縞馬は青い

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映画とか、好きなもの

細田守『竜とそばかすの姫』

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「あなたは誰?」「ほんとの姿はどっちなの?」とBelleが問うときの、奥に潜む哀しみの根源にあるものはなんなのか。といえばもちろん母の最後の行動の“理解できなさ”なのだろうけど、それを仮想世界で自由を得たBelle(鈴の仮の姿)が執拗に問い続けるところがまずもって謎だった。自分は仮の姿なのに、相手には本物を求めるというねじれ。けれど、本作のテーマはまさしくそこにあるのだと思う。

millennium paradeを正しく纏った中村佳穂の強く余白のある歌声と、UとBelleの素晴らしい造形によってあがりまくる冒頭。もうこればっかりでええんちゃうかと思うわけだけど、ここでも細田守はねじれをわざと描写することに努めている。それは、「見るもの」と「見られるもの」といった権力構造に関するもの。現実の学校ではしのぶくんやルカちゃんのような人気者がいて、それ以外の生徒は彼らを階上から見つめるモブキャラと化す。すなわち、パフォーマーがいて、他はオーディエンスにならざるを得ない空間。そうした世界で抑圧されながら、歌いたくても歌えない(この背景のディテール詰めてほしかったな)鈴は、ある日仮想世界〈U〉に出会うことでBell(e)として生まれ変わることになる。歌うと、賛否両論を生みながらも聴衆がついてくる。Belleはパフォーマーになり、その他大勢はオーディエンスとなった。しかしこれでは「見るもの」と「見られるもの」という権力構造は変わらない。人が入れ替わっただけ。果たしてこれが、彼女の求めた本当の自由なのか。

Belleが竜に対して「あなたは誰?」と問うのは、構造の変わらなさに違和感を持っているからだと仮定してみる。人気者になったしのぶくんと喋れなくなったことへの違和感でもあるだろうし、この世の権力構造すべてへの違和感でもある。そうであるから、Belleはただひとり、竜に対してだけ歌われる歌を紡いだ。『美女と野獣』丸パクリシーンは画的な盛り上げでもあるのだろう。大事なのはもちろんそのあとで、そこになんとか繋げるための苦肉の策でもあったのだと思う。

ついに鈴が竜の正体を知るとき、そこでもまだ、「当事者」と「傍観者」、「画面に映るもの」と「それを見るしかないもの」の構造から抜け出せずにいる。ネットを挟み、遠くに住む我々はいつも、その関係から自由になることができない。その断絶された哀しみに対する回答が、本作では歌だった。いや、もはや歌すらも取っ掛かりでしかなかったのかもしれない。鈴は最終的に、彼に直接会いにいくことを決めるからだ。

「川」のモチーフが印象的だ。母が助けようとした対岸の子ども。鈴がゲロを吐いた橋。ラストカットを含め幾度となく登場する四万十川の河川敷。そして、東京の多摩川付近の家。

再びお婆ちゃんの話で恐縮ですが、練馬にあるもうひとりのお婆ちゃんの団地に住んでいたことがあります。
団地は全部で八棟あって、真ん中に川が流れていました。(中略)ある時そこで事故が起こりました。六号棟に住んでるわたしと同じ年の女の子が溺れて死にました。それ以来子供たちが川に近付くのは禁止になりましたが、わたしは相変わらず夜になると行って、柵を越えて、足をプラプラさせました。わたし、思ったんですね。その子じゃなくて、わたしが溺れてるパターンもあっただろうなって。

これは坂元裕二の小説『初恋と不倫』の一部分を抜き出したものだ。

君の問題は君ひとりの問題じゃありません。お婆ちゃんの団地の川で女の子が溺れ死んだ話したでしょ。誰かの身の上に起こったことは誰の身の上にも起こるんですよ。川はどれもみんな繋がっていて、流れて、流れ込んでいくんです。君の身の上に起こったことはわたしの身の上にも起こったことです。

『竜とそばかすの姫』にはひと言もこんなセリフは出てこないけど、こうした“対岸でありすぐ側に存在する闇の感覚”をとことんアニメーションで見せることに注力している作品なのだと感じた。竜の存在がいつまでも明らかにならないとき、どうしても僕は「もしかしてしのぶくん?」「いや、お父さんなのでは?」という推論を立ててしまったわけだけど、それ自体も作り手の狙い通りなのかもしれない。そうしたミスリードによって「誰の身の上にも起こりうる」という感覚が、作品の通奏低音となっていたからだ。

四万十川の河川敷と多摩川付近のあの家はどこかで繋がっている。そのことに気づいたとき、同時に鈴は、母の行動を理解することができた。母が飛び込んだあの川と、今対峙している川もまた、どうしようもなく繋がっている。『竜とそばかすの姫』は、その川を切り離さずに、手繰り寄せるための寓話を語る。