縞馬は青い

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ラムネのビー玉に宇宙を重ねた夜/是枝裕和『万引き家族』

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なんとも釈然としない映画だ。いや、そんなことは観る前からわかってたことだけど、なんというか、打ちのめされた!って感じ。泣いていいのか怒っていいのか、はたまた笑っていいのかわからないこの感じ。どれもが正しい感情なんだろうけど。うん。カンヌをとったから、といってこの映画の評価を押し上げようとはしたくないけど、やっぱりカンヌを取るにはとるだけの理由があるのだ。是枝裕和は一歩、あゆみを進めたんだ。そして私たちもまた、その世界を知り、歩きだすことができる。是枝監督に連れられて。

何から語ればいいだろう。いきなり本題に入るようだけど、なぜ彼らは家族になれたのか、あるいはなれなかったのかということについてはしっかり考えなくてはいけない。鑑賞中、「あれ?結局この人とこの人はどうゆう関係なんだっけ?」とか無意味に考えて、結局「まぁそんなことどうでもいっか」と諦めてしまったのは僕だけじゃないはず。『そして父になる』が、血縁あるなしに関わらずどれだけ親が子に愛情を注げるか(その“努力”を惜しまないか)を問うた作品であったからこそ、本作においても、まぁ家族としてやってるっぽいし静かに見守ろう、という気にさせてくれるのだ。是枝監督による「家族とは何か」教育のたまものなわけです。

この映画を観る人は僕と同じように是枝監督による「家族とは何か」教育を受けてきた人が大半であることは予想できるけど、聴衆の中には、家族とは血縁だ、と信じる人もまだいらっしゃるでしょう。それは明治時代からこの国が「血縁主義」を貫徹してきたからであって、そうゆう人がいるのも当然のこと。でも、家族というある種概念化された言葉を使わずとも、彼らが、「似た者同士の集まった生活共同体」であるということはみんながすぐに感じることだと思います。

特に、治(リリー)と信代(安藤サクラ)が、ゆり(=りん)を家に返しに行った際のシークエンスなんかはすごく印象的。信代は返す気満々で家に向かったものの、ゆりの母親による「産みたくて産んだわけじゃない」という言葉が響きわたる。そのことによって信代は、ゆりを強く抱きしめながら愕然としゃがみこんでしまうのだ。この映画の書き下ろし小説を読むと、このときの彼女の感情はゆりへの愛おしさなんかではなく、幼い頃母に同じことを言われたことに対する憎しみだということが分かるけど、この瞬間、信代とゆりは(望むか望まざるかは別として)似た者同士として繋がることになる。

彼女らのヤケドの傷や、亜紀(松岡茉優)と4番さん(池松壮亮)の指の痛みなんかもこれに追随するものだが、演出としてもっとも示唆的なのは、柴田家が、亜紀以外みんな「おでこ」を出している点にある*1。この身体の照応。彼らは似た者同士であるから、過去の自分を放っておくことはできないし、家族になれるなれない以前に一緒にいるしかなかったのだ。

しかし、まともな愛情を受けて育ってこなかったのであろう治と信代は、親のなり方を知らず、「万引き」を教えるくらいしか、彼らのヒーローになる手段はなかった。冒頭の万引きシーン。そこには、共同作業での爽快感を感じるけれど、父親との思い出が万引きしかないなんて、やっぱりそれは悲しすぎるのだ。出来損ないの父親。是枝映画には父親になりきれない男がよく登場するが、『海よりもまだ深く』の良多(阿部寛)なんかもそのひとり。彼もゆすりのようなことをして飯を食っているダメな父親だったけど、治と異なるのは、息子に「宝くじ」という夢を教えてあげることができていたことだ。「叶わぬ夢」を追い続けることによる人生の豊かさをなんとか伝えようとしていた彼の姿は、出来損ないでありながらも愛おしかった。しかし治は、出来損ないの父親にすらなれない*2f:id:bsk00kw20-kohei:20180603182356j:image

過去の是枝作品と毛色が違うなと感じた人は多いと思うけど、その一番の理由は「ウェットさ」にあると僕は思う。どことなく濡れてて湿ってる感じ。コロッケをうどんやラーメンに浸したり、お麩とかおしることかみかんとか素麺とか、出てくる食事がことごとく汁物で、それ以外にも鈴のおねしょやお風呂での戯れ、海、雪だるまなど、どこか画面全体に湿っ気が漂いつづける。これはこの家族が「ドライではない」ということを表す一番の表象なんだと感じとりましたが、一番驚いたのは今までになく「性」を押し出してきたこと。これまでの作品で大々的に濡れ場というものを映してこなかった是枝監督が、ここに差し込んできたことには大きな意味があるでしょう。この映画のウェットなトーンはすべてここに繋がるんだな、と。この家族は放任という言葉を知らない。ドライではなくウェットだから。ただ、子育ての仕方を誰も教えてくれなかっただけで。

でも、それが何よりも重要なものだったからこそ、祥太の心はかき乱されていく。ときに、駄菓子屋店主の優しさや父親の弱さ、家族のかけがえのなさを知った祥太は、心がぐらつく夜に、ラムネの中で音を立てたビー玉に宇宙を見る。ラムネに閉じ込められたビー玉、そしてビー玉に眠る宇宙。これは、押入れの中で眠る、若くて無限の未来がある少年・祥太そのものだった。f:id:bsk00kw20-kohei:20180603182423j:image

近年の是枝作品と坂元裕二作品はテーマからキャスティングまで共鳴度が高すぎる。この冬放送された「anone」と本作を照らし合わせて直ぐにでも対談していただきたいものですが、その「anone」における最終話。中瀬古瑛太)がハリカ(広瀬すず)に対して「悲しいことを経験してきた人間は、この世界を恨む権利があるんだよ」と言った後のハリカのセリフが印象的だ。

誰も誰かを恨んだりなんかしてない。つらいからってつらい人がつらい人を傷つけるの、そんなの一番くだらない。バカみたい

と健やかに言いのけた。そのとおり。悲しくて辛いのはみんな同じだから、奪うことに意味なんてない。そう、意味なんてないことなんか治も分かってるはずなのに狂ってしまった歯車は回り続けていたのだ。そうして祥太は疑念を抱く、ぼくらは犯罪でしか繋がっていなかったのではないかと。f:id:bsk00kw20-kohei:20180603182702j:image

ラストシーン、バス。祥太が帽子をとり、うしろを振り返る。まだ追いかけてきているのか確かめる。本当に繋がっていたのかどうか、もう一度確認する。鈴ではなくじゅりに戻った彼女は、再び小さな世界に閉じ込められる。ビー玉を並べ「誰か」の存在を待つ。亜紀はホームに戻る。そこにたしかに存在していたはずの「愛」を探しに。

同じ夢を見る。そこにはたしかに「家族」が存在し、同じ息を吸い、同じ麺を食べ、同じお湯に浸かっていた。万引きだけじゃなくいっぱいの思い出がそこにはあって、そんな思い出はこれからも彼らの世界を照らし続ける。

そんな彼らは次の年の夏もまた、同じ空を見上げることだろう。あのときの空の輝きが、今も心を照らしているか、確かめるために。

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*1:亜紀に関しては出自の差ということにしときます。

*2:なれなくてもいい、と開き直ったほうがまだ幸福なのかもしれない。“おじさん”でも十分繋がれるから。