縞馬は青い

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映画とか、好きなもの

赤い風船=関水渚がもたらす映画の奇跡/石井裕也『町田くんの世界』

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いつになく感情的なレビューになります。好きすぎて好きすぎて、どうにかなっちゃうんじゃないかってくらい好きな映画だ。この作品を構成するすべての要素が好きだから、この感想だけですべてを補えそうにはない。特に好きだった、「ファンタジーがもたらす奇跡」というストーリー面の快感と、「細田佳央太・関水渚の愛おしすぎる身体=演技」について、クロスオーバーさせながら書いていこうと思う。もうこの時点で好きが溢れすぎて、何回も好きって言っちゃっている。


ファンタジーがつくりだすパワーの凄まじさを考える。もしかしたら僕は、ディズニーやピクサーのアニメーションを見逃すことによって大切なものを受け取り損ねてきたのかもしれないとか。『町田くんの世界』では、まるで小さい頃に読んだ絵本のように美しい世界が広がり、登場人物たちはみんな光輝いていて、映画的で劇的な奇跡が最後に彼らを包み込む。たまらなく愛おしい物語だ。これほどまでに映画の奇跡を実感したことは、今までになかった。

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全人類を家族だと思っている、そんな神のような善人・町田くん(細田佳央太)が、たったひとつしかない“恋”の存在にはじめて触れる瞬間。冒頭の保健室での出会いの場面からしてもうパーフェクトに心を掴まれてしまうのだ。「高校」「保健室」「密室に男女ふたり」という特別な状況下であっても、「普通(現実世界)ならば何も起きない」だろうことが、「特別なことが起きうるかもしれない(ファンタジーが現実にも起きうる)」とこの映画は常に訴え続けていると思う。保健室で男女ふたりきりになっても、リアルならば恋に発展することはまぁないかもしれない。しかしここは「高校だから(映画だから)」そういうことが起きるかもしれない。

カーテンの隙間から町田くんの存在を認識した猪原さん(関水渚)は、思わずそのカーテンで遮られた部屋を踏み出て、出血したまま硬直している町田くんの看病にあたる。この、同じ部屋にいながらも絶妙な距離にあった(しかもカーテンという境界があった)ふたりが急接近するという描写。そうした演出的な緊張感の創出に、まずはどきりとする。日々何10人という人を助け、心を潤してきたのだろう町田くんだけれど、このふたりにおいて最初に助けられることになるのは猪原さんではなく、町田くんだった。保健室から出ていった猪原さんを町田くんはむやみに追いかけ、ちょっと怖がられてることくらいわかりそうだけど追いかけ続け、「ありがとう」と伝える。もう、好きになってしまっている。ファーストコンタクトから、町田くんは猪原さんのことを特別な存在として認識するようになっているのだ。同じく猪原さんも、その帰りに河原で奇妙な夢を見る。少年が手放した赤い風船を追いかけ、宙に浮かぶ町田くんの姿。赤い風船とはもちろん、直前の場面で追いかけっこを繰り広げた猪原さんへとリンクするもの。ファーストコンタクトにして、好き同士は成立してしまっている。だから観客である僕は、ふたりの愛おしさを想い、冒頭から好きが溢れ出てしまうのだ。この映画には「好き」という感情とその本質にある「愛」が溢れかえっている。

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彼らの愛を阻むのが町田くんの「人類愛の強さ」であるというのがとても厄介だ。どれだけ町田くんのことを好きになっても、町田くんは違う人のこと“も”好きだから、なかなか思うようにはいかない。町田くんにしても、特別な存在に対して「特別な態度」をとることができなくてムズムズしている。細田佳央太と関水渚のすばらしいところは、この心情をあらわす“身体のバタつき”が異様に美しいことである。なぜだかうまくいかないことに2人とも心を乱され、身体が勝手に動き出す。光がさす夜の河原での対峙、プールサイドで「どんな人が好きなの?」と問われたときの関水渚の動き、貧乏ゆすり、河原での追いかけっこ長回し。ふたりの顔は常に百面相をしていて、極めていびつ。動きはとても大げさに見えるかもしれないが、そのぶん彼らは「言葉を発することができていない」。ジタバタと動くことでしか、その複雑な心情を表現することができないのである。

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「普通(現実世界)ならば何も起きない」だろうことが、「特別なことが起きうるかもしれない(ファンタジーが現実にも起きうる)」とこの映画は常に訴え続けている。

この硬直した状態を助けてくれるのは、町田くんが日々救ってきた人々の愛。みんなからの愛を受けて、飛び立ちそうになる猪原さんを追いかけることを決めながらも、自転車が倒れてしまったり、少年が風船を手放す瞬間に出会ってしまうなど、とことん間が悪い。誰かを救おうとすれば、他の誰かをないがしろにしてしまう可能性があるというのは、池松壮亮が言う現実の姿だ。困っている人を助けていたら、大事な時間に遅れてしまった。あるいは大事な時間に遅れてしまうから、困っている人のことを見過ごす。そんな現実に対してこの映画が示すのは、ファンタジーという奇跡だった。風船をつかむことで町田くんはまるでスーパーマンのように空を飛び、猪原さんを捕まえることに成功する。わたしたち観客は、映画という奇跡が世界を救う瞬間を垣間見ることになる。町田くんも、町田くんの世界も、この世には存在しないファンタジーかもしれない。しかしそれでも、わたしたち観客には町田くんの姿が「見えている」。“見えている”というのは予想以上に重要なことで、わたしたちの「想像力」を助けてくれるもの。ファンタジーがリアルへと侵食しうる希望を、町田くんはわたしたちに与えてくれたのだ。

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