縞馬は青い

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映画とか、好きなもの

ゆっくりしたい(2021年12月12日)

スナフキンズが『M-1 2021』3回戦と準々決勝で披露したネタより抜粋。

「いきなりなんやけど、今度合コンあんねんけど、くる?」

「(食い気味に)いく〜〜〜」

「はや〜〜」

「え、行っていいん?」

「ええよ」

「まじで?」

「おん」

「(両手を高く上げて)やったぁ!!! 合コン行ける〜〜〜ラッキ〜〜」

 

「来週の土曜日なんやけど」

「え、来週の土曜日?」

「おう」

「うわ最悪やぁ……俺その日無理や…予定入ってるわ…」

「まじで?」

 

「ちなみになんやけど、その予定って、なんの予定入ってんの?」

「あぁ…その日はちょっと………ゆっくりしようかなぁと思ってて…」

「え? …ゆっくり?」

「うん、家でゆっくり」

 

「いや、ゆっくりって、具体的になにすんの?」

「…それ本気で言ってる? いやいやいや、そんなんいちいち決めてたら、ゆっくりできひんから!!」

「いやでも、ゆっくりってそんなんいつでもいいやん! 他の日にーー

「俺は!! 来週の土曜日に!! ゆっくりしたいのお!!!!!」

スナフキンズはちょっと前にコントのネタで初めて見たのだけど、着眼点がほんとうに素晴らしくて好きなコンビだ。このネタも初めて見たとき大爆笑した。合コンに誘うやつと、誘われてけっこう嬉しそうなやつ。でも来週の土曜日は「ゆっくりする」という予定があるからどうしてもいけないんだ。「ゆっくりしたい」という言葉を発するときのボケの松永の動きが赤ちゃんみたいになってしまうのは、その切実さと人間の本来あるべき姿を物語っている。抜粋した内容のあとにツッコミの朝地が「子どもやん」とたしなめるように、この松永は幼児の心情に戻ってしまっているともとれるのだけど、「目的もなくゆっくりする」ということの尊さを僕はこれを見て思い出した。

 

文學界』の最新号が面白いとの噂で初めて買ったのだけど、哲学者・國分功一郎×オードリー・若林正恭の対談がほんとうに面白かった。ライターか編集者が付けたのだろうけど、対談のメインキャッチは「目的もなく遊び続けろ」。これが端的に内容を現している。スナフキンズのネタをまた唐突に思い出したのはこの対談を読んだからだった。

いまの大学生は忙しすぎる、もっと暇をつくるべきだ。という話の流れから、若林が『タモリ倶楽部』の収録で出会った「漁の投網をきれいに投げられるように、公園で練習している人」の話をする。若林は「これ、魚が取れたときが快楽の絶頂のところじゃないですか。なんのためにやってるの」とその人に質問したらしいのだけど、そうするとタモリさんに怒られたんだと。

若林「実際に自分で投げてみてよさが分かりました。なかなかうまくいかなくて、あ、今のが一番きれいだってなると気持ちいい。投網は魚を取ることを目的としているはずであるけど、そこではもう投網という手段だけが残ってるんですよね。」

國分はこれに対して、ヴァルター・ベンヤミンという人が言っていた「目的なき手段」という言葉を引いてみる。

國分「公園での投網は目的なき純粋な手段ですよね。何の目的も達成しない、ただの手段。つまり遊びですよね。でも遊びを忘れたら、人間はダメになっちゃう。」

若林「言葉を喋る前の赤ちゃんがずっとティッシュを出しているのとかありますよね。それが楽しい。いないいないばあとかもそうだし、手段だけっていうのは人の根源的な楽しみなのかもしれないですね。」


この1か月間くらいほとんど休みもなく働いていて心底疲れていたからか、久しぶりの休みだった土曜日の朝にゆっくりしながらこれを読んでいて妙に心に刺さってしまった感じがある。ちょっと前に自分の毛が抜け落ちて禿げる夢を見たのだけど、恋人にその話をしたら「夢占いでは心身共に疲れていることの現れ」だと言われた。占いは信じないけど、実際ごはんも適当だし睡眠は取れてるけど毎日終電で会社から帰って酒飲んで無理やり寝て起きてたから明らかによいサイクルではなかった。僕は元来的にゆっくりしつつサボりつつ生きていきたい性分だからなおのこと、この状況への恨みがありつつも、仕事はとりあえず終わるまでやるしかないから頑張っていた。それでようやくひと段落したタイミングで恋人とディズニーシーに行く予約を平日にしていたから無事に行って楽しんだ。雨風が激しかったのは残念だったものの、ひさしぶりにはしゃげたと思う。その次の日くらいに今度は恋人が禿げてる夢を見てしまってそのことも伝えたのだけど、ハッとして夢占いを見てみると、恋人への気持ちが薄れつつある証拠、とかいう文章が出やがった。まったくそんな自覚はなくてむしろ大好きなのだけど、この夢のことは彼女に伝えるべきではなかった。きっと夢占い調べるだろうから。忙しさよりもこういうのがいちばんしんどい。でもきっと忙しいから余裕がなくて結果的にこんな状況になってるに違いない。とにかくゆっくりしたいんだ。とりあえずこういうものが書ける状態になってよかった。

ポップカルチャーをむさぼり食らう(2021年9月)

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キングオブコント2021、神聖なくだらなさ

今回の大会に関してだけ言えば、僕はとにかくくだらないコントが好きだった。とにかくいい大会だった。R-1とは比べ物にならない、あらゆる点で完成度の高い番組。オープニングのあの音楽の感じ、今泉監督だからトリプルファイヤーなのかと思いきや、くるりの「アナーキー・イン・ザ・ムジーク」という曲だったらしい。めっちゃトリプルファイヤーみたいで『サッドティー』のとある場面を思い出した。『コーヒー&シガレッツ』オマージュの映像がおしゃれで、イワクラさんの表情とかめっちゃいい感じだった。

好きだったコントについて書き留めたい。男性ブランコ1本目。1番の衝撃でした。冒頭の浦井さんのいい声ナレーションが良すぎた。ただ、ああいう長台詞を最初にぶっこまれると頭が追いつかなくてちょっと入りにくいのだけど、その後の一発目の平井さんの発声が完璧だった。あの展開、〈ちょっとわからない→めっちゃわかる〉というギャップによって笑えたような気がする。それは終盤も同じくで、暗転も場面展開もせずに「ここまでは妄想だった」と見せてから、もう一度平井さんの完璧な発声を被せる。ここにも、〈ちょっとわからない→めっちゃわかる〉の流れがあった。ぜんぜんわからないわけではない。どういうふうに物語が進むのか、ちょっとだけわからない浮遊感が絶妙なのだ。その笑いの構造・形式は、自ずと男性側の〈出会う前の不安感→人となりを知って大好きになる〉という心理描写にも重なっている気がする。その平井さんの発声が出オチかもしれないと不安はよぎったけど「ゆうてるばあいかー」が最高すぎてずっと死にそうなくらい笑った。あの動きを今すぐ人の前でやりたい。男性ブランコはあまり知らないコンビだったから、これから力を入れて推していきたいです。この出会いが賞レースの醍醐味。

ニッポンの社長。6月に難波のよしもと漫才劇場へ足を運んだ際にたまたまあのバッティングセンターのコントをやっていたのを見て、そのときは座席から転げ落ちそうになるくらい笑った。そのときと同じくらいかより新鮮に爆笑した。ニッポンの社長こそとにかくくだらない。くだらなさすぎてむしろ美しい。上半身のねじり方、ケツの表情、膝のねじり方、ケツの表情、左打ちのフォーム。めちゃくちゃ神聖で馬鹿馬鹿しい。ニッ社はこれくらいセリフが少ないコントが好きだし、松っちゃんがなんか言ってたけどテンポなんてぜったい詰めないでほしい。今回、ほとんどのコンビ・トリオのネタが説明ゼリフをめちゃくちゃカットしていることにも後々気づいて素晴らしいと思った。ニッポンの社長は来年優勝します。

うるとらブギーズ。ちょっと前までYouTubeにあのネタがアップされていて、10回くらいは見たと思う。定菱は笑いたい日の救世主だった。その映像はおそらく数年前の舞台で撮られたもので、ウケかたがハンパないし、うるブギのふたりもノリノリで、めちゃくちゃ幸福だった。今回、ちょっと硬いように見えたのと、冒頭の佐々木さんがちょっとだけやかましく聞き取りずらかったのと(すみません)、八木さんの笑いそうで笑わないけど結局笑ってしまう表情の機微が存分に発揮されていないように感じて(彼のインスタに上がってるたくさんの動画を見てほしい)、大好きなネタだからこそモヤモヤしたし悔しかった。うるブギ優勝予想だったもんで。でもParaviで見返したら純粋に爆笑できて、やっぱり最高の出来だったのかもしれない。惜しかった。平場が苦手なコント職人は尊い(でもニューヨークチャンネルでのふたりを見てると相手によっては平場もぜんぜんいけるに違いない)。

そいつどいつもめちゃくちゃ面白かった。床拭くところ怖すぎておかしすぎ。ザ・マミィの1本目のコントの切り口も素晴らしすぎた。

設定の凝り具合、キャラクターの強さ、ドラマ性。あくまでもだけど、今大会に関してはぜんぶ弱いコント(要するに、セットは簡易で設定も凝りすぎず、キャラクターは強すぎずリアリティもあり、ドラマ性は薄めで総じてくだらないコント)のほうが好きだった。ただ、何度も見ると、男性ブランコのシンプルなドラマ性の高さにめちゃくちゃ感動する。(おそらく)文通相手の文字の具合から性格を想像している、省略された前置きの可愛さとか。くだらなく、また想像すれば奥深くもある振り幅が、素晴らしいコントの条件だとすれば、やっぱり空気階段は圧倒的にかっこよかった。1本目の審査のあと、松っちゃんの後ろで泣いている女性がいてグッときました。『anna』をもういっかい見返そう。「メガトンパンチマンカフェ」のもぐらの長台詞が大好き。語り足りないし、みんなが語りたがるキングオブコントって最高。

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■許されるならこの贅沢をいつまでも

9月はふたつのお笑いライブに行った。月初には神保町よしもと漫才劇場へ。お笑いライブに行くといつも驚くのは、面白すぎること。異常に笑ってしまうし、椅子から滑り落ちるのを止めるのにたいへん(頻繁に滑り落ちたくなる)。こんなもの行きまくっていたら中毒になるに違いない。

僕が行ったのはいろんな芸人がネタを披露するいわゆる一般的なネタライブで、しっかりネタを見たことがなかった令和ロマンと9番街レトロが目当てだった。神保町は7年目までくらいの芸人しかいないので非常にフレッシュ。全組面白すぎてビビったのだけど特によかったのは前述の2組と、素敵じゃないか、色彩わんだー。色彩わんだーはスタンダップコーギーみたいになる瞬間がカオスでよかった。令和ロマンと9番街レトロはレベチ…。なかむらしゅんのツッコミがふにゃふにゃしながらも強くてクセになる。

月末には「あんあん寄席〜100分SP〜」というライブへ。野方にある中野区野方区民ホール。家からバスで3分の位置、速すぎて帰りは降り過ごした。いつの日かの『anan』に取り上げられたメンツで構成されたライブらしい。シシガシラ、カナメストーン、忘れる。、サスペンダーズ、令和ロマンの5組。1本ずつネタをやって、それがだいたい40分くらいで、残った60分は企画をやるという時間構成狂ってるやつ。2本ずつネタを見たい気がしたけども、結果的に企画がめちゃくちゃ面白かったので満足です。カナメがいると面白いよなー。サスペンダーズのボソボソっとした感じもたまらんし、いじられるシシガシラと忘れる。たちも愛らしい。そしてこのライブの新発見は、忘れる。でした。漫才がめちゃくちゃ面白い。もっともっと見たい!もっと!ニューヨークとカナメストーンの同期として名前はちょいちょい聞いてたけど、こんなに面白いならたぶん彼らと並んでくれるに違いない。うるブギやこういったメンツを世に出すためにもニューヨークには頑張ってもらわないといけない。

お笑いライブではないけどダウ90000の演劇本公演『旅館じゃないんだからさ』にも足を運ぶことができた。ユーロライブ、9月26日昼の回にて。これは革命でした。おそらく今年のあらゆるカルチャーのベスト10には入ってくる。最高、爆笑、涙。ビデオ屋という設定の哀愁と、8人いるキャラクターのバックグラウンドの濃さ、小気味いいワードが降り続くテンポのいい会話劇と、真面目な場面の抑えたテンポとのギャップ。なによりも、今回の主演、園田祥太さんの表情と声のボリュームとかっこ悪さが素晴らしすぎた。めちゃくちゃ笑ったあとに、図らずも泣きそうになるシーンがあって、それはひとえに演技力によるものかなと。金子大地をもっと風情ある感じにした顔をしている園田さんなので、こりゃひとりで売れてしまうかもしれない。あと、こういった若い劇団の面白いのは、作・演出家と演者がお互いの弱点を補い合い、強みを引き出しあいながら成長しているように見えるところ。要するに成長過程な感じ。今回は第二回本公演、第一回本公演も今はVimeoで配信されていて、こういう生まれたての才能を最初から追える機会はなかなかないのでそういうもの好きな多くの人に見られてほしい。10月17日まで配信中。男4:女4という、大学インカレサークル感(もともとそうなんだろうけど)がツボで、YouTubeのラジオもちょっとずつ聞いて本格的にファンになりかけている。配信でもう一回見てちゃんとレビュー書きたいなぁ。

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■忘れられないけど忘れてしまう生活の断片

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仕事で大学生に取材することがよくあり、その日も経営学を学ぶ大学2年生に、主に大学でどういうことを学んでいるのかを聞いた。こういった取材では、事前に質問シートをメールで送って、大まかに回答を書き込んでもらったものを確認した上で取材に挑む。そのシートのなかに「コロナ禍で授業はどう変わりましたか?」という質問があった。彼女が答えたのはこんなようなこと。入学してから対面授業をほとんど経験していないけど、まわりには起業した人やインターンを始める人がいるから、私もついていこうとがんばっている。与えられた環境で精一杯自分にできることをやる。でも、大学に行って、たわいもない会話をするという普通の大学生活も送ってみたい。ーー特に最後の回答に胸がきゅっとなった。取材の際にもそのことに触れると、実際、入学してから今までで2回しか対面授業を経験していないと彼女は言っていた。原稿にこの内容を書くスペースはまったくなかった。

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大学からの深い仲で今は同じ街に住んでいるのに、半年に一回くらいしか会わない(=連絡もとらない)友だちがいる。ちなみに大学生のときはほぼ毎日一緒にいた。そいつから夜に急に電話がかかってきて、「PS2ってはらちゃんに返したっけ?」と言われた。大学生のときに貸したっきり返してもらってないし、ぜんぜん返していらないからあげたつもりでいたやつ。「いや、返してもらってないんちゃう?」とか言っていたら、ごそごそと何か掻き分ける音がするなか「あーあったわぁ」と嬉しそうに発見を報告してくれた。「懐古厨やから」って言ってた。そのまま会おうやーってことになって、次の日にお茶しに行った。お互いの彼女についての話になったときに、その友だちが彼女と性行為をしまくっているという話を前に聞いていたので、「やりまくって子どもできんようになー」とかなんとか適当なことを言ってしまったと思う。詳しい語尾の感じとか言い方とかは忘れてしまったけど、とにかくその言葉に対して彼は、ちょっと前に彼女が妊娠して、堕した、という話をした。「知り合いにこの話したらめっちゃ怒られたわ」とも苦笑いしながら言っていた。僕は肯定も否定もしたくなかったので、相槌を打ったり大変やったなぁ、彼女がつらいやろなぁとか返していたと思う。やっぱり怖いという電話があって、仕事を引き上げてすぐに会いに行ったその日のこと、たまに思い出して彼女が泣くことがある、そんな話もしていた。奇しくも『透明なゆりかご』というドラマを観ている最中だったけど、僕は何も言えなかったし、何も言わなかった。

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休日の昼前に家を出ると、数軒先のアパートの2階から大爆音で音楽が流れていることに気づいた。まわり2軒先くらいまでは響き渡りそうな感じ。でもそれが演歌か歌謡曲っぽい音楽だったのとめちゃくちゃ秋の涼しい天気とマッチしていて不思議と不快ではなかった。アパートは網戸になっていて、完全にあそこから聞こえているとわかった。部屋の中もちょっと見えてしまったのだけど、阪神タイガースの横断幕とか帽子的なものが見えた気がする。夕方帰ってくると、依然として音楽が垂れ流されていた。ちょうど通り過ぎたときに「あまぎ〜〜ご〜え〜〜」と鳴り響いた。それから2週間くらい、あの部屋の窓は閉め切られていてもう音楽は聞こえてこない。その日きりのことだった。

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生活の断片というものは、すぐに記憶から忘れ去られてしまう。それでも、残り続けるものがある。岸政彦『断片的なものの社会学』を読んでから心に何かが残りながらもどうしようもなかったことをいくつか書いてみた。だからなんだ、という話はいくらでもあるだろうけど、結論づけられないものにこそ大切な何かがある気がする。9月12日放送の『かまいたちの知らんけど』で、濱家が37年通ったイズミヤの閉店が取り上げられていた。めちゃくちゃ感動したし、場所によって記憶が蘇ること、逆を言えば場所がないと記憶もなくなってしまうことの残酷さに打ちひしがれた。この物語によってもしかしたら一番悲しい結末は、昔通った思い出の建物が、知らぬ間に潰れていたこと、ではないだろうか。そういう可能性もあるわけで、別れを告げることもなく思い出される記憶もなく、そのまま失っていくものがあるんだなと想像する。それは『断片的なものの社会学』の一編「誰にも隠されていないが、誰の目にも触れない」に書かれていること。生きるってどうしようもなく寂しいし寄るべないなって思って、でもそれがいいとも思った。ETV特集『私の欠片、東京の断片』も見た。『東京の生活史』読みたいな〜。

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■ いくつか読んだ本や漫画のこと。

今村夏子をどんどん摂取しようと思い、芥川賞受賞作の『むらさきのスカートの女』を手に取った。これは『ピクニック』の進化系みたいな……めちゃくちゃ面白かった。近所に住むフリーターであるむらさきのスカートの女と、彼女を逐一観察している黄色いカーディガンの女。語り手=黄色いカーディガンの女の、信頼できない語り手というのともどこか違う親近感と手の届かなさの表裏一体。遠野遥の小説のなかのひとり語りを読んでるときと同じ地に足つかない感情になる。いま何を読んでるんだろう、でもページをめくる手が止まらん…という感じ(これ系どんどん知りたい、村田沙耶香さんとかもそんな感じなのかな)。今村夏子さんは黄色いカーディガンの女を書きたかったのかなぁとか。

『ひらやすみ』第1巻がかわいかった。29歳フリーター男とその従姉妹の大学1年生が平屋で生活を始める話。舞台は阿佐ヶ谷。それもあってかとにかく人当たりのいいフリーター男は、『A子さんの恋人』のヒロ君みたい。中央線沿いの物語はどうしても愛着が湧くのです。

積読していた『夜と霧』を読んだ。今の自分には、この本を読んで何かがわかるということはなかった。山中瑶子監督があるときバイブルだと言っていたことともに、残酷な描写などを記憶に留めたい。

Netflixで映画化される『ボクたちはみんな大人になれなかった』の原作を読んだ。中年男性がエモーショナルに過去を回顧する話で、正直まったく入り込めなかった。タイトルが少しいや。

『【さり】ではなく【さいり】です。』という、伊藤沙莉さんのフォトエッセイ本がある。今年の6月に発売されたやつ。ここに、『ボクたちは〜』と同じく「過去に人からもらった言葉」を軸に生きてきた伊藤沙莉さんのめちゃくちゃ素晴らしいエッセイがたくさん記されていて、これには感動の嵐だった。この本にはリアル伊藤家の食卓のレシピとかも載っていて、その中の「絶品ニラ玉」をつくったらめちゃくちゃうまかった。自らの料理に絶品と付けてしまう愛らしさよ。伊藤沙莉さんは『ボクたちは〜』で重要な役を演じている。

 

そういえば、高円寺南口にあるアール座読書館というカフェにこの前はじめて行って、すごくいい空間だった。本を読むための守られた場所。誰でも書き込める日記帳が机の上に並べられてあって、すごい長文の近況報告が書いてあったり、心の病に苦しんでる日々の生活が書いてあったり、店への愛が綴られていたり。僕のマリさんの『常識のない喫茶店』という本も読んだので、カフェや喫茶店への想いが膨らんでいる。

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■辻褄なんて合わないのが人生なのだから

映画はかなり選んで見るようになっていて、それよりも本を読むことに躍起になっている、近ごろ。『空白』は吉田恵輔なので観た。直後の感想はFilmarksに書いた。信頼しているフォロイーの方がとても意味のある批判をしていて、観たあともいろいろ考えている。主に、終盤の展開に感動してしまってよかったのかどうかについて。活弁シネマ倶楽部の監督インタビューを見ると、吉田恵輔監督が結末になんとしても「希望」を据えたい人だということがわかった。その希望を希望として見せるために、地獄の場面は徹底的に地獄として描くんだとも言っていた。それは吉田恵輔監督の作風として面白いとしても、本作においてある男ふたりにだけ希望を見せて、女性たちが軒並み地獄を見せられている(希望を与えずに終わる)のはいかがなものなのか。要するに、主人公に希望を与えるための辻褄合わせとして、ある人物たちは地獄のまま消えていく。こう書くととても気持ち悪い構成なのは一目瞭然だけど、結果的にそうなっているのは事実。このクソな社会で、中年男性に希望を見せる(若い女性を地獄に落とす)映画にどれほどの意味があるのだろう。filmarks.com

こんなことを言いたくなるのは『セックス・エデュケーション』が素晴らしすぎたからに他ならない。シーズン3が配信されるこのタイミングで最初から見始め、最後まで一気に見終えた。隅々まで気が利いたドラマだと思った。ある結末を見据えて辻褄を合わせるためにキャラクターが動いていく物語は数多くあるし、そんなものに慣れすぎてしまっていたのかもしれない。ここに描かれているのは、一人ひとりアイデンティティがあって、予測不能な心の動きがあって、それゆえのすれ違いや、どうしても折り合わない感情、あるいは偶然の連帯がある、ほんとうの意味での心と関係たちだった。今ここに生きる私たち以上に、ドラマの世界は自由で荒唐無稽。なんだか現実すらも辻褄合わせの連続のように思える世界だからこそ、ドラマを観ている途中ずっと気持ちよかったのかもしれない。余計なことを言ってしまうことでの決裂、あるいはそれすら言えないことでのすれ違い。どちらのディスコミュニケーションも、S3のテーマであるだろう「分断された世界」の前では非常に希望に見えた。

アイザックの扱い方だけよくわからなかったのだけど…よいドラマだからこそなんであのキャラだけあんなに便利に動かされたのかだけ気になる。シーズン2の終わり方もどうせ最後にはああなるんだろうと予想できて『プロポーズ大作戦』(大好きだけど…)みたいなこと今やられても…って思ってちょっと嫌だったし、そういう噛ませ犬的なキャラがいないのがこのドラマの魅力だったから残念だった。しかもよりによってその噛ませ犬が身体障がいを抱えていてトレーラーハウスに住んでいるという圧倒的マイノリティという点。誰か説明してほしい。

『お耳に合いましたら』もついに終わってしまった。来週が待ちきれないというタイプのドラマではなかったけれど、終わってしまうと急に寂しくなる。ずっとそばにいてくれるような安心感があった。松本監督と伊藤万理華さんの組み合わせは何度でも見たい。ダンスも見たい。

9月19日、下北沢映画祭で山中瑶子『魚座どうし』×金子由里奈『眠る虫』の上映とトークがあったので喜び勇んで見にいった。監督山中瑶子、主演金子由里奈の『したくてしたくてたまらない女 2019』という短編の上映もあって(それ目当てでもあった。山中瑶子監督の映画は全部見る)。どっちの映画もなんども見るとより面白くなっていく。

 

10月はユーロスペースキアロスタミ特集上映が楽しみ。大好きな『友だちのうちはどこ?』『桜桃の味』も映画館では観たことがないので、あわよくばぜんぶ観たい。な!

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秋臭秋臭秋(2021年9月1週目)

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夏の終わりにはそれ特有の匂いがあると彼女は言った。それって秋のはじまりのあの金木犀の匂いと一緒でしょ、と思ったし実際に言ってみたのだけど、彼女は違うと言う。今がその頃合いなのかな。夏が終わるより先に、秋ははじまってしまうような感じがするんだよな。

キングオブコントの決勝進出者が発表されて、気が早いけどもういよいよ年末という感じ。いつまで経ってもその放送日が「この秋」から変わらなくて、まぁたぶんシルバーウィークあたりにやってくれるんだろうけど、もう「この秋」きちゃってますよと言いたい。いや言わなくていいか。かが屋が決勝行けなかったのは悲しいけど、焦りとプレッシャーがあるだろうなかでしっかり準々通過しただけでもすごいと思う。かが屋のコントはいますごい変身の途上にいる気がしていて、そのうちなんかすごい次元に行きそうなのでそのときまでKOCは楽しみに待ちたい。月末発売の『芸人雑誌』で賀屋さんにその辺りのことをたくさん訊いたのでぜひ読んでほしいです。かが屋のコント美学と加賀さん復帰後の変化についての個人インタビューです。ということで僕の優勝願望予想はニッポンの社長。次点でうるとらブギーズ。そういや、準決の次の日に街で見かけたあの芸人さんも決勝進出していて嬉しい。街っつうのは高円寺のことだけど、こんかい高円寺芸人多すぎ。最高の大会になりそうだなぁ。

honto.jp

労働にさいなまれるとYouTubeしか見れない人間なので最近は暇をつくって読書に精を出している。U-NEXTでNHKオンデマンドに入って『100分de名著』を漁ることにも奮闘している。勉強って楽ちい…なんてこと思っちゃうくらいには新たな知識を得ることが大好き。『100分』は現代的なテーマに密接してる名著を厳選してるしほんと素晴らしい番組。「日本人論」「チェーホフ『かもめ』」「ブルデューディスタンクシオン』」「パスカル『パンセ』」「サルトル実存主義とは何か』」「ボーヴォワール『老い』」の回を観た。近ごろは大学で学んでいた社会学に原点回帰するのがいいんだろうなっておもったり、哲学とかの名前聞いたことあるけど全然何やってるか知らん系の人が気になってきて見ている。一気に見過ぎてこんがらがり必至だけども、映画や小説に接しながら、生活しながら、いろいろな教訓をゆっくり咀嚼していきたいと思う。なにより伊集院さんの司会っぷりと学者たちとのグルーヴィーな会話にどきどきみぞみぞする。

1Q84』を読み終えた。前半は風呂敷が広がりまくってかなり惹きつけられたけど、後半(特にBOOK3の前編)がひどく退屈でしんどかった。最後の最後はよかったけどね。なんにせよ村上春樹の長編に初挑戦だったわけで、ナルシシズムが滲み出る文章とかこれは読み続けたら自身の身体に跡がついてしまうんじゃないかってくらい影響力のある特異な文体だったから、休み休み他の作品にも触れてみたいと思う。幸いなことに、ほぼ全作会社にあるので。今のところ『ドライブ・マイ・カー』が入った短編集のほうが好き。あの短編集は映画の元ネタのひとつにもなった(そして重要なモチーフを形作っている)『木野』がとりわけゾクゾクする。

10月に公開される『草の響き』の原作も読んだ。村上春樹と同世代だけど全然違う人生を歩んだ佐藤泰志の小説。『きみの鳥はうたえる』と同じ本に収められてる。心の病を抱えた青年が運動療法のもとただ走り続ける話で、これがとてもいいんだ。短かくて終盤がとくにいい。僕もユー・キャント・キャッチ・ミーと宣言しながら走り続けたい所存。

今村夏子の『こちらあみ子』もずっと読みたかったけど読めてなくてこのタイミングで。「こちらあみ子」「ピクニック」「チズさん」の3編。以前読んだ『星の子』と全然違う。全部が全部、なんかやばい。同じような物語を紡ぐ人がいたとしても、今村夏子の小説は圧倒的に映画で言うカメラの置き場所が唯一無二で、ちょっと異常な語り口をしてる。簡単に言えば、幾度となくぞっとさせられる。「こちらあみ子」は来年映画化されるらしいけど、お母さん役の尾野真千子ははまり役過ぎるにしてもあみ子を体現することもカメラに収めることも「果たしてそんなこと可能なのか!?」と思ってしまう。それくらい、人の想像力に生きうる世界を描き出すのがうまい。それにしても、「「ピクニック」を読んで何も感じない人」という圧倒的に抽象的なワードで会話してた『はな恋』の麦くんと絹ちゃんってやっぱりめちゃくちゃだよ。たぶん「ピクニック」を読んで何も感じない人ってのは超絶ピュアで憎めない人だし、いちばん怖いのは何か歪なものを感じながら感じないフリをする人だし、それ以前にこの小説は100人読んで100人違う意見を持つだろうから好きならちゃんとその認識の違いを話しあったほうがいいよ!って思った。あつくなっちゃった。

紅葉のジャケットが美しくて去年の秋に買ったよしもとばななの短編集『デッドエンドの思い出』をようやっと読んだ。よしもとばななは初めてで、これがどういう位置にある作品なのかわからない。でも表題作は著者が自分の作品のなかで一番好きと語っていたので代表作のひとつと言えるんだろう。登場人物たちがだいたいみんな優しくてほんとに心温まる人たちでほっこりする一方で、自分の肌に合うとは言い切れない何か引っ掛かりがあった。ひとつには登場人物が金持ちすぎることだろうか。あと友情関係が描かれないか、もしくは否応なしに友情関係が恋愛関係へと発展してしまうこと。〈物語における「恋愛」〉について考えることも多い今日この頃なので、とても好きな展開な気がするけどなんだか拒否反応があってしっくりこなかった*1

〈物語における「恋愛」〉ーーそれは『現代思想』9月号の特集「〈恋愛〉の現在ーー変わりゆく親密さのかたち」を読んで考えたこと、考えていること。初めてこの雑誌買った。テーマがどんぴしゃしゃすぎて本屋で見つけた途端レジ駆け込み。冒頭の対談からめちゃ面白かったけどちょっと咀嚼するには時間がかかりそうなテキストばかり。

松本大洋の新作『東京ヒゴロ』が素晴らしい。

読後にじわじわと感慨が深まっていくタイプの漫画。〈漫画家についての漫画〉という点に惹かれて買いまして、それと言うのも『バクマン』が大好きだからで。でも読んでみると、若さが滾っていた『バクマン』とは正反対の、〈中年の青春〉を描いた漫画家漫画であることに気づいた。そこにいるのは、所詮ビジネスである出版界に揉まれ過度に大衆に最適化してしまった漫画家や、その世界に呆れて生活者に還ったもの、書きたいことはあるが技術が足りないかわがままなもの、かつて人気漫画家であったが今はスーパーのパートに勤しむ主婦ら、出版界のメインストリーム(いわゆる『バクマン』の競争社会)を外れざる得ない人たち。その中心にいる主人公は、「本が廃刊の憂き目にあったのは、私が自らと読者の乖離を認識しなかったからに外ありません。」と語るベテラン編集者。彼が大手出版社を辞めようとするところから物語は始まり、それでも〈漫画に生きる〉中年たちの姿が描かれていく。慟哭し、衝動す。そんな言葉が読後に浮かんだ。誰もが思い通りにいかず泣き叫んでいる。それでも漫画という衝動が彼らを突き動かす。

書くとは瞬間を救い出すこと。第一が自分の経験を伝達する喜び、次に言葉で人や事物を永遠化させる喜び。

哲学者であり作家の、シモーヌ・ド・ボーヴォワールの言葉だ。彼女は、作家は老いとともに力を失うのが常だが、画家は逆に熟練していくと『老い』で語っていた(らしい)。作家と画家のハイブリッドのような漫画家はどうなるだろうか。きっとせめぎあうなかで生きるしかない。慟哭と、衝動の狭間で。トーンは使わず墨汁で描いているというベタの味わいが素晴らしく、1話1話を締める一枚絵も非常に滋味深く、この漫画の〈絵画〉としての側面も熟年の域に達していると思う。今後が楽しみな漫画です。

 

*1:恋愛に閉じた『幽霊の家』と、恋愛から開かれていく『デッドエンドの思い出』との違いは留意すべきかもしれない。その違いにこそ意味がある短編集なのかも。

対面の消失

気に入ってるカフェでごはん&読書したあと店を出ると、すーー、っと知っている人が通り過ぎていった。この街ではもう何度目かの発見になる。ある芸人さんなのだけど、いつも紫色のシャカシャカっぽいズボンを履いているのですれ違うとすぐに気づくのだ。吉野家で牛丼を必死に食べていると、U型のテーブルのトイメンにその人がいて彼もまた必死に牛丼をかき込んでる場面に遭遇したこともある。あれは夜の12時手前くらいだった。

すーー、っと通り過ぎていった芸人さんは大きな荷物を抱えていた。たぶんコントに使う道具か何かだろう。そういえば、とすぐに思い出したのは、昨日がキングオブコントの準決勝だったこと。その芸人さんも出ていたので、そして結果は昨日のうちに出ているので、どちらにせよ並々ならぬ感情を抱えて道を歩いているということになる。思わず追跡してしまった。なんの目的もなく後を追ってみる。すぐに駅に到着して中に吸い込まれていったのでそこでささやかな尾行は終了したのだけど。我々観客には6日に発表されるKOCの決勝進出者。彼の歩き方からすれば通ってるっぽかったけど、通っててほしいなと念じて帰路についた。

 

縞模様螺旋(2021年8月1週目)

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コロナ感染拡大下のオリンピック開催、蹂躙される文化とスポーツ、ワイドショー的SNS、双方向ディスコミュニケーション、排除したい人々と、ここにある一人ひとりの生活、剥き出しの刃、底知れぬ恐怖、世界から隔絶された部屋、部屋から隔絶された世界。

日々苦しんで怒っていることは確かなのにその理由は明白なときとよくわからないときがある。

何が好きで、何を面白いと感じるか。自分はそれを言語化する方法でしかこの世界と付き合っていけない。それは一面ではとても悲しいことであり、悔しいことである。怒りや苦しみをうまく言語化して叫んだり人に話して共感を求めたりできないのは端的に言って辛い。それをするにはいくぶん言葉の使い方を知らなさすぎる。感情を捉えられない。知識がない。言葉が汚されている。叫べないことは本当に悔しい。涙が出るほどに。臭いものに蓋をして忘れるわけではない。そっと置いておく。叫べるようになったときのために、記憶に留めておく。記憶の片隅ではなく、わりかし中心のほうに置いておいたほうがいいかもしれない。だから今日も健康的に怒り苦しみながら、好きなものに囲まれて生きていく。

* * *

宇野さんと柴さんのトークライブを配信で観た。オリンピック開会式翌日に収録されたもの。それゆえかおふたりとも感情のたががはずれ思わず感極まる場面もあった。話題は自然と小山田さんの話になる。途中乱入したタナソーのエクスキューズが印象的だった。このSNS社会にあって、被害者のいる事象に加害者意識のないまま(SNSでも)発言することはあってはならない。加害者を糾弾するのも何様だよって感じだし、たとえ意図と違うくてもどの発言が再び被害者を苦しめることになるかわからない。

『芸人雑誌』編集長と先輩が猛プッシュしていたのでコントユニット「ダウ90000」の配信ライブを観た。今年の初めに行われた第一回本公演『フローリングならでは』がまだVimeoで観れるのだ(1000円)。玉田企画をややマイルドにしてより女性キャラに重点を置いたような、若者の恋と友情とディスコミュニケーションに関する80分の会話劇。最初から人数が多すぎ、セリフの間を詰めすぎ、等々入り込めない要因は明らかだったけど、どう考えても好みだった。コントライブを観ることに決めた。YouTubeで最初にみた「女ミルクボーイ」がもうすでに面白かった。


www.youtube.com

 

f:id:bsk00kw20-kohei:20210810011718j:imageケリー・ライカート『ウェンディ&ルーシー』と『オールド・ジョイ』を何日か空けて観て、特集上映の4作品はコンプリート。どちらもめちゃくちゃよかった。ていうかライカートとの相性めっちゃよかった。みんなそうだから騒いでたんだろうけど。『ウェンディ&ルーシー』は貧困女性が職を求めてアラスカに車で行く道中で、愛犬ルーシーを見失ってしまったり、車が故障してしまったりして足止めを食らう話。すんごい切ない。「ずっと犬を探す話」といっても過言ではないストーリーの淡白さだけれど、ミシェル・ウィリアムズからはひとときだって目を離せないし、ルーシーはかわいいし、ジェンダーと貧富の捉え方がとってもリアルで鋭利。冒頭の長回しからただならぬ空気を放っている。『オールド・ジョイ』もなぁ…哀しかったなぁ。中年男のふたり旅(一方は結婚済・子供産まれる直前、もう一方は独身)はそりゃあ切なさを帯びる。この旅と川の映画を観た次の日に川へ行ったのだけど、感慨がすごくてあんまり楽しみきれなかったかもしれない。ライカートは映画好きだけでなくもっと広くポップカルチャー界隈に認知されるべき監督だと思う。f:id:bsk00kw20-kohei:20210810015442j:image

ニッポンの社長の単独ライブ『お金がない!』を配信で。ケツの顔を見るだけで笑ってしまう「弱点・ケツ」な自分でも、今回はあんまり笑えなかった。ちょっと喋りすぎでは?とか思った。「ほっこり」のネタと「俺は坂本。生きている。」のカオス舞台バージョンはよかった。

『愛の昼下がり』をみてロメール特集全6作品もコンプした。今年は新作映画をそんなに観れている手応えがないけど、旧作の特集上映にはいい感じで足を運べている。Filmarksの便利機能で、1年半でロメールの映画を短編含め26本も観ていることを知る。今回の初期作品集は個人的にすべて微妙で、それはなんでだろうと考えると、「男だなぁ…」って話ばっかだったからだと思う。女性登場人物の個性がぜんぜん出てこない。『飛行士の妻』『緑の光線』『レネットとミラベル』が変わらずロメールベストです。ちょっと前にDVDBoxをメルカリで買って観た『恋の秋』も熟され気味でよかったな。

f:id:bsk00kw20-kohei:20210810011816j:image試写で9月17日公開『由宇子の天秤』を鑑賞。ここにも旬の河合優実さん。主人公の心の揺れを左右する重要な役どころだった。正義感と行動が乖離した、二重規範を描いたようなすごく真に迫る映画ではあったのだけど、ストーリーテリングのなかでの何かが途中で捻れてしまっている気がして、主題がスッと入ってこなかったのは確か。加害者意識を持たざる正義感の危うさを表出していて、じっくり考えたい主題ではあった。150分の映画がこれだけ張り詰めているとちょっとしんどいんだけどしょうがないか。

f:id:bsk00kw20-kohei:20210810011850j:imageテアトロコントSpecialのチケット情報 - イープラス

ダウ90000蓮見翔が作・演出、玉田真也とテニスコート神谷さんが企画のコントライブ『夜衝』を観にユーロライブへ、と思っていたところ当日にコロナ関係で急遽中止になってしまって生では観れず。でも悔しいので配信で観ました。何しろラブレターズ溜口さん、ロロ森本華さん、伊藤修子さんという謎の最強メンツだったので。僕はとにかく神谷さんが好きなのだ。8本か9本くらいだろうか、コントがいくつか繰り広げられるのだけどこれは驚きの面白さだった。この会話劇の生々しさと笑いの純度。会話劇だけじゃなくてごはんを食べるところのあのギミック笑かしも凄まじい。冒頭のコントの「オフのLiLiCoが観た映画って言われたら、急に観たくなんない?」から心掴まれてました。客演ありライブ今後もやってほしい。蓮見さんのツッコミはシンクロニシティの男の人に似てる。そういえばシンクロニシティは現在ボケのよしおかさんが体調不良で活動休止中とのこと。長い目で応援したい。こういうときのAマッソの優しさ。

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オードリーが司会、コンビ大喜利AUN』のテレビ版を。イベント版のメインはコンビ大喜利よりも入場時のフリーお笑い総合格闘技だったから、それはもちろん損なわれてしまったものの、2連覇の真空ジェシカとAマッソの安定感がテレビクオリティを担保していたし、三四郎とかがまさかの面白さを見せていてよかった。テレビってでも、どこまでいっても窮屈ですね。

1Q84』が佳境。ほぼこれを読み進めるだけで休みが終わった。

先週-貪食-カルチャー(21年7月4-5週目)

カルチャーに多く触れる時間を削ってでも日記を書くべきかいつも迷うけれど、いつも同じ結論に辿り着く。それは書いたほうがいいだろう、と。そもそも、多く触れることを目指してはいなかった。アウトプットのほうが大事だった。

オリンピックのあれこれを経てTwitter見るのがちょっと嫌になって退却しているので、インターネット空間と繋がる手段がブログしかない。なんやかんや繋がりを持ちたくって、最近発売された「芸人雑誌」とかでエゴサかけちゃったりするんですけどね〜。久しぶりに書いてみようと思う、先週の記録。


シャンタル・アケルマンブリュッセル1080、コメルス河畔通り23番地、ジャンヌ・ディエルマン』

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『マスター・オブ・ゼロ』のアジズ・アンサリがオールタイムベストに挙げている映画ということでずっと気になっていて横浜シネマリンでの上映があったから観にいった。フランス女性監督特集、もっと観にいきたいのいっぱいあったけど横浜はさすがにそう何回も行けないね。映画館に着いてからめがねを忘れてることに気づいた。視力0.4くらいだから裸眼だと字幕を地味に読めたり読めなかったりする嫌なラインなのです。しかしこの映画、上映時間200分(!)あるけどセリフがほぼなかったからぜんぜん大丈夫だった。セリフがない映画めっちゃ好き。表情の変化をもっと読み取れたらな、とは思ったけどたぶん言葉よりも表情よりも空気を映しとっていたと思うから、それはじゅうぶん感じ取れたと思う。高校生くらいの息子と暮らすある未亡人の3日間を3時間に収めた映画。ただ日常が流れ、流れ、流れ、その隙にどうしようもなく入り込む疲弊感を残酷に切り取る(あるいは切り取らない)。この映画を観にいくと彼女に言ったら、ブリュッセルって綺麗な街やから風景とか楽しめそうやね、と言っていたけど、200分あるのにほぼ街の情景が出てこなかったのには驚いた。室内。忙しなく動き続ける女性。部屋を行き来するときそのたびに彼女は必ず電気を消す。言葉のない母と息子の食卓。父の不在。昼間にやってくる男たち。カットされる売春。大胆な肉料理。じゃがいもの危険な皮むき。はさみ。崩壊していくもの。この世の絶望。


ひうち棚『急がなくてもよいことを』

主に家族と旅にフォーカスを当てた短編作品集。作者の優しい目線を追体験していくような心地よい漫画。好きです、めちゃくちゃに。こんなにすべての作品が心に染みる短編集はめったにない。作者の子ども時代の“切なさ”に焦点を当てたような哀愁ある記憶の数編と、20代後半で自費出版を始めたというころの親や友だちとの記憶や一人旅の数編と、結婚して子どもができてからの赤子の成長の記録と日常を綴る数編と。どれも確かな生活の質感に満ちていて油断するとたぶんぼろぼろ泣けてしまう。いつか家族ができたら、とか、いつか子どもができたら、とか、何か作品に接すると読み返す日を想像することがあるけれど、これもそんなふうに大事にしたい漫画だった。「そんな急いで大きならんでもええからね」。通りの看板にふとしたいい言葉が潜んでることもあるんだね。忘れてしまいそうだけど忘れたくない、おばあちゃんちで過ごした夏休みみたいなにおいがした。↓偶然足を運んだSPBSにてプッシュされていた。ひうち棚さんのメモ帳覗けるの嬉しい。

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エメラルド・フェンネル『プロミシング・ヤング・ウーマン』

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感想を書けば一区切りついたように感じてしまういまのカルチャー消費の仕方について反省する。この映画については、感想が浮かんでは消え、浮かんでは消えていった。適切な言葉のなさと、適切な言葉を選び取れない自分の功罪。簡単に感想をつらつらと書ける映画よりもずっと大事にしたい感覚であり、大事にしたいというか忘れたくない。マッチョな男らしさへの嫌悪感はデフォルトであるのだけど、自分も男性を割り当てられ生まれてきた以上、居心地の悪さは拭いきれない。この居心地の悪さにはもっと複雑な理由もあると思う。ちょっと強すぎる、露悪的な描写が多い(もちろんあえてだろうけど)映画だとは思った。


TBS『ザ・ベストワン』

オリンピック開会式の真裏にて。爆笑問題のネタでこんなに笑ったのは初めてだった。太田さんが言った「小林帰ってこいよ!」がしみた。


キネマ旬報8月上旬号』

カンヌで脚本賞も受賞した『ドライブ・マイ・カー』をめぐる、濱口監督、三宅唱監督、映画研究者・三浦哲哉さんの鼎談が映画の副読本としてとても優れた内容だった。ゆっきゅんの構成もめちゃくちゃ信頼できます。「われわれは終わった後を生きている」という映画の気分、「正面ショット」に至るまでの過程の話、「背後霊映画」という三浦さんの指摘などがとくに面白い視点だった。


ケリー・ライカート『ミークス・カットオフ』

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シアターイメージフォーラムで開催中のケリー・ライカート特集。現在進行形でとても重要な監督であるといろいろな情報を見て理解しているので、4作品すべてを観ようと思ってる。2本目に観た『ミークス・カットオフ』がとてもよかった。いわゆるアメリカ西部開拓時代の物語“西部劇”が、新しい語り手によって解体され、再構築される姿をじっくり見届けることになった。映画のほとんどが「歩く」シーンで構成されている。西部に移住するためにひたすら歩く3家族を映像が捉える。歩いているだけなのに、なぜか面白い。歩いてないシーンも、より運動的で面白い。「川を目指す」一行の様子それ自体が流動体のように描かれ、そうあることを求め、未来を自らの手で手繰り寄せていくミシェル・ウィリアムズ演じる主人公の眼光に導かれていく。ラストカットが素晴らしすぎた。そこしかないという終わり方。


エリザ・ヒットマン『17歳の瞳に映る世界』

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観ている途中なんども『海辺の彼女たち』を思い出した。それを観たときはクロエ・ジャオとの親和性も高いと思ったけど、そういった世界基準に照らしても遜色ない映画が日本で生まれていることが再び嬉しくも思った。撮影形式、物語構成とも強く結びついた主題の共時性。どれも、役者とカメラの距離感に「親密さ」を感じて、描く世界は厳しいけれどこの映画が存在することに一縷の望みを抱く。『17歳の瞳に映る世界』は原題『Never Rarely Sometimes Always』が素晴らしい。頻度に関する単語。

“手”が印象的に映る。腹に打ちつけられるのは行き場を失った拳だった。その手が開き、繋がれ、再び意志をもって繋ぎなおされるまで。ほぐれそうになりながらも必死に交わるあの連帯の場面について、僕はどう言葉にできるだろうか。ついぞ結ばれることのなかった手と手があったけれど、それは果たして悪だったろうか。決してそうではないし、あの状況に陥れた男たちを、社会を、恨むべきだ。


新ネタライブ!!ハイキック寄席!!

コウテイニッポンの社長ビスケットブラザーズロングコートダディさや香などなどが新ネタを披露するライブをオンラインで。全体的に自由でシュールなネタが多くて、思った以上に混沌とした新ネタライブだった。オンライン限定なのに40人くらいしか視聴者いなくてビビった(笑)。スナフキンズを初めてしっかり観たけどめちゃくちゃ面白い。あの美容室のコントは今回一番笑った。絶妙なサスペンス要素がツッコミの間抜けな声と対比して冷やし漫才的に高低差のある笑いを生み出しているし、何より先が気になる。巧い。KOC頑張ってほしい。


一人前食堂

坂元裕二大好き具合がめちゃくちゃ伝わってきて愛らしいです。いつも本棚が気になる。

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東海オンエア

いわゆるYouTuberの動画を見ることはほとんどなくなったけど、東海オンエアの動画は定期的にドバッと見たくなる時期がやってくる。「寝たら即帰宅の旅」でのあの彼のかっこよさに痺れた。

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テレビ東京『お耳に合いましたら』

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今クール観てるドラマはまさかのこのテレ東深夜ドラマだけ。前クールは充実しすぎて『生きるとか死ぬとか父親とか』と『半径5メートル』を途中離脱してしまったのでこのタイミングで観たいと思ってるけど思ってるだけっぽい。

りっかが素晴らしいのとラジオレジェンドの佇まいが毎回めっちゃクール。第3話は「隣人に挨拶する」という現代のある種のファンタジーを語っていたけれど、チェンメシもそうだけどリアルがドラマに根ざしているから漫画やアニメ的というより「こういうことがあったらいいな」と素直に思える心地よさを保っていた。現実の話でありながら世界観の作り込みがうまくてどこか浮遊しているような感覚を抱かせる演出が素晴らしい。インサートで挟まれる山椒とかいいのよ。なんにせよまりっかダンスを毎週観れるのはいいことですね。


村上春樹1Q84

「ドライブ・マイ・カー」所収の短編集『女のいない男たち』で実は初めて村上春樹を読んで、これは長編なにか読まなきゃなと思い『1Q84』に手を出した。まだ1/6くらいしか読めてないので(それでも単行本250ページくらい)どう転がっていくか検討がつかないけど、村上春樹の文章は肌に馴染むようだし、現実にファンタジーが絡む話はあまり得意ではないけどこの場合導入が丁寧でわくわくしてるし、今のところいい感じだ。読み終えたら影響を受けて文章書くとき暗喩しまくりマンに変貌するかもしれない。


ほりぶん『これしき』

昨年のGW、今年のGWと開催を予定していたものの延期になり続けて、ようやく三度目の正直で戻ってきたほりぶんの演劇。日常は元通りになっていないけれど、演劇で役者さんたちの生の演技をみて、心を打たれた後に帰り道で「すごかったな…」と道を歩きながら黄昏れる瞬間が手元に返ってきたことにまずはとても喜びを感じた。最高だった。「生活に足りなかったのはこれだわ」というたしかな実感があった。

何度も観たことがある気がしていたけど、ほりぶんの舞台を観るのはこれが二度目だった。同じく鎌田順也さんが作・演出を手がけるナカゴーを4、5回観てるからもっと観てる感じがするんだろうな。ほりぶんには女性の役者しか出てこないっていう特徴があるから混同しようはないのだけど。

冒頭でのネタバレ、メッセージ性があるのかないのか揺れ続ける暗喩的なあらすじ、役者さんたちのはちきれんばかりのパワー、確信的な反復、爆発する笑い。どこをとってもここにしかないカルチャー。全体的には粗雑極まりないのに、ある人物が指で人を操るときの指の動きとか、自販機から飛び出す缶ジュースとか、端々で妙にディテールが凝られているのも笑いを増幅させる。なんともストーリーに触れづらい(というかカオスすぎて説明しきれない)作品なのだけど、前半は少しシビアな語り口を取っていて、「Twitter空間」の暗喩を仕掛けているのかなと想像した。道で他人とすれ違うといつも舌打ちをされてしまい、いつもは見過ごしていたけどそれではずっと負けているばかりではないかとついに物言いをつける人。を起点に、人が集まって対立したり和解したりする様は、現代のリアル世界でそうそう起きることじゃないけどTwitterでは頻繁に起きている。本来争うべきでない人が争ってる感じ。後半のカオティック展開によりそういう想像も杞憂に終わるのだけど、劇中何度も発される「多様性」や「人にはそれぞれにバックボーンがある」という言葉にはそのままの意味だけでない皮肉やツイストが含まれていたと思う。後半は無尽蔵に笑い続け、100回くらい腹筋したみたいな状態になった腹を抑えながら小刻みに肩を揺らし続けた記憶しかほぼないのだけど、なにか大事なメッセージが宿っていたのではないかと考えさせられる展開ではあった。でも、なんだったんだこれは……という手触りのまま大事に記憶しておきたくもある。そういえば前回のほりぶんは急に本場のサンバダンサーが登場して踊り出したりしてたよな…。未だになんだったのかわからない。家の近くから会場の花まる学習会王子劇場の目の前までバスが出ていて、その帰りにこの感想を書いた。次回は2月に紀伊國屋ホール人間万事塞翁が馬


私立恵比寿中学 × 石崎ひゅーい - ジャンプ / THE FIRST TAKE

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魂の歌声である。これはもはや魂としか言いようがない。うまいとか力強いとかかっこいいとかの言葉の器では収まりきらない、魂の放出。

 

〈書きたい感じエトセトラ*1

“におい”や“リズム”について書きたいとずっと思っている。鼻を通って脳に刺激を与える嗅覚という意味での匂いもそうだけど、ここで言うにおいというのはもっと抽象的なものだ。例えば、Yogee New Wavesの曲を聴いたときに感じる気怠さと自由さを携えた海辺のにおい。例えば、ブログ「青春ゾンビ」を読んでいるときに感じるカルチャーを手繰り寄せて一体化するまでのリズムとカルチャーに彩られたにおい。まだよくわからないけど、好きなものには一定のにおいやリズムを感じ取ることがある。

とりわけ、カルチャーに「バカンス」のにおいを嗅げると僕は一様に興奮する。ここでのバカンスもまた抽象的で概念的なものを指していて、例えば「金曜日の夜」みたいな自由さや、本来あるべき時間の無限さみたいなものを取り戻したときの感覚のこと。『街の上で』とかは、概念としてのバカンス映画でした。こうしたにおいを感じ取ったときの心の動きと正体についてなんとか言葉にしてみたい。

 

*1:書きたい文章の種類や方向性が日々変わってしまうので、かなり抽象的だけどここにメモしておきたい。

細田守『竜とそばかすの姫』

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「あなたは誰?」「ほんとの姿はどっちなの?」とBelleが問うときの、奥に潜む哀しみの根源にあるものはなんなのか。といえばもちろん母の最後の行動の“理解できなさ”なのだろうけど、それを仮想世界で自由を得たBelle(鈴の仮の姿)が執拗に問い続けるところがまずもって謎だった。自分は仮の姿なのに、相手には本物を求めるというねじれ。けれど、本作のテーマはまさしくそこにあるのだと思う。

millennium paradeを正しく纏った中村佳穂の強く余白のある歌声と、UとBelleの素晴らしい造形によってあがりまくる冒頭。もうこればっかりでええんちゃうかと思うわけだけど、ここでも細田守はねじれをわざと描写することに努めている。それは、「見るもの」と「見られるもの」といった権力構造に関するもの。現実の学校ではしのぶくんやルカちゃんのような人気者がいて、それ以外の生徒は彼らを階上から見つめるモブキャラと化す。すなわち、パフォーマーがいて、他はオーディエンスにならざるを得ない空間。そうした世界で抑圧されながら、歌いたくても歌えない(この背景のディテール詰めてほしかったな)鈴は、ある日仮想世界〈U〉に出会うことでBell(e)として生まれ変わることになる。歌うと、賛否両論を生みながらも聴衆がついてくる。Belleはパフォーマーになり、その他大勢はオーディエンスとなった。しかしこれでは「見るもの」と「見られるもの」という権力構造は変わらない。人が入れ替わっただけ。果たしてこれが、彼女の求めた本当の自由なのか。

Belleが竜に対して「あなたは誰?」と問うのは、構造の変わらなさに違和感を持っているからだと仮定してみる。人気者になったしのぶくんと喋れなくなったことへの違和感でもあるだろうし、この世の権力構造すべてへの違和感でもある。そうであるから、Belleはただひとり、竜に対してだけ歌われる歌を紡いだ。『美女と野獣』丸パクリシーンは画的な盛り上げでもあるのだろう。大事なのはもちろんそのあとで、そこになんとか繋げるための苦肉の策でもあったのだと思う。

ついに鈴が竜の正体を知るとき、そこでもまだ、「当事者」と「傍観者」、「画面に映るもの」と「それを見るしかないもの」の構造から抜け出せずにいる。ネットを挟み、遠くに住む我々はいつも、その関係から自由になることができない。その断絶された哀しみに対する回答が、本作では歌だった。いや、もはや歌すらも取っ掛かりでしかなかったのかもしれない。鈴は最終的に、彼に直接会いにいくことを決めるからだ。

「川」のモチーフが印象的だ。母が助けようとした対岸の子ども。鈴がゲロを吐いた橋。ラストカットを含め幾度となく登場する四万十川の河川敷。そして、東京の多摩川付近の家。

再びお婆ちゃんの話で恐縮ですが、練馬にあるもうひとりのお婆ちゃんの団地に住んでいたことがあります。
団地は全部で八棟あって、真ん中に川が流れていました。(中略)ある時そこで事故が起こりました。六号棟に住んでるわたしと同じ年の女の子が溺れて死にました。それ以来子供たちが川に近付くのは禁止になりましたが、わたしは相変わらず夜になると行って、柵を越えて、足をプラプラさせました。わたし、思ったんですね。その子じゃなくて、わたしが溺れてるパターンもあっただろうなって。

これは坂元裕二の小説『初恋と不倫』の一部分を抜き出したものだ。

君の問題は君ひとりの問題じゃありません。お婆ちゃんの団地の川で女の子が溺れ死んだ話したでしょ。誰かの身の上に起こったことは誰の身の上にも起こるんですよ。川はどれもみんな繋がっていて、流れて、流れ込んでいくんです。君の身の上に起こったことはわたしの身の上にも起こったことです。

『竜とそばかすの姫』にはひと言もこんなセリフは出てこないけど、こうした“対岸でありすぐ側に存在する闇の感覚”をとことんアニメーションで見せることに注力している作品なのだと感じた。竜の存在がいつまでも明らかにならないとき、どうしても僕は「もしかしてしのぶくん?」「いや、お父さんなのでは?」という推論を立ててしまったわけだけど、それ自体も作り手の狙い通りなのかもしれない。そうしたミスリードによって「誰の身の上にも起こりうる」という感覚が、作品の通奏低音となっていたからだ。

四万十川の河川敷と多摩川付近のあの家はどこかで繋がっている。そのことに気づいたとき、同時に鈴は、母の行動を理解することができた。母が飛び込んだあの川と、今対峙している川もまた、どうしようもなく繋がっている。『竜とそばかすの姫』は、その川を切り離さずに、手繰り寄せるための寓話を語る。