縞馬は青い

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映画とかドラマとか、好きなもの

僕たちはどこで生きていく?/ジョシュ・クーリー『トイストーリー4』

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おもちゃだって生きる場所を選んでもいい。与えられた居場所に居続けるのもひとつの生き方だし、新しい居場所を求めるのもまたひとつの道。何よりも重要なのは、そこがほんとうの自分の居場所なのかどうか、心のうちがハッキリとしていることではないか。「なぜ生きているの?」おもちゃからそんな言葉を聞くことになるとは思わなかったが、この言葉を聞いた瞬間、これはおもちゃの擬人化を通した「私たちの物語」だったんだということを改めて考えさせられた。僕たちはどこで生きていくのか、それは僕たち一人ひとりが決めていいものだ。


アンディがひとり遊びに興じる姿が少年時代の自分と強烈に重なっていたこともあり、トイストーリーにはそれなりに思い入れがあったはずなんだけど、『トイストーリー3』がどんな物語だったのかすっかり忘れてしまっていた……(だから本作に全然違和感がなく、ウッディの勇姿を観てこらえながらも号泣してしまった)。アンディが大人になったように、そうして僕も大人になって、おもちゃと遊んだことなんか忘れちゃって、トイストーリーのことも忘れちゃってと、そんなことはまぁしょうがないことなんだろう。たとえフォーキーのように生みの親に愛されたって、結局自分のことを最後まで面倒見てくれるのは自分しかいないのだ。自分の生きる道は自分で探すしかないし、決めていくしかない。持ち主のために生きるというのは一番美談的で美しく幸せな生き方ではあるけれど、世界には迷子になってしまったいわゆる孤児みたいなおもちゃもいるし、アンティークショップで求めてくれる誰かを待つおもちゃもいる。彼らが教えてくれるのはこの世界の多様な生き方に他ならない。しきりにゴミ箱へと向かうフォーキーをウッディが掬い上げるのは、ボニーのためであることはもちろん、フォーキーに「別の居場所」があることを知ってもらうためだったように感じられた。必要とされなくなったウッディという描写はあまりにも悲しく映るものの、それによって新たな生き方に気付きだす様には心が掴まれてしまう。まるで定年を迎えた僕の父親みたいで……。自分の未来の姿でもある。いや、今の姿でもあるのか。


悪役の立ち回りだったギャビー・ギャビーは、一途に必要とされることを求めていたハーモニーについに必要とされず、自分は無価値であると自戒する。彼女に選ばれることをずっと望んでいたから。それでもウッディは、ボニーであれば必要としてくれるかもしれないと彼女を慰める。感動したのは、そのあとの場面でギャビー・ギャビーが自ら生きる場所を見つけ、ある迷子の女の子を「選んだ」ことだろう*1。ギャビー・ギャビーを拾った女の子は「“私たち”迷子なんです」ってたぶん見回りの人に言った気がするんだけど、それを聞いてとてもホッとしたのだ。おもちゃだって、対等な関係を望んでもいいのかもしれないと、そう思えたから。誰とだって対等な関係を望んでもいい。


ウッディやギャビー・ギャビーの内なる声・心情が、外に飛び出る瞬間の美しさ。彼らの「無限の彼方」への旅たちに、大いなる祝福を送りたい。

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*1:彼女はウッディからボイスボックスを受け取ったことで“内なる声”を獲得したのだ。