縞馬は青い

映画・ドラマ・漫画など気ままに。

ストロベリーミルクシェイクを飲み干して/リン・ラムジー『ビューティフル・デイ』

f:id:bsk00kw20-kohei:20180602112817j:image映像と音楽が響きまくる特異な映画。リン・ラムジーの演出はあれこれと想像したくなる余白に満ち、ジョニー・グリーンウッドの劇伴はセリフよりも雄弁に状況を物語る。この狂気と愛が混じりあった映画、それが『ビューティフル・デイ』。

f:id:bsk00kw20-kohei:20180602113143p:image

ジョーホアキン・フェニックス)とはどういう男だったのか?これは映画を観るだけでは断片的なことしか分からない。子どもの頃に父親からの虐待を受けていて、なにやら軍隊(FBI?)の活動に参画して子どもを助ける活動をし、現在は失踪した少女たちの救出を業務としていること。

Wikipediaのあらすじを見てみるとこれに関してはすごく詳しく書かれているけど、映画が語る情報だけで十分な気もします。要するにジョーは孤独で、いつ自死してもおかしくないくらいに不安定で、そして過去のトラウマから逃れられていないということ。

これは、リン・ラムジー監督の前作『少年は残酷な弓を射る』の主人公エヴァティルダ・スウィントン)とも似ているキャラクター造形だけど、一番の共通点は「過去のある出来事に縛りつけられ、克服できない」ところにある。最後には克服しようと試みるところまで。

車や電車が画面をバンバンと横切りながらも、画面の奥から手前へ(もしくは手前から奥へ)縦向きに移動することが多いジョー。あるいは上にいくエレベーターを無視して階段をのぼる彼のすがた。この「流れに乗れない」男は、幾度となく自殺を試み、人生を諦めようとする。

しかし、死ぬことさえも簡単ではなかった。そんなジョーの仕事は失踪した女児を救出すること。これには、父親からのDVを受けていた自分に似た「社会から阻害された子ども」という存在を救出してあげたい(=そのことによって過去のトラウマから解放されたい)という思いが垣間見える。しかしいくら救出を実行しても、まったく彼の心は救われなかった。そればかりか、軍人時代(WikiにはFBIとある)に経験した、救えなかった多くの人の姿すらも何度もフラッシュバックしてくる。このことによって、肉体は男らしくも本質的には誰も救えない存在であることが強調される。そんな折に現れたのが、ジョーの子ども時代によく似た、いわば“相似形の天使”ニーナだった。

似ている部分といえばその真っ白な肌が大人によって傷つけられていること、また、「カウントダウン」をして何かを待っていることだ。そのジョーとニーナは、すぐに心を通わせていく。f:id:bsk00kw20-kohei:20180602113433j:image

ニーナがホテルで連れ去られる刹那に「ジョー!」と叫んだシーンも印象的であったが、取り上げたいのは、ニーナがおしっこをしているところを車の中ではなく、ちょっと離れたところでジョーが見守っていたシーン。このシーンを僕は、処女喪失=血のイメージと対比させているのではないかと思ったのです。血ではなく(少し濁った)水で繋がるふたり。これはコトが終わるのをジョーが車の中で待っていたなら、空間が分断されて成立していなかったこと。

そしてこの場面を契機にすると、この映画が「血」と「濁った水」というコントラストを要所で使っていることに気づきはじめる。それは例えば、ジョーがナイフを口の中に入れようとした場面。その場面において母親から名前を呼ばれた彼は、やろうとしていたことを中断され洗面所に向かうことになります。そこで彼がしたのは、水浸しになった床をバスタオルで拭くという行為でした。この、「自殺」と「掃除」という相反する行動。母親とジョーもまた、血ではなく濁った水で繋がった関係。

もう一場面。それは母親が殺されているのを確認し、階下にいた男たちを銃で武装したジョーが襲うシークエンス。そこでジョーは母親を殺されたことによって怒りを爆発させるも、撃たれて苦しむ男、しかも家庭の存在やなにか背景を感じさせるその男に鎮痛剤のようなものを「ウイスキーの水割り」で飲ませました。その後一緒に歌を歌い、手を握って息絶えるまでの一連の流れ。ここに僕は得も言われぬ感情を抱いたわけですが、このふたりもまた、血ではなく濁った水で繋がることになった相似形の存在でした。

すべてを失ったジョーは母親を弔うために湖に向かうわけだけど、この場面でも「血」と「濁った水」の対比を感じることができる。ジョーは母親とともに水の中へ、まぁ一緒に死のうと試みるわけですがその瞬間、「カウントダウン」の声が“ふたつ”重なった。ジョーのカウントダウンは、それが終わることによる生からの解放を目指すもの、しかし彼は、もうひとりこの世界に自分と同じ存在がいて、その子はカウントダウンが終わった後に誰かが自分を助けてくれると信じて待っているということを再び思い出すことになる。それはもちろんニーナであり、過去のジョーでもあったのだ。そうして、湖の奥深くに沈んでいくニーナの幻想を見たジョーは、彼女を救うことができるのは自分しかいないと信じ、必死に泳いだ。「死体=血」を置いて。f:id:bsk00kw20-kohei:20180602113657j:image

結果的に、カウントダウンをしても誰もやってきてくれないことを悟ったニーナは、自分で状況を変えてしまうわけだ。そしてもしかしたらジョーもそんな風にして父親を殺していたのかもしれない。どちらにしろ、ジョーはニーナを救うことができなかった。やっぱり自分には(ニーナも過去の自分も)救うことができないと悲観した弱い男は、ここでもまた自死を試みるわけだけど、そんなことは許されることではなかった。ジョーとニーナは計らずも「繋がってしまった」ふたりであるから、この濁った世界を一緒に生きていくしかないわけで。

Let’s go. It’s a beautiful day. 

そう言った彼女は、さわやかな笑みを浮かべる。どうやらニーナにはジョーが必要なようだ。そうして処女喪失(=血と精子の混ざり合い)を象徴するかのような「ストロベリーミルクシェイク」を飲み干した彼らは、どこへともなく姿を消した。

その先に笑いと涙があることを信じて。

f:id:bsk00kw20-kohei:20180602114149p:image

あとがき*1

*1:原題の「あなたはここにいなかった」の意味。ジョーには彼を救ってくれる人がその時にはいなかったということでしょうか。しかし注目したいのは「were」という単語。今はどうなのかと考えるとやはりハッピーエンドと捉えていいのかな。緑のグミが好きというのは、緑が赤の補色であるから血は好まないということの表れか。また、電話が繋がらないことによって「繋がり」が失われていく描写など、この映画は観れば観るほどいろいろなことに気づけそう。後半に連発するキューブリック的なシンメトリーの構図も鳥肌もんでした。最高っす。