縞馬は青い

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映画とか、好きなもの

エビチリの赤がケチャップ由来だっただなんて誰も教えてくれなかった(2021年5月4日)

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2日前に買った冷凍のむきエビでエビチリを作ろうと思ってレシピを調べたら、あのトロトロの赤の大部分がケチャップで構成されていることを初めて知って驚いた。中の食べ物に洋っぽい調味料が入ってるだなんて。まだまだ世界には知らないことがいっぱいあるんだなぁ。中華料理屋の冷蔵庫にもケチャップがストックされてるってことだよな。エビチリ以外にもケチャップは使うのだろうか。試しにエビマヨのレシピを調べてみたらそっちにも入っていた。オーロラソースでできてるってこと?ちょっとにわかには信じがたいな。内容量を気にしてしまうと素直に味を楽しめなくなってしまうタチで、作ってみたエビチリもなんだか微妙だった。

昨日みた『海辺の彼女たち』のことをぐるぐる考えている。3日前くらいからチケットをずっと取り損ねていてようやく観れた(ずっと販売即満席状態だった)。若き在日ベトナム人女性3人が過酷な技能実習制度から逃げ出したあとを描いた映画。88分という尺のタイトさは「学校の授業とかでも使ってもらえるように」という監督の狙いの結果であるということを後に知って、その姿勢も含めて素晴らしいなと思った。冒頭の夜の逃避行の場面について、映画ジャーナリストの金原由佳さんがパンフレットで書かれている内容がすべてを言い得ていると思う。漆黒の闇とクロースアップ。それは「ぐっと見つめる」という行為を否応なしに引き込む映像。社会の中で不可視化された存在に目を向けさせるという力学でもある。先日の『事件の涙』も想起した。役者との距離感やワンシーンワンショットの技法、政治性よりも人間を重視する姿勢に「日本のクロエ・ジャオ」という見立てをしてみたけれど、まぁ安直な比喩だよなと思う。そんな枠には囚われない面白い監督。

今日は『童年往時 時の流れ』をk’s cinemaで。138分ってちょっと長いし寝そうだから観るの迷ったけど、これを逃すとホウシャオシェンの映画しばらく観ないだろうなと思って(映画館じゃないと眠気が…)行った。とてもよかった。まず第一に、お昼ごはん食べたあとにも関わらず寝なかった。淡々としているけれど、子ども映画の淡々はむしろいつまでも観れるかも。台湾独特のノスタルジーもあるよなぁ。監督の自伝的な映画とされている本作。兄弟めちゃくちゃ多いのに兄弟で戯れあったり喧嘩するシーンがほぼない異様さに気づく。ごく個人的な記憶の羅列のような映像は、それゆえに一般的な家族映画にはないリアルな断片を見せてくれていた。

『大豆田とわ子と三人の元夫』第4話にしてきたきたー!って感じだ。坂元裕二節、大炸裂。正直2、3話でちょっと気分が盛り下がっていたから、ちゃんと引き戻してくれて助かった。今回はセリフとか行動がいちいち面白くて笑ったし、市川実日子アセクシャル描写に地上波ドラマの進歩を見たし、石橋静河に大いに虜にされた。はっさくはもう、A子さんの恋人のA太郎の10年後みたいにしか見えないでいる。好きでもないものをなんとなく…、がテーマな第4話。あるいは好きでもないものは好きでもないと断言するか。

夏と死のにおいがした(2021年5月3日)

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ホウ・シャオシェン大特集」(k’s cinema)で『冬冬の夏休み』と『風櫃の少年』を観て、そのあとポレポレ東中野にうつって『海辺の彼女たち』を観た。

1984年に撮られた『冬冬の夏休み』がノスタルジーだけでなくある種の新鮮さを帯びているのは、現代でも廃れない映画の強度があるからだろう。「強度」のひとつは、「少女の扱い方」。最近『ミナリ』を観たときに兄妹のうちの妹の登場シーンの少なさに違和感を覚え、それだけでなく「少女に限らずあの映画の女性がもはや透明化している」さまにかなり気持ち悪さをを感じていたから、『冬冬』の両性具有的作劇には満足した。本当はそういうことを考えずに観たいのだけど、『はちどり』『わたしたち』『夏時間』という少女視点の素晴らしいアジア映画(ていうか全部韓国)が登場している近ごろにおいては、少年視点の映画の態度にもやはり否応なしに注目してしまう。ホウ・シャオシェンの態度はとても誠実だ。兄妹が夏のひと時を祖父母の家で過ごす物語。この映画でもときおり妹が“いない”ことがあるが(タイトルにも兄の名前が入ってるので少年視点の映画とは明示されている)、それ自体が物語を駆動するきっかけの役割を果たしていて、観客も妹の存在に終始注意を惹かれる。電車に轢かれそうになる、死んだ鳥を弔う。そこに“死”が匂い立っているのも忘れることができない。少年にとっての妹が、“わからない他者”として等身大のまま描写されていることの凄みを感じた。先日観た清水宏風の中の子供』を彷彿とさせるシーンもたくさんあったし、たぶん見てないと思うけど。日本の歌がなぜかいっぱい出てきて簡単に懐かしさに浸ることもできる。ティンティンと寒子の交流も強く印象に残る。揺蕩う時のなかで川で友と遊んだり見知らぬ恩人に身体を預けたりしたこと、そのにおいとかを忘れたくないなと思った。

フンクイはピンとこなかったけど『海辺の彼女たち』は大傑作だったので、感想はまた明日。時間がない。『童年往時 時の流れ』を観にいく。

読めないタイ料理(2021年5月2日)

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まさかの連休1日目と同じことを繰り返す連休2日目の朝。そうならないようにこれ書いてるのに。観たい映画のチケット取れなくて二度寝して、起きたら雨が降っていた。起き上がれないまま『今ここにある危機とぼくの好感度について』第2話を観る。登場人物を多くして話をわざとややこしくしてるような気がしてくる脚本だけど、人の波に呑まれて真実が見えなくなるというのが現実なのかもしれない。鈴木杏の動じなさと少しの揺れの反復が美しくて、松坂桃李(真)のかっこ悪さを際立たせている。どこまでも他人事で、それゆえに愛おしい部分もあるがそんなところを可愛げのようにしていてはいけないんだ。あと3話、展開がまだ見えない。ブラックコメディ要素もぐんとなりを潜めてしまい、脚本はあんまりうまくいってないような気がする。

お風呂入って準備して雨のなか近くのタイ料理屋へ。「〇〇〇〇〇〇(汁入り豚そば)」と書かれてるタイ語の名前(〇〇の部分)が15文字くらいあるもんだから読めなくて、「あ、これで…」とぎこちなく注文した。3か月くらい前に初めてグリーンカレーを食べて感動した手前、すべてのタイ料理にグリーンカレー風味を感じてならない。ココナッツミルクだけじゃない、あの独特の旨みはどこからきてるのか。食べ終わって外に出たら雨足が激しくなっていた。天気の移り変わりが激しい1日でしたね。

やばい、ドラマしか観れない、と思いながら『生きるとか死ぬとか父親とか』の第4話を観る。またもや最近流行りの「変わりゆく街」についての話だった。DMMブックス7割引セールのときにいっぱい買った漫画を読まなければと思い立つ。『うちのクラスの女子がヤバい』。数日前に始まった続編の第1話を先に読んでしまったけど、これは面白そう。でもキャラクターがぽんぽん入れ替わる1話完結感がちょっと虚しい。

夕方に家を飛び出しk’s cinemaで『台北ストーリー』を観た。序盤が話に入り込めなくてうとうとしたものの、中盤以降、画がずっと特殊で目をひいた。序盤寝たからか終盤の展開には納得いかなかったけど。エドワードヤン…という感じのラスト。ホウシャオシェンの顔が誰かに似ていて妙に安心する。自分の叔父さんに似てるのかな。いや、誰か有名な人に似てる気が。

帰りながら、K-PRO主催の無観客ライブ無料配信にギリギリ飛び込んでカナメストーン、キュウ、ウエストランドのネタを観た。きょうのカナメストーン勢いあったなぁ。会場の西新宿ナルゲキは2週間ほど前に初めて行って大爆笑をもらったところだったから、その記憶が蘇ったりした。スタンダップコーギー、サスペンダーズ、かが屋、カナメストーン、ひつじねいりと気になるコンビがたくさんいるマセキのライブに今度行ってみたい。けどYouTube見る限りずっとアクリル板挟んで漫才やってるのね、マセキのライブって。コンビ間でそこ徹底して意味あるのだろうか。そこに苦言を呈しても意味はないが。

スーパーにて、冷凍のむきエビが安かったから買った。火を通したら思ったよりちっさくなってしゅんとした。お酒とかいっぱい買い込んじゃった。チョコレート買い忘れた。

ご飯を食べたあと、昨夜放送されたNHK『事件の涙』を観た。番組内である女性が発する「向こうの人たち」にはなりたくないなと思った。

ようやく観たい映画のチケットを予約できたので、ぐっすりねむります。明日は3本映画を観る。

いちばん面白い、を積極的に乱用する(2021年5月1日)

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連休はだいたいスタートダッシュをミスる。早く起きてもそのままベッドのなかで映画を観てたらうとうと二度寝をしたくなるし、よっしゃ映画予約するぞっと思ったら満席になっていた。今日はだらだらドラマを観ていただけで時が過ぎ、夕方には激しい雨に頭痛がして昼寝ぶちかまし寝ても覚めてもずっと眠い日だ。『すいか』(いまHuluで無料です)第4・5話、『住住』第1話、『息をひそめて』第1話あたりを観た。中川龍太郎『息をひそめて』第1話はとても『街の上で』感のある、というか『わたしは光をにぎっている』なコロナと無くなってしまうものと残り続けるものの話。『住住』はシーズン1が好きすぎるので早く、早く若林と二階堂ふみに登場してほしい。

きのう始まった『半径5メートル』がかなり面白かったようで、1日たったいまもかなり興奮してる。今期数多ある良作ドラマのなかでもいちばん心に刺さる第1話だったのではないか。「いちばん好き」っていう言葉を使いすぎて最近は「もっとも面白い」とか「〇〇とか」(いい類義語を思い浮かばなかった)を使ってるけど、大げさとかじゃなくって「いちばん好きなもの」ばかりに囲まれていたいんだものしょうがないよね。ドラマは週刊雑誌の編集部が舞台で、冒頭は「1折」と呼ばれるいわゆる「スクープ記者」として奮闘する主人公(芳根京子)を描く。が、それはただの大いなる前フリであり、目に見えない読者と見える“熱愛”(あえてこの言葉を)、職場に蔓延るセクハラや男性中心的構造に弾かれてドロップアウトを余儀なくされた芳根京子が、そこでの「疑問」を背負いながら(生活情報を取り上げる、とてもゆるい)「2折」に異動になったあとの「発見」を捉える。そんなドラマだ。大きい出版社の週刊誌で働く知り合い(女性)にまずは想いを馳せた。

脚本とセリフがキレキレだ。橋部敦子さん、そんなに馴染みがないけどこんなことなら知ってるワイフとモコミも観とけばよかったかな。永作博美の存在感が素晴らしくて、「あなたはなにをどう見るの?」という言葉の説得力に射抜かれた。芳根京子との距離感もいい。さすがにあの職場はちょっとファンタジーすぎるけど「ひたすら楽しそうな仕事」って最近のドラマでは観ない気がするからそういう観点でも楽しめる。あとは三島有紀子さんが演出してるからだと思うけど要所に構図で魅せてくる場面があったのもよかった。高低差はさすが『幼な子われらに生まれ』の!って感じだ。関係ないけど。初回放送にしては最後うまくまとめすぎな気もしたけど黒田大輔が熱演してたんでもうそれはOKです。花束を持って走り去ったの倉悠貴だよな。吸い込まれる美形。

乾杯前の一節を言えた試しがない/すきなものノート(2021年3月10日)

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「好きなものを書くの。嫌いなものを書いちゃだめだよ。嫌いなもののことを考えちゃだめなの。好きなもののことを、ずっとずっと考えるの」

ーー坂元裕二『Mother』第1話

「最近なんかあった?」と聞かれると十中八九いやな記憶を引っ張り出してしまうたちだ。それ自体がとてもいや。だから、いつでも好きなもののことをしゅっと取り出せるように、その場面に出会ったらいちいち記録しておこうと思う。『Mother』のドラマ内でつぐみ(芦田愛菜さま)が書いていた「すきなものノート」にならって。やがてきらいなものさえも好きになってしまえたらうれしい。とか言って。*1

  • 洗いものが終わってる洗面台
  • 映画のエンドロールで誰ひとり席を立たなかったとき
  • 褒められること
  • 緑色のセーター
  • コートのポケットにすっぽり収まる本
  • なが〜くてふと〜い鼻毛が抜けたとき
  • 昼寝(机に突っ伏すのじゃないやつ)
  • 演劇の開演前とかに流れる木琴だけでつくったみたいな音楽
  • 明日の天気予報を見て晴れだったとき
  • 乾杯
  • 人の「恐縮です…」って感じの表情
  • 傘を打つ雨の音
  • 読書する、文章を書くとかなんでもいいけど、2、3時間くらい時間の存在を忘れて生きているとき
  • 100%充電済み
  • マスクのせいでメガネくもってる人
  • 高円寺駅構内に立ちこめる焼き鳥のにおい

乾杯が好き。あの、みんながちょっと照れながら、正解の表情もわからないままに目を見合う瞬間。僕はこれまでに一度だって、「じゃあ〇〇さんの誕生日を祝して〜」とか「素敵な夜に〜」とかいう乾杯前の一節を言えた試しがない。「誕生日を祝して〜」は言おうとしたことがあるけど、こんな短いフレーズなのに途中でふにゃふにゃっと噛んでグダグダになってしまったことがある。ていうか言い終わる前にグラスをぶつけてしまった。あの言葉を咄嗟に思いついてズバッと言える人はすごい。尊敬しちゃう。でもやっぱり、乾杯ってちょっと恥ずかしげがあるから好きなんだよな。意味はないけどやってみると楽しい感じとかが。だから、みんなと酒が飲めてうれしいとか何かを祝したいからではなく、ましてやグラスとグラスがぶつかる音が好きとかいう変な趣味があるのでもなく、不意に乾杯をするときの、人のちょっと微妙な表情を見るのが僕は好きなのかもしれない。

 

*1:すきな「もの」を書こうとしたらすきな「瞬間」が多くなってしまった。まぁ、物体よりも時間とか記憶のほうが愛おしいのよね。

“情けない”という、愛おしい情動の顕れ/ユン・ダンビ『夏時間』

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子どものころの夏休みというのは、お昼ごはんを食べたら無性にうとうとしてきて昼寝して、気づいたら夕方になっていた。起きたら夜ごはんが用意されていて、それを平らげてしまったらもう瞬く間に夜はふけ、昼寝と暑さのせいで眠くならないものの布団を被ってしまえばすぐに朝がやってきた。食べる、寝る、食べる、寝るの日々の繰り返しのなか。ときには親に腹を立て、兄弟と小競り合いの喧嘩をし、それだけのことに心が持っていかれた。狭い世界、平凡な時間だったと今になっては思う。それでも僕は、『夏時間』という映画を観てそのころを無限に思い出すなかで、“郷愁”と呼ぶにはあまりにもなんてことない、単純な日々の愛おしさを想った。

原題は『姉弟の夏の夜』(めちゃくちゃいい!!)、韓国のユン・ダンビ監督による初長編映画となった『夏時間』は、ある姉と弟とその父親、彼女たち3人が夏休みのあいだおじいちゃんの家に転がりこむところからはじまる物語だ。とにかくめちゃくちゃいい映画なのだけど、困ったもんで、そのよさについて正確に言葉にするのは人生を語ることと同じくらい難しいと感じている。でも記録しておかないとポロポロとこぼれ落ちてしまう大切な時間や感情がたくさん描かれていたから、無理をしてでも、ちょっとしっくりこなくても何かを書いておく必要があると思った。「情けない」という印象的なセリフをもとに、いくつかのシークエンスを辿ってみたい。本作はひとつの側面として人の「情けなさ」を描いている映画だと思っている。

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「情けない」なんて言葉をふだん日常生活で使うことがないからだと思う、本作で3度発せられるそれが強く印象に残ったのだ*1。姉と一緒の部屋で寝ようとしたら軽くあしらわれてしまう場面で、弟・ドンジュが発する「情けない 勝手にしろ」が1度目。小学校の低学年くらいの子どもがいきなりそんな言葉を発するのだからちょっと驚いた。子どもに大人っぽい言葉を語らせるということがまったくない誠実な本作においては少し浮いた言葉にも感じる場面だけど、韓国では一般的に使われる言い回しなのだろうか。続いて2度目および3度目は、「情けない 踊ってもスマートフォンはもらえないんだから」「お前のほうが情けない」と姉弟が洗面台あたりで言い合う場面にあった。この周辺の姉・オクジュの心の動き、その描写がとんでもなく緻密だったから、詳しく書き記しておきたいと思う。

オクジュは二重の整形をしたいとある日ふと思った。でももちろんお金がないから父親にせびりにいく。「70万ウォンほしい」といきなり娘にそう言われた父は驚き、「何に使うんだ」と問う。正直に「二重にしたい」と応えると、父親はふーっと息を吐き、止めていた作業(勉強)の手を無言のまま動かし始めるのだった。妊娠でもしたんじゃないのか、と思ったのか、そんなことか…と思ったのか。言葉のない演技のなかで父の心情が雄弁に語られている場面だ。たしかその次の次くらいの場面でおじいちゃんの誕生日会が催され、「柄にもなく祖父にプレゼントを渡すオクジュ」という描写がなされる。前の場面のことを考えると、おじいちゃんからお金をもらうために媚を売っている、と受け取れるような。というかたぶんそうだ。だから、ドンジュが脚長ダンスみたいなのをしてみんなで盛り上がっているときにオクジュだけ笑ってないし、そんなことをしてもスマートフォンはもらえないとドンジュに苦言を呈すのだった。ドンジュからしたら、お姉ちゃん急になんで怒ってんの?って感じだろう。リアルだ。

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それでもオクジュは頼もうと思ったのだろう、その夜に階段を降りて祖父に話しかけにいこうとすると、ソファに座って音楽を聴きながらこの上なくしあわせな笑みを浮かべる祖父を目撃することになる。オクジュは一瞬立ち尽くし、踵を返し、階段に座りこんだ。このシークエンスの丁寧な描写が、「オクジュの“情けなさ”」をとてもうまく映画のうちに見出していたと思う。さっき自分が弟に発した言葉が、そのまま突き刺さってしまったのだろう。プレゼントをあげて機嫌を取ったからって、見返りがあるわけではない。わかっているのにそうしてしまうことの情けなさ。黙って母に会いにいった弟を尋常じゃないほど怒りつけて泣かせてしまう場面のオクジュの表情も、非常に情けない感じが伝わってきて泣けてしまった。

おじいちゃんは介護がないと生きるのが難しいし、お父さんは事業に失敗して偽物のナイキを売っていて、叔母さんは離婚寸前でお酒にぶつかっていく。ほんと情けない人しか出てこない映画だ。しかしこの「情けない」という人間の状態こそが、この映画のいちばんの輝きなんじゃないだろうか、なんてことを思ったりする。

『夏時間』という映画には、情けが“ない”という状態がそこに“ある”ものとしてずっと画面に映っている。そこには「情け“ない”」という言葉の見た目に反してたしかに情の“動き”、情動たるものがあられもなくあらわになっていて、それがすなわち本作の豊かさの一端を担っているものなのだと思う。だからたとえば、オクジュが靴を売りに家を出ていくときに弟からトマトをもらい、祖父の微笑みかけに応える、あの場面なんかにも、オクジュの「情けないという情の動き」を見てとってどうしようもなく心が揺さぶられてしまうのだろう。

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*1:1回目の鑑賞ではセリフは耳に残っていたもののどこで発せられたかまではわからず、2回目の鑑賞で確認してきた

「愛」の映画と「恋」の映画(濱口竜介と今泉力哉についてのメモ)

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濱口竜介監督の最新作『偶然と想像』がベルリン国際映画祭で最高賞に次ぐ審査員大賞(銀熊賞)を受賞!おめでたい!『寝ても覚めても』がカンヌで絶賛されながらも賞を得ることがなかったから、ついにハマグチが世界に認められた!という感慨にふけっている。

現時点での僕のオールタイムベストのひとつに、『PASSION』という映画がある。濱口監督が東京藝術大学大学院の修了作品として撮ってしまった奇跡的な映画。その映画のメインキャストである渋川清彦、占部房子、河井青葉が『偶然と想像』にも名を連ねていて、より一層期待と興奮が止まらないのだ。3つの短編からなる今回の作品は予告編*1からして傑作の薫りがただよっている。それは今までの作品ともちょっと違う雰囲気で、連作短編という試みも含め新たな実験的な側面もあるのだろうと思う。

以前、日本映画専門チャンネルで『PASSION』が放送されたときに録画していたので、通算4回目になるのだけどこの機会にまた再見してみた。何度観ても理性を失うくらいに惹かれてしまう。物語のなかに引きずり込まれていく自分の心を止めることができない。傑作というのは観るたびにこうも味わいが違うのかと、また今回も面食らってしまった。『PASSION』はまぎれもなく「愛」と「暴力」についての映画だ。「愛」と「暴力」はほとんど似た性質をもつものであるとも語られていると思う。自分の内から湧いてくる側面と、避けようもなく外からやってくる側面があること。いや、もしかしたら内から湧くものなんてないのかもしれない、外からくるものを受け入れるしかないのではないかという訴え。「愛」も「暴力」も、自分や他者を変えてしまいうる恐ろしい性質をもつ行動であること。それゆえにまた、このうえなく美しいのかもしれない、自分の心を止められずに盲目的に突き動かされてしまうのではないか、といったようなこと。「愛」と「暴力」の映画とは言いながらも、登場人物たちがみなその本質を知らないことがこの映画の面白さである。「愛とはなんだ」「暴力とは?」と惑いながら他者との対話のなかで自身と向き合っていく、非常に人間らしいむきだしのかっこ悪さが描写されているからこそとても魅力的なのだ。

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濱口竜介が「愛」についての映画を撮る監督だと『PASSION』を観て再認識する前に、今泉力哉監督は「恋」についての映画を撮る監督だなという思いがここ最近頭を巡っていた。4月9日にようやく劇場公開される『街の上で』のすばらしさをなんとか言葉にすべく思いあぐねるなかで、「恋」という言葉が浮かんできたのだ。「愛」と「恋」の違いなんて実感的にはまだ知らないのだけど、ひとつには他者も自分も変化してしまう暴力性を秘めた思いやる心、あるいは“避けようのないもの”を「愛」と呼び、一方で「恋」とはただ単に「好き」だという気持ちのこと、そのものを世界のうちから発見したときの純粋な喜びや驚きのこと、そのせいで世界が真新しく見えてくる現象のことを言うのだと思う。やっぱり愛というのはとても暴力的な性質を持っていて、その意味で恋とはまったく違うもののような印象を抱く。このことは、『PASSION』と『街の上で』、もしくは『寝ても覚めても』と『愛がなんだ』を見比べればわかるように思う。『愛がなんだ』というのは愛の映画である気がするものの、そのタイトルが端的に指すように愛を棄却していく側面ももつ。ただ単に「好き」であるという気持ち、生殖行為にも結婚にも結びつかない、社会性からは遠く隔絶された「ただ恋することの喜び」が狂気的なまでに推し進められた映画であると感じる。原作からしてそうだったか、そうでもないかは思い出せないが、「恋」の映画監督である今泉力哉が撮ったことで奇跡が起きている側面もあるだろう。濱口竜介が撮ればきっと「愛」の映画になっていたんじゃないだろうか。

今泉力哉監督の映画が「愛」の映画にならないのには、暴力やセックス描写の少なさ(というより『愛がなんだ』くらいにしかない)が大きく影響していると思う。そう思ったのは『PASSION』を観たからなのだけど。今泉監督は登場人物たちの身体的な接触を嫌う。触れずに、胸ぐらを掴んだりせずに感情を表現できるならそうしたいと思う監督であり、それは実人生での接触の少なさが反映されているものでもある(って言ってた)。これ以上は憶測になるので書くのをためらうが、きっと今泉監督自身が愛よりも恋のほうが好きな人、しっくりくる人なのだと思う。

『街の上で』がとんでもなくいい映画であるのは「恋」が映りまくっているからだ。カルチャーへの、あるいは街への。そしてもちろん他者への。「恋」というのはまた、「過程」のことでもあると思う。「愛」に変わる前の存在であること、行動に変わる前の原初的な想いであること、人をまなざすこと、片想い、要するに「ああ、世界は、日々はこんなにも美しいんだな」という発見のこと。

今泉力哉監督が『ユリイカ 近藤聡乃特集号』に寄せていた『A子さんの恋人』についてのテキストをメモしておく。

…恋愛や人間関係の、別れる、付き合う過程なんかもそうだ。今、私は自分の映画でも、結末なんてどうでもよくて、その過程を描くことに興味が出てきている。誰も見てくれない逡巡や心の葛藤の時間を観客や読者だけは見てくれている。それが創作物の魅力の一端(であり、もしくは全部)だと最近は強く思うのだ。 P61