縞馬は青い

縞馬は青い

映画とか、好きなもの

スイートな“恋の始まり”と束縛からの解放/ダニエル・ヒベイロ『彼の見つめる先に』

f:id:bsk00kw20-kohei:20180507200912j:image2010年代になってアカデミー賞ほか世界の映画祭で大きなテーマとして掲げられてきた「多様性」についての一連の考察は、本作において一つの重大な回答を示したのではないだろうか。そう思えるほどに優れた映画であると感じたし、なによりも、すんごくおもしろかった。

 

本作の魅力は、ハートフルでスイートな語り口から発せられる“恋のはじまり”の描写とそこに内包された強い思い(すなわち監督からの提案)にある。物語がはじまって画面いっぱいに広がるのは、うっとりしてしまうような甘美な空間であった。
冒頭、1組の男女がプールの淵に寝そべり、ヒマを持て余しながらだべっている模様が描かれる。この場面において、どうやら男の子の方(レオ)は目が不自由なのだろうということと、男女の間には深い絆があること、女の子の方(ジョバンナ)はその目線の細かな動きによって(性的な意味かは別として)レオのことを深く愛しているのだろうということを感じとることができる。その後も数分間、この2人が学校でも、登下校中も、また放課後も常に一緒に行動している描写が続くことによって彼らの親密さが強調されながらもしかし、日常的な会話や彼らの仕草から、彼ら2人は恋人関係にはないということが徐々に明らかになっていく。

まず、もうひとりの重要人物が出てくる前のこの冒頭の映像がたまらなく愛おしい。セリフではなく目で語る場面が多いし、レオに至っては目線でもセリフでもなく、仕草で語ってみせている。目が見えないからこそセリフで多くを語る映画は多いと思うけれど、本作はその不自然さを回避しながら、雄弁な語り口を獲得していた。とりわけ、ベッドの上でふたり反対向きに横たわって会話する場面が愛らしくて大好きです。

f:id:bsk00kw20-kohei:20180507203840j:imageいつも一緒に歩いているふたり。この愛おしい日常が変わらずに続いていくのかと思いきや、レオは突然「アメリカに留学したい」と言い出す。これには劇中のジョバンナもレオの両親も、そしてわたしたち観客も驚かされることになる。彼は人知れず、環境を変えるという「変化」や両親による束縛からの「解放」を求めていたのだ。そしてここに来て初めて、これまでに少しずつ挟まれていた過保護に息子を扱う両親の姿が、一般的な家庭の親子のそれよりも過剰であることに気づくのだ*1

そのように変化を求めていたレオのもとに、転校生であるガブリエルがやってくる。そうして彼はレオに「変化」を運んでくる。

f:id:bsk00kw20-kohei:20180507223852j:image

すぐにレオと仲良くなったガブリエルは、ある日彼に「映画を観に行こう」と提案する。すぐにその提案の違和感に気づきガブリエルはレオに謝るのだけれど、画面が切り替わるとふたりは映画館に。映画内で起こっている出来事を事細かに教えてもらいながら楽しそうに鑑賞するレオの姿には、今までにない笑顔が満ちていた。また、こうした描写は映画だけに留まらず、月食観測やダンス、自転車、そして“恋”をすることによるキスと幅を広げていき、そのことによってレオの視界は大きく大きく広がっていく。

今までにやったことがないことではあるけれど、もちろん不可能なことではないこれらの行動。「恋とは」という問いについて考えたときに真っ先に考えつくのは、このように嫌いだったものを好きになったり、目の前の世界をまるごと変えてしまうような経験ではないだろうか。そのことが直接的に彼の「束縛からの解放」を示唆していく。

わたしたちは時おり、他人をイメージや型の中に嵌めようとしてしまい、また自分自身をもイメージや常識で縛ってしまう。しかし目が不自由だからといって映画や月食を観れないわけではないし、ダンスを踊ることや自転車に乗ることを恐れる必要はない。アメリカにだって留学できるし、もうなんだってできてしまう。そしてこれはレオだけでなく、わたしたちにも同じことが言えるのだ。そんな大事なことを教えてくれたのが、ちょっと無神経で優しさに溢れたガブリエルという青年だった。

この映画には前述したとおり、ジョバンナという素敵な女性が登場する。彼女とともに過ごしている冒頭のシーンは心が温まるし、退屈な情景もすごく楽しそうに見える。しかしレオが求めていたのは「変化」であって、それはそのままガブリエルであり、ジョバンナではなかったのだ。ガブリエルが登場してからのレオといったら、それはそれは輝いていて、レオの心が色づいていくさまはなんとも美しく、暖かかった。

ラストシーン、自転車で未知なる世界へと駆け出していくレオとガブリエルの美しい画。「先入観からの脱却」や「可能性の渇望」というものの重要性をこの映画は教えてくれた。

f:id:bsk00kw20-kohei:20180507223509j:image「彼の見つめる先に」予告編 - YouTube

 

*1:「一般的」という言葉をこうゆう場面で使うのは危険だと思うのですが、要するに、両親はレオを束縛しているということです。そしてこの意見は、目が不自由であるから両親は当然そのような行動をとってしまってもおかしくないと考えた上でのもので、それでもやはり、可能性を慮ることの重要性を感じたのです。

伝染する空虚と届かぬ愛/エドワード・ヤン『恐怖分子』

f:id:bsk00kw20-kohei:20180503155045j:imagef:id:bsk00kw20-kohei:20180504010439j:image

惚れ惚れする印象的な画を並べるためだけのエントリーです。

f:id:bsk00kw20-kohei:20180503235758j:image

本作『恐怖分子』における均整の取れた美しい画の根底にあるのは、ビルやマンションの窓、写真、鏡などの四角形。これはおそらく、この映画における4人の主要人物を表している。妻と暮らす現状の生活に満足しながらも職場では次期課長のポストを狙うリーチュン、その妻で小説家のイーフェン、兵役間近で不安定なカメラマンの青年・シャオチャン、彼が一目惚れすることになる混血の不良少女・シューアン。

f:id:bsk00kw20-kohei:20180503235805j:image

冒頭、誰もいない部屋の窓に銃弾が撃ち込まれ、ガラスが飛散する。都市に散らばる見知らぬ4人が不意に交わることによって、4人の心は砕け散ってしまうということの暗示。この映画の残酷なところは、まったく「うまくいかない」ところにある。ずるずると悪い方向に話が進んでいき、「飛び散る」という最悪の結末に収斂されていくところに。空虚や不安、恐怖は簡単に感染し、愛や思いやりはまったく向かうべき場所に導かれないところに、この物語のいやらしさとこの世界の真理がある。

f:id:bsk00kw20-kohei:20180503235810j:image

電話線を伝う悪意と恐怖、不安。届かなくてもいいはずの写真はシャオチャンの彼女を悲しませ、最終的にリーチュンの元へ。届いてほしい愛は、届くはずのものには見過ごされ、彼らは部屋から姿を消してしまう。「届くはずの愛」という意味で一番気になってしまったのは、リーチュンとイーフェンが暮らす家にある洗面所だ。リーチュンは医者という仕事柄からか、家に帰ってくると入念に手を洗うのだけれど、彼はいつも手を拭かない。そこに違和感を感じるのは洗面所に10枚以上のタオルが掛けられているからである。手を拭かない人がタオルを掛けているなんてことはありえないわけだから、あれはイーフェンによって掛けられているということになるだろう。彼女によるリーチュンへの“想い”はこの映画ではあまり語られないけれど、この違和感で埋め尽くされた画に、彼女の想いを感じ取れるような気がする。しかし、彼女の愛は届かなかった。

f:id:bsk00kw20-kohei:20180504010350j:imagef:id:bsk00kw20-kohei:20180504010352j:imagef:id:bsk00kw20-kohei:20180504010357j:imagef:id:bsk00kw20-kohei:20180504010402j:image

呪い祝われ、わたしたちはここに立つ/キコ qui-co.『鉄とリボン』

f:id:bsk00kw20-kohei:20180503155326j:image座・高円寺2で催された演劇グループ キコ/qui-co.の第10回公演『鉄とリボン』を観劇してきました。東京へ移り住み、前々から興味のあった演劇についに触手が伸びた。演劇を観るということ自体ほとんど初めてに近かったのだけれど、これでよかった、と心底思える作品でした。観に行ってよかったと。思えば子どものころから僕は「生(なま)」のものに惹かれていました。というより生のものしかあまり信じることができなかった。生放送や生中継から、人と会うということや人の声を聞くということまで。本質的に、「虚構」や「フィクション」ではなく「実物」に惹かれていたのでしょう。そんな僕が映画を好んで観ているというのも変な話なのだけれど、映画のような完全なる虚構はエンターテイメント、もしくは時代の映し鏡としてすごく楽しめる。一方で実在するものはやはり生で実物を感じたかった。

演劇は「生」だ。物語はフィクションだけれどそこには実物が存在する。あの人が、あそこに、立っている。

 

『鉄とリボン』。幻想的な物語です。舞台は地図にない町。暖かく小さな島。そこには遊郭があり、「はなよめ」と呼ばれる女性たちが住んでいる。この「はなよめのまち」には時おり、外の世界から「カウラ」と呼ばれる男たちが「はなよめ」を求めてやってくる。遊郭に閉じ込められた「はなよめ」には名前がなく、この男たちに名前をつけてもらい、外の世界へともに旅立つことが唯一の生きる道でした。

物語の前半は、「夢のような」という言葉が一段と似合うような幻想的な場面展開で、このファンタジー世界の全貌を見せていきます。とりわけ、心に沁みわたるような歌とクラップ&ステップのパワフルなダンスが印象的で、すぐにこの世界観に埋没していくことに。しかしこの段階では、一体何が起き、どこを目指しているのかが全くわからず「あ〜綺麗だなぁ」という陳腐な感情しか生まれない。

伏線が回収され、すべてが明らかになるのは後半に入ってすぐのことでした。

それは、この世界に住む人ならば誰もが知っていて、また経験してきたことに関しての反芻でした。なぜわたしたちはここに在り、立っているのか。なぜ「死」は忌み嫌われ、「生」は尊いのか。なぜわたしたちは「生まれる」のか。

本公演では「お母さんの子宮内」を「はなよめのまち」に置き換え、ファンタジックにその高尚さを物語ってみせていた。人が生まれるということについて今一度その尊さを知り、何度も涙が頰をつたった。

この演劇の表すテーマというものは、おそらく「生まれる」という一事象には収まらないのだろう。要するに、この街に住み、たくさんの人に出会い、あの人に恋をし、大いなる夢を見るということまで、すべての物事にその根源となる親や友がいるということ。そしてそのものたちはわたしたちを祝福しているということ。

ときにわたしたちは呪いに押し潰されそうになることがある。貴い祝福と拠りどころを、忘れそうになることがある。それでも歌い続けることに意味がある。歌っていればまた思い出すだろう。あの夢の世界で大きな野望を一緒に抱いた、兄弟たちの姿を*1

f:id:bsk00kw20-kohei:20180503172509j:image

*1:もっとちゃんとした文章を書きたかった。ともかくめちゃくちゃ良かった。次の公演も観に行こう、と決めるには十分な出来でした。

彼は彼女に魅了され/岩切一空『聖なるもの』

f:id:bsk00kw20-kohei:20180415125101j:image『聖なるもの』本予告編 - YouTube

「新時代の到来」と噂される岩切一空監督の長編最新作『聖なるもの』を観た。初日の舞台挨拶付きで。これがすっごく変な映画で、頭にこびりついて離れないシーンとかしょうもないセリフとか、ガンガン鳴り響く音楽とか可愛さのゴリ押しとか、とにかく「興味深いもの」が混在してて一日経った今でも頭がぐっちゃぐちゃになってしまっているので、この映画の表すものを整理すべく、とりあえず文章を書こうと。基本的に変な映画を観た後は整理しないまま放っておいてしまうめんどくさがりやな性格なんだけど、それでも文章を書こう、と思わせてくれてるだけでこの映画を自分は面白いと感じているのだと自覚する。たぶん、面白かった。

 

さて、岩切一空という監督を知ったのは「WOWOWぷらすと」の2017年ベスト映画セレクトの回を観てのことだった。これは、宇野維正さんや松崎健夫さん他6人の映画評論家たちがその年の映画ベスト10を決めるという放送回で、番組の構成として、まずは1月から順に「ベスト10に入れたい映画」を総ざらいしていくのだけれど。基本的には「あーそれね、よかったよね」とシネフィル気取りでウンウン頷きながら見て、時に知らない映画が出てくると己の不勉強ぶりを呪って急いでネットで調べたり、そんな風に楽しんでいた時に「岩切一空」という監督の名を知ったわけであります。松崎健夫さんが「7月期の推し映画」で選んでいたのが同監督の『花に嵐』という作品でした。その時は「ふ〜ん。若いやつが頑張ってんなぁ」くらいにしか思ってなかったのだけど、それから数ヶ月、東京に移住した私の住んでいる所の近くでこの監督の映画が上映されるということを知り、松崎健夫が絶賛したその味を知りたくて思わず駆け込んだのでした。いざポレポレ東中野へ。

f:id:bsk00kw20-kohei:20180415134832j:image

大学(早稲田)の映画研究会に所属する3年生・岩切(岩切一空)が主人公、そこに謎の女性・南(南美櫻)とカリスマ的女子大生映画監督の小川(小川紗良)が絡み合ってくる。本人が本人役を演じながら虚実入り混じったように展開する本作は、いわゆる“フェイクドキュメンタリー”の手法をとり、基本的には岩切によるPOVで進行する。

この『聖なるもの』という作品は、岩切一空という男が好きなものを好きなように撮っているという印象が大きく、ホラーやSF、青春ラブコメなど様々なジャンルを横断しながら、もうぐっちゃぐちゃに展開していく、それこそ劇中の小川が言う「客観性のない独りよがりな映画」という言葉がぴったり当てはまるような作品だ。これの良し悪しは後述するとして、しかしながら、本作はそんな無秩序なストーリーテリングでありながらも、一本の軸(問い)はしっかりと通してある。それは、「映画を撮るということ」についてあるいは「この世界で生きるということ」についての自問自答。言い換えれば「聖なるもの」を撮らざるを得ない“彼の衝動”についての自照。

4年に一度現れるという「伝説の少女」に選ばれた岩切は、ひとたび彼女に魅了され*1、訳の分からない脚本を書きながらも、人間離れした彼女の姿を描写していく。この“南”という女性の撮り方が、ホラーにもSFにも青春映画にも様変わりしていくような多彩さを見せていてインパクトがすごいのだけど、途中から「あれ?南より小川の方が出てる時間長くね?」と気づいてしまう。はてどうゆうことか。本作が、「南を撮ることによって大傑作映画を生み出す岩切のメイキングと日常の映像」を描写した映画になるのかと思いきや、なんか途中から「南美櫻、小川紗良、半田美樹、松本まりか等、自分の好きな人を撮って楽しんでいる岩切一空」を描写した映画へと構造を変えていくのだ。ちょっと難しくなってきた。

 

日舞台挨拶で「ちょい役だったはずの小川さんの出演時間が(劇中と同じく)段々と伸びていったみたいですが、どうしてですか?」という司会者の問いに対して岩切監督は「それはもう…そうゆうことじゃないですか?もっと撮りたくなったから…です」と答えていた。

要するにそうゆうことだ。劇中の「新歓の怪談」における“南”と同じく、撮らなければいけないという衝動に駆られたのだろう。それは彼女たち、あるいは本作に登場するすべての人間、またはこの世界が「聖なるもの」であると監督は感じてしまったから。そしてその聖なるものを撮るということは彼がこの世界を生きる方法でもある。宇宙よりも広いもの、この世界の外にある別の世界、なんて答えのない大きな問いにぶつかっていくことも含め、「映画を撮る」ことが「生きること」であると彼が大声で叫んでいる映画である、と私は感じたのだ。そしてそのほとばしる衝動に、同世代に生きる若者としてもの凄く、グッときてしまった。

新入生A「これYouTuberですか?YouTuberじゃないんですか、これ?」

岩切「YouTuber?いやこれ、YouTuberじゃないです…。映画の…。映画です…」

YouTuberというのは、自由に、撮りたいものを撮り、もちろん自主制作で、時には犯罪スレスレで危険なものを映し、聴衆を沸かせ、それを生業にしている人々のことを言う。そして本作における「独りよがりで客観性のない映画を撮る岩切」という男はこの特徴に合致する。しかし、彼の表現方法はYouTubeではなく映画である。子供が将来なりたい職業ナンバーワンで若者に人気の「YouTube」ではなく、大学の新入生には見向きもされない「映画」である。ただ、岩切監督はYouTuberを否定しようとしているわけではないと思う*2。実際、劇中の橘先輩と青山によるYouTube動画はちょっと面白そうだし、ふらっと見てみたくなるクオリティだ。しかし、同じ「映像を撮るもの」としては明らかに「目的」が違っている。カメラを回せばYouTubeかと問われる時代に、YouTuberと同じく自分の好きなものを撮りながら、しかし自分はYouTuberではないと語る彼の心のうちとは。

まぁそんな難しいことは考えなくていい。「この世界の真理」を映しだそうとする岩切一空と、完成図が想像できずともその情熱に引き寄せられていった出演者たちの魂の共鳴に、私の心も震えてしまったのだ。YouTubeにはない熱量と、YouTubeばりの気軽さがこの映画にはある。
若者よ、映画館に走れ!(笑)

f:id:bsk00kw20-kohei:20180415162553j:image

*1:この海の場面のSF感がたまらない!アレックス・ガーランドの映画を観てるみたいでした。

*2:僕はすごい好きです

エロティックな三浦さん/冨永昌敬『素敵なダイナマイトスキャンダル』

f:id:bsk00kw20-kohei:20180329150441j:image『素敵なダイナマイトスキャンダル』本予告映像 - YouTube

(短文レビュー)

幼い頃に実の母親が隣の家の息子とダイナマイトで心中をした、という驚きの体験をもつ雑誌編集者・末井昭氏の同名自伝を原作として映画化されたのがこの作品。

 「ある一人の人物の栄枯盛衰もの」という括りでいうと白石和彌監督の『日本で一番悪い奴ら』に質感が類似している本作。ゆってもこちらの監督は『南瓜とマヨネーズ』等の冨永昌敬であるのでそこまでのジェットコースター感や誇張されたようなドラマチックさはなく、ただひたすらに、けっこう落ち着いたトーンで末井昭という興味深い人物の人生を描ききっていました。まぁ誇張した演出を加えなくとも刺激的な昭和世界と十分におかしな人生が繰り出されていくので飽きずにすごく楽しめるんですよね。

こたつや職場など、あるいはポケットから出てくるあれやもっと言えば家を出て行った母の姿まで、「出るもの」と「入るもの」が象徴的な映画ですが、そのことによって彼の生き様に豊潤さが増していくのは興味深かったです。また、頻出する「体の一部を怪我していて眼鏡が曇っている」人物たちのことをどう捉えるのか、というのも面白いところ。あんな風に目に見える傷よりも、目に見えない傷を抱えている人の方がこえーな、ってちょっと思った。

そして、本作は何と言っても三浦透子さんが素晴らしすぎる映画です。『月子』で体現したような特殊な演技に加え、艶やかな佇まいやぶっきらぼうな仕草まで、その一挙一動がすごく幅広くバリエーションに富んでいて吸い込まれてしまう。21歳でこんなに多くの色を出せるのは驚きしかないです。これからも楽しみな女優さん*1

f:id:bsk00kw20-kohei:20180329150432j:image

 

*1:『架空OL日記』のかおりんとスカートの諸々のMVがめっちゃ好き。顔が好きなんだと思います。

最近おもしろかったもの(2018年3月1日~)

 

はじめに

なんかいきなりブログの更新頻度が低くなってしまって焦ってます。というのも春から東京で就職することが決まっており、部屋探しやらなんやら、大学ももうすぐ卒業してしまうので別れゆく友との飲み会やらなんやらで、まとまった文章を書く時間と気力がない…。こんなんで怠けてるようじゃ社会人になってしまったら文章を書けなくなってしまいそうで心配です。ただ、忙しいといっても面白いものには常に触れようと尽力しています。こればっかりは生きがいなんでね。というわけで備忘録として記録しておくために短文で「最近おもしろかったもの」を10個ばかしまとめておくことにしました。ドラマや音楽、漫画など多ジャンルを攻めてるので趣味が合う方がいたら嬉しい限りです。

 

 

最近おもしろかったもの十選

 

【音楽】Rejjie Snow『Dear Annie』f:id:bsk00kw20-kohei:20180314125218j:image

僕の人生と一生交わるはずがなかったヒップホップ。なんだけど、いやぁこれはたまげた。めっちゃいいんだもん。聴くしかないよこれは。とりわけ、24歳というRejjieの同世代感が堪らなくいいです。ダブリン出身ってのも特に理由はないけど好き。中でも「spaceships」と「23」という曲を最近よく聴いてて、リリックを理解しようと必死です。まぁ全然分からないんだけど。私ももうすぐ23です。

 

【音楽】Nulbarich『H.O.T』f:id:bsk00kw20-kohei:20180314125225j:image

あいもかわらず、いい。思わず体が揺れてしまう良曲揃いであることはさておいて、リード曲である「ain’t on the map yet」のミュージックビデオが最高にクールなんだよなぁ。「心が躍る」「想像する」そして「現実を生きる」。音楽を聴くってこういうことじゃない?というのが可視化されていて鳥肌がたった。

Nulbarich – ain't on the map yet (Official Music Video) - YouTube

 

【音楽】andropcocoonf:id:bsk00kw20-kohei:20180314125522j:image

「君がいない」ということと「それでも生きていく」ということをメロディとリリックを変えながら何度も何度も歌い続けた13曲収録のフルアルバム。8曲目である「kitakaze san」の間の抜けた感じがめっちゃ好き。少し暗い楽曲が並ぶ中で、こういった“おとぎ話”はバンプの「ハンマーソングと痛みの塔」や「K」のような優しい役割を果たしている。

 

【ドラマ】Amazonプライム『さまぁ~ずハウス』f:id:bsk00kw20-kohei:20180314125159j:image

さまぁ〜ずと1人の女優がおりなす「一発撮りドラマ」。用意されるのは舞台となる部屋と脚本だけで、撮り直しもリハーサルもなしという画期的(?)で実験的な番組です。2話目に登場するのんちゃんがめちゃ最高なのは言うまでもなく。芸人ぷらす女優のコント風シットコムってまぁ外れることはないんですよ。「住住」しかり「ウレロ」しかり。今後にも期待です。

 

【ドラマ】TBS『アンナチュラル/9話「敵の姿」』f:id:bsk00kw20-kohei:20180314125234j:image

クオリティのおばけ。こんなにしっかりとしたドラマ、『マインドゲーム』とかそこらへんの海外ドラマとも全然肩を並べられるぞ。それを圧倒的に少ない予算で作りあげているのだからもうなんも言えねぇっすわ。毎話毎話言葉にならないほどの衝撃を受けています。

 

【ドラマ】フジテレビ『隣の家族は青く見える/7話』f:id:bsk00kw20-kohei:20180314125243j:image

脚本のクオリティの高さではこちらも負けてません。多様で難しい「家族の問題」を時に交わらせながら個別に語っていく筆致のなめらかさ。少しでも伝え方を間違えれば方々から非難を食らってしまうこの時代に、これほど慎重に、そして温かい目線でこのでこぼこな「パズル」のような世界を巧みに描き出したこのドラマを挑戦的と言わずして何と言うか。今クール、結末が最も気になるドラマです。

 

【バラエティ】静岡朝日テレビ/SunSetTV『Aマッソのゲラニチョビ』f:id:bsk00kw20-kohei:20180314125250j:image

偶然Twitterで見かけたこの番組。静岡朝日テレビが運営するインターネットテレビ局「SunSetTV」にて配信されているコンテンツです。YouTubeで視聴可。Aマッソってやっぱりおもしろい。#32からの「台湾・タイマン・ツアー」が最高。「水曜どうでしょう」的な安物感がいいんだよな。

 #31【Aマッソのゲラニチョビ】「台湾・タイマン・ツアーPart1」 - YouTube

 

【バラエティ】Netflix『あいのりAsianJourney/エピソード20』f:id:bsk00kw20-kohei:20180314125256j:image

ドラマのワンシーンのような追駆劇を見せる男らしさと、愛する人の一つのミスにネチネチとこだわり続ける醜さを併せもった人間が「シャイボーイ」という男なのです。多面性が浮き彫りになるのがこの番組の最大の面白さであるから、人が入れ替わっていってもその質が低下することはありません。今は「ゆうちゃん」の活躍を楽しみにしています。

 

【漫画】コナリミサト『凪のお暇』

凪のお暇 1 (A.L.C. DX)

凪のお暇 1 (A.L.C. DX)

 

空気を読みすぎて過呼吸になった、という魅力的な宣伝ワードに惹かれて読んでみたのだけど、これがすごく面白い。現代的な社会派ドラマを織り込んだほんわかラブストーリーという装いで、すごく楽しく読めます。『A子さんの恋人』と並んでドラマ化待ったなしな感じです。

 

【漫画】マキヒロチ『吉祥寺だけが住みたい街ですか?』 

 東京での部屋探しを前に以前から気になっていた作品を手にとってみました。なんか分からんけど1話1話めちゃくちゃ面白い。「東京って案外ええ街やん」と関西生まれ関西育ち東京春から、な筆者が言うております。

 

映画は『シェイプ・オブ・ウォーター』が大好きなやつでした!ギレルモ・デル・トロ監督、良かったね〜!(笑)

 

孤独の先にある孤独/今泉力哉『パンとバスと2度目のハツコイ』

f:id:bsk00kw20-kohei:20180222211145j:image自分はこうゆう性格だからと決めつけたものの、やっぱりそうじゃないと思ったり実は無意識に正反対のことを強く求めていたり、人間って色んな感情を抱えながら模索して生きている。抽象的な導入になってしまったけど、本作、元乃木坂と三代目が主演のアイドル映画だと侮るなかれ、今泉力哉監督の本気というか、いやいつも本気なのだろうけど、何というかこの映画に全てをぶつけてる感じ。結婚観や恋愛観だけでなく自意識や孤独などをテーマに据えた骨太な作品からは監督のそんな姿勢が窺える。


ケータイを持ち歩かない。イマドキの「インスタ女子」からは遠くかけ離れた位置に存在するのが本作の主人公・市井ふみ(深川麻衣)。パン屋で働く彼女は毎朝3時半に起床。14時頃まで働いて職場を後にし、まかないのパンを食べながら大型バスが洗車される姿を眺める。皆が寝静まった時間に目を覚まし、ひとりでボーッとバスを眺め、ケータイを携帯しない。友達や恋人、妹との会話が冒頭で展開されるものの、このように自ら「ひとり」でいることを求めていく主人公はある種特徴的に変わりものとして映し出されていく。

 

私をずっと好きでいてもらえる自信もないし、ずっと好きでいられる自信もない

そんな彼女は、付き合っている彼から結婚を申し込まれたことによってある事に疑問を抱くようになる。結婚しても、相手のことをずっと好きでいるのなんて不可能なのではないか、と。「そんなこと考えたら結婚できないじゃん」と恋人が正論を返すように、誰もが疑問とそれに対する諦念を抱いているような問いに対して真正面からぶつかっていく彼女の姿も少し変わっているけれどものすごく彼女らしくてリアルに映る。

まずはこの冒頭の人物紹介がとにかく素晴らしくて魅入ってしまう。例えばフランスパンを使ったコミカルなアクションだとか、無意識に指輪をはめてしまっている茶目っ気とか、言葉以外の様々な人物の目線が内に秘めたる感情を雄弁に物語っていたりとか。静かなストーリテリングでありながら中身は詰まりに詰まっているこの感じ、これぞ演出、という監督の手腕に敬服しながら魅了されてしまうのです。

f:id:bsk00kw20-kohei:20180222210142j:image
彼女の“孤独”を象徴するような「パン」と「バス」、そしてそこに訪れたのが「2度目のハツコイ」ふみの初恋相手である湯浅たもつ(山下健二郎)であった。彼はバスの運転手、そして愛し続けた妻に浮気され、離婚を強いられてしまった「孤独」の存在として、再び彼女の前に現れる。そうしてまた、当たり前のようにふみはたもつに惹かれていく。そこには孤独を求めてしまう自意識の肯定や別れた奥さんのことを今でも愛し続けていることへの興味と憧れ、片思いでいられることの気楽さなどの感情が複雑に混ざり合っているように見える。

一面的な見方ではあるけれど、このふみという人間は「孤独」に後ろ髪を引かれながら、たもつの左(斜め後ろ)側にいることを心地よく思っている女性であると言ってしまおう。自分だけにしか描けない絵はないし、人に好きになられたら「私なんか…」と思ってしまうほどに、とにかく自信のないふみは、彼女の言葉どおり「孤独になっちゃう」し、「寂しくありたいんだと思う」。しかし、一方で、本作の主題歌であるLeolaの「Puzzle」が示すのは、愛する人と一緒に生きていきたいという弱々しくも切実な祈りだ。

君が今 誰よりも 会いたいと
いちばんに 想うのは…?
今はまだ、I don't wanna know
その答え 知る勇気なんてなくて…。
でもそれが 私なら なんてこと 考えて
らしくないよね。 もう、バカみたい。
No way! でも気になるの。

緑内障という目の病気を抱えているふみは、右目の右上の部分が見えない。本作ではカウンターや車、道を歩くシーンなど、ふみとたもつが横に並んでいることが多いのだけど、注意して見ていると、そのどの場面においてもふみはたもつの左側にいることが分かる。前述したとおり、ふみにとって右側にいるたもつは、たぶんちょっとだけ、見えにくい。でもたぶん「あえて」、彼女はそこに居る。そうしてそのことは、その位置にいることの心地よさと、まだしっかりと彼に向き合えていないことを明示しているのである。

永遠も約束も これからも、
頼りには出来ないの
それでもね、君にまた胸を焦がすの
左斜め後ろが 今の私の居場所
だけど…
I just want to be with you...

だけど…。本当はもっと違う場所から彼の姿を見てみたい。もっと近くで、あるいは心の中を。けれど洗濯機の不穏な叫びとともに「孤独の守り人」が彼女の眼前に姿をあらわす。このとき突然現れた孤児のような彼は「新しい洗濯機が来たらもうここには来なくていいよ」と言うけれど、ふみは「時々くるよ。私には孤独が必要だから」と応える。ポール・オースターの『孤独の発明』(未読なのでいつか読みたい)が不穏に影を落とし、残ったのは禁断の果実。「孤独」は、いつか離れるべき存在として、儚げに消え去っていく。

f:id:bsk00kw20-kohei:20180222210233j:image
目を離したらその隙に消え去ってしまいそうな、そんな儚げなふみの後ろ姿を不安そうに眺める一筋の視線。ふみの妹・二胡志田彩良)の存在は、本作のほんわかパートも込みで絶妙なアクセントになっていました。憎み合う『犬猿』のきょうだい達と本作の和やかすぎる姉妹。この2作品だけで世のきょうだいの8割くらいはカバーできているのでは。みんな後者のようなきょうだい関係を結ぶことができれば幸せですよね、なんて。そんな理想的な方のきょうだいの妹である二胡は、「ふみのことを分かろうとするため」にお姉ちゃんの家へやってきます。お姉ちゃんが絵を描くのをやめたのは、分かろうとすることをやめて孤独になろうとしていることの表れだと二胡は想像してやってきたのかもしれない。そうして二胡は、ふみを描きながら彼女の本質と対面していきます。ときに見えなくなってしまった彼女を青で塗りつぶし、また描いて、彼女の本質を模索しながら。


本作のラスト、たもつの輪郭と共に、Alone Again (Naturally)という文字が浮かび上がってくる。ピンとこなかったので鑑賞後ネットで検索すると、一曲の歌がヒットした。こちらも恥ずかしながら聴いたことがなかったのだけどギルバート・オサリバンという歌手の楽曲らしい。和訳*1を見てみると、ある男性が結婚式場で婚約者に逃げられて、自身の半生を振り返りながら孤独であることを嘆くような、ものすごく悲しい楽曲であることが分かった。この曲と本作を関連づける前に、ふみが求めてしまう「孤独」とたもつが陥る『孤独』は同じ孤独でも経緯と種類が全く異なるものであるということを記しておきたい。ふみの「孤独」はずっと孤独だけど、たもつの『孤独』は「孤独」の先にある、人を知った先にある孤独だからだ。


このギルバート・オサリバンの「Alone Again (Naturally)」という楽曲は、一見するとすごく悲しくて、救いようがないように感じてしまう。だけど彼が孤独を感じる前には疑いようがなく幸せが存在していたのだ。 別れの前には必ず出会いがあり、悲しみの前には必ず喜びがある。そういった感情の豊かさが人生というものを豊かにするのではないか。ふみは、別れから生まれるこの『孤独』をたもつの生き様に投影し、その美しさに思わず筆を走らせてしまったのだ。

その魅力の本質を知っても
憧れ続けることができるのであれば

パーキングから見えた朱い夕陽。
夜明け間近の青のグラデーション。
きれいな景色を一緒に眺めることができる誰かがいれば、きっと彼女の人生は彩りを増していく。