縞馬は青い

縞馬は青い

映画とか、好きなもの

黒澤明「羅生門」

真実と嘘の混じり合った豪雨が
純真な赤子のもとに容赦なく降り注ぐ

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登場人物はたったの8人!多襄丸という男が武士の夫婦を襲って、夫の方を殺した!何とも分かりやすい序盤の展開。そのはずなのにそこからの展開は混乱を極めます。「分かんねぇ。さっぱり分かんねぇ」とある人物は語りますが、その通り、目撃者と当事者の事件に対する証言は見事に食い違い、「真実」は藪の中。エゴイズムの嘘で塗り固められた各々の「信じたい真実」がぶつかり合い、その判断は観客に委ねられます。

そもそもみんなが共有できる「真実」など存在するのでしょうか。「女性は弱くて愚かだ」という、男性が信じ続けた女性の姿が音を立てて崩れ去る時、私たちが唯一頼りにしていた「男」と「女」という概念さえもが脅かされてしまう。「真実」はことごとく否定され続ける。しかしこの世界は確かにそうなっていて(真実を語るばかりでは生きていけない)、生まれたばかりの赤子にその現実を突きつけるほどに腐っていると、この映画は語ります。「この世界を信じたい」と願うお坊さんも赤ん坊のメタファーでしょうか。このキャラクターには、信じることでしか生きていけない弱さに優しさを感じつつも、その「現実への無関心さ」には現代人の特性も相まって恐怖すら覚えます。

終盤、もっともらしい真実が露わになり、豪雨はたちまち小雨へと切り替わる。これによって、「真実と嘘」という私たちが苦しみ続ける永遠の課題はひとまずなりを潜めることになりますが、私たちにはあの赤ん坊に晴れ渡った空を見せることはできないのでしょう。しかし、それでも生きていくしかない。あの赤ん坊に幸せが訪れることを願い続けるしかないのです。

 

羅生門 デジタル完全版
 

 

 

押見修造「血の轍」第1集

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表紙から漂う異様さ。ただ幼な子が母親に抱かれているだけなのに何か不穏な空気を感じてしまうのは成島出監督の映画「八日目の蝉」の影響もあるだろう。しかしそれだけではないはずだ。デフォルメが抑えられた女性と子供の顔に釘付けになり、この漫画の帯には「究極の毒親」という宣伝文句が貼りつく。この妙な表紙を見ただけで、吸い込まれるように本作を手に取ってしまった。

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惡の華」や「ハピネス」などで知られる押見修造であるが、この作家の漫画を読んだのは初めて。表紙から継続して、この人の描く絵の異様さは筆舌に尽くしがたい。物語の序盤、母親は、もの凄く愛に溢れた優しい存在として描かれ、息子との平穏な日常が経過していく。しかしその平穏な日常においても「何かがおかしい、奇妙だ」という感情が拭えない。この原因は、この母親が「毒親」であるという先入観を読む前から表紙の帯によって与えられていることによるところが大きいのだけど、それと同じくらいにやはり絵のインパクトが凄まじい。人物の顔に必要以上の影をつけてみせたと思えば、次のページでは光に晒され真っ白になった顔が現れる。この手法はまるで黒沢清の映画を観ているようだと言う他に言葉が見当たらない。それほどに不穏で、優しい日常なのにどこか気持ち悪さを感じながらも、なぜかページをめくる手は止まらない。前半はこのように「何も起こらないけど、何かがおかしい」という感情を読者に与え続ける。そして後半、母親の真の姿が明らかになると共に物語は一気に加速度を増し、事態は転落していく。まさに崖から落ちるように。

先で絵の構成が黒沢清的(映画でいう演出)だと述べたが、演出だけでなく物語の導入としてもかなり黒沢清感に溢れている。「主人公が生きる平凡な日常に急遽異質な人物がやってきて、主人公たちは疑問に感じながらもその人物に影響されていく」というのが黒沢清の近作(「岸辺の旅」、「クリーピー」、「ダゲレオタイプの女」、「散歩する侵略者」)に共通するモチーフだ。今作の第1集においても、主人公である長部静一は、今まで違和感なく暮らしてきた母親・静子の異常な一面を知り、世界が歪んでいく感覚を覚える。そういった導入を見せるこの漫画も、まさしく黒沢清的な形式を辿っていると言えるのではないだろうか。

この物語がどのような結末へと進んでいくのが気になるところ。それこそ黒沢清の描く映画ならば、主人公はカオスな出来事を経験した後、歪んだ実世界からかけ離れた世界へと着陸する。押見修造は母という存在を毒として描くことによって何を見せたいのか。個人的には、男性である作者が、女性をあえて誇張して偶像的に描くことによってその偉大さを証明しようとしているのではないか、と睨んでいる。

血の轍(1) (ビッグコミックス)
 

 

 

 

成島出「八日目の蝉」

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地上に出てくるとたった七日で死んでしまう蝉。でももしも八日目を迎えた蝉がいたら…。仲間がみんな居なくなった世界で一人苦しみ、一日多く生きたことを悲しむのか。それともその一日で何か素晴らしいものを見つけて幸福を掴むのか。

物語は幼児の誘拐やカルト教団などが絡み、かなり特殊な状況を描き続ける。けれど、「八日目の蝉」というタイトルが示しているのはもっと普遍的なことではないだろうか。「人とは違うこと」に悲哀の感情を抱き続けるのか、それでもその状況に希望を見出すのか。この映画には「人とは違う」ことに悩む人たちを優しく抱きしめてくれる母性のようなものを感じる。

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この映画が描くのは誘拐によって生まれた擬似親子関係。この関係を肯定することは倫理的にあってはならない。それなのに、完全に「母と娘」であるこの2人を見ていると、こちらにまで幸福感が及んでくるのである。何とも困った映画で、感情が揺さぶられては理性が邪魔をする。釈然としない。

しかしこの物語が発する「愛」という単純なキーワードに目を向けると、その異様なまでの愛の発露に理性なんて複雑なものは吹き飛んでしまう。思えば希和子(永作博美)の転落は、恋人との愛のこじれと子供への歪んだ愛に起因していた。そして事件から21年が経った恵里奈(井上真央)を救うのもまた、母の大きな愛だったのだ。愛を知らなかった女性が、かつて愛を受けて育っていたことを思い出し、それは自分の産む子供へと受け継がれていく。これほどまでに愛を肯定したこの物語を悲劇だけで語ることはできない。

そして愛は伝染し、物語は続いていくのだろう。それが分かったのだから、八日目の蝉で良かったんだ。

是枝裕和「そして父になる」

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十一月、野々宮良多(福山雅治)とその妻みどり(尾野真千子)、そして息子の慶多はいわゆる"お受験"のために私立小学校の面接会場へ訪れる。息子の明るい未来を確定させるため早い時期にレールに乗せようとする父親の良多。そのお受験も難無く終わったように見えたが、ここでこの一家に思いもよらない問題が舞い込んできてしまう。6歳になる息子が産後に他の子と取り違えられていたというのだ。父親である良多は「従来であれば100%交換する」という世間の常識に自身の信念を呼応させながらも、6年過ごした息子への抑えきれない愛情と自身の過去の出来事の中で葛藤し、家族のあるべき姿を模索していく。

 

およそこのような粗筋で物語は進むのだけど、是枝監督の演出力はやはり素晴らしい。このような悲惨な事件を扱うならば、その事件の背景を問い質し、社会へと問題を投げかけるのが一般的かもしれないけれど、加害者を加害者として撮らない是枝監督は、この事件に別の視点を与える。「この事件が現代日本で起こればどうなるか」という視点だ。そもそもこの「子供の取り違え」という事件はひと昔前のベビーブームの頃に頻発したものであり、現代ではほとんど起こり得ないものである。今作においてもこの事件が訳ありだったことが後に明かされるが、是枝監督はそういった事件の詳細を探るという点に焦点を当てようとしない。是枝監督はこの物語を通して、「従来であれば100%交換する」という過去から3、40年経った今、社会と人々の意識がどう変わったのかという所を見つめている。

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物語も終盤に差し掛かり、「親子関係に必要なのは『血縁』か過ごした『時間』か」というこの映画における問いに監督は1つの答えを掲示する。僕はこの映画が辿った道とその結末に納得しながらもそのラストに一抹の不安を抱いてしまった。おそらくこの映画が示したのは、血縁があってもなくても家族になることはできるという事だと思う。しかし、父親である良多は最後の決断として一度選んだ子供を手放し、言い方は悪いけれど「自分の好きな方」と暮らす事を選んでしまう。これは親のエゴと言うに他ならない。振り回される子供の気持ちが全く考えられていないのだ。

しかしこのもやっとした結末さえも是枝監督の演出であることが分かる。迎えに来た良多に対して逃げる慶多。違う道を歩いた後、一応は同じ道へ合流するもその場面において慶多の顔と心情が明かされることはない。答えは全て彼に宿っている筈なのにそこを明らかにすることは決してしない。正解のように見える結末にも疑問を投げかけるのが是枝裕和という監督だ。このラストにはそんな監督の模索する眼差しが投影されていたように思う。

ラストシークエンス、ふわふわと凧のように浮遊していくカメラがそれでも家族になろうと答えを模索し続ける彼らの姿を捉え、物語は未来に託される。


 そして父になる DVDスタンダード・エディション



是枝裕和「DISTANCE」

つい最近観た「月子」と何処と無く面影が似てると思ったら撮影監督が同じ山崎裕。是枝初期作品や西川美和の作品なんかにも登場するカメラマンだ。この人が撮る映像には〈生(なま・せい)〉が鮮明に映し出されることが特徴的で、「見えないけれどそこに確かに存在するもの」を私たちにも身近に感じさせてくれる。

DISTANCE(ディスタンス) [DVD]

DISTANCE(ディスタンス) [DVD]

 

是枝監督の長編3作目である今作は、カルト教団「真理の箱舟」の信者で、無差別殺人事件を遂行した5人の〈加害者〉に焦点を当てた作品。とりわけ特徴的なのは、そういった事件を被害者の側から撮るのではなく、また加害者をこの世から去らせることによって、残された〈加害者の遺族〉を通して事件の全貌やその後を描いていった点だ。ここには「残されたもの」を描くことによって未知の存在に宿る心を探ってきた是枝監督の起源があった。

この作品の前作にあたる「ワンダフルライフ」でも一部見られたけれど今作でも「ドキュメンタリー的」な手法で登場人物たちの生を映し出す。それは、役者にストーリー構成を知らせず、それぞれのキャラクターが即興的な演技で会話を繋げていくという実験的な方法で、それによって加害者遺族である4人それぞれの生が監督自身も想像し得ない形で垣間見えていく。

こうして荒っぽくも静かに紡がれていった物語は、決して寄り添うことのできない遠い存在と私たちとの「距離」を示したのと同時に、『加害者と被害者の間に「違い」はあるのだろうか』というこの後の是枝作品に通底する問いを導き出した。

今作や「誰も知らない」において加害者を加害者らしく描かず、被害者を被害者らしく描いてこなかった是枝監督が、この作品から16、7年の歳月が経った今、どうしたって白黒ついてしまう「法廷」を舞台としそのグレーな存在と対峙していく。最新作「三度目の殺人」では家族映画だけではない是枝監督の〈人間の真に迫った瞬間〉を見せてくれると思います!!

"わたし"から"われら"へ/三島有紀子『幼な子われらに生まれ』

郊外のニュータウン。マンションが立ち並ぶ中、1つ1つの窓からは部屋の光が漏れ出る。その中の1つ、浅野忠信演じる男性・信が帰っていく家には妻と妻の連れ子である2人の娘が。一方で自身にも別れた妻との間に血の繋がった娘を持ち、年に4回ある面会の日には一緒になって子供のようにはしゃぎまくる。やがて反抗期を迎えた娘が血の繋がりに敏感になり父に反発、何も知らない下の娘は無邪気で、妻は新しい命を授かり…。3人の父親と2人の母親、そして3人の子供たちが登場し生まれたドラマは、家族の存在意義を真正面から問い質していく。

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とにかく三島有紀子監督のポテンシャルに驚かされた。『しあわせのパン』というどこか幻想的でほんわかした映画を作っておきながら、こんなにも真に迫った映画を撮ってしまうのだから。しかしまぁこの映画の予習として見た『硝子の葦』(WOWOWのドラマ、Amazonプライムで視聴可)も、扱う問題の厳しさと内容の暗さに驚いたけれど今作に至る片鱗は見せていたかもしれない。これらの作品に「家族」というテーマをひっそりと忍ばせていた三島監督が遂に正真正銘「家族」を題材にした映画を撮ったんだな。

この映画を見ると家族はとてつもなく面倒臭い存在だと認識させられる。子供も親も自分の思う通りには動かず、みんながみんな重い問題を抱えているけれど共有することはできない。何のために血の繋がらない他人と家族になっているのか分からなくなってしまう主人公もまた状況が変わるのを待つしかない。しかしいくら待っても互いに傷つくばかり。閉塞感、どうしようもなさが充満する。そんな中、血の繋がりのない「他人同士が家族になる瞬間」を垣間見た主人公と私たちは、ついに打開策を見つけるのだ。

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親子の関係に血の繋がりは必要か。もちろん無いよりはある方が安心感がある。血の繋がりがないというのはそれだけで不安定だ。けれど心の中の「何か」を変えるだけで互いの心を繋ぐことができるかもしれない。1人が2人になると、やがて3人目が生まれる。わたしが"われら"になるだけでこんなにも心強いのだから家族は捨てたもんじゃない。

らーめん・映画紀行❶中津・梅田

梅田に映画を観に行くときは軽い小旅行のような気持ちです。とにかく面白い映画と美味しい昼食を摂りたいと意気込みながら電車に乗り込みます。ここで言う昼食は大体ラーメンになってしまうんですが…。

1時間の道中の暇を潰そうとAmazonプライムで『メイドインアビス』2話目を観ました。これはもう完全に好きなジャンルなんですよね。『テガミバチ』とか最近だと『約束のネバーランド』とかの「この世界を抜け出して未知なる世界へ」冒険しちゃう映画がとにかく好きです。雰囲気が少し湿っぽい感じも共通して好んでいる点です。2話では一気に加速してヒロインの心情が見えてきました。今後も楽しみだな。

 

さて今日見る映画は2本。その前にシネリーブル梅田から徒歩3分くらいの所でラーメンを食べます。食べログ教の信者である私は、この店の得点が【3.5】を超えていることをしっかりと確認して向かいました。駅から少し離れ、大通りからも外れた人通りの少ない場所に綺麗なお店がありました。食したのは「煮干し醤油ラーメン 味付玉子乗せ」。

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恥ずかしながら煮干しラーメンというものを初めて食べたんですけど、旨味が充満したスープに舌鼓を打ちました。チャーシューも柔らかすぎて橋で持つと少し崩れてしまうほど。ジューシーで麺との相性も抜群でした。こんなに美味しいラーメン屋さんがいつも通っていた映画館の近くにあったなんて…。1年前の自分に教えてあげたかったよ…。

 

卓上に置いてあった飴を舐めて意気揚々と店を後にしました。本日1本目はシネリーブル梅田にてジム・ジャームッシュ監督の『パターソン』。

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私は敬意を込めてジャムおじさんと呼んでいますが、この方の作品はハマるときとハマらないときの差が激しいです。色々過去作を観て分かったことは、「愛らしい女性キャラ」が登場すると一気に華やかに面白味が増すということです。今作はジャムおじさんの作品の中でも微妙な方でした。個性的なキャラクターが多いんですけど親近感が湧く人物がいなかったのが原因かもしれない。気持ちよすぎて木曜日〜金曜日にかけて寝てしまったのはいい映画体験だったと思います。ジャム作品は家でゆっくり酒でも飲みながら見るのが丁度いいかな。

 

シネリーブル梅田を後にし、曇り空でそこまで暑くない梅田周辺を15分くらい歩き、次なる目的地・テアトル梅田へ向かいました。ここで観るのは三島有紀子監督の『幼な子われらに生まれ』。この映画の情報を知ったのは2ヶ月前くらいかな。家族映画をこよなく愛し、大学でもそれを題材に論文執筆中の私にとって、「子連れ再婚」や「夫婦別姓」といった売り文句には敏感です。今夏の最重要作品に特定した私は、早速過去作の『しあわせのパン』と『硝子の葦』を観て予習を進めました。この2作品の対照的な雰囲気にまずは驚かされるのですが、どちらもやはり「家族」というものを裏テーマに据えていました。『硝子の葦』なんかはミステリーとしてもよく出来てますし、役者の演技も絶品なので是非観て欲しいです。Amazonプライムで観れますよ。(Amazonの回し者ではありません)

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『幼な子われらに生まれ』は紛うこと無き傑作でした。もう驚いてしまいましたね。脚本の素晴らしさはもちろんのこと、役者の演技が凄まじいです。特に子役の3人がこの映画を1段階も2段階も上に押し上げる功労者となっていました。詳しい感想は別エントリーで記すかもしれませんが、とにかく、1年に1本のペースで家族映画の傑作が生まれるこの国に生まれてよかったと心から思ったのです。気持ちよく感慨に耽りながら帰路に着きました。