縞馬は青い

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映画とか、好きなもの

そうして暑い夏が始まって/枝優花『少女邂逅』

f:id:bsk00kw20-kohei:20180701183506j:imageときどきある。席を立って映画館から出ても、心だけをその場所に置いてけぼりにしてきてしまうことが。外のむわっとしたぬる~い風だけを肌に感じながら、遠い世界から吹いてくる息吹に持ち上げられ、ふわふわっと宙に浮いてしまうような。映画の息吹を感じる瞬間。久しくその不思議な感覚を得られる作品に出合ってなかったのかもしれない。こうやって息をして「生きている」作品に出合うことが、ときどきある。

監督のもつ実体験を、岩井俊二成分を多分に含ませながら映写し、しかし全く新しいオリジナル作品へと昇華していく。モトーラ世理奈という神秘的な天使をヒロインに登用できたことからなにからなにまで、その類まれなる才能に素直に驚く。枝優花という同世代の新鋭監督のことをぼくはまだ「天才」という2文字でしか語れないのだろうけど、これはすんごく嬉しいことなのだ。これから普通に生きていれば、その監督の紡ぐ物語にときどき接することができるのだろうから。そうしてときどき、ふわふわっと宙に浮けるのだろうから。

 

一人ひとりの世界には越えようもない隔たりがある。となりの席に座っている彼女が何を考えているのか、そんなことは到底わからないし、わからないからわざわざ「自分とは違うもの」に仕立て上げて拒絶しようとする。あるいは「彼女に近づきたい」と強く願っても、近づく理由、共通項が見つからないことによって、彼女とわたしの間には隔たりがあるのだと信じ込み、近づくことを諦めてしまう。

人間と人間が糸を紡ぐことの難しさ。その人間関係の中でも特に、ひとつのハコ(=教室)に入れられて同じ方向を向きながらもなぜか理解し合えない、あの学生生活における折り合いの難しさをこの映画は描いているのではないだろうか。

この映画を観ている多くの人はミユリに自分自身を投影するだろう。そうしていとも簡単に解離された世界を飛び越えてやってくる紬という存在に驚き、また恋をし、生きる価値を与えられるのだろう。スカートに顔を覆われた状態でのファーストコンタクトから始まり、ミユリの後ろから突如画面に映り込んでくるちょっぴりホラー的な登場まで「いきなり彼女がやってくる」という演出はかなり示唆的だ。

自転車に二人乗りし、電話ボックスで雨宿りをして。そういう超越的な彼女と一緒にいるうちに、わたしと彼女の間には隔たりなんかないのではないかと信じることができるようになる。できるようになるのだけれど、それも長くは続かない。ふとした瞬間に、自分が分断された世界に生きていたことを思い出してしまうからだ。いつも一緒に登下校をして、仲良く遊んでいたあの子に突然いじめられる。そうゆう瞬間を経験してしまっているから。

蚕は互いが近づきすぎると糸が絡まってしまうから、ああやって部屋を分けて育てる必要がある。でも人間にその必要はあるだろうか。絡まってしまうからって糸を自ら切ってしまう必要なんてどこにもないのに、なぜだかそうしてしまう。あのころの私たちはみんなそうだった。みんな「同じ」であるはずなのに、みんな「違う」ことにしてしまっていた。そんなの矛盾の塊じゃないかって、あのときは気づいていたのかもしれないけどどうすることもできないのが、あの狭い空間だった。

この咀嚼しきれない人生のもどかしさと平凡な日常の尊さを、枝監督は優しく描き出そうとしている。アナザーストーリーとしてYouTubeで公開された『放課後ソーダ日和』の3人の「出会い」のシーンなんか、希望に満ち溢れていて最高なのだ。枝さんは信じているんだろうな。ほんとはみんな同じで、繋がれるってこと。

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余談*1

*1:「君」と呼ぶモトーラさん。完全に『花とアリス』なんだけど蒼井優に負けず劣らず最高だった。余談of余談ですが、初日舞台挨拶で登壇したモトーラ世理奈さんと何度も目があったので(たぶん気のせい)、暑い夏を乗りきれる気がします。