縞馬は青い

縞馬は青い

映画とか、好きなもの

先週-貪食-カルチャー(21年7月4-5週目)

カルチャーに多く触れる時間を削ってでも日記を書くべきかいつも迷うけれど、いつも同じ結論に辿り着く。それは書いたほうがいいだろう、と。そもそも、多く触れることを目指してはいなかった。アウトプットのほうが大事だった。

オリンピックのあれこれを経てTwitter見るのがちょっと嫌になって退却しているので、インターネット空間と繋がる手段がブログしかない。なんやかんや繋がりを持ちたくって、最近発売された「芸人雑誌」とかでエゴサかけちゃったりするんですけどね〜。久しぶりに書いてみようと思う、先週の記録。


シャンタル・アケルマンブリュッセル1080、コメルス河畔通り23番地、ジャンヌ・ディエルマン』

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『マスター・オブ・ゼロ』のアジズ・アンサリがオールタイムベストに挙げている映画ということでずっと気になっていて横浜シネマリンでの上映があったから観にいった。フランス女性監督特集、もっと観にいきたいのいっぱいあったけど横浜はさすがにそう何回も行けないね。映画館に着いてからめがねを忘れてることに気づいた。視力0.4くらいだから裸眼だと字幕を地味に読めたり読めなかったりする嫌なラインなのです。しかしこの映画、上映時間200分(!)あるけどセリフがほぼなかったからぜんぜん大丈夫だった。セリフがない映画めっちゃ好き。表情の変化をもっと読み取れたらな、とは思ったけどたぶん言葉よりも表情よりも空気を映しとっていたと思うから、それはじゅうぶん感じ取れたと思う。高校生くらいの息子と暮らすある未亡人の3日間を3時間に収めた映画。ただ日常が流れ、流れ、流れ、その隙にどうしようもなく入り込む疲弊感を残酷に切り取る(あるいは切り取らない)。この映画を観にいくと彼女に言ったら、ブリュッセルって綺麗な街やから風景とか楽しめそうやね、と言っていたけど、200分あるのにほぼ街の情景が出てこなかったのには驚いた。室内。忙しなく動き続ける女性。部屋を行き来するときそのたびに彼女は必ず電気を消す。言葉のない母と息子の食卓。父の不在。昼間にやってくる男たち。カットされる売春。大胆な肉料理。じゃがいもの危険な皮むき。はさみ。崩壊していくもの。この世の絶望。


ひうち棚『急がなくてもよいことを』

主に家族と旅にフォーカスを当てた短編作品集。作者の優しい目線を追体験していくような心地よい漫画。好きです、めちゃくちゃに。こんなにすべての作品が心に染みる短編集はめったにない。作者の子ども時代の“切なさ”に焦点を当てたような哀愁ある記憶の数編と、20代後半で自費出版を始めたというころの親や友だちとの記憶や一人旅の数編と、結婚して子どもができてからの赤子の成長の記録と日常を綴る数編と。どれも確かな生活の質感に満ちていて油断するとたぶんぼろぼろ泣けてしまう。いつか家族ができたら、とか、いつか子どもができたら、とか、何か作品に接すると読み返す日を想像することがあるけれど、これもそんなふうに大事にしたい漫画だった。「そんな急いで大きならんでもええからね」。通りの看板にふとしたいい言葉が潜んでることもあるんだね。忘れてしまいそうだけど忘れたくない、おばあちゃんちで過ごした夏休みみたいなにおいがした。↓偶然足を運んだSPBSにてプッシュされていた。ひうち棚さんのメモ帳覗けるの嬉しい。

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エメラルド・フェンネル『プロミシング・ヤング・ウーマン』

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感想を書けば一区切りついたように感じてしまういまのカルチャー消費の仕方について反省する。この映画については、感想が浮かんでは消え、浮かんでは消えていった。適切な言葉のなさと、適切な言葉を選び取れない自分の功罪。簡単に感想をつらつらと書ける映画よりもずっと大事にしたい感覚であり、大事にしたいというか忘れたくない。マッチョな男らしさへの嫌悪感はデフォルトであるのだけど、自分も男性を割り当てられ生まれてきた以上、居心地の悪さは拭いきれない。この居心地の悪さにはもっと複雑な理由もあると思う。ちょっと強すぎる、露悪的な描写が多い(もちろんあえてだろうけど)映画だとは思った。


TBS『ザ・ベストワン』

オリンピック開会式の真裏にて。爆笑問題のネタでこんなに笑ったのは初めてだった。太田さんが言った「小林帰ってこいよ!」がしみた。


キネマ旬報8月上旬号』

カンヌで脚本賞も受賞した『ドライブ・マイ・カー』をめぐる、濱口監督、三宅唱監督、映画研究者・三浦哲哉さんの鼎談が映画の副読本としてとても優れた内容だった。ゆっきゅんの構成もめちゃくちゃ信頼できます。「われわれは終わった後を生きている」という映画の気分、「正面ショット」に至るまでの過程の話、「背後霊映画」という三浦さんの指摘などがとくに面白い視点だった。


ケリー・ライカート『ミークス・カットオフ』

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シアターイメージフォーラムで開催中のケリー・ライカート特集。現在進行形でとても重要な監督であるといろいろな情報を見て理解しているので、4作品すべてを観ようと思ってる。2本目に観た『ミークス・カットオフ』がとてもよかった。いわゆるアメリカ西部開拓時代の物語“西部劇”が、新しい語り手によって解体され、再構築される姿をじっくり見届けることになった。映画のほとんどが「歩く」シーンで構成されている。西部に移住するためにひたすら歩く3家族を映像が捉える。歩いているだけなのに、なぜか面白い。歩いてないシーンも、より運動的で面白い。「川を目指す」一行の様子それ自体が流動体のように描かれ、そうあることを求め、未来を自らの手で手繰り寄せていくミシェル・ウィリアムズ演じる主人公の眼光に導かれていく。ラストカットが素晴らしすぎた。そこしかないという終わり方。


エリザ・ヒットマン『17歳の瞳に映る世界』

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観ている途中なんども『海辺の彼女たち』を思い出した。それを観たときはクロエ・ジャオとの親和性も高いと思ったけど、そういった世界基準に照らしても遜色ない映画が日本で生まれていることが再び嬉しくも思った。撮影形式、物語構成とも強く結びついた主題の共時性。どれも、役者とカメラの距離感に「親密さ」を感じて、描く世界は厳しいけれどこの映画が存在することに一縷の望みを抱く。『17歳の瞳に映る世界』は原題『Never Rarely Sometimes Always』が素晴らしい。頻度に関する単語。

“手”が印象的に映る。腹に打ちつけられるのは行き場を失った拳だった。その手が開き、繋がれ、再び意志をもって繋ぎなおされるまで。ほぐれそうになりながらも必死に交わるあの連帯の場面について、僕はどう言葉にできるだろうか。ついぞ結ばれることのなかった手と手があったけれど、それは果たして悪だったろうか。決してそうではないし、あの状況に陥れた男たちを、社会を、恨むべきだ。


新ネタライブ!!ハイキック寄席!!

コウテイニッポンの社長ビスケットブラザーズロングコートダディさや香などなどが新ネタを披露するライブをオンラインで。全体的に自由でシュールなネタが多くて、思った以上に混沌とした新ネタライブだった。オンライン限定なのに40人くらいしか視聴者いなくてビビった(笑)。スナフキンズを初めてしっかり観たけどめちゃくちゃ面白い。あの美容室のコントは今回一番笑った。絶妙なサスペンス要素がツッコミの間抜けな声と対比して冷やし漫才的に高低差のある笑いを生み出しているし、何より先が気になる。巧い。KOC頑張ってほしい。


一人前食堂

坂元裕二大好き具合がめちゃくちゃ伝わってきて愛らしいです。いつも本棚が気になる。

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東海オンエア

いわゆるYouTuberの動画を見ることはほとんどなくなったけど、東海オンエアの動画は定期的にドバッと見たくなる時期がやってくる。「寝たら即帰宅の旅」でのあの彼のかっこよさに痺れた。

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テレビ東京『お耳に合いましたら』

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今クール観てるドラマはまさかのこのテレ東深夜ドラマだけ。前クールは充実しすぎて『生きるとか死ぬとか父親とか』と『半径5メートル』を途中離脱してしまったのでこのタイミングで観たいと思ってるけど思ってるだけっぽい。

りっかが素晴らしいのとラジオレジェンドの佇まいが毎回めっちゃクール。第3話は「隣人に挨拶する」という現代のある種のファンタジーを語っていたけれど、チェンメシもそうだけどリアルがドラマに根ざしているから漫画やアニメ的というより「こういうことがあったらいいな」と素直に思える心地よさを保っていた。現実の話でありながら世界観の作り込みがうまくてどこか浮遊しているような感覚を抱かせる演出が素晴らしい。インサートで挟まれる山椒とかいいのよ。なんにせよまりっかダンスを毎週観れるのはいいことですね。


村上春樹1Q84

「ドライブ・マイ・カー」所収の短編集『女のいない男たち』で実は初めて村上春樹を読んで、これは長編なにか読まなきゃなと思い『1Q84』に手を出した。まだ1/6くらいしか読めてないので(それでも単行本250ページくらい)どう転がっていくか検討がつかないけど、村上春樹の文章は肌に馴染むようだし、現実にファンタジーが絡む話はあまり得意ではないけどこの場合導入が丁寧でわくわくしてるし、今のところいい感じだ。読み終えたら影響を受けて文章書くとき暗喩しまくりマンに変貌するかもしれない。


ほりぶん『これしき』

昨年のGW、今年のGWと開催を予定していたものの延期になり続けて、ようやく三度目の正直で戻ってきたほりぶんの演劇。日常は元通りになっていないけれど、演劇で役者さんたちの生の演技をみて、心を打たれた後に帰り道で「すごかったな…」と道を歩きながら黄昏れる瞬間が手元に返ってきたことにまずはとても喜びを感じた。最高だった。「生活に足りなかったのはこれだわ」というたしかな実感があった。

何度も観たことがある気がしていたけど、ほりぶんの舞台を観るのはこれが二度目だった。同じく鎌田順也さんが作・演出を手がけるナカゴーを4、5回観てるからもっと観てる感じがするんだろうな。ほりぶんには女性の役者しか出てこないっていう特徴があるから混同しようはないのだけど。

冒頭でのネタバレ、メッセージ性があるのかないのか揺れ続ける暗喩的なあらすじ、役者さんたちのはちきれんばかりのパワー、確信的な反復、爆発する笑い。どこをとってもここにしかないカルチャー。全体的には粗雑極まりないのに、ある人物が指で人を操るときの指の動きとか、自販機から飛び出す缶ジュースとか、端々で妙にディテールが凝られているのも笑いを増幅させる。なんともストーリーに触れづらい(というかカオスすぎて説明しきれない)作品なのだけど、前半は少しシビアな語り口を取っていて、「Twitter空間」の暗喩を仕掛けているのかなと想像した。道で他人とすれ違うといつも舌打ちをされてしまい、いつもは見過ごしていたけどそれではずっと負けているばかりではないかとついに物言いをつける人。を起点に、人が集まって対立したり和解したりする様は、現代のリアル世界でそうそう起きることじゃないけどTwitterでは頻繁に起きている。本来争うべきでない人が争ってる感じ。後半のカオティック展開によりそういう想像も杞憂に終わるのだけど、劇中何度も発される「多様性」や「人にはそれぞれにバックボーンがある」という言葉にはそのままの意味だけでない皮肉やツイストが含まれていたと思う。後半は無尽蔵に笑い続け、100回くらい腹筋したみたいな状態になった腹を抑えながら小刻みに肩を揺らし続けた記憶しかほぼないのだけど、なにか大事なメッセージが宿っていたのではないかと考えさせられる展開ではあった。でも、なんだったんだこれは……という手触りのまま大事に記憶しておきたくもある。そういえば前回のほりぶんは急に本場のサンバダンサーが登場して踊り出したりしてたよな…。未だになんだったのかわからない。家の近くから会場の花まる学習会王子劇場の目の前までバスが出ていて、その帰りにこの感想を書いた。次回は2月に紀伊國屋ホール人間万事塞翁が馬


私立恵比寿中学 × 石崎ひゅーい - ジャンプ / THE FIRST TAKE

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魂の歌声である。これはもはや魂としか言いようがない。うまいとか力強いとかかっこいいとかの言葉の器では収まりきらない、魂の放出。

 

〈書きたい感じエトセトラ*1

“におい”や“リズム”について書きたいとずっと思っている。鼻を通って脳に刺激を与える嗅覚という意味での匂いもそうだけど、ここで言うにおいというのはもっと抽象的なものだ。例えば、Yogee New Wavesの曲を聴いたときに感じる気怠さと自由さを携えた海辺のにおい。例えば、ブログ「青春ゾンビ」を読んでいるときに感じるカルチャーを手繰り寄せて一体化するまでのリズムとカルチャーに彩られたにおい。まだよくわからないけど、好きなものには一定のにおいやリズムを感じ取ることがある。

とりわけ、カルチャーに「バカンス」のにおいを嗅げると僕は一様に興奮する。ここでのバカンスもまた抽象的で概念的なものを指していて、例えば「金曜日の夜」みたいな自由さや、本来あるべき時間の無限さみたいなものを取り戻したときの感覚のこと。『街の上で』とかは、概念としてのバカンス映画でした。こうしたにおいを感じ取ったときの心の動きと正体についてなんとか言葉にしてみたい。

 

*1:書きたい文章の種類や方向性が日々変わってしまうので、かなり抽象的だけどここにメモしておきたい。