縞馬は青い

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映画とか、好きなもの

呪い祝われ、わたしたちはここに立つ/キコ qui-co.『鉄とリボン』

f:id:bsk00kw20-kohei:20180503155326j:image座・高円寺2で催された演劇グループ キコ/qui-co.の第10回公演『鉄とリボン』を観劇してきました。東京へ移り住み、前々から興味のあった演劇についに触手が伸びた。演劇を観るということ自体ほとんど初めてに近かったのだけれど、これでよかった、と心底思える作品でした。観に行ってよかったと。思えば子どものころから僕は「生(なま)」のものに惹かれていました。というより生のものしかあまり信じることができなかった。生放送や生中継から、人と会うということや人の声を聞くということまで。本質的に、「虚構」や「フィクション」ではなく「実物」に惹かれていたのでしょう。そんな僕が映画を好んで観ているというのも変な話なのだけれど、映画のような完全なる虚構はエンターテイメント、もしくは時代の映し鏡としてすごく楽しめる。一方で実在するものはやはり生で実物を感じたかった。

演劇は「生」だ。物語はフィクションだけれどそこには実物が存在する。あの人が、あそこに、立っている。

 

『鉄とリボン』。幻想的な物語です。舞台は地図にない町。暖かく小さな島。そこには遊郭があり、「はなよめ」と呼ばれる女性たちが住んでいる。この「はなよめのまち」には時おり、外の世界から「カウラ」と呼ばれる男たちが「はなよめ」を求めてやってくる。遊郭に閉じ込められた「はなよめ」には名前がなく、この男たちに名前をつけてもらい、外の世界へともに旅立つことが唯一の生きる道でした。

物語の前半は、「夢のような」という言葉が一段と似合うような幻想的な場面展開で、このファンタジー世界の全貌を見せていきます。とりわけ、心に沁みわたるような歌とクラップ&ステップのパワフルなダンスが印象的で、すぐにこの世界観に埋没していくことに。しかしこの段階では、一体何が起き、どこを目指しているのかが全くわからず「あ〜綺麗だなぁ」という陳腐な感情しか生まれない。

伏線が回収され、すべてが明らかになるのは後半に入ってすぐのことでした。

それは、この世界に住む人ならば誰もが知っていて、また経験してきたことに関しての反芻でした。なぜわたしたちはここに在り、立っているのか。なぜ「死」は忌み嫌われ、「生」は尊いのか。なぜわたしたちは「生まれる」のか。

本公演では「お母さんの子宮内」を「はなよめのまち」に置き換え、ファンタジックにその高尚さを物語ってみせていた。人が生まれるということについて今一度その尊さを知り、何度も涙が頰をつたった。

この演劇の表すテーマというものは、おそらく「生まれる」という一事象には収まらないのだろう。要するに、この街に住み、たくさんの人に出会い、あの人に恋をし、大いなる夢を見るということまで、すべての物事にその根源となる親や友がいるということ。そしてそのものたちはわたしたちを祝福しているということ。

ときにわたしたちは呪いに押し潰されそうになることがある。貴い祝福と拠りどころを、忘れそうになることがある。それでも歌い続けることに意味がある。歌っていればまた思い出すだろう。あの夢の世界で大きな野望を一緒に抱いた、兄弟たちの姿を*1

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*1:もっとちゃんとした文章を書きたかった。ともかくめちゃくちゃ良かった。次の公演も観に行こう、と決めるには十分な出来でした。

彼は彼女に魅了され/岩切一空『聖なるもの』

f:id:bsk00kw20-kohei:20180415125101j:image『聖なるもの』本予告編 - YouTube

「新時代の到来」と噂される岩切一空監督の長編最新作『聖なるもの』を観た。初日の舞台挨拶付きで。これがすっごく変な映画で、頭にこびりついて離れないシーンとかしょうもないセリフとか、ガンガン鳴り響く音楽とか可愛さのゴリ押しとか、とにかく「興味深いもの」が混在してて一日経った今でも頭がぐっちゃぐちゃになってしまっているので、この映画の表すものを整理すべく、とりあえず文章を書こうと。基本的に変な映画を観た後は整理しないまま放っておいてしまうめんどくさがりやな性格なんだけど、それでも文章を書こう、と思わせてくれてるだけでこの映画を自分は面白いと感じているのだと自覚する。たぶん、面白かった。

 

さて、岩切一空という監督を知ったのは「WOWOWぷらすと」の2017年ベスト映画セレクトの回を観てのことだった。これは、宇野維正さんや松崎健夫さん他6人の映画評論家たちがその年の映画ベスト10を決めるという放送回で、番組の構成として、まずは1月から順に「ベスト10に入れたい映画」を総ざらいしていくのだけれど。基本的には「あーそれね、よかったよね」とシネフィル気取りでウンウン頷きながら見て、時に知らない映画が出てくると己の不勉強ぶりを呪って急いでネットで調べたり、そんな風に楽しんでいた時に「岩切一空」という監督の名を知ったわけであります。松崎健夫さんが「7月期の推し映画」で選んでいたのが同監督の『花に嵐』という作品でした。その時は「ふ〜ん。若いやつが頑張ってんなぁ」くらいにしか思ってなかったのだけど、それから数ヶ月、東京に移住した私の住んでいる所の近くでこの監督の映画が上映されるということを知り、松崎健夫が絶賛したその味を知りたくて思わず駆け込んだのでした。いざポレポレ東中野へ。

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大学(早稲田)の映画研究会に所属する3年生・岩切(岩切一空)が主人公、そこに謎の女性・南(南美櫻)とカリスマ的女子大生映画監督の小川(小川紗良)が絡み合ってくる。本人が本人役を演じながら虚実入り混じったように展開する本作は、いわゆる“フェイクドキュメンタリー”の手法をとり、基本的には岩切によるPOVで進行する。

この『聖なるもの』という作品は、岩切一空という男が好きなものを好きなように撮っているという印象が大きく、ホラーやSF、青春ラブコメなど様々なジャンルを横断しながら、もうぐっちゃぐちゃに展開していく、それこそ劇中の小川が言う「客観性のない独りよがりな映画」という言葉がぴったり当てはまるような作品だ。これの良し悪しは後述するとして、しかしながら、本作はそんな無秩序なストーリーテリングでありながらも、一本の軸(問い)はしっかりと通してある。それは、「映画を撮るということ」についてあるいは「この世界で生きるということ」についての自問自答。言い換えれば「聖なるもの」を撮らざるを得ない“彼の衝動”についての自照。

4年に一度現れるという「伝説の少女」に選ばれた岩切は、ひとたび彼女に魅了され*1、訳の分からない脚本を書きながらも、人間離れした彼女の姿を描写していく。この“南”という女性の撮り方が、ホラーにもSFにも青春映画にも様変わりしていくような多彩さを見せていてインパクトがすごいのだけど、途中から「あれ?南より小川の方が出てる時間長くね?」と気づいてしまう。はてどうゆうことか。本作が、「南を撮ることによって大傑作映画を生み出す岩切のメイキングと日常の映像」を描写した映画になるのかと思いきや、なんか途中から「南美櫻、小川紗良、半田美樹、松本まりか等、自分の好きな人を撮って楽しんでいる岩切一空」を描写した映画へと構造を変えていくのだ。ちょっと難しくなってきた。

 

日舞台挨拶で「ちょい役だったはずの小川さんの出演時間が(劇中と同じく)段々と伸びていったみたいですが、どうしてですか?」という司会者の問いに対して岩切監督は「それはもう…そうゆうことじゃないですか?もっと撮りたくなったから…です」と答えていた。

要するにそうゆうことだ。劇中の「新歓の怪談」における“南”と同じく、撮らなければいけないという衝動に駆られたのだろう。それは彼女たち、あるいは本作に登場するすべての人間、またはこの世界が「聖なるもの」であると監督は感じてしまったから。そしてその聖なるものを撮るということは彼がこの世界を生きる方法でもある。宇宙よりも広いもの、この世界の外にある別の世界、なんて答えのない大きな問いにぶつかっていくことも含め、「映画を撮る」ことが「生きること」であると彼が大声で叫んでいる映画である、と私は感じたのだ。そしてそのほとばしる衝動に、同世代に生きる若者としてもの凄く、グッときてしまった。

新入生A「これYouTuberですか?YouTuberじゃないんですか、これ?」

岩切「YouTuber?いやこれ、YouTuberじゃないです…。映画の…。映画です…」

YouTuberというのは、自由に、撮りたいものを撮り、もちろん自主制作で、時には犯罪スレスレで危険なものを映し、聴衆を沸かせ、それを生業にしている人々のことを言う。そして本作における「独りよがりで客観性のない映画を撮る岩切」という男はこの特徴に合致する。しかし、彼の表現方法はYouTubeではなく映画である。子供が将来なりたい職業ナンバーワンで若者に人気の「YouTube」ではなく、大学の新入生には見向きもされない「映画」である。ただ、岩切監督はYouTuberを否定しようとしているわけではないと思う*2。実際、劇中の橘先輩と青山によるYouTube動画はちょっと面白そうだし、ふらっと見てみたくなるクオリティだ。しかし、同じ「映像を撮るもの」としては明らかに「目的」が違っている。カメラを回せばYouTubeかと問われる時代に、YouTuberと同じく自分の好きなものを撮りながら、しかし自分はYouTuberではないと語る彼の心のうちとは。

まぁそんな難しいことは考えなくていい。「この世界の真理」を映しだそうとする岩切一空と、完成図が想像できずともその情熱に引き寄せられていった出演者たちの魂の共鳴に、私の心も震えてしまったのだ。YouTubeにはない熱量と、YouTubeばりの気軽さがこの映画にはある。
若者よ、映画館に走れ!(笑)

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*1:この海の場面のSF感がたまらない!アレックス・ガーランドの映画を観てるみたいでした。

*2:僕はすごい好きです

エロティックな三浦さん/冨永昌敬『素敵なダイナマイトスキャンダル』

f:id:bsk00kw20-kohei:20180329150441j:image『素敵なダイナマイトスキャンダル』本予告映像 - YouTube

(短文レビュー)

幼い頃に実の母親が隣の家の息子とダイナマイトで心中をした、という驚きの体験をもつ雑誌編集者・末井昭氏の同名自伝を原作として映画化されたのがこの作品。

 「ある一人の人物の栄枯盛衰もの」という括りでいうと白石和彌監督の『日本で一番悪い奴ら』に質感が類似している本作。ゆってもこちらの監督は『南瓜とマヨネーズ』等の冨永昌敬であるのでそこまでのジェットコースター感や誇張されたようなドラマチックさはなく、ただひたすらに、けっこう落ち着いたトーンで末井昭という興味深い人物の人生を描ききっていました。まぁ誇張した演出を加えなくとも刺激的な昭和世界と十分におかしな人生が繰り出されていくので飽きずにすごく楽しめるんですよね。

こたつや職場など、あるいはポケットから出てくるあれやもっと言えば家を出て行った母の姿まで、「出るもの」と「入るもの」が象徴的な映画ですが、そのことによって彼の生き様に豊潤さが増していくのは興味深かったです。また、頻出する「体の一部を怪我していて眼鏡が曇っている」人物たちのことをどう捉えるのか、というのも面白いところ。あんな風に目に見える傷よりも、目に見えない傷を抱えている人の方がこえーな、ってちょっと思った。

そして、本作は何と言っても三浦透子さんが素晴らしすぎる映画です。『月子』で体現したような特殊な演技に加え、艶やかな佇まいやぶっきらぼうな仕草まで、その一挙一動がすごく幅広くバリエーションに富んでいて吸い込まれてしまう。21歳でこんなに多くの色を出せるのは驚きしかないです。これからも楽しみな女優さん*1

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*1:『架空OL日記』のかおりんとスカートの諸々のMVがめっちゃ好き。顔が好きなんだと思います。

最近おもしろかったもの(2018年3月1日~)

 

はじめに

なんかいきなりブログの更新頻度が低くなってしまって焦ってます。というのも春から東京で就職することが決まっており、部屋探しやらなんやら、大学ももうすぐ卒業してしまうので別れゆく友との飲み会やらなんやらで、まとまった文章を書く時間と気力がない…。こんなんで怠けてるようじゃ社会人になってしまったら文章を書けなくなってしまいそうで心配です。ただ、忙しいといっても面白いものには常に触れようと尽力しています。こればっかりは生きがいなんでね。というわけで備忘録として記録しておくために短文で「最近おもしろかったもの」を10個ばかしまとめておくことにしました。ドラマや音楽、漫画など多ジャンルを攻めてるので趣味が合う方がいたら嬉しい限りです。

 

 

最近おもしろかったもの十選

 

【音楽】Rejjie Snow『Dear Annie』f:id:bsk00kw20-kohei:20180314125218j:image

僕の人生と一生交わるはずがなかったヒップホップ。なんだけど、いやぁこれはたまげた。めっちゃいいんだもん。聴くしかないよこれは。とりわけ、24歳というRejjieの同世代感が堪らなくいいです。ダブリン出身ってのも特に理由はないけど好き。中でも「spaceships」と「23」という曲を最近よく聴いてて、リリックを理解しようと必死です。まぁ全然分からないんだけど。私ももうすぐ23です。

 

【音楽】Nulbarich『H.O.T』f:id:bsk00kw20-kohei:20180314125225j:image

あいもかわらず、いい。思わず体が揺れてしまう良曲揃いであることはさておいて、リード曲である「ain’t on the map yet」のミュージックビデオが最高にクールなんだよなぁ。「心が躍る」「想像する」そして「現実を生きる」。音楽を聴くってこういうことじゃない?というのが可視化されていて鳥肌がたった。

Nulbarich – ain't on the map yet (Official Music Video) - YouTube

 

【音楽】andropcocoonf:id:bsk00kw20-kohei:20180314125522j:image

「君がいない」ということと「それでも生きていく」ということをメロディとリリックを変えながら何度も何度も歌い続けた13曲収録のフルアルバム。8曲目である「kitakaze san」の間の抜けた感じがめっちゃ好き。少し暗い楽曲が並ぶ中で、こういった“おとぎ話”はバンプの「ハンマーソングと痛みの塔」や「K」のような優しい役割を果たしている。

 

【ドラマ】Amazonプライム『さまぁ~ずハウス』f:id:bsk00kw20-kohei:20180314125159j:image

さまぁ〜ずと1人の女優がおりなす「一発撮りドラマ」。用意されるのは舞台となる部屋と脚本だけで、撮り直しもリハーサルもなしという画期的(?)で実験的な番組です。2話目に登場するのんちゃんがめちゃ最高なのは言うまでもなく。芸人ぷらす女優のコント風シットコムってまぁ外れることはないんですよ。「住住」しかり「ウレロ」しかり。今後にも期待です。

 

【ドラマ】TBS『アンナチュラル/9話「敵の姿」』f:id:bsk00kw20-kohei:20180314125234j:image

クオリティのおばけ。こんなにしっかりとしたドラマ、『マインドゲーム』とかそこらへんの海外ドラマとも全然肩を並べられるぞ。それを圧倒的に少ない予算で作りあげているのだからもうなんも言えねぇっすわ。毎話毎話言葉にならないほどの衝撃を受けています。

 

【ドラマ】フジテレビ『隣の家族は青く見える/7話』f:id:bsk00kw20-kohei:20180314125243j:image

脚本のクオリティの高さではこちらも負けてません。多様で難しい「家族の問題」を時に交わらせながら個別に語っていく筆致のなめらかさ。少しでも伝え方を間違えれば方々から非難を食らってしまうこの時代に、これほど慎重に、そして温かい目線でこのでこぼこな「パズル」のような世界を巧みに描き出したこのドラマを挑戦的と言わずして何と言うか。今クール、結末が最も気になるドラマです。

 

【バラエティ】静岡朝日テレビ/SunSetTV『Aマッソのゲラニチョビ』f:id:bsk00kw20-kohei:20180314125250j:image

偶然Twitterで見かけたこの番組。静岡朝日テレビが運営するインターネットテレビ局「SunSetTV」にて配信されているコンテンツです。YouTubeで視聴可。Aマッソってやっぱりおもしろい。#32からの「台湾・タイマン・ツアー」が最高。「水曜どうでしょう」的な安物感がいいんだよな。

 #31【Aマッソのゲラニチョビ】「台湾・タイマン・ツアーPart1」 - YouTube

 

【バラエティ】Netflix『あいのりAsianJourney/エピソード20』f:id:bsk00kw20-kohei:20180314125256j:image

ドラマのワンシーンのような追駆劇を見せる男らしさと、愛する人の一つのミスにネチネチとこだわり続ける醜さを併せもった人間が「シャイボーイ」という男なのです。多面性が浮き彫りになるのがこの番組の最大の面白さであるから、人が入れ替わっていってもその質が低下することはありません。今は「ゆうちゃん」の活躍を楽しみにしています。

 

【漫画】コナリミサト『凪のお暇』

凪のお暇 1 (A.L.C. DX)

凪のお暇 1 (A.L.C. DX)

 

空気を読みすぎて過呼吸になった、という魅力的な宣伝ワードに惹かれて読んでみたのだけど、これがすごく面白い。現代的な社会派ドラマを織り込んだほんわかラブストーリーという装いで、すごく楽しく読めます。『A子さんの恋人』と並んでドラマ化待ったなしな感じです。

 

【漫画】マキヒロチ『吉祥寺だけが住みたい街ですか?』 

 東京での部屋探しを前に以前から気になっていた作品を手にとってみました。なんか分からんけど1話1話めちゃくちゃ面白い。「東京って案外ええ街やん」と関西生まれ関西育ち東京春から、な筆者が言うております。

 

映画は『シェイプ・オブ・ウォーター』が大好きなやつでした!ギレルモ・デル・トロ監督、良かったね〜!(笑)

 

孤独の先にある孤独/今泉力哉『パンとバスと2度目のハツコイ』

f:id:bsk00kw20-kohei:20180222211145j:image自分はこうゆう性格だからと決めつけたものの、やっぱりそうじゃないと思ったり実は無意識に正反対のことを強く求めていたり、人間って色んな感情を抱えながら模索して生きている。抽象的な導入になってしまったけど、本作、元乃木坂と三代目が主演のアイドル映画だと侮るなかれ、今泉力哉監督の本気というか、いやいつも本気なのだろうけど、何というかこの映画に全てをぶつけてる感じ。結婚観や恋愛観だけでなく自意識や孤独などをテーマに据えた骨太な作品からは監督のそんな姿勢が窺える。


ケータイを持ち歩かない。イマドキの「インスタ女子」からは遠くかけ離れた位置に存在するのが本作の主人公・市井ふみ(深川麻衣)。パン屋で働く彼女は毎朝3時半に起床。14時頃まで働いて職場を後にし、まかないのパンを食べながら大型バスが洗車される姿を眺める。皆が寝静まった時間に目を覚まし、ひとりでボーッとバスを眺め、ケータイを携帯しない。友達や恋人、妹との会話が冒頭で展開されるものの、このように自ら「ひとり」でいることを求めていく主人公はある種特徴的に変わりものとして映し出されていく。

 

私をずっと好きでいてもらえる自信もないし、ずっと好きでいられる自信もない

そんな彼女は、付き合っている彼から結婚を申し込まれたことによってある事に疑問を抱くようになる。結婚しても、相手のことをずっと好きでいるのなんて不可能なのではないか、と。「そんなこと考えたら結婚できないじゃん」と恋人が正論を返すように、誰もが疑問とそれに対する諦念を抱いているような問いに対して真正面からぶつかっていく彼女の姿も少し変わっているけれどものすごく彼女らしくてリアルに映る。

まずはこの冒頭の人物紹介がとにかく素晴らしくて魅入ってしまう。例えばフランスパンを使ったコミカルなアクションだとか、無意識に指輪をはめてしまっている茶目っ気とか、言葉以外の様々な人物の目線が内に秘めたる感情を雄弁に物語っていたりとか。静かなストーリテリングでありながら中身は詰まりに詰まっているこの感じ、これぞ演出、という監督の手腕に敬服しながら魅了されてしまうのです。

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彼女の“孤独”を象徴するような「パン」と「バス」、そしてそこに訪れたのが「2度目のハツコイ」ふみの初恋相手である湯浅たもつ(山下健二郎)であった。彼はバスの運転手、そして愛し続けた妻に浮気され、離婚を強いられてしまった「孤独」の存在として、再び彼女の前に現れる。そうしてまた、当たり前のようにふみはたもつに惹かれていく。そこには孤独を求めてしまう自意識の肯定や別れた奥さんのことを今でも愛し続けていることへの興味と憧れ、片思いでいられることの気楽さなどの感情が複雑に混ざり合っているように見える。

一面的な見方ではあるけれど、このふみという人間は「孤独」に後ろ髪を引かれながら、たもつの左(斜め後ろ)側にいることを心地よく思っている女性であると言ってしまおう。自分だけにしか描けない絵はないし、人に好きになられたら「私なんか…」と思ってしまうほどに、とにかく自信のないふみは、彼女の言葉どおり「孤独になっちゃう」し、「寂しくありたいんだと思う」。しかし、一方で、本作の主題歌であるLeolaの「Puzzle」が示すのは、愛する人と一緒に生きていきたいという弱々しくも切実な祈りだ。

君が今 誰よりも 会いたいと
いちばんに 想うのは…?
今はまだ、I don't wanna know
その答え 知る勇気なんてなくて…。
でもそれが 私なら なんてこと 考えて
らしくないよね。 もう、バカみたい。
No way! でも気になるの。

緑内障という目の病気を抱えているふみは、右目の右上の部分が見えない。本作ではカウンターや車、道を歩くシーンなど、ふみとたもつが横に並んでいることが多いのだけど、注意して見ていると、そのどの場面においてもふみはたもつの左側にいることが分かる。前述したとおり、ふみにとって右側にいるたもつは、たぶんちょっとだけ、見えにくい。でもたぶん「あえて」、彼女はそこに居る。そうしてそのことは、その位置にいることの心地よさと、まだしっかりと彼に向き合えていないことを明示しているのである。

永遠も約束も これからも、
頼りには出来ないの
それでもね、君にまた胸を焦がすの
左斜め後ろが 今の私の居場所
だけど…
I just want to be with you...

だけど…。本当はもっと違う場所から彼の姿を見てみたい。もっと近くで、あるいは心の中を。けれど洗濯機の不穏な叫びとともに「孤独の守り人」が彼女の眼前に姿をあらわす。このとき突然現れた孤児のような彼は「新しい洗濯機が来たらもうここには来なくていいよ」と言うけれど、ふみは「時々くるよ。私には孤独が必要だから」と応える。ポール・オースターの『孤独の発明』(未読なのでいつか読みたい)が不穏に影を落とし、残ったのは禁断の果実。「孤独」は、いつか離れるべき存在として、儚げに消え去っていく。

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目を離したらその隙に消え去ってしまいそうな、そんな儚げなふみの後ろ姿を不安そうに眺める一筋の視線。ふみの妹・二胡志田彩良)の存在は、本作のほんわかパートも込みで絶妙なアクセントになっていました。憎み合う『犬猿』のきょうだい達と本作の和やかすぎる姉妹。この2作品だけで世のきょうだいの8割くらいはカバーできているのでは。みんな後者のようなきょうだい関係を結ぶことができれば幸せですよね、なんて。そんな理想的な方のきょうだいの妹である二胡は、「ふみのことを分かろうとするため」にお姉ちゃんの家へやってきます。お姉ちゃんが絵を描くのをやめたのは、分かろうとすることをやめて孤独になろうとしていることの表れだと二胡は想像してやってきたのかもしれない。そうして二胡は、ふみを描きながら彼女の本質と対面していきます。ときに見えなくなってしまった彼女を青で塗りつぶし、また描いて、彼女の本質を模索しながら。


本作のラスト、たもつの輪郭と共に、Alone Again (Naturally)という文字が浮かび上がってくる。ピンとこなかったので鑑賞後ネットで検索すると、一曲の歌がヒットした。こちらも恥ずかしながら聴いたことがなかったのだけどギルバート・オサリバンという歌手の楽曲らしい。和訳*1を見てみると、ある男性が結婚式場で婚約者に逃げられて、自身の半生を振り返りながら孤独であることを嘆くような、ものすごく悲しい楽曲であることが分かった。この曲と本作を関連づける前に、ふみが求めてしまう「孤独」とたもつが陥る『孤独』は同じ孤独でも経緯と種類が全く異なるものであるということを記しておきたい。ふみの「孤独」はずっと孤独だけど、たもつの『孤独』は「孤独」の先にある、人を知った先にある孤独だからだ。


このギルバート・オサリバンの「Alone Again (Naturally)」という楽曲は、一見するとすごく悲しくて、救いようがないように感じてしまう。だけど彼が孤独を感じる前には疑いようがなく幸せが存在していたのだ。 別れの前には必ず出会いがあり、悲しみの前には必ず喜びがある。そういった感情の豊かさが人生というものを豊かにするのではないか。ふみは、別れから生まれるこの『孤独』をたもつの生き様に投影し、その美しさに思わず筆を走らせてしまったのだ。

その魅力の本質を知っても
憧れ続けることができるのであれば

パーキングから見えた朱い夕陽。
夜明け間近の青のグラデーション。
きれいな景色を一緒に眺めることができる誰かがいれば、きっと彼女の人生は彩りを増していく。

出るものが出る/吉田恵輔『犬猿』

f:id:bsk00kw20-kohei:20180214094133j:image吉田恵輔監督による4年ぶりのオリジナル脚本映画。これがめちゃ面白かった。久しぶりに映画館で泣いた。これは兄弟を持つ人よりもこうゆう兄弟をそばで見てきた人の方が心に刺さるかもしれない。僕はこの映画を観て、子供の頃毎日遊んでた近所の兄弟を思い出してなんだか泣かずにはいられなくなった。彼らの関係が悪化していく様も含め…。しかし泣くだけじゃなくてすんごい笑えるんだよなぁ。吉田恵輔監督の作り出す「喧嘩会話劇」が巧み。当事者にとっては悲劇でも側から見ると喜劇になるってこと、あるんだなぁとしみじみ。兄弟って、家族って、かくも醜く、愛らしいんだ。

吉田恵輔監督が描く壮絶な兄弟&姉妹ゲンカ…『犬猿』予告編 - YouTube

「一番近い他人」それが兄弟であり、姉妹。子供の頃は何も考えずに付いて回ったり、喧嘩したり、ゲームで一喜一憂したり、チャンネル争いで足バタつかせて蹴りあったり…。なんというか「自然に」友達の一人のような感覚で接することができるのだけど、成長していくとそうは言ってもいられなくなって段々と「何か」が変わっていく。

姉をもつ いち弟として、弟は、生きていく上で兄(姉)を意識せざるを得ない生き物なんです。兄があの習い事をやってるから自分もやってみたいとか、兄があの高校に入ったなら自分は一つ上を目指してやろう、とか。そのようにひとりの人物の構成要素における「兄が〜だから」の占める割合が増していき、何をするにしても意識してしまうその存在は、もはや自分の一部と化してしまうほど肥大化していくもの。だからこそ「自分」と混ざり合っていく他者の存在に困惑し、鬱陶しくて、死んで欲しいくらい大嫌いな存在へと変貌していく。

また、ここでいう「自分の一部」というのは精神的な要素が大きいのだけど、本作の劇中における家族や兄弟の「尻ぬぐい」の描写は、もっと可視化してこの「混在化」を表出していく。親子でいうとそれは借金の肩代わりや父のお世話(における採尿)など。兄弟だと、出所してきた兄の身を一時的に預かったり、聞き流すだけの英語が効果を発揮しなかった際に流暢な英語でカバーしたり。流れてくるもの、吐き出されるものを受け止めなければいけないのが、家族や兄弟の宿命であるから、言葉を吐き出し相手にぶつけるという行為も、互いの「受け皿」として機能していく。これは結構ポジティブな意味合いも大きいと思う。だって人間という生き物は「出るものは出る」のだから、受け止めてくれる人がいないと何もない海の真ん中に流れていってしまう。流れる血を止めてくれる人がいないと死へと誘われてしまうように。

すごく面白いと思ったのは、和成(窪田正孝)と真子(筧美和子)の遊園地デートのシーンで、和成は兄のことをボロクソに謗るけど、真子に兄のことを貶されると即座に反論する場面。すんごいあるある、そしてこれぞ「混在化」というような一コマだと思うのです。もはや自分の一部と化してしまっているからこそ、自分はどう思ってもいいけど他人には口出しして欲しくないという感情が芽生えるのだろうなと。なんて面倒くさくて、愛らしい生き物なんだ。

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犬猿の仲」。ラストはもちろんそうなるだろう。無視しようとすればできるのかもしれないけどあえてそうしない兄弟姉妹の衝突。「父の採尿→容器こぼす→リスカ→妹が助ける」という受け皿のリレーが表す家族という愛に満ち溢れた共同体の不器用さ。それは時に面倒くさくて死ぬほど鬱陶しいかもしれない。しかしこの映画が描いているのは、家族って、兄弟って、決して嫌なことばかりじゃないよね、っていうことだろう。チャーハンとベビースターの奇妙なコンビネーションのように、彼らはひしめき合って、共に生きていく。

人と人は分かりあえるのか/吉田大八『羊の木』考察・感想

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桐島、部活やめるってよ』において吉田大八監督は、カメラを向け合うことによって通じ合う2つの心を描き出した。ラストの屋上のシーン、前田が将来を語り、宏樹が涙するあの場面である。決して交わることのなかったあの2人の邂逅。住む世界が違っても、考え方が違っても、しっかりと目を向ければ「人は分かりあえる」ということをあの8ミリカメラを使って演出していたように感じる。

* * *

本作、すごく難解でした。一日中考えても結局何を伝えようとしているのか分からない。例えるならば現代アートを見せられているような気分。(できればもう一度見て)もう少しだけ考える必要があるとは思うのだけど、この「分からない」という感情も恐らくこの映画のトーンに同調していると思うのでこの状態でとっ散らかった感想を書いてみたい。

 

本作がまず描いていたのは、「私たちは(元)殺人犯と共生できるのか」という問いである。映画『怒り』が描き出したあの「信じる/疑う」という感覚がここでも蘇ることになります。殺人犯に限らず、「人と人は分かりあえるのか」という問題は長い間映画という芸術が対峙してきた問いだと思うのですが、本作が描き出したそれは、難解ではあるけれど非常に見応えがありました。まとめきれないのでちょっとパートに分けます。


※以下、ネタバレを大いに含みます

 


【見る/見られる】

冒頭、月末(錦戸亮)が6人の殺人犯(この時点では知らないが)を駅や空港に迎えに行き、「人はいいし、魚は美味しい」と繰り返し語る場面がある。その場面において彼は、移住者の「食事」をただひたすらに見つめている。見るという行為によって、情報が無く得体の知れない人物たちのことを見定めているようだ。場面は変わって杉山(北村一輝)が登場する多くの場面で、彼は「カメラ」を持ち月末をはじめとして初めて出会う人々を注意深く見ている。月末が杉山のことを見ていると思ったら実は杉山が月末を見ていた、という反転が面白いのだけど、この見る/見られるという演出は他にも、バンド練習を窓から覗く宮藤(松田龍平)や大野(田中泯)の目の傷を見て怯える聴衆の目など(たぶん他にも)随所に表れている。「見る」という行為は、相手を"信じる"か"疑う"かを決定するために人々がとる行為であるだろう。私たちが殺人犯を見定めているのと同じくして、殺人犯である彼らも「この人は信じられるか」と目を凝らしている。何が言いたいかというと、殺人犯であれ何であれ、人間関係における立場は同等である、ということだ。みんな「この人は信じられるのか」ということを確かめるために怯えながら、期待しながら見つめている。

 

【「顔がきれる」という映像演出】

最初から最後までこの演出が多すぎて若干あざとかったんですけど、この演出をどう捉えるかによって受け取り方が変わってくると思う。頭(顔)が見えないことによって、その人物が何を考えているか分からないということを演出しているのだろうけど、登場人物同士が(相手が何を考えているのかを)分かっていないのか、はたまた画面の向こう側である私たちにだけ見えていない(考えていることが分からない)のか。どちらにしろ度重なるこの演出は私の不安感を煽っていきました。「分からない」というのはすごく怖くて不安なんです。*1

 

【共通項、肌、友達】

人は分かりあえるのかということを問うている本作ですが、「分かりあえている」状態って具体的にはどんなだろうか。本作で掲示されるものとして一つ目は「共通項」を持っているということだ。理髪店でのシーンが最も印象的かな。福元(水澤紳吾)は店主にムショ帰りであることがバレたと勘づき、激しく動揺する。「ヒゲを剃る」という行為が「人を殺す」という行為に変わってしまいそうになる中、店主自身もムショ帰りであったことが伝えられることによって福元は緊張から解き放たれ自体は好転した。共通する過去を持っているということ、あるいは趣味や好きなことが一緒であること。それは信頼へと繋がる。度々挿入されるバンド演奏もこれと同じような意味を持っているだろう。ともに演奏をするという行為でもって、長年会っていなかった彼らも心を通わせ合う。

次に、「肌で感じたあの感情はなんだったの?」と大野に訴えかけるクリーニング店の店主(安藤玉恵)の姿も印象的であった。現実に肌で感じたある種の「信頼感」が、過去に犯した殺人という罪によって「疑念」へと変わるのか。文(木村文乃)は宮越の過去を知って動揺し、クリーニング店の女性・内藤は尚も信じようと試みる。どこに違いがあり、行動と意識の差異が生まれるのか。一つ上げられるのは、大野が自らの言葉で相手に真実を伝えたのに対し、文は違う人から真実を告げられた、という違いであろう。大野は内藤を「信じて」真実を語った、一方宮越は、まだ文のことを信じきれていなかった、これこそが重要なポイントであると感じます。お互いを信頼しあうことによって大野と内藤は良い関係を築き上げたのだと思う。

また、宮越は幾度となく「それって友達として聞いてる?それとも市役所として?」と月末に尋ねる。友達は信頼できるけど市役所は信頼できないという宮越の思いは確かに共感できるものである。ただ、この質問をわざわざ「何度も(2回かな?)」するということは、まだ宮越は月末のことを信じきれていないということの現れでもある。友達であってほしいと望みながらも、宮越自身がそもそも友達であると信じきれていないところに問題点を感じました。つまり、私たちが彼らを信じたところで、彼らが私たちを信じないことには何も始まらないということです。

 

【繰り返す】

月末と宮越の関係は、宮越による殺人が繰り返されなければ上手くいっていたのではないか。宮越は殺人という行為をなぜか繰り返してしまうけれど、繰り返しているのは彼だけではない。本作で描かれるそれは例えば、福元の酒乱や太田(優香)による「故意ではない殺人(未遂)」、悪いことを企む杉山など。「人は良いし、魚は美味しいし」と語る月末もそうかもしれない。人は何か「良くないこと」を意識的にも無意識的にも「繰り返して」しまう。そしてそのことによって、心は離れていく。

 

【Death is not the end、死は終わりではなく】

本作の主題歌である「Death is not the end」。

告白すると、この歌が「希望」と「絶望」のどちらを歌っているのか、何度聞いてもわからないのです。その両方かもしれないし、全然違うのかもしれない。そしてそれは、この映画の締めくくりにとてもふさわしいと思えました*2


吉田監督はインタビューでこのように語っている。この映画のラストは希望なのか絶望なのか、それは監督にさえ、"分からない"。月末と宮越のどちらもが生きれる世界ではないということは、まぁ確かなんでしょうね。それが良いことなのか悪いことなのか。分からないけれど、考え続けたい問いとなりました。

 

【分からない】

この映画、とことん分からないんですよ。同じ町に6人もいればそりゃ何かが起こってもおかしくないだろうに元殺人犯を住まわせる市長の気持ちがまず分からないし、同じことを繰り返してしまう彼らの心情も分からない。そしてラストシーン。文の言葉を月末は「ラーメン」だと解釈するわけだけど、本当にラーメンと言っているかどうかは、文にしか分からない。そもそも月末という人物の内面は「文のことを一途に思っている」ということくらいしか観客には知らされません。成長も転落もせず、映画の始まりと終わりで何も変わっていないように見える彼の姿は、他の吉田監督作品と比べても主人公らしくありませんでした。終始『分かったフリ』をしているような人物にも見えたのだけど、うーん。もしかしたら数ある登場人物の中で一番内面の分かりづらい人物だったかもしれない。

人と人は分かりあえるのか。分かりあえることもあるだろうし、分かりあえないこともあるかもしれない。他人なんて分からないことだらけだけど、一人では決して生きていけないから私たちは人と「出会う」。その時に、この月末のように「分からない」ことを「ラーメン」と勝手に解釈して生き続けるか、それでも分かろうと努力し続けるか。反対方向に進んでいくバイクを見守る月末の姿に、「それじゃダメだ」と直感的に感じたのです。f:id:bsk00kw20-kohei:20180205022839j:image

【反駁】いや、「何となく」で通じ合う関係も悪くはないかもしれない。文が実際に「ラーメン」と言葉を発していたとしたら、フィーリングで通じ合えているのは素敵なことだ。ただ、文と月末の心が通じ合っているかと問われれば、微妙なところだろう。

*1:魚の頭を切る、のろろ様の頭が落ちる、など「死」と結びついているようにも感じるこの「顔がきれる」という演出。魚の死骸を植えた土から芽が出、のろろ様が海から引き揚げられたように、「死」による「救済」を表しているようにも思えます。

*2:リアルサウンド映画部」より引用https://search.yahoo.co.jp/amp/realsound.jp/movie/2017/12/post-136945.html/amp?usqp=mq331AQECAEYAQ==