縞馬は青い

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映画とか、好きなもの

『クワイエット・プレイス』との対比に見る「家族の生と死」/グザヴィエ・ルグラン『ジュリアン』

2019.1.26 シネマカリテ

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サスペリア』を鑑賞するにはまだ心の準備が足りないので、とりあえず気になっていたこちらを先に観た。それが、家族映画だと思っていたらとんでもホラー映画だったという、サスペリアよりも怖い可能性がある映画『ジュリアン』。ここでは、思いきって昨年のホラー映画『クワイエット・プレイス』と対比し、両作の類似点*1から「現代家族の生と死」について考えてみたい。


怪物

両作を「ホラー映画」という同じくくりに落とし込みたくなるのは、なんだってどちらにも「怪物」がいるからだ。本気で命を狙いにくる、ただただ害悪な存在の怪物が。言うまでもなくそれは、『クワイエット〜』では“音”に反応して人を襲うあのケダモノのことで、『ジュリアン』では家を襲撃する父親のことを指している*2。予告編なんかを見ていると『ジュリアン』は法廷劇とミステリーで物語を進め、最終的には『クレイマークレイマー』的な落としをするのかなとか安易に想像してたんだけど、最初の数分で(幽霊とかではなく人間の怖さを描く)ホラーだと気づいてしまってからは恐怖しかなかった。怪物は家族の外からやってくるのではなく、中にいるのだという表象は、極めて現代的な家族の描き方だ。加えておもしろいのは、外からの崩壊を描く『クワイエット〜』においても、父親は従来の「ヒーローとしての父親」としては描かれていない点にある。

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父親

クワイエット〜』において父親は、怪物に襲われそうになる子どもたちをかばい、囮となることで名誉の死を遂げる。しかし感動的ではありながらも本当にあの死が必要だったのかと問われると疑問符が浮かぶし、冒頭から息子をあっさりと失ってしまっている点や何せ途中で消えてしまっている点において、彼は前時代の家族映画で描かれてきた“家族を守り続けるヒーロー”としての父親にはなれなかった。要するに父親というのはもはやそういう存在ではないということだ。『ジュリアン』が、父親を家族との関係の中でしか描いていないことにも注目したい。どんな仕事をしていて、どんな友達がいるのか、という彼の周辺がまったく描かれていかないということ。途中、両親にも見放されてしまうという点で同情を一瞬買うものの、やっぱり彼はこの映画では“怪物”としてしか描かれていない。そんな彼の暴走を見ていくなかで私たちは「父親(=父権的な家族)の死」に直面することになる。一方で生き残るのは、母親と子どもが共闘する家族だった。

 

浴槽

追い詰められて、追い詰められて、最後にたどり着く浴槽。『クワイエット〜』では身ごもった母親が赤ちゃんを守りきり、『ジュリアン』ではジュリアンの耳を必死に塞いで父親がいなくなるのを息を殺して待ち続ける。この浴槽というのはまるで、母親の胎内のような「生」と「愛」で満ち溢れた場所として描かれている。「家族の生と死」、もっと詳しく書くと、「父権家族の死」とそれでも生きていく「家族の愛と生」。

愛をもって、怪物は絶たれる。これが現代家族の生と死。

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*1:早稲田松竹あたりの名画座で同時上映されそうなくらい、意外とヴィジュアルもストーリーもかなり似てた。

*2:ラクション、シートベルトの警告音、怒鳴り声、ドアをきつく締める音、チャイム、発砲などなど…こちらの“音”も強烈にトラウマを生む、家族ホラーを作り上げる重要なファクター。