縞馬は青い

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映画とか、好きなもの

押見修造「血の轍」第1集

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表紙から漂う異様さ。ただ幼な子が母親に抱かれているだけなのに何か不穏な空気を感じてしまうのは成島出監督の映画「八日目の蝉」の影響もあるだろう。しかしそれだけではないはずだ。デフォルメが抑えられた女性と子供の顔に釘付けになり、この漫画の帯には「究極の毒親」という宣伝文句が貼りつく。この妙な表紙を見ただけで、吸い込まれるように本作を手に取ってしまった。

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惡の華」や「ハピネス」などで知られる押見修造であるが、この作家の漫画を読んだのは初めて。表紙から継続して、この人の描く絵の異様さは筆舌に尽くしがたい。物語の序盤、母親は、もの凄く愛に溢れた優しい存在として描かれ、息子との平穏な日常が経過していく。しかしその平穏な日常においても「何かがおかしい、奇妙だ」という感情が拭えない。この原因は、この母親が「毒親」であるという先入観を読む前から表紙の帯によって与えられていることによるところが大きいのだけど、それと同じくらいにやはり絵のインパクトが凄まじい。人物の顔に必要以上の影をつけてみせたと思えば、次のページでは光に晒され真っ白になった顔が現れる。この手法はまるで黒沢清の映画を観ているようだと言う他に言葉が見当たらない。それほどに不穏で、優しい日常なのにどこか気持ち悪さを感じながらも、なぜかページをめくる手は止まらない。前半はこのように「何も起こらないけど、何かがおかしい」という感情を読者に与え続ける。そして後半、母親の真の姿が明らかになると共に物語は一気に加速度を増し、事態は転落していく。まさに崖から落ちるように。

先で絵の構成が黒沢清的(映画でいう演出)だと述べたが、演出だけでなく物語の導入としてもかなり黒沢清感に溢れている。「主人公が生きる平凡な日常に急遽異質な人物がやってきて、主人公たちは疑問に感じながらもその人物に影響されていく」というのが黒沢清の近作(「岸辺の旅」、「クリーピー」、「ダゲレオタイプの女」、「散歩する侵略者」)に共通するモチーフだ。今作の第1集においても、主人公である長部静一は、今まで違和感なく暮らしてきた母親・静子の異常な一面を知り、世界が歪んでいく感覚を覚える。そういった導入を見せるこの漫画も、まさしく黒沢清的な形式を辿っていると言えるのではないだろうか。

この物語がどのような結末へと進んでいくのが気になるところ。それこそ黒沢清の描く映画ならば、主人公はカオスな出来事を経験した後、歪んだ実世界からかけ離れた世界へと着陸する。押見修造は母という存在を毒として描くことによって何を見せたいのか。個人的には、男性である作者が、女性をあえて誇張して偶像的に描くことによってその偉大さを証明しようとしているのではないか、と睨んでいる。

血の轍(1) (ビッグコミックス)