縞馬は青い

縞馬は青い

映画とか、好きなもの

僕たちはどこで生きていく?/ジョシュ・クーリー『トイストーリー4』

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おもちゃだって生きる場所を選んでもいい。与えられた居場所に居続けるのもひとつの生き方だし、新しい居場所を求めるのもまたひとつの道。何よりも重要なのは、そこがほんとうの自分の居場所なのかどうか、心のうちがハッキリとしていることではないか。「なぜ生きているの?」おもちゃからそんな言葉を聞くことになるとは思わなかったが、この言葉を聞いた瞬間、これはおもちゃの擬人化を通した「私たちの物語」だったんだということを改めて考えさせられた。僕たちはどこで生きていくのか、それは僕たち一人ひとりが決めていいものだ。


アンディがひとり遊びに興じる姿が少年時代の自分と強烈に重なっていたこともあり、トイストーリーにはそれなりに思い入れがあったはずなんだけど、『トイストーリー3』がどんな物語だったのかすっかり忘れてしまっていた……(だから本作に全然違和感がなく、ウッディの勇姿を観てこらえながらも号泣してしまった)。アンディが大人になったように、そうして僕も大人になって、おもちゃと遊んだことなんか忘れちゃって、トイストーリーのことも忘れちゃってと、そんなことはまぁしょうがないことなんだろう。たとえフォーキーのように生みの親に愛されたって、結局自分のことを最後まで面倒見てくれるのは自分しかいないのだ。自分の生きる道は自分で探すしかないし、決めていくしかない。持ち主のために生きるというのは一番美談的で美しく幸せな生き方ではあるけれど、世界には迷子になってしまったいわゆる孤児みたいなおもちゃもいるし、アンティークショップで求めてくれる誰かを待つおもちゃもいる。彼らが教えてくれるのはこの世界の多様な生き方に他ならない。しきりにゴミ箱へと向かうフォーキーをウッディが掬い上げるのは、ボニーのためであることはもちろん、フォーキーに「別の居場所」があることを知ってもらうためだったように感じられた。必要とされなくなったウッディという描写はあまりにも悲しく映るものの、それによって新たな生き方に気付きだす様には心が掴まれてしまう。まるで定年を迎えた僕の父親みたいで……。自分の未来の姿でもある。いや、今の姿でもあるのか。


悪役の立ち回りだったギャビー・ギャビーは、一途に必要とされることを求めていたハーモニーについに必要とされず、自分は無価値であると自戒する。彼女に選ばれることをずっと望んでいたから。それでもウッディは、ボニーであれば必要としてくれるかもしれないと彼女を慰める。感動したのは、そのあとの場面でギャビー・ギャビーが自ら生きる場所を見つけ、ある迷子の女の子を「選んだ」ことだろう*1。ギャビー・ギャビーを拾った女の子は「“私たち”迷子なんです」ってたぶん見回りの人に言った気がするんだけど、それを聞いてとてもホッとしたのだ。おもちゃだって、対等な関係を望んでもいいのかもしれないと、そう思えたから。誰とだって対等な関係を望んでもいい。


ウッディやギャビー・ギャビーの内なる声・心情が、外に飛び出る瞬間の美しさ。彼らの「無限の彼方」への旅たちに、大いなる祝福を送りたい。

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*1:彼女はウッディからボイスボックスを受け取ったことで“内なる声”を獲得したのだ。

カルチャーをむさぼり食らう(2019年6月号)

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ユーロスペースのフライヤーが並ぶ壁面をおさめた画。ブレにブレてる。

好きな人に告白してフラれたりした6月。昔から、常に刺激を受けながら1分1秒も無駄にせず生きていきたいと思っていたり、人一倍好奇心が旺盛だと思っている自分ですが、東京に来てからというもの、それにますます拍車がかかっている気がする。今回の告白もある種、日々の暮らしへの刺激を求めたものだったのかもしれない。しかし相手のことを好きなのは事実なようで、それは手紙で告白して返事が来るまでの3週間、実に無気力に生活してしまったことに表れているように思う。1分1秒も無駄にしたくないのに、仕事終わり家に帰ったあと、毎日そわそわしてなにもできなかったのだ。そんな日々も、こうして文章にすることで何か意味あるものに昇華されると思うとうれしいな。日々は続き、あの子との関係も何事もなかったように続いていくのだろう。6月はいい映画をたくさん観て、同時に、いっぱい映画を観なければと決意し、映画にどっぷり浸かることを決めた月。映画について書くことがますます楽しくなってきた。

映画

6月1日の映画の日に映画を3本観た。余談ですが、1900円に値上げしてからというもの、TOHOや新宿のシネコンにまじで行かなくなってしまった。絶対に1900円は出してやらないぞという意地があるのだろう。いつも割引いてくれるミニシアターちゃんにゾッコンだから、わざわざシネコン野郎に高い金を払ってやる義理はまったくない。そうすると結果的にゴジラのような大作映画とかアニメ映画とかは間引かれていく。それはそれで悪くないかもな。で、3本観たのだけど1本のことしか覚えてない。その一本が傑作すぎて。塩田明彦『さよならくちびる』。最高だった。次の日も観に行った。もっと最高だった。いかにも映画好きが好きそうな映画という感じで、Twitterでは「演出がすごい!」とか、「言葉ではなく表情や動きで登場人物の関係性を表現してるのがすごい!」とかいう絶賛レビューで溢れかえっていたのだけど、演出を語り出すなんておまえは映画評論家かよと思ったりもした。でも気づいたら自分もこの映画の演出面のおもしろさについてブログを書いてしまっていたのだ。一面的には退屈な映画ではあるし、音楽映画にしては音楽もそこまでいいわけではないのだけど、その背面に流れるささやかな描写の積み重ねに心をつかまれてしまう。うるさいやい!と突っ込まれそうだけどそういう「映画の奥底に潜む楽しさ」について文章を書きましたのでぜひ。おもしろくないと思った人にこそ読んでほしいな。

対して、表のストーリーがしっかりしすぎていると感じたのが『長いお別れ』。『湯を沸かすほどの熱い愛』の中野量太監督作。僕が大好きな“家族映画”のジャンルに長けた監督の映画だけど前作も含めてちょっと好きじゃないんだよな。毎回“ちょっと”好きじゃない。話がよくできすぎているところに、魅力ではなく嫌味を感じるのだと思う。家族映画はうまく締められてしまうとおもしろくない(あくまでも個人的に)。『クレイマークレイマー』『お引越し』『歩いても歩いても』『トウキョウソナタ』『そして父になる』『幼な子われらに生まれ』『永い言い訳』などなど、崩壊した家族が「努力」をもってして現実に向き合うスタート地点にやっと立つまでの描写にハッとするのだ。赤黄青緑の色分けで家族4人の家族の中でのポジションを表し続ける映画なんておもしろくない。崩壊しない安心感などいらない。スクラップアンドビルド万歳!ーーその夜というか翌早朝チャンピオンズリーグ決勝、あえなく敗戦した我らがトッテナムホットスパーの雄姿を見て勇気づけられた。今はさほど興奮してないけど応援しはじめた7年前くらいの中学生の自分に伝えたら飛び跳ねてドギマギするだろうな。勝ち負けとかまじでどうでもいいのよ(でも勝ってほしかった)。ーーテラスハウスはやっぱりおもしろい。なんでカメラがそこかしこに設置されている家で平然と生活ができるのか、家賃・食費などはどうしているのか、みんなあの豪邸や高級外車に似合う最良ルックスすぎはしないか、などなど疑問点はいっぱいあるものの、それも含めてあれこれ考えるのが楽しいのだ。東京編の圧倒的スピード感について考えていたら、家の構造による作用や大きな分類として3つの性格の人物が住んでいることに気づいた。ストレートにものを言う性格に発破をかけるしきりのない家。東京オリンピックまでの間におもしろい事件がいっぱい起こる気がする。そんな内容の振り返りコラム(4話ごとの更新)を担当しています。

realsound.jp

m.youtube.com

このあたりで手紙の返事が来てふわっとふられた。それからというもの映画を週に3本レンタルするようになったり、映画本を読んだりとても充実している。3年間友達関係でいた子に告白したタイミングで、ちょうど『月極オトコトモダチ』という映画を観た。男女の友情は成立するのか、ってな感じのやつ。自分の場合、下心がないと深く接しようとは思わない(というか接し方が下手)から親友になったとしても今回みたいな結末を迎えるのだろうと思う。それもこれもテラスハウスのせいだ。ーーオールタイムベスト級に心をえぐられた映画『町田くんの世界』。なにかを大声で叫びたいくらい好き。なんだ。レビューのなかに書きそびれたところでいうと、やっぱり前田あっちゃんの圧倒的な存在感だろうか。おっさんにしか見えない大賀の私服デートもいい。今年ベストは『ひかりの歌』という映画で当確しているのだけど、2位はこの作品で内定しました。DVD買って見倒してやるし漫画も買うぞ。ついでに6月が終わったので2019年上半期の新作映画ベストを記そう。①ひかりの歌 ②町田くんの世界 ③愛がなんだ ④さよならくちびる ⑤アベンジャーズ/エンドゲーム ⑥僕たちは希望という名の列車に乗った ⑦岬の兄弟 ⑧疑惑とダンス ⑨凪待ち ⑩チワワちゃんーーほぼ日本映画ですね。去年の『ファントム・スレッド』みたいな衝撃的な外国映画にはまだ出会っていない。

神保町花月で鎌田順也作・演出の『予言者たち』を観劇。ナカゴー/ほりぶんの主催である鎌田さんが、よしもとの芸人・ライスやサルゴリラらとともにつくった演劇、という捉え方でいいだろうか。(近作しか観てないけど)近作にも頻出した「予言者」がインフレ状態で多数出てきて(ていうか登場人物全員予言者で)、笑いを次々に生み出す構図。この吉本新喜劇的にトレースし続ける作劇にほんのちょっとだけ飽きてきたかもしれない。今回のストーリーはいつもと比べても薄味で、なんだか物足りなく感じてしまった。ナカゴー『まだ出会っていないだけ』、ほりぶん『飛鳥山』が傑作すぎたのだろうな。でも、毎回チケット代2500円でこのクオリティは本当にお得なので観られる方はぜひとも。その週には『旅のおわり世界のはじまり』、『小さな恋のうた』、『町田くんの世界』(2回目)を観た。やっぱり町田くんの世界がおもしろいな。2回目にもかかわらずボロボロと泣いてしまった。ご存知モンパチの楽曲をモチーフにした映画『小さな恋のうた』は開始数分で予想外の展開へ移行して驚かされたものの、境界を超える/超えないを主軸ストーリーとしたとても観やすい青春映画だったと思う。旧作レンタルの映画にも琴線にふれるものがたくさんあった。なかでもおもしろかったのは岩井俊二四月物語』、成瀬巳喜男乱れ雲』、市川準『会社物語』、マイク・ニコルズ『卒業』。『四月物語』は主演の松たか子がフレッシュすぎて愛おしい。本編67分。これくらいの尺感でラストにどきりとさせられる映画が好きだ。f:id:bsk00kw20-kohei:20190622093851j:image

大傑作『乱れる』の発展系のようでいて結局最後に“ヤルセナキオ”が顔を出す成瀬の遺作『乱れ雲』。「超えられない」こと(その描写)にこれだけ執着する監督もおもしろい。無理とはわかっていながらも「越えようとする」ということに大きな意味を見出しているのだと思うし、その不器用かつテクニシャンな感じがとても好み。f:id:bsk00kw20-kohei:20190622093902j:image

定年退職を間近に控える中年男性の走馬灯的悲喜劇の『会社物語』は中盤以降からの徐々な盛り上がりにやられた。妙な「悲しさ」が全編を覆っているけれど、そのなかにも希望を見つけて拾わせてくれる。市川準の映画はこの素朴さがクセになる。女性キャストたちとワンポイントリリーフのイッセー尾形が魅力を放っていた。f:id:bsk00kw20-kohei:20190622093914p:image

ラストシーンがあまりにも有名すぎる『卒業』はやっぱりそのラストシーンがおもしろい。『プロポーズ大作戦』と『太陽と海の教室』が好きなドラマベスト2なのだけど、その2作品がこの映画を通して強くつながっていることに気づいて驚いた。「The Sound of Silence」がこんなに何回も流れるとは思ってなかった。f:id:bsk00kw20-kohei:20190622093922j:image

アイドル

6月4周目はハロープロジェクト好きにとっては大きな変革の時期だった。Juice=Juiceの宮崎由加さんとアンジュルム和田彩花さんの卒業公演が連日武道館で。武道館はもちろん行けなかったしフジテレビTWOが見れる環境にあるにも関わらず見逃してしまった。やはりヲタクとは言えないレベルでずっと推移している。そうは言っても和田さんとは握手をしたこともあるので、感慨深い気持ちでいっぱい。YouTubeで公開されたJuice=Juiceのライブ風景の一部。これの『「ひとりで生きられそう」ってそれってねぇ褒めているの?』という楽曲がよすぎて鳥肌立ちまくった。段原さんの落ちサビがまじ半端ないのよ。


【ハロ!ステ#294】Juice=Juice ツアーFINAL 宮崎由加卒業スペシャル!MC:譜久村聖

最近のジュースジュースはスキルのある兵隊たちがどんどん入っていくシステムのグループと化していて、先日もハロプロ研修生から優秀な2名が配属されたのだけど、どんどん生でライブを観たいという思いが強まっている。その数日後、モーニング娘。’19にも新メンバーが3人加入した。生配信で行われた新メンバーお披露目。2人目に登場した北川莉央さんという女の子が出てきたときに、これはきた!と直感的にビビっときた。明らかに歌がうまい声質のよさ(実際得意らしい)と鞘師里保の面影を感じる滲み出るエースの風格。もうほんとうに、漏れ出ちゃってるの、なにかが。いやぁ、ライブ行きたいっすね。f:id:bsk00kw20-kohei:20190623224217j:image

4週目の週末は期せずしてフランス映画を劇場で5本(うち2本は短編)も観ることになった。それが、なにから話したらいいのかわからないくらい全部びっくりするぐらいおもしろかった。フランス映画には前々から苦手意識があったからなおさらだ。観た全作に共通しているのは、愛おしい日常描写と悲劇的な事件が交錯して描かれていて、その様を身近に(自分ごとであると)感じながら観てしまったこと。とりわけ素晴らしかったのはギヨーム・ブラックの『女っ気なし』という映画。この映画との出会い方もある種劇的で、同じ監督の『7月の物語』を観終わった後にその空気感が心地よすぎて次回上映のそれに飛び込んでしまったという流れ。とくに東京に来てからは予約しないで飛び込みで映画を観ることなんて全くなかったから、運命的な出会いに感じている。30代中盤くらいのデブでハゲで自信なさげな主人公男性(でもフランス人だから色気もにじみ出てる)が、バカンスにやってきた女ふたり親子と悲喜こもごもな日々を過ごす話。簡単に書くとそんな感じ。どこかわからないのだけどバカンスに訪れるくらいだから舞台は観光地かなにかで、それが微妙に退廃している雰囲気なのがとてもグッときてしまった。熱海的な位置づけの場所なんだろうと想像しながら、そこに住む鬱屈した中年男性の生活に癒されたり苦しめられたり笑ったりする。なかなか日本映画なんかでは見ないけど確実に存在している人種の男が描かれていて、妙に共感してしまったものだ。こういう映画が世界にあふれていてほしい。残念ながら東京での上映は終わってしまったけどアップリンク吉祥寺あたりが拾ってくれると思うのでぜひ見てほしい〜。僕も『やさしい人』を観れば一気に全作コンプリートだ。f:id:bsk00kw20-kohei:20190628233531j:image『月曜から金曜の男子高校生』という漫画をLINEマンガでちまちま読んでいる。とても癒されるストーリー。スクールカーストでいうと一番下のランクにいる男子たちが、恋をしたり部活に打ち込んだり、とにかく生き生きと日々を過ごしている情景。最近、こういった学園もののカルチャー作品で“スクールカースト”というものが描かれなくなってきたように感じている。それは別に学園内格差が無くなったというわけではなく、それを描く意義の喪失を意味しているのだろう、とか想像して。例えば成瀬や小津のように「境界を超えられないこと」や「わかりあえなさ」を表出してきた古典邦画が、近作で言うと『さよならくちびる』のように「曖昧な関係のままでもいいじゃん」と示しているように。「分断」を認識したあとに描くべきことは、それでも互いに歩み寄ろうとする意志に違いない。毎週リアルサウンドでまとめコラムを書いていた『俺のスカート、どこ行った?』にしても、第1話では明らかな上下関係が存在していた明智(永瀬廉)と若林(長尾謙杜)というふたりが最終話には親友かのように並んでいる、そういう描写に心を掴まれたものだ。いじめる/いじめられるという関係にあったふたりが和解する瞬間は描かれていたものの、その後の距離の縮まりをこのドラマは省略していて、いきなり仲良しになっている。NHKよるドラの『腐女子、うっかりゲイに告る』や『町田くんの世界』も、まるでスクールカーストなど存在しないかのような世界が描かれていた。スクールカースト以上に語るべき問題があるということでもあるのだろう。

月曜から金曜の男子高校生1巻 (LINEコミックス)

月曜から金曜の男子高校生1巻 (LINEコミックス)

 

 『日向坂で会いましょう』が毎回とんでもなくおもしろい。とりわけ6月24日放送の春日とロケする回はハンパなかった。どんなバラエティよりも笑えるし、加えて無尽蔵に癒されてしまうのだから、これほどいい番組はないと思う。イヤモニをした加藤史帆に指示を出す若林の姿(とても楽しそう)を見ていたら、バカリズムがMCを務めていた伝説的なアイドル番組『アイドリング』を思い出した。アイドルをひな壇に座らせMCを芸人が務めるというこの雛形を生んだパイオニアのような番組(『あさやん』やおニャン子クラブが出てた番組がどんななのか知らないので適当にパイオニアと言ってます)。このアイドルバラエティという番組の形式が僕は大好きで、アイドリングからAKBINGO、乃木どこ・乃木中、けやかけ、日向坂と(途中にもいろいろあった気がするけど)駆けてきたわけだが、ふとその魅力の本質について考えてみたくなる。アイドルの魅力や本性があぶり出される(あるいはまったくあぶり出されない子もいる)この番組スタイルの未知のパワーについてや、MC芸人との必ず合致する奇妙な相性、関西芸人が起用されづらい理由(なぜだろう)、バラドル養成機関としてのそれについてなどなど。だれか論じてくれないだろうか。『アイドリング』には「バカリズムは誰だ?」という最強のコーナーがあって、バカリズムがアイドルに無茶ぶりの指示を出しまくってそれはおもしろかったのだけど、日向坂のそれ(加藤史帆や松田好花)を見ていると明らかにアップデートされてると感じるのだ。ノリのよさにいやらしさがまるでない(アイドリングはなんか売れてやろう感がめっちゃあっていやらしかった)、余裕のあるボケ、笑い。乃木坂、欅坂、日向坂と、個人的には毎回新番組がはじまる度に興味が移ってしまっていたそのクオリティの上昇気流について、とても気になるところだ。そういう番組を幸か不幸かもっていないハロープロジェクトのことをアイドルのなかで一番推しているのだから、これもまた奇妙。坂道系のライブにはこれまでもこれからも行かないだろうから、まったく別物として見てるのだろうな。とにかく『日向坂で会いましょう』は最高。f:id:bsk00kw20-kohei:20190628232457j:image

フランス映画、というかギヨーム・ブラックの話に逆戻りします。特集上映のすべりこみで『やさしい人』を観ることができた。『女っ気なし』と比べるとかなり狂気的な展開が待ち受けていて驚いてしまったけど、根底にはもちろん同じものが流れているなと感じる。そして同じ雰囲気を纏うものとして、エドワード・ヤン坂元裕二の作品のことが思い起こされた。愛おしい日常と、それに付随する崩壊への不安感・狂気、逃れようのない転機、そしてラストに待ち受ける微細な光。街ーーとりわけ地方都市の風景を撮ることに熱心で、それと同時にそこにいる人々のドラマ、日常を紡ごうとする姿勢は、とても大好き。『ひかりの歌』にもちょっと似てるかも。杉田協士監督と同じくらい、ギヨーム・ブラックのことも知れてよかった。f:id:bsk00kw20-kohei:20190628233544j:image

ボーイもガールも

6月27日、OKAMOTO’Sの武道館ライブに行った。かっこいい以外の言葉が思い浮かばない。印象的なのは「BOYから大人への転換点だと思い、アルバムタイトルを“BOY”にした。でもツアーをやってるうちに俺たちはいつまでも“BOY”の気持ちを無くすことはないと気づいた」というオカモトショウの言葉。BOYとは無邪気に夢を見て、純粋に追い求める姿。それは女の子であってもおじいさんであっても、誰の心にも存在するものであると、そう彼は言っていた。ふと、生粋のアンジュルムオタクである蒼井優と菊池亜希子がW編集長を務めた『アンジュルムック』というアーティストブックに刻み込まれたキャッチコピーを思い出す。「ファンもオタもボーイもガールも」という文言。そしてまたふと思い出す。昨年の東京国際映画祭で『21世紀の女の子』を観たときに参加監督14人が登壇した挨拶でそのひとり山中瑶子監督が発していた言葉。女の子という言葉がタイトルに入っていて女の子しか出てこない映画だけれど、きっとおじさんにも届くはずの話であると。めっちゃ記憶が曖昧で監督の言葉も論旨が微妙にぶれていた気はするものの、つまるところ誰の心にも女の子はいるということを伝えたいのだろうと感じたものだ。こういう発言を聞くたびに、なんだか救われた気分になる。“BOY”や“女の子”というイメージの固定されているような言葉を用いながらも、その逆説を示すことで私たちの心は繋がっている、あるいは繋がっているはずだとみんなが甲高に主張するのだ。私たちは強く繋がっていけるに違いない。f:id:bsk00kw20-kohei:20190628234155j:image『21世紀の女の子』の総監督でもある山戸結希の新作『ホットギミック ガールミーツボーイ』を観た。たまにはキラキラ映画を観るのも悪くないなと開始10分くらいはのんきに鑑賞。しかし、「ガールミーツボーイ」という副題でありながらもヒロイン(堀未央奈)が3人の男性の間で揺れ、いろいろなものを奪われ、自立していかない様を90分くらい見せられるので、だんだんと焦ってくる。でも山戸結希だからという安心感はあった。長らく青春時代における恋(あるいは青春映画)の代名詞として使われてきた「ボーイミーツガール」という定型。それはそのままの意味で、男の子が女の子と出会い、苦楽を共にする物語を紡いでいくことによって「男の子が成長する」という作劇だったのかもしれない。そうしたものの対義として、もしくは少女漫画における、かっこいい男の子に身を捧げる少女のストーリーとは違うものを提示するという監督の意志として「ガールミーツボーイ」という副題は掲げられているのだろう。冒頭のタイトルバックにて「ボーイ」という字と「ガール」という字が入れ替わる瞬間を私たちは確認することで、この映画はガールのための映画であると認識させられる。しかしその前提のままではこの映画は終わらなかった。90分くらいで山戸作品特有の映像の密の濃さに疲れて(このタイミングで一旦映画が静かになったことも影響してる)集中力が切れて、それから105分くらいまで展開がないように感じてしんどかったのだけどラスト15分くらいがとてもよかったと思う。『溺れるナイフ』とかはそこまで好みではないのだけどそれとも違う本作での山戸作品の成長は、ヒロインが劇的な変化を遂げるのと同じ速度でまわりの男の子たちも成長していくところ。互いに影響を及ぼしあうことで、どんどんこの世界は複雑であると魅せてくる演出も見事だった。ロケーションとキャスティングが抜群にいい映画。無機質なマンションが高低差のある空間での声の往来によって生き生きとしてくるのが魅力的です。f:id:bsk00kw20-kohei:20190630193125j:image

『21世紀の女の子』で山戸結希がつくった短編映画のタイトルは『離れ離れの花々へ』。その名前にも似たロロの新作公演『はなればなれたち』を観劇。これまで劇場では青春劇「いつ高シリーズ」しか観たことがなかったので新鮮な気持ちでフルスケールの本公演に挑んだ。気持ちよさそうに発声し、からだを動かし、地面に寝転がる登場人物たち。彼らの姿はいつだって楽しさで満ち溢れていて、観るだけでこちらも元気になってしまう。映像では2年前くらいの本公演『父母姉僕弟君』も観たことがあったけど、正直これまで何度かロロの演劇を観てきてストーリーが深く心に刺さることはなかった。受け取るか受け取らないかの狭間で、物語が僕の脇をするりと通り抜けていく感じ。でも楽しいからなんとなく観ていたのだけど本作はなかなかに受容することができたと思う。舞台上と観客席との境界がたびたび破られるのがいい。確実にそこに「あった」と語る望月綾乃さんの力強さにやられた。森本華さんもめちゃくちゃキュート。板橋さんはめっちゃ声出てた。よかったなぁ。

f:id:bsk00kw20-kohei:20190630193048j:image東京芸術劇場アピチャッポン・ウィーラセタクンの『フィーバー・ルーム』をみた。いちおう演劇だと思って観に行ったから全然人出てこないしそんなことよりすごすぎるものを見せられて度肝抜いた。監督はこれを映画だと言っているが明らかに映像表現の域を超えたものだ。これから観る人のために詳述するのは避けたいのだけど、2Dの映像が段階的に拡張されていき、最終的に自分に迫ってくるーー文字にすると意味のわからない体験型の映像作品。夢の中をさまよっているのか、宇宙を放流しているのか、どうとでもとれる規模感の世界に投げ出され、プリミティブな感覚を得る。母親のお腹に中にいたときの感覚すらもが思い出せそうな、特異的な空間/時間芸術だった。インタビューとかの載ったパンフレットを無料でくれるのが嬉しみ深し。ーー夢に関する映画と言えば、Netflixで公開された『ANIMA』もすばらしい。『ファントム・スレッド』のPTA御大による新作短編映画。トム・ヨークの音楽もそれぞれのダンスも感覚を刺激するものばかりで、ずっと見ていたい夢の様相を見事に形作っている。あと乗り物に乗って終わる映画が大好きなんだよな〜。

そんなこんなで今月は結構濃いカルチャー生活でした。あと退屈なときは基本的にYouTubeをみてるのでそこに触れておくと、QuizKnockというチャンネルと(相変わらず)東海オンエアがすごくおもしろい。前者は企画力が高すぎて明らかにクイズ番組を更新していると感じる頭のいいチャンネル。後者はとにかくバカなチャンネル(逆説的に頭もいい)。リーダーのてつやが5、60万くらいのガチラブドールを買ったというのが最近のビッグトピックで、その行く末がとっても気になってる。是枝監督の『空気人形』を思い出してしまう、独特の空気感が流れ出していて楽しいんだわ。


てつやくんの家にラブドールが届きました

 

赤い風船=関水渚がもたらす映画の奇跡/石井裕也『町田くんの世界』

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いつになく感情的なレビューになります。好きすぎて好きすぎて、どうにかなっちゃうんじゃないかってくらい好きな映画だ。この作品を構成するすべての要素が好きだから、この感想だけですべてを補えそうにはない。特に好きだった、「ファンタジーがもたらす奇跡」というストーリー面の快感と、「細田佳央太・関水渚の愛おしすぎる身体=演技」について、クロスオーバーさせながら書いていこうと思う。もうこの時点で好きが溢れすぎて、何回も好きって言っちゃっている。


ファンタジーがつくりだすパワーの凄まじさを考える。もしかしたら僕は、ディズニーやピクサーのアニメーションを見逃すことによって大切なものを受け取り損ねてきたのかもしれないとか。『町田くんの世界』では、まるで小さい頃に読んだ絵本のように美しい世界が広がり、登場人物たちはみんな光輝いていて、映画的で劇的な奇跡が最後に彼らを包み込む。たまらなく愛おしい物語だ。これほどまでに映画の奇跡を実感したことは、今までになかった。

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全人類を家族だと思っている、そんな神のような善人・町田くん(細田佳央太)が、たったひとつしかない“恋”の存在にはじめて触れる瞬間。冒頭の保健室での出会いの場面からしてもうパーフェクトに心を掴まれてしまうのだ。「高校」「保健室」「密室に男女ふたり」という特別な状況下であっても、「普通(現実世界)ならば何も起きない」だろうことが、「特別なことが起きうるかもしれない(ファンタジーが現実にも起きうる)」とこの映画は常に訴え続けていると思う。保健室で男女ふたりきりになっても、リアルならば恋に発展することはまぁないかもしれない。しかしここは「高校だから(映画だから)」そういうことが起きるかもしれない。

カーテンの隙間から町田くんの存在を認識した猪原さん(関水渚)は、思わずそのカーテンで遮られた部屋を踏み出て、出血したまま硬直している町田くんの看病にあたる。この、同じ部屋にいながらも絶妙な距離にあった(しかもカーテンという境界があった)ふたりが急接近するという描写。そうした演出的な緊張感の創出に、まずはどきりとする。日々何10人という人を助け、心を潤してきたのだろう町田くんだけれど、このふたりにおいて最初に助けられることになるのは猪原さんではなく、町田くんだった。保健室から出ていった猪原さんを町田くんはむやみに追いかけ、ちょっと怖がられてることくらいわかりそうだけど追いかけ続け、「ありがとう」と伝える。もう、好きになってしまっている。ファーストコンタクトから、町田くんは猪原さんのことを特別な存在として認識するようになっているのだ。同じく猪原さんも、その帰りに河原で奇妙な夢を見る。少年が手放した赤い風船を追いかけ、宙に浮かぶ町田くんの姿。赤い風船とはもちろん、直前の場面で追いかけっこを繰り広げた猪原さんへとリンクするもの。ファーストコンタクトにして、好き同士は成立してしまっている。だから観客である僕は、ふたりの愛おしさを想い、冒頭から好きが溢れ出てしまうのだ。この映画には「好き」という感情とその本質にある「愛」が溢れかえっている。

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彼らの愛を阻むのが町田くんの「人類愛の強さ」であるというのがとても厄介だ。どれだけ町田くんのことを好きになっても、町田くんは違う人のこと“も”好きだから、なかなか思うようにはいかない。町田くんにしても、特別な存在に対して「特別な態度」をとることができなくてムズムズしている。細田佳央太と関水渚のすばらしいところは、この心情をあらわす“身体のバタつき”が異様に美しいことである。なぜだかうまくいかないことに2人とも心を乱され、身体が勝手に動き出す。光がさす夜の河原での対峙、プールサイドで「どんな人が好きなの?」と問われたときの関水渚の動き、貧乏ゆすり、河原での追いかけっこ長回し。ふたりの顔は常に百面相をしていて、極めていびつ。動きはとても大げさに見えるかもしれないが、そのぶん彼らは「言葉を発することができていない」。ジタバタと動くことでしか、その複雑な心情を表現することができないのである。

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「普通(現実世界)ならば何も起きない」だろうことが、「特別なことが起きうるかもしれない(ファンタジーが現実にも起きうる)」とこの映画は常に訴え続けている。

この硬直した状態を助けてくれるのは、町田くんが日々救ってきた人々の愛。みんなからの愛を受けて、飛び立ちそうになる猪原さんを追いかけることを決めながらも、自転車が倒れてしまったり、少年が風船を手放す瞬間に出会ってしまうなど、とことん間が悪い。誰かを救おうとすれば、他の誰かをないがしろにしてしまう可能性があるというのは、池松壮亮が言う現実の姿だ。困っている人を助けていたら、大事な時間に遅れてしまった。あるいは大事な時間に遅れてしまうから、困っている人のことを見過ごす。そんな現実に対してこの映画が示すのは、ファンタジーという奇跡だった。風船をつかむことで町田くんはまるでスーパーマンのように空を飛び、猪原さんを捕まえることに成功する。わたしたち観客は、映画という奇跡が世界を救う瞬間を垣間見ることになる。町田くんも、町田くんの世界も、この世には存在しないファンタジーかもしれない。しかしそれでも、わたしたち観客には町田くんの姿が「見えている」。“見えている”というのは予想以上に重要なことで、わたしたちの「想像力」を助けてくれるもの。ファンタジーがリアルへと侵食しうる希望を、町田くんはわたしたちに与えてくれたのだ。

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カルチャーをむさぼり食らう(2019年5月号)

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薄給サラリーマンにとってゴールデンウィークというのは本当に長い。時間がありあまっちゃうとかではなく。どうしようもなく浪費癖があるので、湯水のようにお金が消えていくのだ。映画をみて演劇をみて、ときどき酒をたらふく飲んで、おいしいごはんを求め、本を読みにカフェへ行く。GW明けにもろもろの引き落としもあったらしく、気づいたときにはびっくり困窮者になっていた。(本業もライターですが)副業のライター業でちまちまお小遣いを稼ぎながら、ちょっとずつ節約するという生活スタンスを求められているらしい。それに関してはそんなに苦ではないけど、視界が狭くなってしまいそうで心配。そんな5月。

 

5月1、2日は二宮健監督(『チワワちゃん』『疑惑とダンス』など)のコンプリートワークスと題した特集上映に2日連続で行っていた。LOFT 9 SHIBUYA にて。くだんの監督についてはそれこそ『チワワちゃん』を観る前までは認知すらしていなかったのだけど、その後、3月に公開された『疑惑とダンス』を観てからというものたちまち最注目監督になっていた。大阪芸大山下敦弘、熊切和嘉、石井裕也)の血を引くような絶妙なゆるさに加え、俳優との多大なる信頼関係によって生まれる奇跡的な演技=ショットがクセになる映画をつくる監督だ。2日で短編含めて10本くらい観ることになり、スタイリッシュな映像を志向しながらも本編の内容にはだいたい人間の醜い部分が映っていること、そしてそれを笑いに昇華しようとする試みに好感を持った。『セシルボーイズ』『デリバリーお姉さん』(『〜NEO』もよかったけどオリジナルもいい味出てた)がまぁまぁおもしろくて、あとは『MATSUMOTO TRIBE』の松本穂香が最高だった。制作費いっぱいあるほうがいい映画撮れる監督さんだと思うので、今後に期待っす。

5月3日。ほりぶんの舞台『飛鳥山』をみる。ナカゴーの作・演出も手がける鎌田順也さんのもうひとつのワーキングプレイス。ほりぶんは初めてみた。基本的にはナカゴーと同じで、血管破裂すんじゃねぇかってほど大げさな演技をする役者たちと、そのことも含めて途切れない「笑い」を生み出していく作劇スタイルが特徴。演者は女性しかいないというのも、その特異さを強調していると思う。第7回公演となる今回ははじめて男性出演者(黒田大輔)がひとり加わったのことで、それまでのを見てないからなんとも言えないけど。とにもかくにもおもしろい。ソフトクリームが懐中電灯へと変化してさまざまに人を往来していく様に悲哀を感じたり、いきなりガチもんのサンバダンサーが2人も現れて唖然としたり、圧倒された。あの規模の演劇でこれだけ心を動かされるのは間違いなくコスパいいと思う。

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5月5日。東京国際映画祭ですでに観ていた『あの日々の話』(玉田真也監督)を再見。前にみたときはめっちゃ笑ったんだけど、2回みても特に新たな発見があるタイプの映画ではないと思うので、細部が気になりだしてしまった。それにしても、マウントの取り合いで場の空気を転がしていく玉田さんのお話と役者たちの洗練された演技は何度見ても楽しい。似たタイプの映画である『疑惑とダンス』のほうがたぶん客入ってたから、(劇作家である玉田さんがあえて挑戦する)映画の独自性が出てくればもっとおもしろくなるんだと思う。なんて偉そうに言っちゃって。

5月6日。J:COMさまさま。映画チャンネルで録画していた『友だちのうちはどこ?』(アッバス・キアロスタミ)を観て、傑作すぎて打ちふるえたのだ。友だちが忘れたノートを少年が友だちのうちに届けようとするだけの映画なのに、なんでこんなおもしろいんだよ。あの一瞬だけ窓は開け放たれていて、僕たちはどこへだって出掛けることができたのかもしれないな。何度だってみたい映画がまたひとつ増えた。

友だちのうちはどこ?ニューマスター版 [DVD]

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5月7日。ポレポレで『沈没家族』をみる。「沈没ハウス」という稀有な家の中で育った加納土くんが、大学の卒業制作でこの映画を撮るまで。その過程を描写したドキュメンタリー。自分の過去をさらけ出すというのはとても度胸のいることだと思うし、たぶん賛否両論迫ってきた(この映画を批判することは加納土くんを批判することと同じになる)だろうけど、当の本人が案外自信満々でいい。それでも私とあなたの関係性(の名前)について考えるときに、相手側にその判断を委ねてしまうのがなんとも歯がゆいな。彼らの自信のなさと、それでも強固な事実関係に揺さぶられて、それはそのまま家族というものを表していると思った。手放しには肯定できない、実験的な新しい家族についての映画。複雑なまま、思考し続けることが大事なのだと思う。あとゴールデンウィークは『若葉のころ』『藍色夏恋』『愛情萬歳』と台湾映画をいっぱい観たけどぜんぶイマイチだったな…。ツァイ・ミンリャン『愛情萬歳』はもう一度見たいかも。半分くらいまでほとんどセリフないのがめっちゃいい。

飛ばして5月13日。試写会で白石和彌監督の新作『凪待ち』をみた。すんごいおもしろい。月間ベスト級の映画ではあった。

香取くんの多面的表情ももちろんいいのだけど、恒松祐里がハンパないのよ。どれだけ彼女のよさを連ねてもその演技の前には無為と化してしまうだろうからひとつだけ挙げると、スポーン!と心に突き刺さる透き通った声が最高。今年これから5本も出演作が公開されるらしい。そして5本ともおもしろそうで目をつけてた映画。いやぁたのしみな女優さん。


映画『凪待ち』予告(30秒)

5月14日。先月ハマり散らかしていたテラスハウスの新シーズンがはじまった。舞台は再び東京へ。軽井沢ののんびり感とノスタルジー、自然風景が大好きだったから“街”を映すことが少ない東京にはわくわく感が減少するものの、前の東京編にもなかった「スピード感」という特徴が早速現れてきて楽しい。この家には遠慮を知らずずんずん壁を破る2人の男女と知らぬ間に相手の心に入り込むのがうまい2人の男女と、落ち着いた2人の男女が住んでいて、そのことが物事を加速させていると感じる。そうは言ってもある程度のところで一旦停止しそうですが。テラスハウスについて書く機会が与えられそうなので詳しくはそこで。

5月19日。『僕たちは希望という名の列車に乗った』という映画に打ちのめされた。冷戦下の東ドイツで教師と国に反抗した学生たちの話。政治性を多分に含みながらも青春ドラマとしてのできがとてもよくて、不勉強な自分でも心を掴まれてしまった。男2、女1+男1の主要4人の役者がとにかく巧い。自分を見つめるために「境界を超える」。逃げのない映画。悪いとこが見当たらないわ。今さらですが、『腐女子、うっかりゲイに告る』がとてもいいです。ロロの三浦さんが脚本を手がけるドラマ。セリフ一つひとつに配慮と愛と優しさがある。『カランコエの花』のつづきみたいな物語がテレビドラマとして放送されている尊さを称えないといけない。切実に、全人類に見てほしいです。

5月23日。『ウィーアーリトルゾンビーズ』を試写で。この映画に興味をもったなら、まずは監督の前作『そうして私たちはプールに金魚を、』をご覧ください(以下公式)。20数分のさくっと短編です。おもしろすぎてゲロ吐くんじゃないかな。最新作はその短編を長編映画にしましたって感じで正直微妙だ。セリフも短編のほうがよっぽど「生きてる」。「ゲーム映画」としてみると近作の『ブラック・ミラー:バンダースナッチ』の数百倍好きだけど。vimeo.com

Juice=Juiceとモー娘の新譜を続けざまに聞いて、よすぎて耳が溶けた。とりわけ『「ひとりで生きられそう」ってそれってねえ、褒めているの?』というヤバいタイトルのJuice=Juice新譜にやられた。ジュースもつばきもモーニングもアンジュもちょっとずつ気になってるからソロコンに行って存分に楽しむ自信はないのだよなぁ。兵庫においてきたハロー好きの親友が東京に来てくれるのを待つか。


Juice=Juice『「ひとりで生きられそう」って それってねえ、褒めているの?』(Promotion Edit)


モーニング娘。'19『青春Night』(Morning Musume。'19 [The Youthful Night])(Promotion Edit)

『映画術 その演出はなぜ心をつかむのか』という本を図書館で借りて読んでいて、視界がひらけすぎて楽しい。映画監督の塩田明彦氏が、映画にある「動線」や「顔」「視線と表情」といった演出にスポットを当て、そういった「ストーリーの裏に存在する映画的技法によって生み出される映画の“豊かさ”」を説いていく本。こんな本に出会うのをずっと待ち望んでいたのだよ。映画ってのはやっぱりめちゃくちゃおもしろくて奥が深く、より多層的な視座を手に入れたような気持ちになってうれしい。この本をもとにして塩田監督の最新作『さよならくちびる』(これについては6月のカルチャー日記に持ち越しますが、傑作です!!)の評を書きました。塩田先生の授業を受けたあとにレポート書きましたって感じでおもしろかった。

 

お金がないから本を読む月間にしようと意気込んだものの読んだのは『桐島、部活やめるってよ』『愛がなんだ』『映画術〜』『夫のちんぽが入らない』の4冊だけ。3年前くらいからオールタイムベストに掲げている『桐島〜』の小説版をまだ読んでなかったことに今さら気づき驚いたけど、やっぱりおもしろかった。スクールカースト上位の人は自分を上だと誇示しない!と友だちは言い張っていたけど、そんなの人それぞれだし、菊池みたいなやつは絶対いると思う。ていうか朝井リョウが菊池なのか。風助と前田くんと菊池にちょうど3分の1ずつくらい共感した。映画の感想もそろそろちゃんと書いてみたいな。

桐島、部活やめるってよ (集英社文庫)

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夫のちんぽが入らない (講談社文庫)

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愛がなんだ (角川文庫)

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境界線を溶かす「音楽」という魔法ーー映画『さよならくちびる』で反復される“不在”と“存在”の意味

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「一緒に音楽やらない?」

そういきなり声をかけるハルと、彼女がつくったカレーを食べて涙を流すレオ。あるいは楽屋の椅子を蹴っ飛ばすシマまで。本作が特異的なのは、常に「行動」が先立っていることだ。彼女たち3人の性格や人物背景、生い立ちを知らせることなく、すべてを「行動」によって物語っていくという方法をとっていること。人物の性格や感情を事細かに言葉で説明してしまう作劇がある一方で、このように「行動」が先行する映画は、われわれ観客の心が入り込む“スキ”に満ちた映画として、人を選びながらも刺さる人にはとことん刺さってしまうものになりうる。そんな大きな可能性を秘めつつ、加えて本作は、「バカみたいでなにが悪い」とレオが度々発するように、「感情」に身をまかせて「行動」することをハルをはじめとした彼女たち3人が徐々に肯定していく映画であるからこそ、非常に効果的にこの演出が機能していると言えるだろう。それはいったいどういうことか。“不在”と“存在”の反復的所作、あるいは「感情」と「音楽」が境界を徐々に溶かしていく物語として、映画『さよならくちびる』を見てみる。

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消えていた境界がある日突然、目の前に現れる

厚さは異なれど、人と人の間には必ず「境界」というものがある。そして映画はときに、それを超えたり超えなかったり、「超えてはいけない一線」を視覚的に表現したりして、その両側に立つ人びとの機微を描いてきた*1。では、本作において境界はどのように描かれているのか。


最も印象深くその“超えられない一線”が現前したのは、コインランドリーの駐車場でのシーン。コンクリートに小さなスコップを打ちつけるレオという名の女の子に、ハルは気になって声をかけてみるのだけど、「お父さんは好き?」と何気ない質問を投げかけたあと、彼女たちはどうなってしまったか。駐車場に引かれた白線もかなり示唆的だが、そこではハルと女の子(あるいはハルとレオ)の間にある「超えられない一線」の存在が浮き彫りになる。この場面においてハルは2度タバコを吸おうとして結局やめるという細かな動きを見せているのだけど、思い返してみると同じような場面が過去に存在していたことに気づくかもしれない。


それはハルがレオにはじめて声をかけたあの時。「一緒に音楽やらない?」と言って、返事がなくて、吸いかけたタバコを箱に戻し、「やっぱ忘れて」と去っていくあのシーンが、まったく似たような構造で撮られているのだ。あぁふたりの間には超えられない一線があるのだなと、そう思ったのもつかの間、しかし次の場面ではハルの家でレオとギターの練習をはじめているふたりの姿が映しだされる。


みんなが絶賛する本作の映画的「省略」。それについてはいろいろな場面を挙げられるのだろうけど、僕はこのシーンの「省略」に激しく胸を打たれてしまった。あんな出会い方をしておきながら、はじめて会話をする、であるとか、部屋の敷居をまたぐ、といったような越境行為を描かずして、まるで境界など初めから存在していなかったかのようにそこに“いる”ふたりを描写してみせる。越境のアイコンみたいなカレーという食べ物が出てくるのはもはや言うまでもない感じのあれなのだけど、そこで涙を流してハルに頭を預けるレオを見ていると、「もうここで終わっていいんじゃないの?」という気分にすらなる。だって境界はもう超えているんだもの。同じようにしてシマも突然ふたりの前に姿を現すことになるわけだが、この3人の出会いから拳を高く突き上げたあの瞬間までを見て、境界線なんか無いなと安心してしまうのはやっぱり違う。なぜならこの映画は、その境界を「省略」していたに過ぎないから。子供時代のレオに出会ったかのようにも受け取れるコインランドリーのあの場面のように、ある日突然、「超えられない一線」は目の前に姿をあらわすことになる。

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“不在”と“存在”の反復によって境界は曖昧に、そして「音楽」と「感情」が境界を溶かしていく

そうして、超えられない一線があったりなかったりするのに加え、「行動」のなかでも“不在”と“存在”の繰り返しが際立つ本作。レオはすぐに男についていき、ハルも途中で一瞬姿を消す。ライブ会場で欠けたひとりを待つシーンが2度挿入されたり、車から消えたと思ったら突然戻ってきたりするなど、そうした行動の反復がある種、この映画の原動力になっているのは間違いない。ではこの反復が何を表そうとしているのかと言えば、それは境界の“曖昧さ”なのだろうと思う。いつでも出ていけるのと同じく、いつでも戻ってこれる。車内禁煙、車内飲食禁止、そしてユニット内恋愛禁止。そうやって線(不在)を引きながらも、すぐに破ってみせる(存在する)彼女たちの姿をみると、きれいな三角形をした恋愛のイザコザも、もはやどうでもいいように思えてくる。キスだって、簡単にできてしまうんだ。

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それでも境界は曖昧になっているだけで、やはり完全に消えることはない。境界を取っ払う決め手となるもの。本作が「音楽映画」として素晴らしいのは、ここに「音楽」という飛び道具を使用できたことだ。こぼれ落ちそうになる言葉とメロディを拾い上げて歌を紡いだ“ハルレオ”の音楽は、同じ想いを抱えるリスナーの心に届いていく。彼女たちには歌を歌う理由があって、それは聴き手である私たちが生きる理由とも相似形を成しているのだと、気づかせてくれる。そして歌い手と聴き手の間にある境界は、一瞬で溶けていく。

誰にだって訳があって
今を生きて
私にだって訳があって
こんな歌を歌う
全部わかって欲しい訳じゃないけどさ
そういう事だって 言いたいだけ

ーー「誰にだって訳がある」

ハルレオの奏でる音楽を、ひとつのイヤホンで大事に大事に受け止めるガールとガール。あの名もなき少女たちの存在は、言うまでもなく本作の重要な位置を占めるもの。レオにサインを書いてもらう時間が「省略」されているのは、彼女たちとの“音楽での交流”が、ハルレオと彼女たちとの強い連帯感をつくりあげてきたことを強調するためだろう。音楽には何もかもを超える力がある。そしてそれは、会場にいるファンが大熱唱することによって、ハルレオにも跳ね返ってきた。

この歌はどこへも届かない
きっと 空に消えていくだけ

さよならくちびる
それでも まだ 君に 心が叫ぶの 離れたくないよと
さよならくちびる
あふれそうな言葉を 慌てて たばこに火をつけ 塞いだ

ーー「さよならくちびる」

一度さよならをしても、また戻ってくることはできる。「感情」の赴くまま、音楽を奏で、歌を歌い、行動すること。またスタート地点に戻っただけで、これからいろんな苦労が待ち受けているかもしれないけれど、それでも私たちには音楽がある。そんな連帯感に包まれた清々しいラストカットが、きっとスクリーン越しに観客の心へと届くことだろう。

退屈な日々がこんなにも
激しく回ってる 旅はまだ続く
根拠もない 足跡もない
紡いだ言葉もそれほどないけれど
進んで行こう きっとこの先も
嵐は必ず来るが大丈夫さ

ーー「たちまち嵐」

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三役の見事なアンサンブル

余談。この映画を語るうえで、トライアングルを形成した門脇麦小松菜奈成田凌の演技のことを無視することはできない。ここ2年で3度も共演映画がある門脇麦成田凌の信頼関係によるところなのか、徐々に髪が短くなっていく小松菜奈の神々しさによるところなのか、あるいは「行動」から「感情」を透かす魅力的な演出のおかげなのか、とにかくとってもいいんだ。笑顔から一転、カレーを食べて涙する小松菜奈とか、キスを拒む成田凌のエロい身のこなしとか、2ミリくらいの目と口元の変化だけで感情を表現する門脇麦の演技とか、ずっと何かすごいものを見せられている感じがする映画だ。なんとなく記憶に残っててDVDを買ったとしたら必ずリピートするだろうなと思うシーンがあって、それは大阪・天満のレコード屋の場面なのだけど。バックに流れる音楽を含め、まるで歌みたいなシークエンスだなと無性に感じた。セリフ一つひとつが軽やかで、とてもきれいに撮られている。店を出たあと小松菜奈が大げさな動きを見せるとこも含め、たぶん何度か見返すだろうな。いやぁ、おもしろかったなぁ。

 


【公式】『さよならくちびる』5.31(金)公開/本予告

 

*1:ここまでは塩田明彦監督著『映画術 その演出はなぜ心をつかむのか』の完全なる受け売りなのですが…

カルチャーをむさぼり食らう(2019年4月号)

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日記「カルチャーをむさぼり食らう」第2回です。3月に摂取したカルチャーの濃密さに比べるとどうしても薄いな今月は。というのも、4月はほとんど『テラスハウス』に支配されたひと月だったから。中学生か高校生の時にやってたファーストシーズンはテレビで姉と母と楽しく見ていたのを覚えてるけど、嘘くさい感覚を覚えてその後のシーズンは見ていなかったテラスハウス。しかし軽井沢に旅行で行く予定があったので軽井沢編を見てみると、これほどおもしろいエンターテイメントがこの世にあるのか!というほどに熱狂してしまったのだ。何にかはわからないけど、お恥ずかしい気持ちでいっぱい。触発されて無性に恋をしたくなっていたりもする。そんな4月。そんなにおもしろくなかった映画の話は排除して、ほぼテラスハウスに関する論考を記すカルチャー日記となることでしょう。

 


4月5日。仕事終わりにポレポレで『グッドバイ』をみる。とても抽象的な映画で、映画誌「NOBODY」のライター・結城秀勇さんと監督とのアフタートークがなければなんにも理解できていなかったと思う。少し油断するとレッテル貼りにもなりかねない「言葉」の暴力性と鋭利さを改めて実感し、それと対比的に、境界の曖昧さを表出することができる「映像」の雄弁さに見惚れた。どれだけ言葉を重ねても、現実と映像の強固さには敵いようのない気がした。

filmarks.com


4月7日。玉田企画『かえるバード』を観劇。前作の『バカンス』、映画版の『あの日々の話』を先に見ていたので、特有の「気まずさ」を描写する作風に慣れていたしそれを求めてもいたのだけど、本作がその2作とは全く違う様相で驚いた。「今までとは違うスタイルに挑戦したかった」とはアフタートークで玉田さん自身が話していたが、「気まずい」という言葉をセリフの中に出すメタ的な演出や、舞台上の2つの場所とそれを隔てる道の大きな存在感が印象的だった。玉田企画の演劇はいつも台本が完成するのが本番の数時間前とのことで、役者が噛み噛みだったり妙な緊張感で覆われているのはアリなのかナシなのか。いい方に働くことはない気がするのだけど。

昨年くらいからずっと見ていたカルチャー番組『ぷらすと』が終わってしまうとのこと。(6月からアクトビラで再開するらしい。)尊敬する映画ライターである宇野維正と松崎健夫を知ったのはこの番組からなんだよな。『アフロの変』とか変なカルチャー番組を昔から好んで見ていたなぁと思い出す。

このあたりからテラスハウスを見はじめて、寝ても覚めてもそのことで頭がいっぱいだった。テラスハウスがなぜこんなにもおもしろいのかと必死に考えたのだけど、それは人が恋する瞬間とか怒る瞬間とか泣く瞬間とか、理性の飛んでしまう一瞬が映ってしまっているからなのだと思う。カメラがそこかしこに設置されている家に住んでいるのだから、聖南さんのように自分の写り方を気にすることや裏でコソコソと秘密のやりとりを交わしてるなどは当然あってもおかしくないこと。しかしそうして気を張っていても、生きていると理性を失ってしまう一瞬というのが必ずあって、そうした表情や行動がカメラに映ってあらわになってしまうからこそこの生活ドキュメンタリーはおもしろいのだ。ドキュメンタリーには人が恋する瞬間は写すことができないからと、物語を用いて映画を撮ることに挑んだ三宅唱監督(『きみの鳥はうたえる』)https://www.cinra.net/interview/201903-miyakesho/amp?__twitter_impression=true。いやいや、もう映像カルチャーは、そんな瞬間さえも収めることに成功してしまっているのだよ。「物語」の必要性さえもが脅かされるとんでもないカルチャーだと思う。おもしろすぎて怖い。

この勢いのままに軽井沢へと旅行に行き、カルテットのロケ地とテラスハウスの家(おそらく)を訪れ、冴沙で温かい天ぷらそばを食べて富男も拝んできた。別になにか特別に訪れるべき場所があるわけではないのだけど、無性に惹きつけられ、中毒性のある街。きっとまた2、3度足を運ぶことになると思う。

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カネコアヤノの新譜「愛のままを/セゾン」がとてもいい。昨年の『祝祭』がそうだったように、春の高揚感と気だるさを共にするにはぴったりの楽曲だと思う。昨年末のカウントダウンジャパンから、バンドセットではなく弾き語りのライブをずっと見たいと思ってる。

愛のままを/セゾン

愛のままを/セゾン

 

 

7年前くらいから応援しているサッカーチームのトッテナム・ホットスパーがCLのベスト4に進出した。知ってます、このチーム?知らなくて当然ですよ、そんなお金持ちの強豪チームじゃないんで。だからこそヨーロッパで4本の指に入っている特別さが浮き立ってくるというもの。ああ、もう一度ロンドンに行きたい。

4月20日。中国の青春映画『芳華Youth』を見た。コンディションが悪く最初の30分くらい寝てしまったものの、そこから90分の映画だったみたいにしっかり楽しむことに成功した。純白と鮮やかすぎる赤。『チワワちゃん』にも共通するその色の組み合わせは、青春色として深く心に刻み込まれた。

リアルサウンド映画部にて『俺のスカート、どこ行った?』の毎話レビューを担当しています。1話目はすごいおもしろかったけど、2話目は特に…って感じ。教師陣のキャラが濃く、生徒は無名俳優ばかりなので(無名俳優が出演する学園ドラマはだいたいおもしろくなる)今後が楽しみ。

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4月21日。今泉力哉監督作『愛がなんだ』をみる。昨年の10月に東京国際映画祭で見ていたので2回目だったけど、その時より共感度が高くなっていて身につまされながらもすんごく楽しんでみてしまった。角田光代の原作小説を読んでから後日3度目を観に行って、感想文とテルコという人物についての考察を書きました。今まで書いてきたなかで最も自信のある文かもしれない。というか、『勝手にふるえてろ』のヨシカとか『パンバス』の市井ふみとか、あるいは『怒り』の田中や『あいのり』のでっぱりんなど、ひとりの人物に迫って論考を記すことが好きみたいだ。

こういう一番嬉しいことも言ってもらえるし、今泉監督の次作『アイネクライネナハトムジーク』はリアルサウンドでレビュー書けるようになんかがんばろう。

 

4月22-24日は旅行記事の仕事で日本最北端の地へ飛んでいた。前を向く決心のつく有意義な時間だった。f:id:bsk00kw20-kohei:20190504013847j:image
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4月27日。『アベンジャーズ/エンドゲーム』を見た日。これほどネタバラシ感想を避ける必要があると、レビューを書き忘れてしまって終いには何が良かったか忘れてしまうのだよな。そうだからいつもすぐにレビューを書いているのだけれど。でも11年の戦いに終止符が打たれたのだから、それはそれは衝撃的な作品でしたよ。ヒーローにも生命が息づいていて、そうした生活描写の細かさに胸がえぐられました。

 

4月はテラスハウスと愛がなんだで満たされた、表層的には何もない月だった。海外旅行したい。

 

山田テルコはひとり静かに越境するーー映画『愛がなんだ』におけるアシ(足)をなくしたテルコについて

 

「山田さん、うちくる?」

マモちゃんはそうキラーワードを放って颯爽とタクシーに乗り込み、「世田谷代田まで」と運転手に告げる。そして窓越しにおいでおいでのサインを受けたテルコは、エサに飛びつく犬のようにタクシーへと吸い込まれていく。

呼び出された瞬間からまるでマモちゃんの家へと終着することが運命付けられていたかのようなテルコの自然な身の運び。同じように、呼び出されて追い出される冒頭シーンにおいても、缶ビールというエンジンを手にして夜の街を歩きながら、その道の果てしなさに滅入ったテルコはついに葉子へと電話をかけ、葉子の指示どおりに高井戸方面へとタクシーを向かわせる。このようにして他人に依存しながら移動するテルコの姿はある種、自我が欠落しているようにすら映る。そう、山田テルコという女性は常に自らのコンパスを見失い、“アシ(足)がない”存在として描かれているのだ。彼女はいつまでも、ひとりでに歩き出すということに意味を見出すことができない*1

 

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それを最も示唆するのは、ポスターに使用されているこのジャケット画像のふたりの姿だろう。このポスター画像の裏話については舞台挨拶などでも度々語られているようだが、僕が聞いたアフタートークでは、編集段階でうまくハマらなくなって不採用になってしまった場面なのだと今泉監督が明かしていた。結婚式のパーティで知り合った夜に、ヒールが折れて歩けなくなったテルコをマモちゃんがおんぶするという場面を実際に撮っていたのだという。要するにあの夜からテルコはアシをなくし、マモちゃんに身を委ねることを決めてしまったのである。


すべてを飲み込んでしまうテルコが徐々に言葉を吐き始める

マモちゃんという迷路に迷い込んでしまったテルコは一度たりとも彼への不満を漏らすことなく、反対に、“すべてを飲み込んでしまう”存在として克明に描写されていく。それは、単に言葉を飲み込む*2という意味だけでなく、文字どうり食べ物や飲み物を飲み込む飲食シーンの多さにこそ現れているだろう。例えば、同僚の女性に「いまどき男でクビって」と言われたあとに「そうだよねぇ」とヘラヘラしながら答えてビールをゴクリと流し込んだり、年越しは餃子がいいと言った本人だけがなぜかいない場所で、日本酒と餃子を交互に口に入れたり、「(マモちゃんは)結局自分系じゃん?」とすみれに言われたあとそれでいいのだと言わんばかりにパスタを吸い込む場面などに刻み込まれている。マモちゃんがいるいない以前の問題にも思えるが、とにかく悲しいことにテルコは、目の前にある現実を飲み込むことをシいられてしまっているのだ。

 

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そうして成されるがままに身を運び、すべてを飲み込んでしまっていると、テルコ(や鏡像関係にある仲原)の望む現状維持という目標にも暗雲が立ちこめるように。いつのまにかマモちゃんにはすみれさんという好きな人ができていて、仲原は葉子との関係に見切りをつけてしまっている。そうするとダンマリを決め込んでいるわけにはいかなくなり、この理想と現実との歪みを受けて、テルコはついに心のうちにあった言葉を吐き始めるのだ。

「幸せになりたいっすね!」と言う仲原には「うっせぇバーカ!」と語気を荒げ*3、葉子にはあなたがやっていることは父親と同じことだという、おそらく一番葉子にとっては辛いだろう(しかし的を得た)批判を浴びせる。その言葉は葉子を経由しながらも、結局マモちゃんを通してテルコへと伝えられることになるのだから、これほど皮肉的なことはないだろう。「俺たちちゃんとしよう」と、体調を崩して思考回路が鈍ったテルコにそんなパンチが打ち込まれる。そこで用意されるのは、重ったるい味噌煮込みうどんなどではなくやさしい味の醤油煮込みうどんであるから、やはりテルコは飲み込まざるを得ない状況に陥ってしまうのだが。ここに来てようやく彼女は気づいたのではないだろうか。マモちゃんのいない人生など想像することができないと。失ってなるものかと。だから必死で未来へとつながる言葉を取り繕って、どうか飲み込んでくれとマモちゃんには多い方のお茶を手渡す。その目論見がどうやら成功したらしいということは、お茶を飲み込み、うどんを一口すするマモちゃんの姿にこそ表れているのだろう。

「そうまでしてマモちゃんにくっついていたいの?」と自問自答して「そうだよ」と自信を持って答える姿に、もはや過去の自我の欠如したテルコの面影は見当たらない。オリの向こう側へとひとり静かに越境し、象にバナナをやっているラストシーン。もう、オリのこちら側へと戻ることはできないということを示唆しつつも、その佇まいはこれ以上ない自身で満ち溢れている。テルコの想いは今もまだ、マモちゃんへと注がれ続けているのだ。

 

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*1:すみれのことをラップ調でディスったあとにマモちゃんの言葉が蘇ってくる場面や、朝早く起こされて土鍋を抱えている場面など、行き場を失って立ちすくんでしまう姿もとても印象的。

*2:テルコの心のうちを表すナレーションの多さも今泉作品では珍しく感じる。33歳になったら会社辞めて飼育員になると言ったマモちゃんに、テルコは泣き、理由は告げない。

*3:鏡像関係にある仲原は別れ際に唾を吐く。