縞馬は青い

縞馬は青い

映画とか、好きなもの

背景音のささやかさ/広瀬奈々子『夜明け』

2019.1.19 新宿ピカデリー

かなり偉そうな批評になってしまいそうな気がするので最初にひとつだけ。舞台挨拶に登壇した広瀬奈々子監督がかっこよすぎて、まるで俳優のような佇まいと低めの美声を持つ姿に見とれてしまった。しかし、映画を撮るにしてはなんだかすべてがお見通しのような、そういう非常に強い意志が垣間見えてしまったのも、ある意味でこの映画に入り込めなかった理由なのかもしれない(鑑賞後の舞台挨拶だったんですけどね。なんだか腑に落ちたというか)。でも是枝さんの見初めた愛弟子なので、必ず次回作を待ちわびることになると思う。必ず私たちになにかを見せてくれるのだと信じている。

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広瀬監督が固有の目を持ち、映画を用いてこの世界に何を問いかけたいのか。そのことをひたすらに考えながらも、正直に告白するととうとう最後までわからない映画だった。例えば是枝監督がテレビマンユニオンでドキュメンタリーを撮っていた時に衝撃を受けたという「加害者と被害者の境界線の曖昧さ」のような、カメラを通すことで垣間見えた偶発的な闇や煌めきがこの映画にはまるで感じられなくて、広瀬監督があまりにも「物語を紡ぐこと」に躍起になっているような気がしてならなかったのだ。そこにあるものを撮るのではなくて、人物とものを配置して自分色で塗り固めたような、こちらからしたら何も見えない映画。そこには、ドキュメンタリー的な手法から徐々に物語を紡ぎ出すことに意味を見出しシフトしていったことがうかがえる師匠の是枝監督ともなにか違うという絶対的な感覚がある。どう考えても先日見た、映画という芸術の最高到達点のような作品『ひかりの歌』を観た後の目だからこんな風に感じるんだと思う。そこにあるものだけを撮って自然と余白が生まれ出てきた『ひかりの歌』と、物を配置して好き勝手に余白を作り出そうとした『夜明け』。

この映画の重要なシーン(あるいは物・人物)として、仏壇に伏せられた真一の写真を用いた一連のシークエンスが挙げられるだろう。中盤と終盤で2度登場し、物語の軸を作り上げた大事なパーツだ。しかしこのシーンの撮り方がどうもわざとらしく、狡猾に感じられてしまった。例えば一度目のシーンでは、少し離れた距離から仏壇に向かう柳楽優弥を撮り、伏せられた写真を手にとって見るのだが、意図的に“写真だけ”腕に隠れてこちら側には見せない。これはこの後のシンイチの行動と2度目に仏壇へ向かうシーンの伏線となるのだけど、写真だけを見せないというのはあまりにもわざとらしくないだろうか。背中で隠れるか遠くて見えづらい距離にカメラを置き、手の動きで写真を立てているのかもしれないと想像させる(その距離感・位置なので観客は写真が見えないことに疑問を持たない)、これではなぜダメなのか。考えすぎなのかもしれないけれど、こういうわざとらしい伏線が似合わないと感じる静謐な作品だったからこそ、強く引っかかってしまう場面だったように思う。

ブレブレのカメラで、走る彼らを執拗に後ろから追いかける場面の意味も不明瞭で、そうした工夫の見えない同様のシーンが続くのも退屈。でもこうやって色々書いてるとすごくよかったシーンもいっぱいあったことを思い出してきた。例えば夜明けではじまり夜明けで終わるという綺麗な絵(これもちょっとかっこよすぎるけど)。その絵が挿入される直前のシンイチの行動と心理描写がいい*1。また、目を覚ましたシンイチが哲郎(小林薫)とはじめて会話を交わした時に後ろで鳴っていた洗濯機の作動音(なぜか強く印象に残ってる)と、ラストシーンで踏切と電車の轟音を目の前にしてかすかに響く木材を打つ音という、背景音の照応が作り出す見事な生活感。それは「居場所」というフィーリングのようなものの表出なのかもしれない。川のゆらめきや洗濯機の水の音にはじまり、お酒や海など水を用いた心理描写の演出も楽しい。たぶん、監督は一つひとつの場面への強いこだわりを持っているはずで、もしかしたらその思いが強すぎて、受け取るにはそれ相応の熱が必要になる作品なのかな。改めて、ストーリーにあまり集中できていなかったことを自覚する。もうちょっと肩の力を抜いた作品が見てみたいと、そう静かに思う。

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*1:冒頭では川に身を投げ命を捨てたその先の姿が夜明けに投影され、終盤では寄せては返す波に向かい(おそらく)“名前”を捨てて新しい世界に進むことが、あの美景をもって示唆される。