無限の可能性を携えて未来へと歩みを進めよう。僕にはそんなメッセージを感じ取れる作品だった。

ここまでで一番印象に残っているのは、第4話と第5話の「夏、来たる 前編/後編」だ。サナ(森田想)とモモ(田中芽衣)がクリームソーダのアイスとメロンソーダのごとく、混ざりあい、同期し、互いを認め合うお話。なんとも瑞々しく、夏にピッタリの爽やかな一編だ。みんな「違う」ようでいて実は「同じ」なんだ、というのが『少女邂逅』のメインテーマであったと思うのだけれど、本作ではよりわかりやすく、また可視的にその模様が描かれていておもしろい。とりわけあの「ペアソーダ」というクリームソーダを使った演出の巧さよ。

イチゴソーダとメロンソーダが同じ器の中に流し込まれていて、上にはクリームとアイスが乗っている魔法的なこのお飲み物。その飲み物の究極の飲み方をムウ子が発見してしまうのだ。

 (メロンソーダの上に乗っていたアイスをイチゴソーダのほうに持ってきてかき混ぜ、ひと口ごくん)これ、アイスと混ぜるとイチゴミルクになりますね、!

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これぞ映像演出というものだろう。分け隔てられたアイスとイチゴソーダがミックスされることによって生み出されるイチゴミルク。そのままサナとモモの同質性を暗示しているのだ。これを発見するのがムウ子であるというのも素晴らしすぎて憎いほど。第5話ではきっちりと言語化して「私たちは違うようでいて同じなのかもしれない」と語っているのだけれど、そんな言葉必要ないくらいに心が躍る場面でした。

青春時代は終わる。おまけに平成というひとつの時代も終わる。終わりばかりに目がいってしまう不安定な世の中だ。ただいつかの自分が後悔しないように、またいつかの自分を支えてあげられる経験を得るために「今」を大事にしよう、とこの作品は教えてくれる。「天気予報」を確認して、明日への道すじを描きたい。


放課後ソーダ日和【第1話:特別な時間のはじまり】映画『少女邂逅』のアナザーストーリー 森田想×田中芽衣×蒼波純/ 羊文学【フルHD推奨】

天気予報

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ナカゴー『まだ出会っていないだけ』@下北沢駅前劇場

f:id:bsk00kw20-kohei:20180804195515j:imageもうたまらなく面白い。東京に来ていなかったらこういう作品にも出会えていなかったと思うとそれだけでぶるぶる震えてしまう。ナカゴーを見れる環境にいる人は、すぐさま見に行ってほしい。今話題の『カメラを止めるな!』なんて目じゃないほど、笑いと感動と情熱に満ち溢れた作品だった。

東京に来て増えた趣味のひとつ、演劇。中でも小演劇と呼ぶのだろうか。この日ナカゴーを見た前日にも玉田企画という劇団の演劇『バカンス』を見ていたのだけど、これもずるずると引き込まれるおもしろさだった。リアリティ再現度が半端ないこの作品では、“日常の中のささいなモヤモヤ”を役者の「自然な」演技で魅せている。ナカゴーの演劇スタイルはこれと正反対といってもいいかもしれない。昭和感を漂わせた舞台上で役者たちはとことんオーバーアクションを貫き、こんなセリフ日常で言う人いないだろという奇天烈な表現が飛び交う。これがなぜ面白いかというと、単純に演者たちの演技がうますぎるからだ。あとはワードセンスと細かい動きの描写のうまさ。とにかくうまい。とにかく面白い。笑わない時間なんて5分と続かない、それでいてじ~んとくる場面もある恐ろしい作品である。

今年のGW付近に上演されていたナカゴー特別公演『まだ気づいていないだけ』をベースにさらなる“技巧の深化”と“物語性の進化”を携えて上演されたナカゴー本公演『まだ出会っていないだけ』@下北沢駅前劇場。人間の不器用さと可笑しさ、愛おしさをオーバーアクション、ネタバラシ、バッドエンドという3つの技で描ききった作品だ。

物語がはじまるとひとりの女性が現れる。どうやらその女性は主人公の親友であり、また予知能力者であるらしい。そんな彼女は、あろうことか、これからこの舞台で起こることの“結末”を語ってみせてしまう。「喧嘩をして長年疎遠になっていた姉妹が久しぶりに顔を合わせて仲直りに試みるのだけれど、結局仲たがいしたまま終わってしまう作品」であると…。

ナカゴーの演劇をまだ見ていない人にこの最大の魅力を教えてしまっていいものか非常に悩むところだが、ネタバレを気にする人はこの段階で意を決して見に行ってくれていると信じたい。一言でいうと「“ネタバラシ”を基盤とした究極の予定調和芸」これがナカゴーの特徴であり、魅力なのだ。“これから何が起こるのか”をあらかじめ観客に伝えておいて、その通りのことを演じるということ。これは上記の「予知能力者」という形や「内緒にしてと言われたことをベラベラと喋ってしまう男」を媒介にして伝えられていき、半ば強引に役者の演技と脚本の巧さで魅せ切っていく。

予知能力者の出現やネタバラシを含め、「見える/見えない」、「知っている/知らない」という思考の反転が与える物語のドライブ感には素直に驚いてしまった。それは例えば野上篤史さん演じる“黒子”の役。私たち観客には見えていて、物語の中の人物たちには見えていない(という設定)。天国へと旅たつ場面の衝撃ったら。素晴らしいメタ演出だった。他にも、幽霊の出現や未来予知、もちろんネタバラシという最大のシステムも含め、わたしは知っているのにあなたは知らない、わたしには見えているのにあなたには見えていないという「認知の差」が生み出すコメディが劇場を肩で笑わしていく。

しかしこの作品で最も特筆すべきなのは「ごっこ遊び」のことだろう。姉妹が、喧嘩をしたあと仲を取り戻すために全く違う人物になりきり、それによって通常の生活に戻っていくという、子供のころからの仲直りの手段。

ちょまてよっ!!!

姉さん……!!

という妹が放つ2つの言葉による切り返しがこの作品最大の盛り上がりを見せる場面。「本当はお互い知っているのに知らないふりをしていた→もう知らないふりをする必要はない!」という反転が巻き起こすパワーに劇場全体がうなりをあげているようだった。笑いと感動がとめどなく押し寄せてくる場面。そうして私たちは知ることになる。ナカゴーという劇団が魅せるオーバーアクション予定調和劇=「ごっこ遊び」が、わたしたちの心を豊かにし、勇気を与えてくれていることを。バッドエンドは、まだ終わりじゃなくて。そこを乗り越える本当のわたしに、「まだ出会っていないだけ」。f:id:bsk00kw20-kohei:20180804200039j:image

映画『未来のミライ』はファンタジーではなく、単なるくんちゃんの妄想物語だ

f:id:bsk00kw20-kohei:20180722111619p:image(短文レビュー)

ああいう「おもしろい家」で暮らしてると、創造力というか、妄想が止まらないんだろうな。これはファンタジーというよりも、(単なる)「くんちゃん」の妄想物語なのではないか。


だから未来のミライちゃんが「いきなり」現れることに理由なんていらないし(というよりもまぁ、自分の思い通りにいかないことが起こると妄想の世界に逃げちゃう感じですかね)、大きな物語に展開していかないのも“等身大のお話”として受け取ることができる。


僕はこの映画を観て、幼稚園とか小学生くらいの自分を思い出してしまったのだ。一人遊びが大好きで、小さな家の中に大きな世界を創造(想像)してしまうあの無邪気さ。今はもう失われてしまった、その子供心をこの映画は思い出させてくれる。


都合が悪いと妄想の世界に逃げてしまうという点で、くんちゃんはダメな子かもしれない。でもこの映画は、現実に向き合うまでをしっかり描いている。(自転車に乗って人と向き合う。親に迷惑をかけないように青いズボンを履き続ける。ミライちゃんと笑い合う。など)


別に、現実に向き合う(要するに少し大人になる)ところも描く必要はないと僕は思うけど、そこは物語としての筋を通しているといえるだろうか。(一方で、ほとんど成長していないじゃないか! と批判する観客がいても、それはそれで子どもらしくていいと思う)


僕はこの映画、好きです。心が踊りました。

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そうして暑い夏が始まって/枝優花『少女邂逅』

f:id:bsk00kw20-kohei:20180701183506j:imageときどきある。席を立って映画館から出ても、心だけをその場所に置いてけぼりにしてきてしまうことが。外のむわっとしたぬる~い風だけを肌に感じながら、遠い世界から吹いてくる息吹に持ち上げられ、ふわふわっと宙に浮いてしまうような。映画の息吹を感じる瞬間。久しくその不思議な感覚を得られる作品に出合ってなかったのかもしれない。こうやって息をして「生きている」作品に出合うことが、ときどきある。

監督のもつ実体験を、岩井俊二成分を多分に含ませながら映写し、しかし全く新しいオリジナル作品へと昇華していく。モトーラ世理奈という神秘的な天使をヒロインに登用できたことからなにからなにまで、その類まれなる才能に素直に驚く。枝優花という同世代の新鋭監督のことをぼくはまだ「天才」という2文字でしか語れないのだろうけど、これはすんごく嬉しいことなのだ。これから普通に生きていれば、その監督の紡ぐ物語にときどき接することができるのだろうから。そうしてときどき、ふわふわっと宙に浮けるのだろうから。

 

一人ひとりの世界には越えようもない隔たりがある。となりの席に座っている彼女が何を考えているのか、そんなことは到底わからないし、わからないからわざわざ「自分とは違うもの」に仕立て上げて拒絶しようとする。あるいは「彼女に近づきたい」と強く願っても、近づく理由、共通項が見つからないことによって、彼女とわたしの間には隔たりがあるのだと信じ込み、近づくことを諦めてしまう。

人間と人間が糸を紡ぐことの難しさ。その人間関係の中でも特に、ひとつのハコ(=教室)に入れられて同じ方向を向きながらもなぜか理解し合えない、あの学生生活における折り合いの難しさをこの映画は描いているのではないだろうか。

この映画を観ている多くの人はミユリに自分自身を投影するだろう。そうしていとも簡単に解離された世界を飛び越えてやってくる紬という存在に驚き、また恋をし、生きる価値を与えられるのだろう。スカートに顔を覆われた状態でのファーストコンタクトから始まり、ミユリの後ろから突如画面に映り込んでくるちょっぴりホラー的な登場まで「いきなり彼女がやってくる」という演出はかなり示唆的だ。

自転車に二人乗りし、電話ボックスで雨宿りをして。そういう超越的な彼女と一緒にいるうちに、わたしと彼女の間には隔たりなんかないのではないかと信じることができるようになる。できるようになるのだけれど、それも長くは続かない。ふとした瞬間に、自分が分断された世界に生きていたことを思い出してしまうからだ。いつも一緒に登下校をして、仲良く遊んでいたあの子に突然いじめられる。そうゆう瞬間を経験してしまっているから。

蚕は互いが近づきすぎると糸が絡まってしまうから、ああやって部屋を分けて育てる必要がある。でも人間にその必要はあるだろうか。絡まってしまうからって糸を自ら切ってしまう必要なんてどこにもないのに、なぜだかそうしてしまう。あのころの私たちはみんなそうだった。みんな「同じ」であるはずなのに、みんな「違う」ことにしてしまっていた。そんなの矛盾の塊じゃないかって、あのときは気づいていたのかもしれないけどどうすることもできないのが、あの狭い空間だった。

この咀嚼しきれない人生のもどかしさと平凡な日常の尊さを、枝監督は優しく描き出そうとしている。アナザーストーリーとしてYouTubeで公開された『放課後ソーダ日和』の3人の「出会い」のシーンなんか、希望に満ち溢れていて最高なのだ。枝さんは信じているんだろうな。ほんとはみんな同じで、繋がれるってこと。

www.youtube.com

余談*1

*1:「君」と呼ぶモトーラさん。完全に『花とアリス』なんだけど蒼井優に負けず劣らず最高だった。余談of余談ですが、初日舞台挨拶で登壇したモトーラ世理奈さんと何度も目があったので(たぶん気のせい)、暑い夏を乗りきれる気がします。

飛べないから飛ぶんだ/鄭義信『焼肉ドラゴン』

f:id:bsk00kw20-kohei:20180624123330j:image全面的に指示できる映画ではない。むしろあまり好きではないタイプの映画だったのかもしれない。それでもなにかグサリと刺さる、心がじんじんと火照ってしまう「熱」をつねに感じさせる作品であった。

ときは1969年、高度経済成長期の真っ只中。場所は関西のとあるまち、伊丹空港の近くだろうか。そこに暮らす6人の在日コリアン家族とそのまわりの人々の苦悩や笑いといった日常を描いた映画だ。

 

 たとえ昨日がどんなでも

明日はきっとえぇ日になる

かつて大空を飛びまわっていたドラゴンが、国家に利用され翼を折られ、それでも頑張ってがんばって、働いて働いて、再び翼を取り戻して、大地を蹴り出す。この映画はそういった壮大なプロセスを描いている。役者の演技やこの物語が少々くどい、いや、一つひとつのセリフや笑いから涙までめちゃくちゃに“くどい”と自分は感じたけれど、戯曲が原作であるとかそれ以上にこの壮大な復活譚にはこのくどさが必要だったんだろう。観客もみんなちゃんと泣かされてたし笑ってたし。自分はイマイチ感情を入れ込めなかったけど、ひたすらにカッケェ!って感じていた。

冒頭の数分でこの物語の意図するところはなんとなく理解できる。そうゆう演出がなされているからだ。それはオモニがアボジの「腕のない袖を掴む」という場面。「失くしたもの」を「掴みとろうとする」。これだけでこの映画を語るには十分。本作ではいろんなものを失ったお父さんに限らず、届かない恋情や繋がらない血、通じない言葉や発されない声(…etc)に至るまで、その「ないもの」を諦めずにどうにかして掴みとろうとする、翼の折れたドラゴンたちの一歩一歩が丁寧に描かれていた。何度も何度も傷つき、そのたびに立ち上がり、最後には大空へと飛び立つ。その情熱の美しさよ…。

「その一方で」。中盤の彼の“飛び立ち”はあまりにも唐突で悲しい。その先にしか大いなる世界はなかったのだという事実に、ズシンと心が重くなる。

飛べないから、飛ぼうとする。その彼らの熱気。じゅわじゅわっと音を立て焼肉から立ちのぼったその煙が、僕の乾いた目にしみた。

毒キノコはなぜ、かくも美しいのか/ポール・トーマス・アンダーソン『ファントム・スレッド』

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彼に恋する事で人生は謎ではなくなるのよ

 

終盤でアルマが語る言葉。人生は謎ではなくなる。そう、この映画では恋愛や結婚といった人間関係の「からくり」が提示される。その内実は実に高貴で美しく、また滑稽で可笑しく、震えるほどに怖い。ただ、鑑賞中(特に後半)ニヤニヤが止まらなかったのは、彼女と同じように人生の謎から少し解放されたからであり、その「からくり」に今まで経験したことがない感情を投影させられたからである。先日『ヤンヤン 夏の思い出』という映画を観て書いたレビューに「人は多くの役柄を演じている方が(多くの人と密に接している人の方が)、多面的に人生が展開していき、そのことは不幸も内包した人生の“豊かさ”に繋がるのではないか」というような言葉を連ねた。しかしこの映画はその考えを見事に覆す。思考回路が更新される。それが気持ちよくて仕方がなかった。『ヤンヤン』で感じたものも間違いではなかったと思う。多面的な人生にはおそらく豊かさがある。しかしその“豊かさ”ともまた違った人生の美しさがここには存在していた。もしかしたらわたしたちは、ある“たったひとつ”の役柄を演じるために生きているのではないか、とそう思わされてしまう映画だった。

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レイノルズは支配されることを恐れていた。自分を支配するのは、母親と姉だけでいいとずっと思っていたから、異物が混入することに細心の注意を払っていた。だから彼は人を家の中にあえて「招き入れ」、「服をつくり、着せてあげる」という手段でもって他人より優位に立ち、そのことによって聖域を固く守ってきた。そしてそれは、母親の“影”を感じるアルマに対しても何ら変わらぬことであり、決して二人きりになる時間を設けようとはしない。
そんなレイノルズでもある一瞬だけは子供のようにアルマに身を寄せる。ときにスランプに陥り静かに寝込む彼の姿に僕は、体を壊し母親に看病される幼少期のレイノルズを垣間見た。おそらく長い間(母親が死んでから)ひとりで強く生きてきたのだろう。アルマとの喧嘩のシーンでは「四方八方敵だらけだ」と彼は嘆く。愛しているはずのアルマを、最愛の人にしてしまうことに得も言われぬ恐怖があったのだろう。それは、いつか失ってしまうかもしれないことへの恐れなのか、待ちつづけることの寂しさなのか。それでも彼は最後、毒キノコを与え続けられることを受け入れるわけだ。そこに幸せがあることを彼はたぶん知っていたから。母親との関係が、彼をその結末に向かわせたのだろう。

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こんな感じで人生論について深く考えさせられる映画であったのだけれど、それとはまた別のベクトル、「エンターテイメント」という基準ですごく心に刺さってしまう作品だった。あげるとキリがないので割愛するけど、何もかもが「完璧」だった。これは今後映画を観ていく上での「原体験」になり得るような映画だ。小学生の頃に観た『ハリー・ポッター』みたいに。新宿武蔵野館というハコが素晴らしかったのかもしれないけれど、あの最前列で垣間見た人生の美しさと音楽の高貴さ、映像の妖しさは、今後映画館に行く上で1度だって忘れることはないと思う。こんな作品に出合うために、僕は映画を観てきた。そして「出合った」。

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ビー玉に宇宙を透かしていた/是枝裕和『万引き家族』

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なんとも釈然としない映画だ。いや、そんなことは観る前からわかってたことだけど、なんというか、打ちのめされた!って感じ。泣いていいのか怒っていいのか、はたまた笑っていいのかわからないこの感じ。どれもが正しい感情なんだろうけど。うん。カンヌをとったから、といってこの映画の評価を押し上げようとはしたくないけど、やっぱりカンヌを取るにはとるだけの理由があるのだ。是枝裕和は一歩、あゆみを進めたんだ。そして私たちもまた、その世界を知り、歩きだすことができる。是枝監督に連れられて。

何から語ればいいだろう。いきなり本題に入るようだけど、なぜ彼らは家族になれたのか、あるいはなれなかったのかということについてはしっかり考えなくてはいけない。鑑賞中、「あれ?結局この人とこの人はどうゆう関係なんだっけ?」とか無意味に考えて、結局「まぁそんなことどうでもいっか」と諦めてしまったのは僕だけじゃないはず。『そして父になる』が、血縁あるなしに関わらずどれだけ親が子に愛情を注げるか(その“努力”を惜しまないか)を問うた作品であったからこそ、本作においても、まぁ家族としてやってるっぽいし静かに見守ろう、という気にさせてくれるのだ。是枝監督による「家族とは何か」教育のたまものなわけです。

この映画を観る人は僕と同じように是枝監督による「家族とは何か」教育を受けてきた人が大半であることは予想できるけど、聴衆の中には、家族とは血縁だ、と信じる人もまだいらっしゃるでしょう。それは明治時代からこの国が「血縁主義」を貫徹してきたからであって、そうゆう人がいるのも当然のこと。でも、家族というある種概念化された言葉を使わずとも、彼らが、「似た者同士の集まった生活共同体」であるということはみんながすぐに感じることだと思います。

特に、治(リリー)と信代(安藤サクラ)が、ゆり(=りん)を家に返しに行った際のシークエンスなんかはすごく印象的。信代は返す気満々で家に向かったものの、ゆりの母親による「産みたくて産んだわけじゃない」という言葉が響きわたる。そのことによって信代は、ゆりを強く抱きしめながら愕然としゃがみこんでしまうのだ。この映画の書き下ろし小説を読むと、このときの彼女の感情はゆりへの愛おしさなんかではなく、幼い頃母に同じことを言われたことに対する憎しみだということが分かるけど、この瞬間、信代とゆりは(望むか望まざるかは別として)似た者同士として繋がることになる。

彼女らのヤケドの傷や、亜紀(松岡茉優)と4番さん(池松壮亮)の指の痛みなんかもこれに追随するものだが、演出としてもっとも示唆的なのは、柴田家が、亜紀以外みんな「おでこ」を出している点にある*1。この身体の照応。彼らは似た者同士であるから、過去の自分を放っておくことはできないし、家族になれるなれない以前に一緒にいるしかなかったのだ。

しかし、まともな愛情を受けて育ってこなかったのであろう治と信代は、親のなり方を知らず、「万引き」を教えるくらいしか、彼らのヒーローになる手段はなかった。冒頭の万引きシーン。そこには、共同作業での爽快感を感じるけれど、父親との思い出が万引きしかないなんて、やっぱりそれは悲しすぎるのだ。出来損ないの父親。是枝映画には父親になりきれない男がよく登場するが、『海よりもまだ深く』の良多(阿部寛)なんかもそのひとり。彼もゆすりのようなことをして飯を食っているダメな父親だったけど、治と異なるのは、息子に「宝くじ」という夢を教えてあげることができていたことだ。「叶わぬ夢」を追い続けることによる人生の豊かさをなんとか伝えようとしていた彼の姿は、出来損ないでありながらも愛おしかった。しかし治は、出来損ないの父親にすらなれない*2f:id:bsk00kw20-kohei:20180603182356j:image

過去の是枝作品と毛色が違うなと感じた人は多いと思うけど、その一番の理由は「ウェットさ」にあると僕は思う。どことなく濡れてて湿ってる感じ。コロッケをうどんやラーメンに浸したり、お麩とかおしることかみかんとか素麺とか、出てくる食事がことごとく汁物で、それ以外にも鈴のおねしょやお風呂での戯れ、海、雪だるまなど、どこか画面全体に湿っ気が漂いつづける。これはこの家族が「ドライではない」ということを表す一番の表象なんだと感じとりましたが、一番驚いたのは今までになく「性」を押し出してきたこと。これまでの作品で大々的に濡れ場というものを映してこなかった是枝監督が、ここに差し込んできたことには大きな意味があるでしょう。この映画のウェットなトーンはすべてここに繋がるんだな、と。この家族は放任という言葉を知らない。ドライではなくウェットだから。ただ、子育ての仕方を誰も教えてくれなかっただけで。

でも、それが何よりも重要なものだったからこそ、祥太の心はかき乱されていく。ときに、駄菓子屋店主の優しさや父親の弱さ、家族のかけがえのなさを知った祥太は、心がぐらつく夜に、ラムネの中で音を立てたビー玉に宇宙を見る。ラムネに閉じ込められたビー玉、そしてビー玉に眠る宇宙。これは、押入れの中で眠る、若くて無限の未来がある少年・祥太そのものだった。f:id:bsk00kw20-kohei:20180603182423j:image

近年の是枝作品と坂元裕二作品はテーマからキャスティングまで共鳴度が高すぎる。この冬放送された「anone」と本作を照らし合わせて直ぐにでも対談していただきたいものですが、その「anone」における最終話。中瀬古瑛太)がハリカ(広瀬すず)に対して「悲しいことを経験してきた人間は、この世界を恨む権利があるんだよ」と言った後のハリカのセリフが印象的だ。

誰も誰かを恨んだりなんかしてない。つらいからってつらい人がつらい人を傷つけるの、そんなの一番くだらない。バカみたい

と健やかに言いのけた。そのとおり。悲しくて辛いのはみんな同じだから、奪うことに意味なんてない。そう、意味なんてないことなんか治も分かってるはずなのに狂ってしまった歯車は回り続けていたのだ。そうして祥太は疑念を抱く、ぼくらは犯罪でしか繋がっていなかったのではないかと。f:id:bsk00kw20-kohei:20180603182702j:image

ラストシーン、バス。祥太が帽子をとり、うしろを振り返る。まだ追いかけてきているのか確かめる。本当に繋がっていたのかどうか、もう一度確認する。鈴ではなくじゅりに戻った彼女は、再び小さな世界に閉じ込められる。ビー玉を並べ「誰か」の存在を待つ。亜紀はホームに戻る。そこにたしかに存在していたはずの「愛」を探しに。

同じ夢を見る。そこにはたしかに「家族」が存在し、同じ息を吸い、同じ麺を食べ、同じお湯に浸かっていた。万引きだけじゃなくいっぱいの思い出がそこにはあって、そんな思い出はこれからも彼らの世界を照らし続ける。

そんな彼らは次の年の夏もまた、同じ空を見上げることだろう。あのときの空の輝きが、今も心を照らしているか、確かめるために。

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*1:亜紀に関しては出自の差ということにしときます。

*2:なれなくてもいい、と開き直ったほうがまだ幸福なのかもしれない。“おじさん”でも十分繋がれるから。