縞馬は青い

縞馬は青い

映画とか、好きなもの

秋臭秋臭秋(2021年9月1週目)

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夏の終わりにはそれ特有の匂いがあると彼女は言った。それって秋のはじまりのあの金木犀の匂いと一緒でしょ、と思ったし実際に言ってみたのだけど、彼女は違うと言う。今がその頃合いなのかな。夏が終わるより先に、秋ははじまってしまうような感じがするんだよな。

キングオブコントの決勝進出者が発表されて、気が早いけどもういよいよ年末という感じ。いつまで経ってもその放送日が「この秋」から変わらなくて、まぁたぶんシルバーウィークあたりにやってくれるんだろうけど、もう「この秋」きちゃってますよと言いたい。いや言わなくていいか。かが屋が決勝行けなかったのは悲しいけど、焦りとプレッシャーがあるだろうなかでしっかり準々通過しただけでもすごいと思う。かが屋のコントはいますごい変身の途上にいる気がしていて、そのうちなんかすごい次元に行きそうなのでそのときまでKOCは楽しみに待ちたい。月末発売の『芸人雑誌』で賀屋さんにその辺りのことをたくさん訊いたのでぜひ読んでほしいです。かが屋のコント美学と加賀さん復帰後の変化についての個人インタビューです。ということで僕の優勝願望予想はニッポンの社長。次点でうるとらブギーズ。そういや、準決の次の日に街で見かけたあの芸人さんも決勝進出していて嬉しい。街っつうのは高円寺のことだけど、こんかい高円寺芸人多すぎ。最高の大会になりそうだなぁ。

honto.jp

労働にさいなまれるとYouTubeしか見れない人間なので最近は暇をつくって読書に精を出している。U-NEXTでNHKオンデマンドに入って『100分de名著』を漁ることにも奮闘している。勉強って楽ちい…なんてこと思っちゃうくらいには新たな知識を得ることが大好き。『100分』は現代的なテーマに密接してる名著を厳選してるしほんと素晴らしい番組。「日本人論」「チェーホフ『かもめ』」「ブルデューディスタンクシオン』」「パスカル『パンセ』」「サルトル実存主義とは何か』」「ボーヴォワール『老い』」の回を観た。近ごろは大学で学んでいた社会学に原点回帰するのがいいんだろうなっておもったり、哲学とかの名前聞いたことあるけど全然何やってるか知らん系の人が気になってきて見ている。一気に見過ぎてこんがらがり必至だけども、映画や小説に接しながら、生活しながら、いろいろな教訓をゆっくり咀嚼していきたいと思う。なにより伊集院さんの司会っぷりと学者たちとのグルーヴィーな会話にどきどきみぞみぞする。

1Q84』を読み終えた。前半は風呂敷が広がりまくってかなり惹きつけられたけど、後半(特にBOOK3の前編)がひどく退屈でしんどかった。最後の最後はよかったけどね。なんにせよ村上春樹の長編に初挑戦だったわけで、ナルシシズムが滲み出る文章とかこれは読み続けたら自身の身体に跡がついてしまうんじゃないかってくらい影響力のある特異な文体だったから、休み休み他の作品にも触れてみたいと思う。幸いなことに、ほぼ全作会社にあるので。今のところ『ドライブ・マイ・カー』が入った短編集のほうが好き。あの短編集は映画の元ネタのひとつにもなった(そして重要なモチーフを形作っている)『木野』がとりわけゾクゾクする。

10月に公開される『草の響き』の原作も読んだ。村上春樹と同世代だけど全然違う人生を歩んだ佐藤泰志の小説。『きみの鳥はうたえる』と同じ本に収められてる。心の病を抱えた青年が運動療法のもとただ走り続ける話で、これがとてもいいんだ。短かくて終盤がとくにいい。僕もユー・キャント・キャッチ・ミーと宣言しながら走り続けたい所存。

今村夏子の『こちらあみ子』もずっと読みたかったけど読めてなくてこのタイミングで。「こちらあみ子」「ピクニック」「チズさん」の3編。以前読んだ『星の子』と全然違う。全部が全部、なんかやばい。同じような物語を紡ぐ人がいたとしても、今村夏子の小説は圧倒的に映画で言うカメラの置き場所が唯一無二で、ちょっと異常な語り口をしてる。簡単に言えば、幾度となくぞっとさせられる。「こちらあみ子」は来年映画化されるらしいけど、お母さん役の尾野真千子ははまり役過ぎるにしてもあみ子を体現することもカメラに収めることも「果たしてそんなこと可能なのか!?」と思ってしまう。それくらい、人の想像力に生きうる世界を描き出すのがうまい。それにしても、「「ピクニック」を読んで何も感じない人」という圧倒的に抽象的なワードで会話してた『はな恋』の麦くんと絹ちゃんってやっぱりめちゃくちゃだよ。たぶん「ピクニック」を読んで何も感じない人ってのは超絶ピュアで憎めない人だし、いちばん怖いのは何か歪なものを感じながら感じないフリをする人だし、それ以前にこの小説は100人読んで100人違う意見を持つだろうから好きならちゃんとその認識の違いを話しあったほうがいいよ!って思った。あつくなっちゃった。

紅葉のジャケットが美しくて去年の秋に買ったよしもとばななの短編集『デッドエンドの思い出』をようやっと読んだ。よしもとばななは初めてで、これがどういう位置にある作品なのかわからない。でも表題作は著者が自分の作品のなかで一番好きと語っていたので代表作のひとつと言えるんだろう。登場人物たちがだいたいみんな優しくてほんとに心温まる人たちでほっこりする一方で、自分の肌に合うとは言い切れない何か引っ掛かりがあった。ひとつには登場人物が金持ちすぎることだろうか。あと友情関係が描かれないか、もしくは否応なしに友情関係が恋愛関係へと発展してしまうこと。〈物語における「恋愛」〉について考えることも多い今日この頃なので、とても好きな展開な気がするけどなんだか拒否反応があってしっくりこなかった*1

〈物語における「恋愛」〉ーーそれは『現代思想』9月号の特集「〈恋愛〉の現在ーー変わりゆく親密さのかたち」を読んで考えたこと、考えていること。初めてこの雑誌買った。テーマがどんぴしゃしゃすぎて本屋で見つけた途端レジ駆け込み。冒頭の対談からめちゃ面白かったけどちょっと咀嚼するには時間がかかりそうなテキストばかり。

松本大洋の新作『東京ヒゴロ』が素晴らしい。

読後にじわじわと感慨が深まっていくタイプの漫画。〈漫画家についての漫画〉という点に惹かれて買いまして、それと言うのも『バクマン』が大好きだからで。でも読んでみると、若さが滾っていた『バクマン』とは正反対の、〈中年の青春〉を描いた漫画家漫画であることに気づいた。そこにいるのは、所詮ビジネスである出版界に揉まれ過度に大衆に最適化してしまった漫画家や、その世界に呆れて生活者に還ったもの、書きたいことはあるが技術が足りないかわがままなもの、かつて人気漫画家であったが今はスーパーのパートに勤しむ主婦ら、出版界のメインストリーム(いわゆる『バクマン』の競争社会)を外れざる得ない人たち。その中心にいる主人公は、「本が廃刊の憂き目にあったのは、私が自らと読者の乖離を認識しなかったからに外ありません。」と語るベテラン編集者。彼が大手出版社を辞めようとするところから物語は始まり、それでも〈漫画に生きる〉中年たちの姿が描かれていく。慟哭し、衝動す。そんな言葉が読後に浮かんだ。誰もが思い通りにいかず泣き叫んでいる。それでも漫画という衝動が彼らを突き動かす。

書くとは瞬間を救い出すこと。第一が自分の経験を伝達する喜び、次に言葉で人や事物を永遠化させる喜び。

哲学者であり作家の、シモーヌ・ド・ボーヴォワールの言葉だ。彼女は、作家は老いとともに力を失うのが常だが、画家は逆に熟練していくと『老い』で語っていた(らしい)。作家と画家のハイブリッドのような漫画家はどうなるだろうか。きっとせめぎあうなかで生きるしかない。慟哭と、衝動の狭間で。トーンは使わず墨汁で描いているというベタの味わいが素晴らしく、1話1話を締める一枚絵も非常に滋味深く、この漫画の〈絵画〉としての側面も熟年の域に達していると思う。今後が楽しみな漫画です。

 

*1:恋愛に閉じた『幽霊の家』と、恋愛から開かれていく『デッドエンドの思い出』との違いは留意すべきかもしれない。その違いにこそ意味がある短編集なのかも。

対面の消失

気に入ってるカフェでごはん&読書したあと店を出ると、すーー、っと知っている人が通り過ぎていった。この街ではもう何度目かの発見になる。ある芸人さんなのだけど、いつも紫色のシャカシャカっぽいズボンを履いているのですれ違うとすぐに気づくのだ。吉野家で牛丼を必死に食べていると、U型のテーブルのトイメンにその人がいて彼もまた必死に牛丼をかき込んでる場面に遭遇したこともある。あれは夜の12時手前くらいだった。

すーー、っと通り過ぎていった芸人さんは大きな荷物を抱えていた。たぶんコントに使う道具か何かだろう。そういえば、とすぐに思い出したのは、昨日がキングオブコントの準決勝だったこと。その芸人さんも出ていたので、そして結果は昨日のうちに出ているので、どちらにせよ並々ならぬ感情を抱えて道を歩いているということになる。思わず追跡してしまった。なんの目的もなく後を追ってみる。すぐに駅に到着して中に吸い込まれていったのでそこでささやかな尾行は終了したのだけど。我々観客には6日に発表されるKOCの決勝進出者。彼の歩き方からすれば通ってるっぽかったけど、通っててほしいなと念じて帰路についた。

 

縞模様螺旋(2021年8月1週目)

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コロナ感染拡大下のオリンピック開催、蹂躙される文化とスポーツ、ワイドショー的SNS、双方向ディスコミュニケーション、排除したい人々と、ここにある一人ひとりの生活、剥き出しの刃、底知れぬ恐怖、世界から隔絶された部屋、部屋から隔絶された世界。

日々苦しんで怒っていることは確かなのにその理由は明白なときとよくわからないときがある。

何が好きで、何を面白いと感じるか。自分はそれを言語化する方法でしかこの世界と付き合っていけない。それは一面ではとても悲しいことであり、悔しいことである。怒りや苦しみをうまく言語化して叫んだり人に話して共感を求めたりできないのは端的に言って辛い。それをするにはいくぶん言葉の使い方を知らなさすぎる。感情を捉えられない。知識がない。言葉が汚されている。叫べないことは本当に悔しい。涙が出るほどに。臭いものに蓋をして忘れるわけではない。そっと置いておく。叫べるようになったときのために、記憶に留めておく。記憶の片隅ではなく、わりかし中心のほうに置いておいたほうがいいかもしれない。だから今日も健康的に怒り苦しみながら、好きなものに囲まれて生きていく。

* * *

宇野さんと柴さんのトークライブを配信で観た。オリンピック開会式翌日に収録されたもの。それゆえかおふたりとも感情のたががはずれ思わず感極まる場面もあった。話題は自然と小山田さんの話になる。途中乱入したタナソーのエクスキューズが印象的だった。このSNS社会にあって、被害者のいる事象に加害者意識のないまま(SNSでも)発言することはあってはならない。加害者を糾弾するのも何様だよって感じだし、たとえ意図と違うくてもどの発言が再び被害者を苦しめることになるかわからない。

『芸人雑誌』編集長と先輩が猛プッシュしていたのでコントユニット「ダウ90000」の配信ライブを観た。今年の初めに行われた第一回本公演『フローリングならでは』がまだVimeoで観れるのだ(1000円)。玉田企画をややマイルドにしてより女性キャラに重点を置いたような、若者の恋と友情とディスコミュニケーションに関する80分の会話劇。最初から人数が多すぎ、セリフの間を詰めすぎ、等々入り込めない要因は明らかだったけど、どう考えても好みだった。コントライブを観ることに決めた。YouTubeで最初にみた「女ミルクボーイ」がもうすでに面白かった。


www.youtube.com

 

f:id:bsk00kw20-kohei:20210810011718j:imageケリー・ライカート『ウェンディ&ルーシー』と『オールド・ジョイ』を何日か空けて観て、特集上映の4作品はコンプリート。どちらもめちゃくちゃよかった。ていうかライカートとの相性めっちゃよかった。みんなそうだから騒いでたんだろうけど。『ウェンディ&ルーシー』は貧困女性が職を求めてアラスカに車で行く道中で、愛犬ルーシーを見失ってしまったり、車が故障してしまったりして足止めを食らう話。すんごい切ない。「ずっと犬を探す話」といっても過言ではないストーリーの淡白さだけれど、ミシェル・ウィリアムズからはひとときだって目を離せないし、ルーシーはかわいいし、ジェンダーと貧富の捉え方がとってもリアルで鋭利。冒頭の長回しからただならぬ空気を放っている。『オールド・ジョイ』もなぁ…哀しかったなぁ。中年男のふたり旅(一方は結婚済・子供産まれる直前、もう一方は独身)はそりゃあ切なさを帯びる。この旅と川の映画を観た次の日に川へ行ったのだけど、感慨がすごくてあんまり楽しみきれなかったかもしれない。ライカートは映画好きだけでなくもっと広くポップカルチャー界隈に認知されるべき監督だと思う。f:id:bsk00kw20-kohei:20210810015442j:image

ニッポンの社長の単独ライブ『お金がない!』を配信で。ケツの顔を見るだけで笑ってしまう「弱点・ケツ」な自分でも、今回はあんまり笑えなかった。ちょっと喋りすぎでは?とか思った。「ほっこり」のネタと「俺は坂本。生きている。」のカオス舞台バージョンはよかった。

『愛の昼下がり』をみてロメール特集全6作品もコンプした。今年は新作映画をそんなに観れている手応えがないけど、旧作の特集上映にはいい感じで足を運べている。Filmarksの便利機能で、1年半でロメールの映画を短編含め26本も観ていることを知る。今回の初期作品集は個人的にすべて微妙で、それはなんでだろうと考えると、「男だなぁ…」って話ばっかだったからだと思う。女性登場人物の個性がぜんぜん出てこない。『飛行士の妻』『緑の光線』『レネットとミラベル』が変わらずロメールベストです。ちょっと前にDVDBoxをメルカリで買って観た『恋の秋』も熟され気味でよかったな。

f:id:bsk00kw20-kohei:20210810011816j:image試写で9月17日公開『由宇子の天秤』を鑑賞。ここにも旬の河合優実さん。主人公の心の揺れを左右する重要な役どころだった。正義感と行動が乖離した、二重規範を描いたようなすごく真に迫る映画ではあったのだけど、ストーリーテリングのなかでの何かが途中で捻れてしまっている気がして、主題がスッと入ってこなかったのは確か。加害者意識を持たざる正義感の危うさを表出していて、じっくり考えたい主題ではあった。150分の映画がこれだけ張り詰めているとちょっとしんどいんだけどしょうがないか。

f:id:bsk00kw20-kohei:20210810011850j:imageテアトロコントSpecialのチケット情報 - イープラス

ダウ90000蓮見翔が作・演出、玉田真也とテニスコート神谷さんが企画のコントライブ『夜衝』を観にユーロライブへ、と思っていたところ当日にコロナ関係で急遽中止になってしまって生では観れず。でも悔しいので配信で観ました。何しろラブレターズ溜口さん、ロロ森本華さん、伊藤修子さんという謎の最強メンツだったので。僕はとにかく神谷さんが好きなのだ。8本か9本くらいだろうか、コントがいくつか繰り広げられるのだけどこれは驚きの面白さだった。この会話劇の生々しさと笑いの純度。会話劇だけじゃなくてごはんを食べるところのあのギミック笑かしも凄まじい。冒頭のコントの「オフのLiLiCoが観た映画って言われたら、急に観たくなんない?」から心掴まれてました。客演ありライブ今後もやってほしい。蓮見さんのツッコミはシンクロニシティの男の人に似てる。そういえばシンクロニシティは現在ボケのよしおかさんが体調不良で活動休止中とのこと。長い目で応援したい。こういうときのAマッソの優しさ。

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オードリーが司会、コンビ大喜利AUN』のテレビ版を。イベント版のメインはコンビ大喜利よりも入場時のフリーお笑い総合格闘技だったから、それはもちろん損なわれてしまったものの、2連覇の真空ジェシカとAマッソの安定感がテレビクオリティを担保していたし、三四郎とかがまさかの面白さを見せていてよかった。テレビってでも、どこまでいっても窮屈ですね。

1Q84』が佳境。ほぼこれを読み進めるだけで休みが終わった。

先週-貪食-カルチャー(21年7月4-5週目)

カルチャーに多く触れる時間を削ってでも日記を書くべきかいつも迷うけれど、いつも同じ結論に辿り着く。それは書いたほうがいいだろう、と。そもそも、多く触れることを目指してはいなかった。アウトプットのほうが大事だった。

オリンピックのあれこれを経てTwitter見るのがちょっと嫌になって退却しているので、インターネット空間と繋がる手段がブログしかない。なんやかんや繋がりを持ちたくって、最近発売された「芸人雑誌」とかでエゴサかけちゃったりするんですけどね〜。久しぶりに書いてみようと思う、先週の記録。


シャンタル・アケルマンブリュッセル1080、コメルス河畔通り23番地、ジャンヌ・ディエルマン』

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『マスター・オブ・ゼロ』のアジズ・アンサリがオールタイムベストに挙げている映画ということでずっと気になっていて横浜シネマリンでの上映があったから観にいった。フランス女性監督特集、もっと観にいきたいのいっぱいあったけど横浜はさすがにそう何回も行けないね。映画館に着いてからめがねを忘れてることに気づいた。視力0.4くらいだから裸眼だと字幕を地味に読めたり読めなかったりする嫌なラインなのです。しかしこの映画、上映時間200分(!)あるけどセリフがほぼなかったからぜんぜん大丈夫だった。セリフがない映画めっちゃ好き。表情の変化をもっと読み取れたらな、とは思ったけどたぶん言葉よりも表情よりも空気を映しとっていたと思うから、それはじゅうぶん感じ取れたと思う。高校生くらいの息子と暮らすある未亡人の3日間を3時間に収めた映画。ただ日常が流れ、流れ、流れ、その隙にどうしようもなく入り込む疲弊感を残酷に切り取る(あるいは切り取らない)。この映画を観にいくと彼女に言ったら、ブリュッセルって綺麗な街やから風景とか楽しめそうやね、と言っていたけど、200分あるのにほぼ街の情景が出てこなかったのには驚いた。室内。忙しなく動き続ける女性。部屋を行き来するときそのたびに彼女は必ず電気を消す。言葉のない母と息子の食卓。父の不在。昼間にやってくる男たち。カットされる売春。大胆な肉料理。じゃがいもの危険な皮むき。はさみ。崩壊していくもの。この世の絶望。


ひうち棚『急がなくてもよいことを』

主に家族と旅にフォーカスを当てた短編作品集。作者の優しい目線を追体験していくような心地よい漫画。好きです、めちゃくちゃに。こんなにすべての作品が心に染みる短編集はめったにない。作者の子ども時代の“切なさ”に焦点を当てたような哀愁ある記憶の数編と、20代後半で自費出版を始めたというころの親や友だちとの記憶や一人旅の数編と、結婚して子どもができてからの赤子の成長の記録と日常を綴る数編と。どれも確かな生活の質感に満ちていて油断するとたぶんぼろぼろ泣けてしまう。いつか家族ができたら、とか、いつか子どもができたら、とか、何か作品に接すると読み返す日を想像することがあるけれど、これもそんなふうに大事にしたい漫画だった。「そんな急いで大きならんでもええからね」。通りの看板にふとしたいい言葉が潜んでることもあるんだね。忘れてしまいそうだけど忘れたくない、おばあちゃんちで過ごした夏休みみたいなにおいがした。↓偶然足を運んだSPBSにてプッシュされていた。ひうち棚さんのメモ帳覗けるの嬉しい。

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エメラルド・フェンネル『プロミシング・ヤング・ウーマン』

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感想を書けば一区切りついたように感じてしまういまのカルチャー消費の仕方について反省する。この映画については、感想が浮かんでは消え、浮かんでは消えていった。適切な言葉のなさと、適切な言葉を選び取れない自分の功罪。簡単に感想をつらつらと書ける映画よりもずっと大事にしたい感覚であり、大事にしたいというか忘れたくない。マッチョな男らしさへの嫌悪感はデフォルトであるのだけど、自分も男性を割り当てられ生まれてきた以上、居心地の悪さは拭いきれない。この居心地の悪さにはもっと複雑な理由もあると思う。ちょっと強すぎる、露悪的な描写が多い(もちろんあえてだろうけど)映画だとは思った。


TBS『ザ・ベストワン』

オリンピック開会式の真裏にて。爆笑問題のネタでこんなに笑ったのは初めてだった。太田さんが言った「小林帰ってこいよ!」がしみた。


キネマ旬報8月上旬号』

カンヌで脚本賞も受賞した『ドライブ・マイ・カー』をめぐる、濱口監督、三宅唱監督、映画研究者・三浦哲哉さんの鼎談が映画の副読本としてとても優れた内容だった。ゆっきゅんの構成もめちゃくちゃ信頼できます。「われわれは終わった後を生きている」という映画の気分、「正面ショット」に至るまでの過程の話、「背後霊映画」という三浦さんの指摘などがとくに面白い視点だった。


ケリー・ライカート『ミークス・カットオフ』

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シアターイメージフォーラムで開催中のケリー・ライカート特集。現在進行形でとても重要な監督であるといろいろな情報を見て理解しているので、4作品すべてを観ようと思ってる。2本目に観た『ミークス・カットオフ』がとてもよかった。いわゆるアメリカ西部開拓時代の物語“西部劇”が、新しい語り手によって解体され、再構築される姿をじっくり見届けることになった。映画のほとんどが「歩く」シーンで構成されている。西部に移住するためにひたすら歩く3家族を映像が捉える。歩いているだけなのに、なぜか面白い。歩いてないシーンも、より運動的で面白い。「川を目指す」一行の様子それ自体が流動体のように描かれ、そうあることを求め、未来を自らの手で手繰り寄せていくミシェル・ウィリアムズ演じる主人公の眼光に導かれていく。ラストカットが素晴らしすぎた。そこしかないという終わり方。


エリザ・ヒットマン『17歳の瞳に映る世界』

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観ている途中なんども『海辺の彼女たち』を思い出した。それを観たときはクロエ・ジャオとの親和性も高いと思ったけど、そういった世界基準に照らしても遜色ない映画が日本で生まれていることが再び嬉しくも思った。撮影形式、物語構成とも強く結びついた主題の共時性。どれも、役者とカメラの距離感に「親密さ」を感じて、描く世界は厳しいけれどこの映画が存在することに一縷の望みを抱く。『17歳の瞳に映る世界』は原題『Never Rarely Sometimes Always』が素晴らしい。頻度に関する単語。

“手”が印象的に映る。腹に打ちつけられるのは行き場を失った拳だった。その手が開き、繋がれ、再び意志をもって繋ぎなおされるまで。ほぐれそうになりながらも必死に交わるあの連帯の場面について、僕はどう言葉にできるだろうか。ついぞ結ばれることのなかった手と手があったけれど、それは果たして悪だったろうか。決してそうではないし、あの状況に陥れた男たちを、社会を、恨むべきだ。


新ネタライブ!!ハイキック寄席!!

コウテイニッポンの社長ビスケットブラザーズロングコートダディさや香などなどが新ネタを披露するライブをオンラインで。全体的に自由でシュールなネタが多くて、思った以上に混沌とした新ネタライブだった。オンライン限定なのに40人くらいしか視聴者いなくてビビった(笑)。スナフキンズを初めてしっかり観たけどめちゃくちゃ面白い。あの美容室のコントは今回一番笑った。絶妙なサスペンス要素がツッコミの間抜けな声と対比して冷やし漫才的に高低差のある笑いを生み出しているし、何より先が気になる。巧い。KOC頑張ってほしい。


一人前食堂

坂元裕二大好き具合がめちゃくちゃ伝わってきて愛らしいです。いつも本棚が気になる。

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東海オンエア

いわゆるYouTuberの動画を見ることはほとんどなくなったけど、東海オンエアの動画は定期的にドバッと見たくなる時期がやってくる。「寝たら即帰宅の旅」でのあの彼のかっこよさに痺れた。

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テレビ東京『お耳に合いましたら』

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今クール観てるドラマはまさかのこのテレ東深夜ドラマだけ。前クールは充実しすぎて『生きるとか死ぬとか父親とか』と『半径5メートル』を途中離脱してしまったのでこのタイミングで観たいと思ってるけど思ってるだけっぽい。

りっかが素晴らしいのとラジオレジェンドの佇まいが毎回めっちゃクール。第3話は「隣人に挨拶する」という現代のある種のファンタジーを語っていたけれど、チェンメシもそうだけどリアルがドラマに根ざしているから漫画やアニメ的というより「こういうことがあったらいいな」と素直に思える心地よさを保っていた。現実の話でありながら世界観の作り込みがうまくてどこか浮遊しているような感覚を抱かせる演出が素晴らしい。インサートで挟まれる山椒とかいいのよ。なんにせよまりっかダンスを毎週観れるのはいいことですね。


村上春樹1Q84

「ドライブ・マイ・カー」所収の短編集『女のいない男たち』で実は初めて村上春樹を読んで、これは長編なにか読まなきゃなと思い『1Q84』に手を出した。まだ1/6くらいしか読めてないので(それでも単行本250ページくらい)どう転がっていくか検討がつかないけど、村上春樹の文章は肌に馴染むようだし、現実にファンタジーが絡む話はあまり得意ではないけどこの場合導入が丁寧でわくわくしてるし、今のところいい感じだ。読み終えたら影響を受けて文章書くとき暗喩しまくりマンに変貌するかもしれない。


ほりぶん『これしき』

昨年のGW、今年のGWと開催を予定していたものの延期になり続けて、ようやく三度目の正直で戻ってきたほりぶんの演劇。日常は元通りになっていないけれど、演劇で役者さんたちの生の演技をみて、心を打たれた後に帰り道で「すごかったな…」と道を歩きながら黄昏れる瞬間が手元に返ってきたことにまずはとても喜びを感じた。最高だった。「生活に足りなかったのはこれだわ」というたしかな実感があった。

何度も観たことがある気がしていたけど、ほりぶんの舞台を観るのはこれが二度目だった。同じく鎌田順也さんが作・演出を手がけるナカゴーを4、5回観てるからもっと観てる感じがするんだろうな。ほりぶんには女性の役者しか出てこないっていう特徴があるから混同しようはないのだけど。

冒頭でのネタバレ、メッセージ性があるのかないのか揺れ続ける暗喩的なあらすじ、役者さんたちのはちきれんばかりのパワー、確信的な反復、爆発する笑い。どこをとってもここにしかないカルチャー。全体的には粗雑極まりないのに、ある人物が指で人を操るときの指の動きとか、自販機から飛び出す缶ジュースとか、端々で妙にディテールが凝られているのも笑いを増幅させる。なんともストーリーに触れづらい(というかカオスすぎて説明しきれない)作品なのだけど、前半は少しシビアな語り口を取っていて、「Twitter空間」の暗喩を仕掛けているのかなと想像した。道で他人とすれ違うといつも舌打ちをされてしまい、いつもは見過ごしていたけどそれではずっと負けているばかりではないかとついに物言いをつける人。を起点に、人が集まって対立したり和解したりする様は、現代のリアル世界でそうそう起きることじゃないけどTwitterでは頻繁に起きている。本来争うべきでない人が争ってる感じ。後半のカオティック展開によりそういう想像も杞憂に終わるのだけど、劇中何度も発される「多様性」や「人にはそれぞれにバックボーンがある」という言葉にはそのままの意味だけでない皮肉やツイストが含まれていたと思う。後半は無尽蔵に笑い続け、100回くらい腹筋したみたいな状態になった腹を抑えながら小刻みに肩を揺らし続けた記憶しかほぼないのだけど、なにか大事なメッセージが宿っていたのではないかと考えさせられる展開ではあった。でも、なんだったんだこれは……という手触りのまま大事に記憶しておきたくもある。そういえば前回のほりぶんは急に本場のサンバダンサーが登場して踊り出したりしてたよな…。未だになんだったのかわからない。家の近くから会場の花まる学習会王子劇場の目の前までバスが出ていて、その帰りにこの感想を書いた。次回は2月に紀伊國屋ホール人間万事塞翁が馬


私立恵比寿中学 × 石崎ひゅーい - ジャンプ / THE FIRST TAKE

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魂の歌声である。これはもはや魂としか言いようがない。うまいとか力強いとかかっこいいとかの言葉の器では収まりきらない、魂の放出。

 

〈書きたい感じエトセトラ*1

“におい”や“リズム”について書きたいとずっと思っている。鼻を通って脳に刺激を与える嗅覚という意味での匂いもそうだけど、ここで言うにおいというのはもっと抽象的なものだ。例えば、Yogee New Wavesの曲を聴いたときに感じる気怠さと自由さを携えた海辺のにおい。例えば、ブログ「青春ゾンビ」を読んでいるときに感じるカルチャーを手繰り寄せて一体化するまでのリズムとカルチャーに彩られたにおい。まだよくわからないけど、好きなものには一定のにおいやリズムを感じ取ることがある。

とりわけ、カルチャーに「バカンス」のにおいを嗅げると僕は一様に興奮する。ここでのバカンスもまた抽象的で概念的なものを指していて、例えば「金曜日の夜」みたいな自由さや、本来あるべき時間の無限さみたいなものを取り戻したときの感覚のこと。『街の上で』とかは、概念としてのバカンス映画でした。こうしたにおいを感じ取ったときの心の動きと正体についてなんとか言葉にしてみたい。

 

*1:書きたい文章の種類や方向性が日々変わってしまうので、かなり抽象的だけどここにメモしておきたい。

細田守『竜とそばかすの姫』

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「あなたは誰?」「ほんとの姿はどっちなの?」とBelleが問うときの、奥に潜む哀しみの根源にあるものはなんなのか。といえばもちろん母の最後の行動の“理解できなさ”なのだろうけど、それを仮想世界で自由を得たBelle(鈴の仮の姿)が執拗に問い続けるところがまずもって謎だった。自分は仮の姿なのに、相手には本物を求めるというねじれ。けれど、本作のテーマはまさしくそこにあるのだと思う。

millennium paradeを正しく纏った中村佳穂の強く余白のある歌声と、UとBelleの素晴らしい造形によってあがりまくる冒頭。もうこればっかりでええんちゃうかと思うわけだけど、ここでも細田守はねじれをわざと描写することに努めている。それは、「見るもの」と「見られるもの」といった権力構造に関するもの。現実の学校ではしのぶくんやルカちゃんのような人気者がいて、それ以外の生徒は彼らを階上から見つめるモブキャラと化す。すなわち、パフォーマーがいて、他はオーディエンスにならざるを得ない空間。そうした世界で抑圧されながら、歌いたくても歌えない(この背景のディテール詰めてほしかったな)鈴は、ある日仮想世界〈U〉に出会うことでBell(e)として生まれ変わることになる。歌うと、賛否両論を生みながらも聴衆がついてくる。Belleはパフォーマーになり、その他大勢はオーディエンスとなった。しかしこれでは「見るもの」と「見られるもの」という権力構造は変わらない。人が入れ替わっただけ。果たしてこれが、彼女の求めた本当の自由なのか。

Belleが竜に対して「あなたは誰?」と問うのは、構造の変わらなさに違和感を持っているからだと仮定してみる。人気者になったしのぶくんと喋れなくなったことへの違和感でもあるだろうし、この世の権力構造すべてへの違和感でもある。そうであるから、Belleはただひとり、竜に対してだけ歌われる歌を紡いだ。『美女と野獣』丸パクリシーンは画的な盛り上げでもあるのだろう。大事なのはもちろんそのあとで、そこになんとか繋げるための苦肉の策でもあったのだと思う。

ついに鈴が竜の正体を知るとき、そこでもまだ、「当事者」と「傍観者」、「画面に映るもの」と「それを見るしかないもの」の構造から抜け出せずにいる。ネットを挟み、遠くに住む我々はいつも、その関係から自由になることができない。その断絶された哀しみに対する回答が、本作では歌だった。いや、もはや歌すらも取っ掛かりでしかなかったのかもしれない。鈴は最終的に、彼に直接会いにいくことを決めるからだ。

「川」のモチーフが印象的だ。母が助けようとした対岸の子ども。鈴がゲロを吐いた橋。ラストカットを含め幾度となく登場する四万十川の河川敷。そして、東京の多摩川付近の家。

再びお婆ちゃんの話で恐縮ですが、練馬にあるもうひとりのお婆ちゃんの団地に住んでいたことがあります。
団地は全部で八棟あって、真ん中に川が流れていました。(中略)ある時そこで事故が起こりました。六号棟に住んでるわたしと同じ年の女の子が溺れて死にました。それ以来子供たちが川に近付くのは禁止になりましたが、わたしは相変わらず夜になると行って、柵を越えて、足をプラプラさせました。わたし、思ったんですね。その子じゃなくて、わたしが溺れてるパターンもあっただろうなって。

これは坂元裕二の小説『初恋と不倫』の一部分を抜き出したものだ。

君の問題は君ひとりの問題じゃありません。お婆ちゃんの団地の川で女の子が溺れ死んだ話したでしょ。誰かの身の上に起こったことは誰の身の上にも起こるんですよ。川はどれもみんな繋がっていて、流れて、流れ込んでいくんです。君の身の上に起こったことはわたしの身の上にも起こったことです。

『竜とそばかすの姫』にはひと言もこんなセリフは出てこないけど、こうした“対岸でありすぐ側に存在する闇の感覚”をとことんアニメーションで見せることに注力している作品なのだと感じた。竜の存在がいつまでも明らかにならないとき、どうしても僕は「もしかしてしのぶくん?」「いや、お父さんなのでは?」という推論を立ててしまったわけだけど、それ自体も作り手の狙い通りなのかもしれない。そうしたミスリードによって「誰の身の上にも起こりうる」という感覚が、作品の通奏低音となっていたからだ。

四万十川の河川敷と多摩川付近のあの家はどこかで繋がっている。そのことに気づいたとき、同時に鈴は、母の行動を理解することができた。母が飛び込んだあの川と、今対峙している川もまた、どうしようもなく繋がっている。『竜とそばかすの姫』は、その川を切り離さずに、手繰り寄せるための寓話を語る。

 

願望と感想(2021年7月13日)

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なにか心を奪われた作品についてレビューを書くとき、その作品が持つ雰囲気やモチーフ、テーマを、書くレビューの文字一つひとつに憑依させたいという願望がある。感動した場面やセリフ、構成、一連のシークエンスについてその“よさ”をただ書き連ねるのではなく、細胞レベルで“よさ”と同期しながら言葉を表記し、その言葉に引っ張られるようにさらに言葉をのせていきたい。ゆるい映画であればゆるい入り方をしたいし、複合的な要素が徐々に絡み合う作品であれば幾つかの引用や文脈を絡み合わせて文を構成したい。そうした願望が常に願望止まりなのは、知識や語彙の不足はもちろん、もっとも根気が足りなさすぎるからだろうという結論に至った。

試写で濱口竜介監督の『ドライブ・マイ・カー』を観た。何も書きようがないけど何か書かざるを得ない気持ちになるのが濱口映画であるから、この179分の大傑作映画についても観て覚えているうちに何かを書いておかなくちゃいけない。それも、一生のうちで一回しかできない体験ーー要するに『ドライブ・マイ・カー』という映画を初めて観るーーをしてしまったのだから尚更。内容に踏み込むつもりはないけどもしかしたら触れすぎてしまうかもしれませんのでご了承ください。

三浦透子「監督もおっしゃっていたように本読みを中心に音・声にこだわっていて「相手の心を動かす声をつくる」ということに時間を使わせてもらっていたので、そういった声を自分でも聞いているうちに、自分自身の心も動いてくるのだと。」

占部房子「「時間をかけて作品を作りたいんです」と、共有する全ての時間を真摯に謙虚に創造していく濱口監督が作り出す時に身を置き、素晴らしい経験をさせて頂きました。」

河井青葉「丁寧に時間を重ねるということの大切さを改めて感じる経験で、今回このような素晴らしい賞を授かったことはまさにその答えなのではないかと思っています。」

後者2名は次作の『偶然と想像』の役者だが、濱口映画を経験したものたちが口を揃えて言うのが「時間をかけることは大切だ」ということだ。著書の『カメラの前で演じること』に『ハッピーアワー』から本格的に取り入れた濱口の演出メソッドが書かれていて、それはとにかく丁寧に時間をかけて、役者が“固有の声を獲得する”までを追い続ける方法論だった。例えば、本読みでは一度すべての感情を排して“ただ読む”という作業を長く続け、セリフをフラットな状態に持っていった上で演技をのせる。そのメソッドにどんな意味があるのかは役者にすら最初はわからないというが、徐々に腑に落ちていくのだという。

『ドライブ・マイ・カー』は179分と、日本の商業映画にしてはかなり長い尺を有しているけれど、その長さは「時間をかける」演出メソッドと深いところで結びついているから、観賞後は多くの人が「必要な時間だった」と感じるだろう。本読みをはじめた頃に役者が戸惑うのと同じように私たち観客も長さに戸惑いながら見始めるが、やがて腑に落ちる瞬間がやってくる。そう書いていて気づくのは、つまるところ濱口の演出メソッドを観客が追体験できるような映画にもなっているということだ。そんなことがなぜできるのか、というと一つにはその本読みが映画内にも出てくるからだろうか。今まで濱口映画の外形を成していたものが、中に取り込まれている感覚を得る。

寝ても覚めても』との対比がわかりやすい気がする。とりわけ、人物を真正面から捉えるショットの使い方。序盤から要所で用いる『寝ても覚めても』、溜めて溜めて終盤で炸裂する『ドライブ・マイ・カー』。こんな秀逸な使い方、ホン・サンスの“へんてこズーム”くらいシグネチャーというか「濱口映画といえば」な刻印になっているし、それがちゃんと、ちゃんとすぎるほど“獲得した固有の声”と結びついているのがすごい。あの瞬間、静かに興奮しすぎて心が破裂しそうな妙な感覚に陥った。催眠術が発動されたような、もちろんそんな経験がないからわからないのだけどそれだけ稀有な感覚。逆に濱口印的なカメラワークが2時間くらいまったく出てこないことにも思いを巡らしたくなる。なぜあんなにも普通らしい画づくりなのに、退屈する時間がなかったのか。これはまったく手がかりがなく不思議でならない。何かやってくれるのだろうという期待度は大きく影響しているだろうけど、それにしても音楽や映像に動きが少なかったような。それがしかし心地よかったのだけど。

「時間をかける」ことの意味を実感する3時間。映画のテーマについては、濱口竜介はずっと同じことを恐らく描いていくのだろうと今回改めて思った。メソッドで実験しながら、同じテーマを探究していくような。奇しくも最近読んだ遠野遥『教育』と似た部分(とくに構成に)を感じたけど、やっぱりこんなこと映画にしかできないと思う。監督の役者への信頼が凄まじい。

西島さんの空虚さと人間味が混じり合う感じも霧島れいかさんのごろんとした目もすごかった。岡田将生さんの声には尋常じゃないものが託されていた。三浦透子さん…。今までのどの役も後ろに感じず、みさきとしてそこに在ったことが素晴らしかったと思います。追い続けたい役者さん。

今ここにある愛と危機──遠野遥『教育』雑感

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破局』で芥川賞を受賞した遠野遥の初の長編となる作品『教育』が「文藝2021秋号」(特集「怨」……かっこいい)に掲載されていて、ずずずっと一夜で読み切った。遠野遥の書く文章ほど刺激を与えてくれるものはもしかしたらないかもしれないとまた思わせてくれた。読後の手触りはNHK『今ここにある危機とぼくの好感度について』。あのドラマでは掴みきれなかった主人公の危機管理と好感度に関する現代病的な所作も、本作の、入り組みながらも理路整然とした主人公の思考回路とアクション/リアクションを読んでいるとすっと入ってくるように思えた。どこにも書いてないのであらすじは説明しない。一言で現すと「SF学園ラブストーリー」という風体だろうか。なにも知らず読んだ方がいいと思う。

形式・物語構造について。以前の2作でも感じていたけど、遠野遥文学のいちばんの魅力は「長い長いひとり語り」だと思っている。基本的には一対一の会話劇を敷きながらある瞬間にたどり着くと一方的に一人が過去の(しばしば悲痛な)体験談について話し出し、それに対する相手の反応は一言も書いてくれない。そのひとり語りは語られてしまったらもう宙吊りにされるのみで、それゆえに登場人物以上に読後の自分の心に蓄積されていくことになる。あれは果たしてなんの話だったんだ…。こんな話を聞いて主人公はなんで無反応なんだ…。って感じで。その一つひとつのひとり語りが忘れられないまま、層を重ねながら、主人公の目線を辿っていくしかない。

『教育』では、そのひとり語りの導入の仕方・形式が今までよりかなり多様化していて、構造的にも飽きなかったし宙吊り感がより増しているように思った。このタイミングで…!?という斜め上の角度から急に楔が打ち込まれる。悲痛な話を聞いておきながら主人公の感情はなにも動いていかない。そのことに恐怖感を抱く。『今ここにある危機とぼくの好感度について』を感じたのは、主人公の「ヤバさ」が『破局』や『改良』よりややマイルドになっていたからだと思う。なんらかの倫理観・社会的な正しさのようなものに照らして行動を決定していく『破局』の主人公はいちいちその自問自答を言語化していたからAIみたいだったが、本作の主人公はあまり(それでも特徴的ではあるが)自らの感情や行動について反芻しない。でもそれこそが不気味にも感じる。反芻する頃合いすら抜けてしまったのではないか、とも思えるからだ。

最後まで読み終えると彼の思考回路が少し判然とする。危機感や好感度なるものが、愛のようなものを負かしゆく瞬間を目の当たりにするかもしれない。いや、最初から愛なんてものはなかったのか。あるひとつの、しかしぶくぶくと太った、どうしようもない共同体が描かれている。そこにいると人間はどうなってしまいうるのか。

「問題に対して沈黙するようになったとき、我々の命は終わりに向かい始める。そして最大の悲劇は、悪人の暴挙ではなく善人の沈黙である」ーー『今ここにある危機とぼくの好感度について』第3話で引用されたキング牧師の言葉